後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本歯科大学口腔リハビリステーション多摩クリニックと菊谷武教授を讃える

2017年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
高齢になるといろいろな病気と仲良くなります。多くの高齢者は意外にかなり健康です。毎日爽快なので幸せに暮らしています。しかし見かけによらず、幾つもの病気と共存共栄をしています。
自慢ではありませんが、私も幾つかの病気とお付き合いを楽しんでいます。
その一つに小脳脊髄変性症という難病があります。もう十年以上まえからのお付き合いです。
筋肉の動きをコントロールする小脳が委縮して行く一種の病気です。歩くとフラフラします。転びやすくなります。ろれつが回らず言葉が不明瞭になります。治療法が無いので難病の指定されています。従って介護保険の適用を受けています。
先月、市役所の福祉課から口腔リハビリを9回だけ無料で受けてみませんかという話がありました。
毎日暇なので断る理由もありません。行ってみるとそれはJR東小金井の駅前にある立派な建物です。
駐車場があるというので毎週一回、車の運転を楽しみながらもう4回も行きました。
そこの名前は、長くて恐縮ですが、「日本歯科大学口腔リハビリステーション多摩クリニック」と言います。
初めて行った時いろいろ検査をしてくれたのが院長の菊谷 武教授でした。
菊谷先生は情熱的です。眼光鋭く独創的な考えの持主であることがすぐに分かりました。
歯学の新しい分野の口腔機能の研究分野を切り開き日本の歯学学会をグイグイ引っ張っているタイプの先生のようでした。
私は昔大学で働いていたので数多くの学者に会ったことがあります。ですからお会いしただけでどのようなタイプの学者なのかがある程度分かるのです。
帰宅してから菊谷先生のことをいろいろ調べました。私の想像は正しかったのです。
高齢者の口腔機能を向上するリハビリの分野で有名な先生でした。日本歯科大学で口腔機能の新しい教育コースの推進に努力し、多摩クリニックの創設をし、その院長をしているようです。口腔機能の改善に関する分かり易い本も多数出版なさっている有名な方です。
ブログに記事として多摩クリニックを紹介したいのですがと相談しましたところ快く許して下さいました。
そうして、2017年2月23日の週刊文春の「舌を鍛えて『寝たきり』予防!」と題する記事が掲載されていると教えてくれました。
そこには菊谷先生の口腔リハリビの平易な説明があったのです。
さて何故このような記事を書く気になった理由を書かせて下さい。
その理由は毎回、実際にリハリビの指導をいてくれた若い歯科医の岩渕 信先生の人柄に感動したからです。指導が懇切丁寧な上に足もとの危ない私の手を取ったり支えたりしてくれるのです。一般に若者は汚く老いた高齢者に触りたがらないものです。しかし岩渕さんは違います。私の優しい孫と同じです。
ですから全てを岩渕さんの言う通りにすることにしたのです。
そうしたた宿題をくれたのです。毎日3回、決まった舌の運動と発音演習を行うのです。それは2017年2月23日号の週刊文春の「舌を鍛えて『寝たきり』予防!」の39ページに掲載されています。
週刊文春の記事を見て、ウンこれは簡単だ!と始める人は多いと思います。しかしそれを1年以上継続する人は果たして何人いるでしょうか?私は1年間くらいは継続することにしました。岩渕先生のお顔を思い出すとしたくなるのです。不思議です。
実は舌の運動でロレツが回るようになるとは信じていません。小脳脊髄変性症という不治の病気が舌の運動で治る筈などありません。
しかし舌の運動を毎日3週間して驚くべき効果があったのです。
舌で上顎や歯茎を押し上げる運動をしていると唾が多量に出て口腔内を洗浄してくれます。それが歯痛の予防になったようです。
老人性の歯痛が一切なくなったので残ったすべての歯で食物を噛むようになったのです。固い肉でもドンドン食べられるようになったのです。食事が楽しくなったのです。
意外や意外。口腔リハビリなんて軽く考えてはいけなかったのです。
そのことに気付かせてくれたのが岩渕先生なのです。その岩渕先生の師匠が菊谷 武教授なのです。
ですからここに「日本歯科大学口腔リハビリステーション多摩クリニックと菊谷 武教授を讃える」という記事を掲載したのです。

