後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

協調主義を強要する教育の弊害(1)運動会の廃止を!

2017年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム
今日から「協調主義を強要する教育の弊害」と題する連載をいたします。
日本の教育が少しでも改善されるような問題提起です。
問題提起なので賛否両論があるのが自然です。コメントを歓迎いたします。

今日の趣旨は学校では国語、算数、理科、歴史、地理以外の科目は教えない方が良いという提案です。
そして学芸会や修学旅行や運動会などといった学校行事は一切止めるべきだという問題提起なのです。
日本の学校は協調主義を強要するあまり発達障害を持つ子供の人権を踏みにじっている恐れがあるのです。発達障害を持つ子供だけではありません。いろいろな意味でのマイノリティの人権が軽視されているのです。学校が地獄になっているのです。
この書き方に反発される方は以下のフランスの小学校の実態を書いた小文を読んでください。。

「パリの寸描、その哀歓(10)パリの小学生の生活」(2月9日掲載記事の抜粋)
・・・「学校行事」
 一年が経過し、先生と話したり、子どもの友達を通じてお母さんたちともそこそこ付き合ううちに、いろいろなことが分かってきた。日本の学校では当たり前だと思っていることが、なんとも不思議なことが沢山あるのです。例えば学校行事が少ないことだ。公立の小学校ではどこも同じなのかどうかもわからない。各学校で自由なやりかたをゆるされているところもあるような気がする。少なくとも息子の入った小学校では、遠足や運動会、学芸会と言ったものはなく、親の参観日もなかった。息子のクラスでは一度動物園に行ったが、遠足のようにお弁当やお菓子持って行くわけではなく、バスで午後の半日を動物園見学に行くのだ。前以て親に知らされることもなく、息子から「来週動物園に行くことになったよ」と聞かされただけである。それでも普段と違うイベントを子どもたちは楽しんだことだろう。ルーブルや近代美術館では、時々学校からの見学の子ども達に出会うことがあったから、校外行事が全くないわけではないのだろうが、小学一年生ではまだ早い。学年が進んだら何かあるのかもしれない。行事ばかりではない。そもそも、体育とか、音楽、図工、家庭科と言った授業はない。第一設備もない。スポーツ、芸術などは、フランスでは各家庭で楽しむことで、学校の集団教育の中で教えることではないらしい。教室以外の設備は、給食室と台所があるらしい。給食は給食業者が各学校に昼前に車で配っているのを見かける。パンを切ったり、配膳したりするのは学校でするらしい。朝9時ごろに授業は始まり、昼休みを挟んで学校が終わるのは5時…何をそんなに勉強しているのだろう。
もっとも水曜日には各地区の学校とは別の施設で、“スポーツ & レジャー”という自由な活動があり、スポーツ(サッカー、バスケットボール、体操、フェンシング、そのほか)や図工(絵画、焼き物、工作、手芸)そのほか好きなものを選んで、指導者もついて、楽しんだり、技術を磨いたりする。僅かな1回分の給食費を払って午後5時まで思い思いに過ごすことができる。参加は全く自由だが、学校ではできない体育、図工の経験がここで補えるし、共働きの家庭にとっては、子どもを預かってくれる場としてなくてはならないシステムなのだ。我が家では日本語学級が水曜日だったので、この活動には参加せず、水曜日の午後は日本語の後で、同じ建物の中にあった柔道のクラブに通っていた。

