我々日本人が学校で習う朝鮮の歴史はおもに3件の出来事です。大和朝廷と高句麗、新羅、百済との交流と、豊臣秀吉の李朝時代の出兵と、1912年の朝鮮併合のことです。すべて政治的な事件です。
その一方、朝鮮半島に花咲いた文化についてはほとんど教えません。
ですから現在の日本人は朝鮮に古代からあった郷歌のことや百済、新羅、高句麗の三国時代の『三国史記』や『三国遺事』のことは一切教えません。
日本に萬葉集や源氏物語や古事記や日本書紀があったように百済、新羅、高句麗の三国にも同じような文学作品や歴史書があったのです。
これを知らなければ韓国や北朝鮮のことを蔑んだり悪口を言う日本人が多いのも自然ではないでしょうか。
さて朝鮮文化を知る第一歩として、韓国の世界遺産を見ることから始めてみましょう。観光案内のように気軽にお読みください。
そしてその次に韓国の古典文学を概観してみましょう。萬葉集や源氏物語に相当するような文学作品があったか調べて見ましょう。その次に韓国人なら誰でも知っている「春香伝」、「沈清伝」、「薔花紅蓮伝」など文学作品のあらすじを読んでみましょう。
さて韓国の世界遺産です。以下にその一覧を示します。
世界文化遺産:
石窟庵と仏国寺 - (1995年)
海印寺大蔵経板殿- (1995年)
宗廟 - (1995年)
昌徳宮 - (1997年)
華城 - (1997年)
慶州歴史地域 - (2000年)
高敞、和順、江華の支石墓群 - (2000年)
朝鮮王陵 - (2009年)
大韓民国の歴史的村落:河回と良洞 - (2010年)
南漢山城 - (2014年)
世界自然遺産:
済州の火山島と溶岩洞窟- (2007年)
以上の世界遺産の中で朝鮮王陵を見てみると李朝朝鮮の歴史が一挙に分かります。
朝鮮王陵は、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国にある李朝の朝鮮王朝時代の歴代王族の王陵です。朝鮮王陵は、1408年から1966年のおよそ5世紀にわたって造られたのです。2009年6月27日に韓国が申請した朝鮮王陵40基がユネスコにより世界遺産として登録されています。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B%E9%99%B5 より)
そして同じく世界文化遺産の首都のソウルにある昌徳宮の概略を説明すると以下のようになります。
朝鮮王朝の開祖李成桂は1392年に開城で王に即位、その2年後の1394年に漢陽(漢城、現在のソウル)への遷都を決定します。
無学大師の風水に基づき漢江の北、北岳山の南にあたる「陽」の地が選ばれ、李成桂が開城で政務を執っている間から王宮の建設が始まったのです。鄭道伝によって「景福宮」と命名され、1395年から李氏朝鮮の正宮として使用された。1397年には漢陽の城郭と四大城門が完成しました。
その後約200年間、正宮として使用され、1553年に大火によって焼失しました。1592年の文禄の役において、国王の宣祖が漢城から逃亡して治安が乱れると、先陣争いをする小西行長らの一番隊や加藤清正らの二番隊の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり再び焼失したのです。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E7%A6%8F%E5%AE%AE より)
それでは李氏朝鮮第4代国王・世宗の墓の写真と昌徳宮の写真を示して終わりと致します。
1番目の写真は李氏朝鮮第4代国王・世宗の墓の写真です。
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2番目の写真は昌徳宮の全体の写真です。
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3番目の写真は昌徳宮の大門の前の風景です。
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4番目の写真は韓国の世界遺産の南漢山城の写真です。
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5番目の写真は世界遺産の「大韓民国の歴史的村落:河回と良洞」の風景写真です。郷愁を感じるような農村風景です。
さて次に朝鮮の古典について概観してみましょう。
その為にいろいろ調べましたら次の研究論文が明快な概説だと感心しましたので、その概要を示します。
「文学からの接近:古典文学史:―― 時代区分とジャンルを中心に」、山田 恭子著http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/nomahideki/edu_04_004_yamada_se4l.pdf
この研究論文ではまず韓国古典文学史を考える上で重要な時代区分やジャンルについて言及し,韓国古典文学の全体像を把握することを目的としています。
そして時代区分を以下のように6つの時代に別けています。
碑文学,漢文学,国文文学(ハングル文字)の関係から,古代前後期,中世前後期,近世,近代の6 期に分けて考察しています。
碑文学は5世紀になって漢字や漢文学が入ってくるまでの口承文学です。この口承文学は後に「帝釈本解」へと発展します。
そして古代後期とは,建国神話の出現,漢字伝来と漢文学の成立,郷歌の形成に至るまでの時代をさすそうです。
郷歌とは,新羅の三国統一期である6 世紀頃から高麗中期である13 世紀まで存在した文学形式を意味します。しかし広義の郷歌とは紀元前からあった形式で中国漢詩に対する当時の朝鮮の歌謡を広くさす呼称でした。
