富士五湖は満々と碧い水をたたえ静かに広がっています。高原の神秘的な湖です。
東の山中湖は忍野八海を含み広大な湖でした。西の河口湖、西湖、精進湖、本栖湖はつながった「さいの海」という細長い湖でした。
それが貞観6年(864年)に起こった富士山の大噴火で多量の溶岩が流れ込み現在のような4つの湖になったのです。
この貞観大噴火の様子は甲斐の国司が京都の天皇へ報告書を送っています。
「貞観6年7月17日辛丑、甲斐国(の国司)が報じるところ、駿河国の大山・富士が突如として火を噴き、山じゅうを焼き砕き、草木は焦がれ死んだ。土石は溶け流れて、八代郡にある本栖海(本栖湖)と剗(さい)の海を埋めてしまった。湖水はお湯のように熱くなり、魚や亀の類はみな死んだ。人々の家屋は湖と共に埋まり、残った家にも人影は無く、そのような例は数え上げることもできない。2つの湖の東には河口海(河口湖)という湖があるが、火はこの方角へも向かっている。」
現在の河口湖、西湖、精進湖、本栖湖も大量の溶岩が流れ込み、それぞれ独立した4湖になったのです。
そしてその風景は貞観時代以来、現在まで変わっていません。
富士五湖は私共家族の遊び場でした。岸辺で昼食を食べたり船に乗ったりしてその清い水を覗き込んでいました。
山中湖の近くのマウントフジホテルや夏だけ営業している山中湖の横浜グランドホテルにも泊まりました。河口湖のフジビューホテルや富士急ハイランドホテルや旅館にも泊まりました。
富士五湖には四季折々楽しかった思い出が沢山あります。
昨日、家内が昔風の太い海苔巻きを作りました。そうだ河口湖の岸辺で富士山を眺めながら二人で食べようと思いました。
そして冬の河口湖、西湖、精進湖への小さな旅に出たのです。写真に従ってご案内いたします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/2d/0380df526ad7d71e1fa317973857daf0.jpg)
1番目の写真は河口湖の西岸から見上げた昨日の富士山です。五合目の上は灰色の雲に覆われていました。
寒々しい冬の高原の湖の雰囲気をお伝えしようと撮った写真です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/dd/28d7a4ac17064605ac74ba91b728dc08.jpg)
2番目の写真は河口湖に来ると必ず車を停めて遊ぶ場所です。ヨットが何十年も変わらず係留されているロマンチックな場所です。昨日もここで車を停めて海苔巻きを食べました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/b5/afdada74f83ee4e05b146b1a09e47855.jpg)
3番目の写真は河口湖の東岸で、富士ビユーホテルの下から見た風景です。ここにも同じヨットが何十年も係留されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/2b/b8d21415b9cc01af44fb887b6f6c684e.jpg)
4番目の写真は西湖です。夏の間活躍したボートが岸辺に並び、人気がありません。湖面に寒い冬の風が吹いていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/03/e4a6ff07b43b33526c7d893395af2714.jpg)
5番目の写真は冷たそうな西湖の黒い湖面の写真です。強風で波立っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/2d/262813eb06b473f3f549961d7143a369.jpg)
6番目の写真は西湖の岸辺です。西湖まで奥に入ってくると岸辺まで車を入れて良い所があちこちにあるのです。家内が空気が美味しいと言って何処までも歩いていきます。回りには誰もいません。波音だけが何時までも小さく響いています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/99/d31599c4045167d46cf49fd1aea3445e.jpg)
7番目の写真は向こう岸に雪が残る精進湖の風景です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/97/7e1891f1995f7c39f885166dd8391a1e.jpg)
8番目の写真は車を波打ち際まで入れて富士山を撮った写真です。