学校行事は少ないが、それでも時々大きな行事や、印象に残るイベントらしきものがある。3年生の時には一度スポーツの時間があり、息子に言わせると「今日、バーズボール(英語読みをすればベースボール)という野球にとても似ている試合をやった」ということだった。また2月の謝肉祭のお祭りの時には仮装大会があり、子どもたちは思い思いに変身を楽しむ。女の子は一日お姫様やバレリーナになり、男の子はナポレオンになったり、海賊になったり、ターザンに変身する。仮装大会は子ども達には大人気のイベントである。
3年生の終わりに「今年は林間学校(classe verte =緑のクラス)に行けるかもしれないと」先生が言われたが、結局沙汰止みになった。
4年生の時にはclasse de neige = 雪のクラスと呼ばれるスキー学校があると冬休み前に発表があったが、クリスマス休暇が明けるとやはり中止になってしまった。市の予算が出ないのだという。残念。そういうときにあっさりと取り止めにするというのが分からない。学年によって行けたり、行けなかったりということが不公平だということにはならないらしい。親から費用を集めるということもしない。クレームをつける親もいない。「おやおや」と、どうでもよくなってしまうところがフランスらしいところなのだろう。・・・以下省略・・・

以上で重要なことは下の3点ではないでしょうか。
(1)小学校では、遠足や運動会、学芸会と言ったものはなく、親の参観日もなかった。

(2)そもそも、体育とか、音楽、図工、家庭科と言った授業はない。第一設備もない。スポーツ、芸術などは、フランスでは各家庭で楽しむことで、学校の集団教育の中で教えることではないらしい。

(3)水曜日には各地区の学校とは別の施設で、“スポーツ & レジャー”という自由な活動があり、スポーツや絵画、焼き物、工作、手芸などの図工から好きなものを選んで、指導者もついて、楽しんだり、技術を磨いたりする。参加は全く自由だが、学校ではできない体育、図工の経験がここで補える。

フランスの公的な小学校では余計な学校行事はしないが結構、自由で楽しそうです。日本のように全体主義的な雰囲気がありません。個人の人権を大切にしているようです。
さて今日は長くなるので協調主義を強く教え過ぎると生まれつき協調性の無い発達障害の子供にとって学校が何故地獄になるかという問題には触れません。触れませんがそういう子供にとってフランスの小学校の方が良いと想像できます。

今日の挿し絵代わりの写真は川合玉堂の日本画3点です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「今日の日記、午後から2つの公園に行きました」

2017年02月15日 | 写真
小金井市は北に都立小金井公園、南に都立武蔵野公園があります。
今日の午後は武蔵野公園に行き広々とした冬の公園の様子を写真に撮りました。その公園の中の細い道を大通りの東八道路に抜け、
東に走り、「三鷹花と緑の広場」に行きました。
少しだけ公園の中を歩いて気分爽快でした。
1番目と2番目の写真は武蔵野公園で撮った写真です。霜に耐えて小さな花が咲いていました。
3番目、4番目と5番目の写真は三鷹花と緑の広場で撮った写真です。









「パリの寸描、その哀歓(11)フランスのエリート教育の光と影」

2017年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき;
フランスの小学校には「飛び級」と「落第」があります。
明治維新以来、西洋の教育を導入して来た日本にはどうしても根づかない「飛び級」と「落第」は現在もフランスの学校では厳然として実行されています。
それはフランス社会の指導者階級を支えるエリート教育の重要な部分です。
飛び級はまだしも、小学校の落第は悲惨です。残酷な制度です。
しかしこの制度が重要だと考えられているのがフランスだけではありません。ヨーロッパの小学校は同じような考え方で教育されています。
日本の初等教育の風景とはあまりにも違います。
教育という問題の奥深さを考えざるをえません。
今日はこの問題を取り上げているEsu Keiさんの第11回目の連載記事です。

