中国のGDPが成長し、世界第二位になる過程で、中国のいろいろな学問分野も急速に発展してきました。
特に古代文明は中国の自慢したいものの一つであり、秦の始皇帝以前の各地の遺跡の研究が盛んです。その結果、驚くべき考古学的な発見が続いております。
今日は、最近の中国の考古学の研究から次の2つのことを見てみましょう。
(1)黄河文明よりも古い長江文明の存在が明らかになったこと。
(2)日本の縄文時代前期の紀元前1万年頃には長江沿岸では米の栽培が普及していたこと。
以上の2つの問題を作り、いろいろ調べていました。その結果、『知っておきたい中国の歴史』、(http://greenly.jp/s-chinese_history/category1/ )が客観的記述な上、分かり易い優れた説明であることを知りました。
そこでまずこの記述に従って最近明らかになってきた黄河文明と長江文明の関係をご紹介します。
中国大陸には西から東へ二本の大河が流れています。北部を流れる黄河、中部を流れる長江(揚子江)ですね。
従来、中国の農耕文明は黄河の流域で誕生し、後に長江から中国全土に広がって行ったと考えられていました。
しかし近年遺跡発掘の調査において、長江流域の農耕誕生は黄河文化よりも早く、大河流域を離れたところでも独自の農耕社会が発展していることが分かってきました。
中国古代文明は黄河文明だけではなかったのです。
近年の調査では、長江(揚了江)流域にも古代文明かあったことがわかってきました。
黄河流城では、紀元前6000年までにアワなどの雑穀を中心とした農耕がありましたが、同じ頃、長江の流域では稲を中心とした農耕がはじまっていたのです。
紀元前5000年~4000年には、それぞれの流域で農耕技術が発達し、小さな村落が生まれた。黄河中流域には、文様のある彩文土器(彩陶)を用いる仰韶文化がおこりました。
紀元前3000年~2000年になると、地城間の交流が活発になり、黄河と長江を含む広い地域で、竜山文化か起こりました。竜山文化は、薄手で光沢のある3本足の黒陶の使用か特徴です。それぞれの地城では、支配者層が強大な権力を持ち始めていたと考えられています。これがその後の数多くの国々の始まりでした。
さて上に日本の縄文時代の前期には長江流域で米の栽培が普及していたと書きました。
縄文時代は、最近では紀元前約1万3,000年から紀元前約300年前までと考えられています。その間の日本人は竪穴式の家に住み、まだ農耕は始まっていないで、漁業や狩猟、そして採集で食料を集めていました。そのような時代に長江流域では水田を作り米を栽培し食べていたのです。
その証拠は何処にあるのでしょうか?
長江下流の河姆渡遺跡から大量の米や藁、もみの層や水稲栽培に使った骨製のスキが発見されたのです。焼けた米の炭素の同位体分析からこの遺跡は紀元前5000年頃のものと推定されたのです。日本の縄文時代のほぼ中期の遺跡なのです。
河姆渡遺跡では、人々は高床式の住居に住み、機織りをし、衣服は自給し、犬や豚を飼っていた痕跡も発見されたのです。
そして近年、長江の中流域からは、河栂渡遺跡よりさらに古い彭頭遺跡が発見され、紀元前1万年前後の水稲栽培の跡が発見されました。
紀元前1万年とは縄文時代の前期に相当します。
従来、稲作の発祥地は雲南・アッサム地方と考えられていましたが、最近では長江中流説が有力になったのです。
これにともなって、日本に渡ってきた稲作も、長江中流から朝鮮経由又は中国の福建、台湾、沖縄経由が有力視されるようになりました。
ついでに良渚文化と三星堆遺跡のこともご紹介します。
良渚文化は長江流域、下流デルタ地帯で発見された紀元前3000~2000年の遺跡です。黄河流域の黒陶竜山文化の時期です。
この良渚遺跡では大規模な集落遺跡の中に宮殿又は神殿の祭壇があり、住居跡の分布や墓地の状況から、貴族と戦士と奴隷の階層に分かれていたことが確認できています。ここで良質な玉器が大量に出土したのも中国では初めてのことだそうです。
さらに長江上流に近い三星堆遺跡で発掘された異様な仮面や人頭像、立人像など特色のある青銅器でした。
三星堆文化は、黄河と長江両文化の影響を受けながら独自の文化を残したと言われています。
ここで上の文章に出てきた6つのキーワードを整理しておきます。
仰韶文化。竜山文化。河姆渡遺跡。彭頭山文化。三星堆遺跡。良渚遺跡。
これら6つのキーワードを検索して調べると最近の中国の考古学の急速な発展を知ることが出来ます。
その他、岡部隆志先生の講演記録(http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-okb/sub13-3.htm )も大変分かり易い素人向けのせつめいです。
3枚の写真を示します。

1番目の写真は 仰韶文化の彩陶です。紀元前5000年から紀元前3000年あたりに作られたものです。仰韶文化は彩陶で有名で、職人は美しい白、赤、および黒の彩陶で人面、動物、および幾何学模様を作成しました。

