10月12日に掲載しました「遥かなる西伊豆、戸田、三津浜の海に憧れる旅」に対して白崎謙太郎さんが以下のようなメールを送って下さいました。ここに感謝してご紹介致します。
===白崎謙太郎 著、「西伊豆へのある帆走の思い出」===========
後藤さん・・良いご旅行でしたね。西伊豆の戸田に行かれたのに岬の先端にある「戸田号」の博物館に行かれなかったようなのは残念です。江戸末期来日中の帆走軍艦「ディアナ」号を失ったロシア人たちが戸田で日本人船大工を指導しながら洋式帆船を作りました。70フィートくらいの二本マストのスクーナーですが、ロシアのヨットクラブの制式艇のヨットの図面がありました。そこで雇用された日本人船大工は和船とは作りの異なる洋式造り驚愕でしたが、技術をしっかりおぼえその後の本の造船界のリーダーになりました。費用は徳川幕府が出してあげましたが、のちにその費用と「戸田」号と同じ艇を作って返してくれました。当時勝海舟や小野友五郎が学んでいた正式機関の「長崎海軍伝習所」でも洋式船の作り方を学びましたが、その時のオランダ人所長のカッティンディーケは「長崎海軍伝習所の日々」(素晴らしい本です)という本を書いていますが、その中で勝や小野のようなエリートばかりではなく漢字も読めないような船大工の若者なども隔てなく入所させ教えました。日本の洋式船の建造技術の二つのルーツです。戸田の記念館にはそこでしか入手できない戸田の建造記の本が売っています。
三十年近く前、渡辺修治さんの「どんがめ」36フィートと世界一周レースで優勝した多田雄幸さんの「オケラ5世』(43フィート)と並んで航海し西伊豆を走り、始めて戸田に入りました。私は多田さんの44フィートに乗りました。
一緒に松崎に寄港し、当地の「岡村造船所」の皆さんに接待を受けました。当時「どんがめ」のクルーだったイギリス人の青年が猟師から撮れたてのイワシを沢山分けてもらい「このイワシは崩御したばかりなので新鮮です」と言いました。丁度昭和天皇が崩御されたばかりだったので、その言葉を使ったのです。もちろんそれはその青年のシャレだったのですが。白崎
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添付の写真は、「遥かなる西伊豆、戸田、三津浜の海に憧れる旅」の記事に掲載された写真です。
===白崎謙太郎 著、「西伊豆へのある帆走の思い出」===========
後藤さん・・良いご旅行でしたね。西伊豆の戸田に行かれたのに岬の先端にある「戸田号」の博物館に行かれなかったようなのは残念です。江戸末期来日中の帆走軍艦「ディアナ」号を失ったロシア人たちが戸田で日本人船大工を指導しながら洋式帆船を作りました。70フィートくらいの二本マストのスクーナーですが、ロシアのヨットクラブの制式艇のヨットの図面がありました。そこで雇用された日本人船大工は和船とは作りの異なる洋式造り驚愕でしたが、技術をしっかりおぼえその後の本の造船界のリーダーになりました。費用は徳川幕府が出してあげましたが、のちにその費用と「戸田」号と同じ艇を作って返してくれました。当時勝海舟や小野友五郎が学んでいた正式機関の「長崎海軍伝習所」でも洋式船の作り方を学びましたが、その時のオランダ人所長のカッティンディーケは「長崎海軍伝習所の日々」(素晴らしい本です)という本を書いていますが、その中で勝や小野のようなエリートばかりではなく漢字も読めないような船大工の若者なども隔てなく入所させ教えました。日本の洋式船の建造技術の二つのルーツです。戸田の記念館にはそこでしか入手できない戸田の建造記の本が売っています。
三十年近く前、渡辺修治さんの「どんがめ」36フィートと世界一周レースで優勝した多田雄幸さんの「オケラ5世』(43フィート)と並んで航海し西伊豆を走り、始めて戸田に入りました。私は多田さんの44フィートに乗りました。
一緒に松崎に寄港し、当地の「岡村造船所」の皆さんに接待を受けました。当時「どんがめ」のクルーだったイギリス人の青年が猟師から撮れたてのイワシを沢山分けてもらい「このイワシは崩御したばかりなので新鮮です」と言いました。丁度昭和天皇が崩御されたばかりだったので、その言葉を使ったのです。もちろんそれはその青年のシャレだったのですが。白崎
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添付の写真は、「遥かなる西伊豆、戸田、三津浜の海に憧れる旅」の記事に掲載された写真です。