後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

 白崎謙太郎 著、「西伊豆へのある帆走の思い出」

2017年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム
10月12日に掲載しました「遥かなる西伊豆、戸田、三津浜の海に憧れる旅」に対して白崎謙太郎さんが以下のようなメールを送って下さいました。ここに感謝してご紹介致します。
===白崎謙太郎 著、「西伊豆へのある帆走の思い出」===========
後藤さん・・良いご旅行でしたね。西伊豆の戸田に行かれたのに岬の先端にある「戸田号」の博物館に行かれなかったようなのは残念です。江戸末期来日中の帆走軍艦「ディアナ」号を失ったロシア人たちが戸田で日本人船大工を指導しながら洋式帆船を作りました。70フィートくらいの二本マストのスクーナーですが、ロシアのヨットクラブの制式艇のヨットの図面がありました。そこで雇用された日本人船大工は和船とは作りの異なる洋式造り驚愕でしたが、技術をしっかりおぼえその後の本の造船界のリーダーになりました。費用は徳川幕府が出してあげましたが、のちにその費用と「戸田」号と同じ艇を作って返してくれました。当時勝海舟や小野友五郎が学んでいた正式機関の「長崎海軍伝習所」でも洋式船の作り方を学びましたが、その時のオランダ人所長のカッティンディーケは「長崎海軍伝習所の日々」(素晴らしい本です)という本を書いていますが、その中で勝や小野のようなエリートばかりではなく漢字も読めないような船大工の若者なども隔てなく入所させ教えました。日本の洋式船の建造技術の二つのルーツです。戸田の記念館にはそこでしか入手できない戸田の建造記の本が売っています。
三十年近く前、渡辺修治さんの「どんがめ」36フィートと世界一周レースで優勝した多田雄幸さんの「オケラ5世』(43フィート)と並んで航海し西伊豆を走り、始めて戸田に入りました。私は多田さんの44フィートに乗りました。
一緒に松崎に寄港し、当地の「岡村造船所」の皆さんに接待を受けました。当時「どんがめ」のクルーだったイギリス人の青年が猟師から撮れたてのイワシを沢山分けてもらい「このイワシは崩御したばかりなので新鮮です」と言いました。丁度昭和天皇が崩御されたばかりだったので、その言葉を使ったのです。もちろんそれはその青年のシャレだったのですが。白崎
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添付の写真は、「遥かなる西伊豆、戸田、三津浜の海に憧れる旅」の記事に掲載された写真です。





老人は楽しい思い出を背負って旅立って行く

2017年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は、老人は楽しい思い出を沢山リュックサックに詰めてそれを担いで旅立っていくという話を書きます。
人生を振り返ってみると楽しかったことは種々あり、とても一つのリュックサックに詰められないかも知れません。
そこで二つだけにしましょう。
一つは家族との楽しい思い出です。沢山ありますがギューッと圧縮してリュックサックの底に詰めます。
もう一つは楽しかった趣味の思い出を一つだけリュックに詰めましょう。それ以上欲張っていろいろな思い出を詰め込むとリュックが重すぎて三途の川が渡れなくなるのです。
楽しかった趣味の思い出を一つだけ選ぶのですが、選ぶものは何でも良いのです。人それぞれ何でも良いのです。
私は迷わず25年間楽しんだヨットの趣味を選びます。
そんな人もいないかと考えてみました。そうしたらヨットの楽しい思い出を背負って旅立って行った人を思い出したのです。
私は1973年に山梨県の甲斐駒岳の麓の山林を100坪ほど買い、そこに小さな小屋を建てました。
その近所の別荘地に35フィート位のクルーザーヨットが置いてあったのです。1974年から置いてありました。