そして百済、新羅、高句麗の三国時代には.『三国史記』や『三国遺事』が書かれたのです。
それはさておき、中世文学の時代は、漢文学の時代です。科挙制度の前身ともいえる新羅の読書出身科が788 年に,本格的な科挙試験は958 年に実施されたことも漢文学の隆盛とつながったのです。しかし漢文学は訓民正音を用いた国文文学とも共存しました。
最初は漢字を利用した吏読 を通じて,次には朝鮮語を直接表記できる訓民正音との併用されたのです。
私が想像しているのはこの訓民正音は日本の万葉仮名に相当するものと思います。
中世前期は郷歌と漢文学,特に漢詩が盛行したのです。
そして1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、「訓民正音」を正式に公布し、公文書にも使用するようになったのです。それが現在のハングルです。
朝鮮では日本と同様に教養のある人は現在でも漢字の読み書きが出来るのです。
末尾に「春香伝」の粗筋を示しましたのでお楽しみ下さい。
以上のように朝鮮の文学は日本と同様にいろいろな分野があり、内容も豊かなのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===春香伝とは============================
春香伝は李氏朝鮮時代の説話で、妓生の娘と両班の息子の身分を越えた恋愛を描いた物語です。
18世紀頃、民族音楽的語り物であるパンソリ、すなはち「春香歌」の演目「春香歌」として広まるとともに、小説化も行われました。韓国では現在も人気のある作品であり、映画化も何度か行われています。
あらすじは次のようなものです。
南原府使の息子・李夢龍と、妓生(キーセン)である月梅の娘・成春香は、広寒楼で出会い、愛を育みます。しかし、父の任期が終わり、夢龍は都に帰ることになります。夢龍と春香は再会を誓い合って別れます。新たに赴任した卞府使は、春香の美貌を聞きつけて我が物としようとするが、春香は夢龍への貞節を守って従いません。激怒した卞府使は春香を拷問し投獄します。都に帰った夢龍は科挙に合格して官吏となり、南原に潜入します。夢龍は卞府使の悪事を暴いて彼を罰し、春香を救出し、二人は末永く幸せに暮らしたという話です。
韓国人なら誰でも知っている話です。
「沈清伝」や「薔花紅蓮伝」なども検索すると内容が出て来ます。
「沈清伝」;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E6%B8%85%E4%BC%9D
「薔花紅蓮伝」;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%94%E8%8A%B1%E7%B4%85%E8%93%AE%E4%BC%9D
その一方、朝鮮半島に花咲いた文化についてはほとんど教えません。
ですから現在の日本人は朝鮮に古代からあった郷歌のことや百済、新羅、高句麗の三国時代の『三国史記』や『三国遺事』のことは一切教えません。
日本に萬葉集や源氏物語や古事記や日本書紀があったように百済、新羅、高句麗の三国にも同じような文学作品や歴史書があったのです。
これを知らなければ韓国や北朝鮮のことを蔑んだり悪口を言う日本人が多いのも自然ではないでしょうか。
さて朝鮮文化を知る第一歩として、韓国の世界遺産を見ることから始めてみましょう。観光案内のように気軽にお読みください。
そしてその次に韓国の古典文学を概観してみましょう。萬葉集や源氏物語に相当するような文学作品があったか調べて見ましょう。その次に韓国人なら誰でも知っている「春香伝」、「沈清伝」、「薔花紅蓮伝」など文学作品のあらすじを読んでみましょう。
さて韓国の世界遺産です。以下にその一覧を示します。
世界文化遺産:
石窟庵と仏国寺 - (1995年)
海印寺大蔵経板殿- (1995年)
宗廟 - (1995年)
昌徳宮 - (1997年)
華城 - (1997年)
慶州歴史地域 - (2000年)
高敞、和順、江華の支石墓群 - (2000年)
朝鮮王陵 - (2009年)
大韓民国の歴史的村落:河回と良洞 - (2010年)
南漢山城 - (2014年)
世界自然遺産:
済州の火山島と溶岩洞窟- (2007年)
以上の世界遺産の中で朝鮮王陵を見てみると李朝朝鮮の歴史が一挙に分かります。
朝鮮王陵は、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国にある李朝の朝鮮王朝時代の歴代王族の王陵です。朝鮮王陵は、1408年から1966年のおよそ5世紀にわたって造られたのです。2009年6月27日に韓国が申請した朝鮮王陵40基がユネスコにより世界遺産として登録されています。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B%E9%99%B5 より)
そして同じく世界文化遺産の首都のソウルにある昌徳宮の概略を説明すると以下のようになります。
朝鮮王朝の開祖李成桂は1392年に開城で王に即位、その2年後の1394年に漢陽(漢城、現在のソウル)への遷都を決定します。
無学大師の風水に基づき漢江の北、北岳山の南にあたる「陽」の地が選ばれ、李成桂が開城で政務を執っている間から王宮の建設が始まったのです。鄭道伝によって「景福宮」と命名され、1395年から李氏朝鮮の正宮として使用された。1397年には漢陽の城郭と四大城門が完成しました。