それはそれとして、毎日3回、決まった舌の運動と発音演習を行ってみませんか?必ずや現在以上に気分爽快になります。

1番目の写真は「日本歯科大学口腔リハビリステーション多摩クリニック」の建物です。

2番目の写真は韓国からの研修医の囲まれた菊谷 武教授です。

3番目の写真は担当してくれている歯科医の岩渕 信先生です。
===参考資料==========================
日本歯科大学口腔リはビリステーション多摩クリニック
http://dent-hosp.ndu.ac.jp/nduhosp/tama-clinic/index.html

多摩クリニック院長、菊谷 武教授について;

昭和38年11月26日 生 東京都出身

日本歯科大学大学院生命歯学研究科臨床口腔機能学 教授 、歯学博士
附属病院 口腔介護・リハビリテーションセンター センター長

日本歯科大学大学院生命歯学研究科 臨床口腔機能学 教授 
日本歯科大学附属病院 口腔介護・リハビリテーションセンター センター長を務める。

平成元年 歯学部附属病院高齢者歯科診療科入局
平成13年10月より 附属病院 口腔介護・リハビリテーションセンター センター長 
平成17年4月より助教授
平成19年4月より准教授
平成22年3月 東京医科大学兼任准教授
平成22年4月 教授
平成22年6月 大学院生命歯学研究科臨床口腔機能学 教授
平成24年10月 口腔リハビリテーション多摩クリニック 院長

日本老年歯科医学会 指導医、認定医
日本障害者歯科学会 指導医、認定医
日本摂食・嚥下リハビリテーション学会 認定士


所属学会
日本老年歯科医学会 理事、評議員
日本摂食・嚥下リハビリテーション学会 理事、評議員
日本障害者歯科学会 評議員

著書 
『口腔機能評価NAVI』医歯薬出版
『在宅医療の技とこころ“口から食べる”を支える ”- 在宅でみる摂食・嚥下障害,口腔ケア-』南山堂
『図解 介護のための口腔ケア』講談社
その他、多数。