いつもは湖水一面にヘラブナ釣りのボートが並んでいますが流石に厳冬の季節には誰もいませ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/9d/c57a3375846ffa4c0da39c6a6a420003.jpg)
9番目の写真はコーヒーを飲んだ洒落たカフェの前から見た精進湖の風景です。
冬の河口湖、西湖、精進湖への小さな旅の魅力は高原の湖の静謐さにあります。
観光客がほとんどいないのでとにかく静かです。淋しさが漂っているのです。
楽しかった思い出も湧き上がってきます。そて人生のあれこれを想い感慨が深いのです。
そんな小さな旅もたまには良いものです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考========
(1)河口湖
河口湖(かわぐちこ)は、本州の中部、富士山の近くに存在する、富士五湖の1つに数えられる相模川水系の湖である。富士箱根伊豆国立公園に指定されている。富士五湖の中で最も長い湖岸線を持ち、最も低い標高地点にある。面積は富士五湖では2番目の大きさで、最大水深は精進湖とほぼ同じで 14.6m の深さ。
湖の中央に鵜の島(鸕鷀島)と呼ばれる小さな島がある。また、産屋ヶ崎は富士山展望の好適地とされている[3]ほか、乳ヶ崎、小曲岬(子轉ヶ崎)、長崎(胞ヶ崎)などの景勝も存在する。
「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている。
富士五湖の中で最も北に位置し、全体が山梨県南東部の南都留郡富士河口湖町に属する。
河口湖には天然の流出口がないため、古来より大雨により増水し、湖岸の村々に洪水被害を出した。一方で、山を挟んだ東の新倉村(現・富士吉田市新倉)では透水性の溶岩台地が広がり、水利に乏しく、湖水を新倉方面へ通水させる用水路の開発が求められていた。新倉掘抜は江戸時代初期から工事が行われ、曲折を経て、江戸後期の1865年に完成し、新倉村は河口湖の水利権を保持している。1911年には新たなトンネルが掘削されたため、それ以降、新倉掘抜は利用されていない。
( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%8F%A3%E6%B9%96 )
(2)西湖
山梨県南部、富士河口湖町の中央付近に位置する。富士山の火山活動によって生じた堰止湖。面積は富士五湖では4番目の大きさで、最大水深は2番目の深さで 71.7m。山梨県指定天然記念物フジマリモの群落地である。富士箱根伊豆国立公園の特別地域内にある[4]。
かつて富士山北麓には、剗の海という広大な湖があった。やがてその西部に溶岩流が流れ込んで分断され、本栖湖が生まれた。さらに平安時代初期の貞観6年(864年)に富士山が大噴火(貞観大噴火)を引き起こし、流れ出た膨大な量の溶岩流によって剗の海は大半が埋め尽くされた。この時に埋め残された東端が現在の西湖で、精進湖は北側の湾の一つである。現在でも雨水による増水時に、それぞれの湖で水位が一定して同じく推移するため、3つの湖は地下でつながっていると考えられている。
西湖には本来、自然排水による河川が存在していなかったが、近年人工的に河口湖に放流する排水路が完成し、標高差を利用した発電も行われている。1981年(昭和56年)には湖中から中世の丸木舟が発見され、山梨県指定有形文化財となっている。
2013年(平成25年)6月22日、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産(富士山域)の一つとして、世界文化遺産(日本の文化遺産としては13箇所目)に登録された。
( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B9%96_(%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E4%BA%94%E6%B9%96) )
(3)精進湖
同じ富士五湖の西湖、本栖湖と同一の水脈を有しているので水面標高も同じく約900mで、湖水の水位が連動する傾向がある。最大水深は15.2mで河口湖と並び3番目の深さ。0.5平方キロメートルと五湖中でもっとも湖水面積が狭く、流入河川および流出河川はない。
2013年(平成25年)6月22日、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産(富士山域)の一つとして、世界文化遺産(日本の文化遺産としては13箇所目)に登録された。
成因[編集]