1番目の写真はその別荘の入口に置いてあったヨットの写真です。
標高1000m位の山の別荘地にはるばる海から別荘の主が大型トラックに積んで陸送してきたのです。

2番目の写真はヨットを後ろから見た写真です。使いやすい広いコックピットが付いていてセイリングのあと何度も仲間や家族と船上パーティをしたに違いありません。
そして洒落た窓の並んでいるキャビンは寝心地が良さそうです。コックピットの下側もベットが入るスペースになるので、4、5人は泊まれそうです。広いので2口コンロと流し、それから電動水洗トイレやチャートテーブルもついていそうです。音質の良いステレオ装置もあるかも知れません。
別荘の主が長年、太平洋の外洋の荒波を乗り越えて帆走を楽しんだヨットです。
しかし別荘の主が年をとり体力が無くなり、ヨットを止めて、別荘を建てたようです。その時、愛艇と別れがたく運び上げたのです。
山小屋へ行く度にこのヨットのことが気になって何度か見に行きました。出来たら持ち主にお会いして、このヨットの楽しい話を聞かせて貰おうと1974年に別荘を訪ねましたが人が居ません。森閑としてヨットだけが留守番をしていました。
そしてヨットはその後30年、40年と少しずつ朽ち果てていきました。ここに示す写真は2007年に撮ったものです。その後、このヨットは別荘地から消えてしまいました。
持ち主はこのヨットの楽しい思い出をリュックサックに詰めて、それを背負って旅立ってしまったのです。
現在でもこの別荘地のそばを通るときこのヨットと持主との交友をあれやこれやと考えています。そして旅立った人は幸せだったと確信するのです。
私も旅立つ時は自分のヨットの思い出を背負って行こうと考えています。

3番目の写真は私が持っていた26フィートの小さなアメリカ製のヨットの写真です。
強風で船体を傾けながら霞ヶ浦の土浦港を帆走している写真です。こんなに傾いても横倒しにならないのは船底にあるキールのお蔭なのです。岸壁に繫いであった古い浚渫船の上から家内が撮ったものです。

4番目の写真はある晴れた日に土浦港に帰って来た時の帆走の様子です。

5番目の写真は沖に向かって帆走しているヨットの写真です。強風の日だったのでメイン・セイルは上げないでジブだけで疾走しました。

6番目の写真はキャビンの中にある2口コンロと流しの写真です。

7番目の写真は寝室に使っていた前部の部屋の写真です。右側の鏡の掛かっている板壁の裏に電動水洗トイレがあります。
この前部の小部屋に布団を持ち込んで家内と何度も泊まった楽しい思い出があります。
また大学時代の同級生が7人ほどで、よく冷えたシャパンを 飲んだことも4回ほどありました。
息子と嫁や孫達とパーティをしたこともあります。
そして筑波市にある茨城県の研究センターの方々もヨットのパーティにご招待したこともあります。
このようにヨットには楽しい思い出が沢山あるのです。
それだけではありません。ヨットの構造が感動的なのです。
驚異的な構造は三角形の帆を揚げ降ろし出来るように設計されていることです。帆の形を三角形にすると船は風上にも登れる性能を持つのです。真っ直ぐ風上に向かって走ることは出来ませんが、45度の方向へは登れるのです。
そして船底についている重いキールのお陰で横滑りしなでヨットは風上に登れるのです。
もう一つのヨットの構造の素晴らしさは一つ一つの部品の完璧な機能と形の美しさにあります。無駄の無いワイヤーの張り方、そしてワイヤーを固定する滑車やシャックルの巧妙な設計にはヨーロッパ人の知恵と職人のわざが詰まっているのです。
そして海水の入り難い場所にキャビンへの入り口がついています。簡素な手動ウインチもあります。キャビン入口には波で揺れても水平になる磁石板(コンパス)もあります。
私はヨットを50歳から75歳までの25年間家内と共に趣味にしていたお陰で、ヨットの構造を通してヨーロッパ文化の奥深さを楽しむことが出来たのです。ヨットの趣味で私の人生観が変わりました。人生が豊かになったのです。
ですから私はヨットの楽しい思い出をリュックサックに詰め、それを背負って旅立とうと決めています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)