「パリの寸描、その哀歓(12)規則に反して給食を申し込む」

2017年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。
第12回は小学生の息子の給食を申し込んだ時の話です。
共働きでないので規則では給食は許されません。しかしその時の校長と市役所の担当者の対応が面白いのです。
何というか、いかにもフランスらしい融通無碍なやり方で給食が許可になりました。子供が喜んで給食を食べられるようになりました。
これが、規則を厳守するドイツではこうは行かなかったと思います。フランス文化がドイツや他の国の文化と非常に違うことを暗示している興味深い随筆です。
挿し絵のポール・ゴーギャンの油彩と共にフランス文化の一端をお楽しみ下さい。
===「パリの寸描、その哀歓(12)給食を申し込む」Esu Kei著======
 長男は1年生から3年生に進級した時に、学校で給食を食べられるようにと考えた。それは一年生の担任だったアリワット先生の言葉がきっかけだった。「外国語が母国の場合、高学年になるにつれてフランス語のハンディは大きくなります。」という言葉だった。長男が家で昼食を食べなくても、幼稚園に行っている次男も夫も家で昼食をとるので、主婦としての手間は同じことなのだ。ただ、勉強のレベルがだんだん上がってくると、フランス語の語彙の貧しさは勉強のハンディになる。子どもの頭には日本語が第一の言葉として刷り込まれている。家では家族で日本語で話している。読む本はほとんど日本語である。私たちは敢えて日本語を重視してきた。日本人として、子ども達の文化の源に日本語が揺るぎなく入ることが大事だと思われた。それでも、3年生になって、もう日本語がしっかり入っているということ、しばらくはフランスの学校でやっていかなければならないということから考えてフランス語の理解をと思ったのだ。勉強のできる子である必要はないが、勉強についていけなければ子どももつらいだろう。
私が働いていないので、給食は食べられないのかどうか、もう一度確認しようと校長先生に面会を申し込んだ。昼食に帰って日本語の時間が割り込むことで、フランス語の進歩が阻害されると思うという私の考えに、校長先生も同感だと言われた。「私が許すことはできないので、市の教育課に行って相談してごらんなさい。校長の考えも同じだと言っていいですよ。」と言ってくださった。早速市役所に行って相談した。女性職員の「そういうことなら、給食を食べられるようにしましょう。」の一言であっさり許可になった、と思ったらそのあとの画策があった。「給食は両親共働きの家庭の子どものためのものと決められているのです。あなたがご主人の会社で働いていることにしてはどうでしょう。それが一番簡単で早いやり方です。」「私は労働許可証を持っていないけれど、そういう届けを出して大丈夫でしょうか?夫にも影響したりしませんか?」「これは教育課だけの問題ですから、ほかに漏れる心配はありません。子どもの教育を真面目に考えてすることです。それに実際悪いことをするわけでもないし、フランス人の労働市場を奪う訳でもないのですから心配は無用です。」ということで、私が夫の会社で通訳として働き、2000フランの給料を稼いでいるという筋書きを彼女は提案し、私がそれでいいと言うと書類に書き入れてくれた。給食費は家庭の収入によって7段階に分かれているが、日本人は満額払うので、税金に負担をかけることもない。これで解決。夫に話すと「フランスらしくいい加減だなぁ。日仏の通訳なら、日本人にしかできないからということで闇労働にはならないよ。英仏の通訳なんかはバレるとまずい」と笑っている。「私が英語のえの字もできないの知ってるでしょ」それにしてもイイ加減はいい(良い)加減だなぁと思う。
ただ、ずっと後になってちょっと気になることもあった。たとえば我が家の収入が最低の給食費しか(最低とは無償と言うことだろうか)払えなかったら同じ解決方法を提案されただろうかとちょっと疑問が残る。というのは4年生で同級だったカルロス君は昼に両親も誰もいない家に一人で帰ってパンを食べて戻ってくるという。昼の送り迎えもないようだ。おそらくはお母さんが働いているという証明を提出できない事情があるのだろう。こういう子どもにこそ給食が出されなければいけないと思うのだが…(続く)


今日の挿し絵代わりの写真はポール・ゴーギャンの油彩です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン( Eugène Henri Paul Gauguin 1848年 - 1903年)は、フランスのポスト印象派の画家。
1888年、ゴーギャンは、南仏アルルに移っていたゴッホの「黄色い家」で、9週間にわたる共同生活を送った。しかし、2人の関係は次第に悪化し、ゴーギャンはここを去ることとした。
12月23日の夜、ゴッホが耳を切る事件が発生した。ゴーギャンの後年の回想によると、ゴッホがゴーギャンに対しカミソリを持って向かってくるという出来事があり、翌日、ゴッホはアルルの病院に送られ、ゴーギャンはアルルを去った。
2人はその後二度と会うことはなかったが、手紙のやり取りは続け、ゴーギャンは、1890年、アントウェルペンにアトリエを設けようという提案までしている。
1890年までには、ゴーギャンは、次の旅行先としてタヒチを思い描いていた。1891年2月にパリのオテル・ドゥルオーで行った売立てが成功し、旅行資金ができた。
コペンハーゲンの妻と子どもたちのもとを訪れてから(これが最後に会う機会となった)、その年の4月1日、出航した。
その目的は、ヨーロッパ文明と「人工的・因習的な何もかも」からの脱出であった。とはいえ、彼は、これまで集めた写真や素描や版画を携えることは忘れなかった。
タヒチでの最初の3週間は、植民地の首都で西欧化の進んだパペーテで過ごした。パペーテでレジャーを楽しむ金もなかったので、およそ45キロメートル離れたパプアーリにアトリエを構えることにして、自分で竹の小屋を建てた。ここで、タヒチ時代で最も評価の高い作品を描いている。
ゴーギャンは、タヒチの古い習俗に関する本を読み、アリオイという独自の共同体やオロ (神)についての解説に惹きつけられた。そして、想像に基づいて、絵や木彫りの彫刻を制作した。・・・・
以下は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%B3 にあります。