富士山の火山活動によって形成された堰止湖で、本栖湖・西湖と同じ水位である。かつては単一の大きな湖(剗の海;せのうみ、「背の海」の意か)であったと考えられているが、富士山の溶岩流でまず南西の本栖湖と分断され、『日本三代実録』に拠る864年(貞観6年)の貞観大噴火の溶岩流によって西湖と分断された。
( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E9%80%B2%E6%B9%96 )
(4)剗の海
剗の海(当時の表記:剗海)はかつて富士山の北麓で東西にわたって広大な面積を有していたが、貞観6年(864年)に起こった富士山の大噴火(貞観大噴火)の際、おびただしい量の溶岩流によって大部分が埋まってしまった[1]。現在、富士五湖に名を連ねる西湖と精進湖は、剗の海の一部が埋まらずに残ったものである[1]。
このときの様子は、延喜元年(901年)に成立した公式史書である『日本三代実録』の「貞観6年7月17日」(ユリウス暦864年8月22日)に甲斐国国司から京の朝廷に届けられた報告(貞観大噴火についての第2報)として以下の内容が記されており、 溶岩流が本栖湖と剗の海の2湖に流入したこと、多くの民家が溶岩流に呑み込まれてしまったこと、溶岩の別の流れは河口湖方面へ向かっていること、係る天変地異の前には大きな地震を始めとする様々な変事があったこと、などを伝えている。
貞觀六年七月十七日辛丑 甲斐國言 駿河國富士大山 忽有暴火 燒碎崗巒 草木焦熱 土鑠石流 埋八代郡本栖并剗兩水海 水熱如湯 魚鼈皆死 百姓居宅 與海共埋 或有宅無人 其數難記 兩海以東 亦有水海 名曰河口海 火焔赴向 河口海 本栖剗等海 未燒埋之前 地大震動 雷電暴雨 雲霧晦冥 山野難辨 然後有此災異焉
(現代語訳)
貞観6年7月17日辛丑、甲斐国(の国司)が報じるところ、駿河国の大山・富士が突如として火を噴き、山じゅうを焼き砕き、草木は焦がれ死んだ。土石は溶け流れて、八代郡にある本栖海(本栖湖)と剗の海を埋めてしまった。湖水はお湯のように熱くなり、魚や亀の類はみな死んだ。人々の家屋は湖と共に埋まり、残った家にも人影は無く、そのような例は数え上げることもできない。2つの湖の東には河口海(河口湖)という湖があるが、火はこの方角へも向かっている。本栖海や剗の海が焼け埋まる前には、大地が大きく揺れ、雷と大雨があって、雲霧が立ちこめて暗闇に包まれ、山野の区別もつかなくなった。それらが起こった後にこのような災異が訪れたのだ。
東の山中湖は忍野八海を含み広大な湖でした。西の河口湖、西湖、精進湖、本栖湖はつながった「さいの海」という細長い湖でした。
それが貞観6年(864年)に起こった富士山の大噴火で多量の溶岩が流れ込み現在のような4つの湖になったのです。
この貞観大噴火の様子は甲斐の国司が京都の天皇へ報告書を送っています。
「貞観6年7月17日辛丑、甲斐国(の国司)が報じるところ、駿河国の大山・富士が突如として火を噴き、山じゅうを焼き砕き、草木は焦がれ死んだ。土石は溶け流れて、八代郡にある本栖海(本栖湖)と剗(さい)の海を埋めてしまった。湖水はお湯のように熱くなり、魚や亀の類はみな死んだ。人々の家屋は湖と共に埋まり、残った家にも人影は無く、そのような例は数え上げることもできない。2つの湖の東には河口海(河口湖)という湖があるが、火はこの方角へも向かっている。」
現在の河口湖、西湖、精進湖、本栖湖も大量の溶岩が流れ込み、それぞれ独立した4湖になったのです。
そしてその風景は貞観時代以来、現在まで変わっていません。
富士五湖は私共家族の遊び場でした。岸辺で昼食を食べたり船に乗ったりしてその清い水を覗き込んでいました。
山中湖の近くのマウントフジホテルや夏だけ営業している山中湖の横浜グランドホテルにも泊まりました。河口湖のフジビューホテルや富士急ハイランドホテルや旅館にも泊まりました。
富士五湖には四季折々楽しかった思い出が沢山あります。
昨日、家内が昔風の太い海苔巻きを作りました。そうだ河口湖の岸辺で富士山を眺めながら二人で食べようと思いました。
そして冬の河口湖、西湖、精進湖への小さな旅に出たのです。写真に従ってご案内いたします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/2d/0380df526ad7d71e1fa317973857daf0.jpg)
1番目の写真は河口湖の西岸から見上げた昨日の富士山です。五合目の上は灰色の雲に覆われていました。
寒々しい冬の高原の湖の雰囲気をお伝えしようと撮った写真です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/dd/28d7a4ac17064605ac74ba91b728dc08.jpg)