===「パリの寸描、その哀歓(11)進級、落第、飛び級」Esu Kei著======
 長い夏休みが終わると、新学期である。子どもたちは普通1学年進級する。
日本では考えられないことだが、フランスの小中高等学校には飛び級と落第がある。飛び級は2年まで許されることもある。小学校ですでに落第があるというのは私には理解できない。もちろん病気やケガなら仕方ないかもしれないが… よくあることだから重大視しないという人もいる。私ははじめ分からなかったらやり直すという意味で有意義な制度なのかと思った。しかし実情を知ってみると、ただ同じ学年を繰り返すというだけで、補習授業があるわけでもないし、家でフォローするのが難しい状況の子もいる。ヨーロッパでは移民の家庭も多い。落第した子どもは、同じ学年に二回いたからより理解が進むということでもなさそうだ。やはり子どもは傷つくのではないか。なかには小学校の間に2回も落第する子もいる。小学校で2年も3年も年齢の違う子どもが同じクラスにいるのである。先生はひたすら勉強せよというが、理解できないことを子どもが自発的に勉強するとは思えないし、将来に明るい希望を持てなくなっては可哀想だ。
長男が4年生になった時、クラスに大人の生徒が入ってきたという。ポルトガル人のその子は、落第を重ねたのか、12歳くらいには見える少年で、体も大きく、声変わりをしているから息子から見ると大人と映ったのだろう。うちでは学校の帰りに友達が遊びに来ると、一緒に宿題をすることが時々あった。3年生くらいから宿題が出ることが時々あったので、宿題を済ませてから遊ぶようにどの子も家でしつけられているのだ。カルロスと言う名のその少年は宿題をする習慣がないらしい。文法というものを全く理解していないようで、宿題をしようにも分からないのかもしれない。ちょっと教えてあげると、いい笑顔を見せて「明日は先生に怒られないで済む」と言った。可哀想に苦労しているのだ。ポルトガルや、スペインからの移民は多く、同じ文化圏のことで、私達よりフランスによく馴染んでいるように見える。しかし、フランス語を話せても書けない親世代も多く、そういう家庭で育った子供が最初の1年だけ外国人学級にいても普通学級に入るとついていけなくなることはよくあることだ。特に高学年でフランスの学校に入った子どもにはハードルが高くなる。息子に言わせると彼は教室ではいつも寝ているという。小学生にしてすでに諦めているらしい様子に胸が痛む。
 もちろん外国人でなくても、必要なレベルに達していないとみなされた生徒は落第する。それを決めるのは担任の教師ではない。市には視学官という役職の人がいて、学年度の終わりに学力テストをし、遅れている子どもの落第、進んでいる子どもの飛び級を判定するのである。親は落第の判定に異議を唱えることもできるし、また、自分の子どもは非常に優秀だと信じている親は教師がそう思わなくても、申し出て飛び級の判定をしてもらうこともできる。実際、夏休み中に猛勉強して、新学期前に再試験を受けて落第を免れた子ども、親の期待にかなわず飛び級のかなわなかった子どももいるのだ。
 私の考えでは、少なくとも小学校での落第は良くないと思う。人生の早い段階で子どもが自信を無くすから。補習をなんとかして同じ学年で学べるようにするべきだろうと思う。一律教育が特別にいいとは思えないけれど、落第は可哀想だ。私の友達で小学校の教師をしていた人が言っていた。「勉強の苦手な子、嫌いな子がいるととても申し訳ないと思うの。私の力不足ですもの。」教師の鑑だ。
飛び級はもしかしたら意味があるかもしれないと思った。自分のレベルより低いことしか勉強しないのでは、知識欲が刺激されずに退屈するかもしれないと思う。勉強以外にもやることはたくさんあるが…それよりも教科ごとに自分に合ったレベルを選べることが理想かもしれない。実際フランスには私立の学校で、得意科目と、苦手科目を個人授業にしているという学校があるという話を聞いたことがある。実際に調べたことではないから詳しいことは分からない。善し悪しは別として、この国では、特別に恵まれたしかし厳しいエリート教育を受けて世の中に出て、国をリードしていく人たちも確かにいる。フランスはある意味で階級のはっきりした社会(現代では絶対的なものではないが…)でもある。(続く)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


今日の挿し絵代わりの写真はアンリ・マティス(1869年 - 1954年)の絵画です。
彼はフランスの画家で、フォービズム派のリーダ-的存在であり、フランスを代表する芸術家の一人でした。1869年、フランス・ノール県のル・カトー=カンブレジ に、豊かな穀物商人の長男として生まれる。パリに出た青年期に画家に転向する決意をする。その後の詳細は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9 にあります。