2番目の写真は三星堆遺跡の貼金銅人頭像です。金箔でできた金面を被せた青銅人頭像です。極めて古い時代に属する三星堆遺跡から出土しました。

3番目の写真は三星堆遺跡から出た目の飛び出た青銅縦目仮面です。異形を呈する神の仮面です。世界最大の青銅製仮面で、異形を呈する巨大な青銅製の仮面であり、三星堆文化の代表的な考古遺物の一つです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
特に古代文明は中国の自慢したいものの一つであり、秦の始皇帝以前の各地の遺跡の研究が盛んです。その結果、驚くべき考古学的な発見が続いております。
今日は、最近の中国の考古学の研究から次の2つのことを見てみましょう。
(1)黄河文明よりも古い長江文明の存在が明らかになったこと。
(2)日本の縄文時代前期の紀元前1万年頃には長江沿岸では米の栽培が普及していたこと。
以上の2つの問題を作り、いろいろ調べていました。その結果、『知っておきたい中国の歴史』、(http://greenly.jp/s-chinese_history/category1/ )が客観的記述な上、分かり易い優れた説明であることを知りました。
そこでまずこの記述に従って最近明らかになってきた黄河文明と長江文明の関係をご紹介します。
中国大陸には西から東へ二本の大河が流れています。北部を流れる黄河、中部を流れる長江(揚子江)ですね。
従来、中国の農耕文明は黄河の流域で誕生し、後に長江から中国全土に広がって行ったと考えられていました。
しかし近年遺跡発掘の調査において、長江流域の農耕誕生は黄河文化よりも早く、大河流域を離れたところでも独自の農耕社会が発展していることが分かってきました。
中国古代文明は黄河文明だけではなかったのです。
近年の調査では、長江(揚了江)流域にも古代文明かあったことがわかってきました。
黄河流城では、紀元前6000年までにアワなどの雑穀を中心とした農耕がありましたが、同じ頃、長江の流域では稲を中心とした農耕がはじまっていたのです。
紀元前5000年~4000年には、それぞれの流域で農耕技術が発達し、小さな村落が生まれた。黄河中流域には、文様のある彩文土器(彩陶)を用いる仰韶文化がおこりました。
紀元前3000年~2000年になると、地城間の交流が活発になり、黄河と長江を含む広い地域で、竜山文化か起こりました。竜山文化は、薄手で光沢のある3本足の黒陶の使用か特徴です。それぞれの地城では、支配者層が強大な権力を持ち始めていたと考えられています。これがその後の数多くの国々の始まりでした。
さて上に日本の縄文時代の前期には長江流域で米の栽培が普及していたと書きました。
縄文時代は、最近では紀元前約1万3,000年から紀元前約300年前までと考えられています。その間の日本人は竪穴式の家に住み、まだ農耕は始まっていないで、漁業や狩猟、そして採集で食料を集めていました。そのような時代に長江流域では水田を作り米を栽培し食べていたのです。
その証拠は何処にあるのでしょうか?
長江下流の河姆渡遺跡から大量の米や藁、もみの層や水稲栽培に使った骨製のスキが発見されたのです。焼けた米の炭素の同位体分析からこの遺跡は紀元前5000年頃のものと推定されたのです。日本の縄文時代のほぼ中期の遺跡なのです。
河姆渡遺跡では、人々は高床式の住居に住み、機織りをし、衣服は自給し、犬や豚を飼っていた痕跡も発見されたのです。
そして近年、長江の中流域からは、河栂渡遺跡よりさらに古い彭頭遺跡が発見され、紀元前1万年前後の水稲栽培の跡が発見されました。
紀元前1万年とは縄文時代の前期に相当します。
従来、稲作の発祥地は雲南・アッサム地方と考えられていましたが、最近では長江中流説が有力になったのです。
これにともなって、日本に渡ってきた稲作も、長江中流から朝鮮経由又は中国の福建、台湾、沖縄経由が有力視されるようになりました。
ついでに良渚文化と三星堆遺跡のこともご紹介します。
良渚文化は長江流域、下流デルタ地帯で発見された紀元前3000~2000年の遺跡です。黄河流域の黒陶竜山文化の時期です。
この良渚遺跡では大規模な集落遺跡の中に宮殿又は神殿の祭壇があり、住居跡の分布や墓地の状況から、貴族と戦士と奴隷の階層に分かれていたことが確認できています。ここで良質な玉器が大量に出土したのも中国では初めてのことだそうです。
さらに長江上流に近い三星堆遺跡で発掘された異様な仮面や人頭像、立人像など特色のある青銅器でした。
三星堆文化は、黄河と長江両文化の影響を受けながら独自の文化を残したと言われています。
ここで上の文章に出てきた6つのキーワードを整理しておきます。
仰韶文化。竜山文化。河姆渡遺跡。彭頭山文化。三星堆遺跡。良渚遺跡。
これら6つのキーワードを検索して調べると最近の中国の考古学の急速な発展を知ることが出来ます。
その他、岡部隆志先生の講演記録(http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-okb/sub13-3.htm )も大変分かり易い素人向けのせつめいです。
3枚の写真を示します。

1番目の写真は 仰韶文化の彩陶です。紀元前5000年から紀元前3000年あたりに作られたものです。仰韶文化は彩陶で有名で、職人は美しい白、赤、および黒の彩陶で人面、動物、および幾何学模様を作成しました。

2番目の写真は三星堆遺跡の貼金銅人頭像です。金箔でできた金面を被せた青銅人頭像です。極めて古い時代に属する三星堆遺跡から出土しました。

3番目の写真は三星堆遺跡から出た目の飛び出た青銅縦目仮面です。異形を呈する神の仮面です。世界最大の青銅製仮面で、異形を呈する巨大な青銅製の仮面であり、三星堆文化の代表的な考古遺物の一つです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)