2番目の写真は河口湖に来ると必ず車を停めて遊ぶ場所です。ヨットが何十年も変わらず係留されているロマンチックな場所です。昨日もここで車を停めて海苔巻きを食べました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/b5/afdada74f83ee4e05b146b1a09e47855.jpg)
3番目の写真は河口湖の東岸で、富士ビユーホテルの下から見た風景です。ここにも同じヨットが何十年も係留されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/2b/b8d21415b9cc01af44fb887b6f6c684e.jpg)
4番目の写真は西湖です。夏の間活躍したボートが岸辺に並び、人気がありません。湖面に寒い冬の風が吹いていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/03/e4a6ff07b43b33526c7d893395af2714.jpg)
5番目の写真は冷たそうな西湖の黒い湖面の写真です。強風で波立っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/2d/262813eb06b473f3f549961d7143a369.jpg)
6番目の写真は西湖の岸辺です。西湖まで奥に入ってくると岸辺まで車を入れて良い所があちこちにあるのです。家内が空気が美味しいと言って何処までも歩いていきます。回りには誰もいません。波音だけが何時までも小さく響いています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/99/d31599c4045167d46cf49fd1aea3445e.jpg)
7番目の写真は向こう岸に雪が残る精進湖の風景です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/97/7e1891f1995f7c39f885166dd8391a1e.jpg)
8番目の写真は車を波打ち際まで入れて富士山を撮った写真です。
いつもは湖水一面にヘラブナ釣りのボートが並んでいますが流石に厳冬の季節には誰もいませ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/9d/c57a3375846ffa4c0da39c6a6a420003.jpg)
9番目の写真はコーヒーを飲んだ洒落たカフェの前から見た精進湖の風景です。
冬の河口湖、西湖、精進湖への小さな旅の魅力は高原の湖の静謐さにあります。
観光客がほとんどいないのでとにかく静かです。淋しさが漂っているのです。
楽しかった思い出も湧き上がってきます。そて人生のあれこれを想い感慨が深いのです。
そんな小さな旅もたまには良いものです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考========
(1)河口湖
河口湖(かわぐちこ)は、本州の中部、富士山の近くに存在する、富士五湖の1つに数えられる相模川水系の湖である。富士箱根伊豆国立公園に指定されている。富士五湖の中で最も長い湖岸線を持ち、最も低い標高地点にある。面積は富士五湖では2番目の大きさで、最大水深は精進湖とほぼ同じで 14.6m の深さ。
湖の中央に鵜の島(鸕鷀島)と呼ばれる小さな島がある。また、産屋ヶ崎は富士山展望の好適地とされている[3]ほか、乳ヶ崎、小曲岬(子轉ヶ崎)、長崎(胞ヶ崎)などの景勝も存在する。
「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている。
富士五湖の中で最も北に位置し、全体が山梨県南東部の南都留郡富士河口湖町に属する。
河口湖には天然の流出口がないため、古来より大雨により増水し、湖岸の村々に洪水被害を出した。一方で、山を挟んだ東の新倉村(現・富士吉田市新倉)では透水性の溶岩台地が広がり、水利に乏しく、湖水を新倉方面へ通水させる用水路の開発が求められていた。新倉掘抜は江戸時代初期から工事が行われ、曲折を経て、江戸後期の1865年に完成し、新倉村は河口湖の水利権を保持している。1911年には新たなトンネルが掘削されたため、それ以降、新倉掘抜は利用されていない。
( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%8F%A3%E6%B9%96 )
(2)西湖