その後約200年間、正宮として使用され、1553年に大火によって焼失しました。1592年の文禄の役において、国王の宣祖が漢城から逃亡して治安が乱れると、先陣争いをする小西行長らの一番隊や加藤清正らの二番隊の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり再び焼失したのです。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E7%A6%8F%E5%AE%AE より)
それでは李氏朝鮮第4代国王・世宗の墓の写真と昌徳宮の写真を示して終わりと致します。
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1番目の写真は李氏朝鮮第4代国王・世宗の墓の写真です。
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2番目の写真は昌徳宮の全体の写真です。
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3番目の写真は昌徳宮の大門の前の風景です。
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4番目の写真は韓国の世界遺産の南漢山城の写真です。
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5番目の写真は世界遺産の「大韓民国の歴史的村落:河回と良洞」の風景写真です。郷愁を感じるような農村風景です。
さて次に朝鮮の古典について概観してみましょう。
その為にいろいろ調べましたら次の研究論文が明快な概説だと感心しましたので、その概要を示します。
「文学からの接近:古典文学史:―― 時代区分とジャンルを中心に」、山田 恭子著http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/nomahideki/edu_04_004_yamada_se4l.pdf
この研究論文ではまず韓国古典文学史を考える上で重要な時代区分やジャンルについて言及し,韓国古典文学の全体像を把握することを目的としています。
そして時代区分を以下のように6つの時代に別けています。
碑文学,漢文学,国文文学(ハングル文字)の関係から,古代前後期,中世前後期,近世,近代の6 期に分けて考察しています。
碑文学は5世紀になって漢字や漢文学が入ってくるまでの口承文学です。この口承文学は後に「帝釈本解」へと発展します。
そして古代後期とは,建国神話の出現,漢字伝来と漢文学の成立,郷歌の形成に至るまでの時代をさすそうです。
郷歌とは,新羅の三国統一期である6 世紀頃から高麗中期である13 世紀まで存在した文学形式を意味します。しかし広義の郷歌とは紀元前からあった形式で中国漢詩に対する当時の朝鮮の歌謡を広くさす呼称でした。
そして百済、新羅、高句麗の三国時代には.『三国史記』や『三国遺事』が書かれたのです。
それはさておき、中世文学の時代は、漢文学の時代です。科挙制度の前身ともいえる新羅の読書出身科が788 年に,本格的な科挙試験は958 年に実施されたことも漢文学の隆盛とつながったのです。しかし漢文学は訓民正音を用いた国文文学とも共存しました。
最初は漢字を利用した吏読 を通じて,次には朝鮮語を直接表記できる訓民正音との併用されたのです。
私が想像しているのはこの訓民正音は日本の万葉仮名に相当するものと思います。
中世前期は郷歌と漢文学,特に漢詩が盛行したのです。
そして1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、「訓民正音」を正式に公布し、公文書にも使用するようになったのです。それが現在のハングルです。
朝鮮では日本と同様に教養のある人は現在でも漢字の読み書きが出来るのです。
末尾に「春香伝」の粗筋を示しましたのでお楽しみ下さい。
以上のように朝鮮の文学は日本と同様にいろいろな分野があり、内容も豊かなのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===春香伝とは============================
春香伝は李氏朝鮮時代の説話で、妓生の娘と両班の息子の身分を越えた恋愛を描いた物語です。
18世紀頃、民族音楽的語り物であるパンソリ、すなはち「春香歌」の演目「春香歌」として広まるとともに、小説化も行われました。韓国では現在も人気のある作品であり、映画化も何度か行われています。
あらすじは次のようなものです。
南原府使の息子・李夢龍と、妓生(キーセン)である月梅の娘・成春香は、広寒楼で出会い、愛を育みます。しかし、父の任期が終わり、夢龍は都に帰ることになります。夢龍と春香は再会を誓い合って別れます。新たに赴任した卞府使は、春香の美貌を聞きつけて我が物としようとするが、春香は夢龍への貞節を守って従いません。激怒した卞府使は春香を拷問し投獄します。都に帰った夢龍は科挙に合格して官吏となり、南原に潜入します。夢龍は卞府使の悪事を暴いて彼を罰し、春香を救出し、二人は末永く幸せに暮らしたという話です。
韓国人なら誰でも知っている話です。
「沈清伝」や「薔花紅蓮伝」なども検索すると内容が出て来ます。
「沈清伝」;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E6%B8%85%E4%BC%9D
「薔花紅蓮伝」;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%94%E8%8A%B1%E7%B4%85%E8%93%AE%E4%BC%9D