後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

秋の花々を見て、衆院選挙の混乱を憂いながら決めました!

2017年10月20日 | 日記・エッセイ・コラム
今年は季節の進みが早いようです。野山はもう晩秋のようです。
昨日、都立薬草植物園を散歩しながら黄葉した睡蓮のモザイクのような模様や秋の花々の風景を楽しんで来ました。

散歩しながら明日、投票日を迎える衆院選挙の混乱につぐ混乱を憂いました。
希望の党を作りながら自分は立候補しない小池さんの投げやりな態度と、地域政党の限界を見極めないで無節操にも合流した前原さんの無定見がこの大きな混乱の原因ではないかと考えました。このままでは安倍さんの独り勝ちになるでしょう。
多くの国民はどの政党の候補者へ投票すべきか迷っていると思います。あるいは無所属の方が良いのでしょうか?
詳しい考察は後にして、まず都立薬草植物園の睡蓮の葉の黄葉や花々の写真を示します。

1番目の写真は色とりどりに黄葉した睡蓮の葉のモザイク模様です。

2番目の写真はイヌサフランです。

3番目の写真はフヨウです。

4番目の写真はセイジです。

5番目の写真はチョウセンアサガオです。花の傍に丸い実もなっています。

6番目の写真は秋ソバの花です。

7番目の写真はコガネバナです。消炎剤や解熱剤に使えます。
このように美しく無心に咲いている花々を見たあとでドロドロした選挙の話は似つかわしいものではありません。
しかし明日は自分も投票に行きます。
そこで安倍さんの身勝手な解散の後で起きた混乱を明快に整理してみましょう。
(1)この時期に解散すれば自民党の議席が増えると判断したので安倍さんが独断的に解散しました。
(2)これを政権交代のチャンスと考えた小池さんが「希望の党」を結成し、自分がその新党の代表になりました。
(3)希望の党のマスコミ人気を見た前原さんは民進党の希望者は希望の党の公認候補になって良いと事実上の合流を認めたのです。しかし小池さんは民進党のリベラルな枝野さん達を排除して合流を拒否したのです。
(4)その結果宙に浮いた枝野さんたちが立憲民主党という新しい政党を立ち上げました。
(5)その結果、明日の比例代表政党の名前を書くべき政党名は以下の9の政党になったのです。
東京都選挙区の東京選挙管理委員会発表には以下の通りです、
http://www.h29syuugiinsen.metro.tokyo.jp/hirei/ichiran.html
日本共産党、
希望の党、
幸福実現党、
社会民主党
日本のこころ
立憲民主党
公明党
自由民主党
日本維新の会

支持政党なし、(衆議院議員定数、475)

以上が分かり易い整理です。
さて貴方は明日、個人名を書くべき投票は誰にしますか?政党名を書く比例代表では政党名はどの党にしました?

以上の混乱ぶりを見た多くの国民は幾つかの明快な事実が理解できたと思います。
(1)小池さんは本気で日本全体の将来を考えないで、都民ファーストだけに固執している。日本維新の会とともに地域政党の限界は地域のエゴにあることが判明した。視野が国際的でないのです。
(2)小池さんに排除される前に立憲民主党を作ったら枝野さんは立派な見識の持主と考えられたが、排除されてから泥縄式に立憲民主党をつくったので尊敬できない。
(3)上記のような野党勢力の醜い離合集散ぶりをみると、仕方が無いからやっぱり自民・公明の与党にへ投票しようという考え方が勢いを増している。

私は決めました。個人名の投票は仕方なく自民党の候補者にします。政党名は枝野さんの立憲民主党にします。
理由は2011年の福島原発爆発直後の当時の民主党政権の官房長官だった枝野さんの毎日の各地の放射能強度のテレビ発表が実に誠実だったからです。彼の国際感覚には疑問がありますが、人間として誠実な人です。そして国内政治家として優れた能力の持ち主と思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

小さな浜辺を探し、偶然素晴らしく美しい貝殻の博物館を発見!