山梨県南部、富士河口湖町の中央付近に位置する。富士山の火山活動によって生じた堰止湖。面積は富士五湖では4番目の大きさで、最大水深は2番目の深さで 71.7m。山梨県指定天然記念物フジマリモの群落地である。富士箱根伊豆国立公園の特別地域内にある[4]。
かつて富士山北麓には、剗の海という広大な湖があった。やがてその西部に溶岩流が流れ込んで分断され、本栖湖が生まれた。さらに平安時代初期の貞観6年(864年)に富士山が大噴火(貞観大噴火)を引き起こし、流れ出た膨大な量の溶岩流によって剗の海は大半が埋め尽くされた。この時に埋め残された東端が現在の西湖で、精進湖は北側の湾の一つである。現在でも雨水による増水時に、それぞれの湖で水位が一定して同じく推移するため、3つの湖は地下でつながっていると考えられている。
西湖には本来、自然排水による河川が存在していなかったが、近年人工的に河口湖に放流する排水路が完成し、標高差を利用した発電も行われている。1981年(昭和56年)には湖中から中世の丸木舟が発見され、山梨県指定有形文化財となっている。
2013年(平成25年)6月22日、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産(富士山域)の一つとして、世界文化遺産(日本の文化遺産としては13箇所目)に登録された。
( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B9%96_(%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E4%BA%94%E6%B9%96) )
(3)精進湖
同じ富士五湖の西湖、本栖湖と同一の水脈を有しているので水面標高も同じく約900mで、湖水の水位が連動する傾向がある。最大水深は15.2mで河口湖と並び3番目の深さ。0.5平方キロメートルと五湖中でもっとも湖水面積が狭く、流入河川および流出河川はない。
2013年(平成25年)6月22日、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産(富士山域)の一つとして、世界文化遺産(日本の文化遺産としては13箇所目)に登録された。
成因[編集]
富士山の火山活動によって形成された堰止湖で、本栖湖・西湖と同じ水位である。かつては単一の大きな湖(剗の海;せのうみ、「背の海」の意か)であったと考えられているが、富士山の溶岩流でまず南西の本栖湖と分断され、『日本三代実録』に拠る864年(貞観6年)の貞観大噴火の溶岩流によって西湖と分断された。
( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E9%80%B2%E6%B9%96 )
(4)剗の海
剗の海(当時の表記:剗海)はかつて富士山の北麓で東西にわたって広大な面積を有していたが、貞観6年(864年)に起こった富士山の大噴火(貞観大噴火)の際、おびただしい量の溶岩流によって大部分が埋まってしまった[1]。現在、富士五湖に名を連ねる西湖と精進湖は、剗の海の一部が埋まらずに残ったものである[1]。
このときの様子は、延喜元年(901年)に成立した公式史書である『日本三代実録』の「貞観6年7月17日」(ユリウス暦864年8月22日)に甲斐国国司から京の朝廷に届けられた報告(貞観大噴火についての第2報)として以下の内容が記されており、 溶岩流が本栖湖と剗の海の2湖に流入したこと、多くの民家が溶岩流に呑み込まれてしまったこと、溶岩の別の流れは河口湖方面へ向かっていること、係る天変地異の前には大きな地震を始めとする様々な変事があったこと、などを伝えている。
貞觀六年七月十七日辛丑 甲斐國言 駿河國富士大山 忽有暴火 燒碎崗巒 草木焦熱 土鑠石流 埋八代郡本栖并剗兩水海 水熱如湯 魚鼈皆死 百姓居宅 與海共埋 或有宅無人 其數難記 兩海以東 亦有水海 名曰河口海 火焔赴向 河口海 本栖剗等海 未燒埋之前 地大震動 雷電暴雨 雲霧晦冥 山野難辨 然後有此災異焉
(現代語訳)
貞観6年7月17日辛丑、甲斐国(の国司)が報じるところ、駿河国の大山・富士が突如として火を噴き、山じゅうを焼き砕き、草木は焦がれ死んだ。土石は溶け流れて、八代郡にある本栖海(本栖湖)と剗の海を埋めてしまった。湖水はお湯のように熱くなり、魚や亀の類はみな死んだ。人々の家屋は湖と共に埋まり、残った家にも人影は無く、そのような例は数え上げることもできない。2つの湖の東には河口海(河口湖)という湖があるが、火はこの方角へも向かっている。本栖海や剗の海が焼け埋まる前には、大地が大きく揺れ、雷と大雨があって、雲霧が立ちこめて暗闇に包まれ、山野の区別もつかなくなった。それらが起こった後にこのような災異が訪れたのだ。