2017年10月20日 | 日記・エッセイ・コラム
日本中の海岸は昔ながらの自然な砂浜がなかなかありません。岩の岸辺、そしてテトラポットの海岸が多いのです。
それでも、例えば鎌倉の由比ヶ浜や材木座の浜辺はよく昔のまま保存してあり、近くに大きな地下駐車場もあります。
由比ヶ浜の近所で生まれ、幼少の頃そこで育った家内は海を見ると必ずのように砂浜を探します。そして波打ち際を走ります。そのせいで私も海に行けば砂浜の岸辺を探すくせがついています。
今回の西伊豆や湯河原への旅でも波の打ち寄せる浜辺を探しました。
小田原から西の真鶴、湯河原、熱海、網代などの海岸は岩礁になっていて砂の波打ち際が無いのです。
よく考えたら真鶴駅前から南東に根気よく坂を下って行くと『岩』という名前の小さな浜辺があることを思い出しました。
この小さな砂浜は観光客の行かない隠れた砂浜です。
先日行った西伊豆と湯河原への旅の折りにも車で注意深く降りて行きました。
2003年にその小さな砂浜に下りていったことを思い出したのです。

1番目の写真は岩という名前の浜辺です。2003年にその小さな砂浜に下りていった時と全く同じ風景が広がっていました。

2番目の写真は岩海岸の左端にある岸壁です。波が白く砕けている光景は昔のままです。
そしてこの浜辺を見下ろすように2階建ての洋館が建っていたのです。玄関の右には「遠藤貝殻博物館」と小さな看板がかかっていました。

3番目の写真は当時あった「遠藤貝殻博物館」の写真です。今回行ったら取り壊し最中なのか作業用の覆いがかけてあり姿が見えませんでした。この写真は昔の博物館を記録した資料、(https://www.botanical.jp/library_view.php?library_num=308 )からお借りしました。
幼少の頃から砂浜で美しい貝殻を拾っていた家内が迷わず博物館に入ったのです。そこには世界中の美しい貝殻を蒐集し展示してあったのです。ガラスケースに入った色とりどりの貝殻が一面に輝いていたのです。貝殻がこんなに美しいとは知りませんでした。
遠藤さんは貝の研究をして世界の貝殻を蒐集したのです。その遠藤さんと、元気で上品な夫人が集めた貝殻の説明を丁寧にしてくれました。
そんな素晴らしい貝の博物館は岩海岸にはもう存在していません。
遠藤さんの未亡人が貝殻を全て真鶴町に寄贈して町立の「遠藤貝殻博物館」として真鶴半島の突端に一般公開しているのです。
調べてみましたら、その真鶴町立遠藤貝類博物館では 遠藤晴雄氏が生涯をかけて収集した4,500種50,000点の常設展示を行っているのです。
貝殻は真鶴半島の海岸で見つかるものから、日本各地、さらには世界の海からのコレクションです。
遠藤晴雄氏は1915年(大正5年)真鶴町生まれ、1929年から湘南の逗子開成中学に入学し貝に興味を持ちます。
その後、小学校や中学校の先生をしながら貝の研究を続けます。そして昭和天皇の海の生物の研究を支えていた京大の細谷角次郎教授に可愛がられ、葉山の御用邸に滞在される天皇陛下の収集に立ち会われたことも度々だったそうです。
学歴や博士号に関心が薄かったのでその生涯は民間の貝の研究者として過ごしました。最後は真鶴町の教育長を務めました。
現在の「遠藤貝殻博物館」の詳細は、そのホームページ、(https://www.endo-shellmuseum.jp/%e8%b2%9d%e5%8d%9a%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/ )に紹介してあります。

4番目の写真はこの博物館の展示の様子です。

5番目の写真はこの博物館の目玉ともいうべきオキナエビス貝の写真です。
この貝は日本にカンブリア紀(約5億4200万年前から約4億8830万年前まで)から現在まで生きているのです。
現在の生息域は深海に限られているようです。
調べてみると、オキナエビスガイ科の貝は主に水深 200-3000m の深海に底生生物として生息しているそうです。そしてオキナエビスの餌は主に海綿で、他に深海性のウミユリや八放サンゴなども食べるそうです。
このように5億年まえから現在まで、世界中に生きている貝を見ていると悠久の時の流れを感じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========================
浜辺で桜貝の美しい貝殻を拾った方々へ、さくら貝の歌のYouTube、を二つお送りします。
倍賞千恵子、https://www.youtube.com/watch?v=fF_J_KkZftI
鮫島有美子、https://www.youtube.com/watch?v=J91OKc9c2Ig
久しぶりにお聞きください。