後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

紀元前1万年頃には米の栽培が普及していた長江(揚子江)沿岸

2017年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム
中国のGDPが成長し、世界第二位になる過程で、中国のいろいろな学問分野も急速に発展してきました。
特に古代文明は中国の自慢したいものの一つであり、秦の始皇帝以前の各地の遺跡の研究が盛んです。その結果、驚くべき考古学的な発見が続いております。
今日は、最近の中国の考古学の研究から次の2つのことを見てみましょう。
(1)黄河文明よりも古い長江文明の存在が明らかになったこと。
(2)日本の縄文時代前期の紀元前1万年頃には長江沿岸では米の栽培が普及していたこと。
以上の2つの問題を作り、いろいろ調べていました。その結果、『知っておきたい中国の歴史』、(http://greenly.jp/s-chinese_history/category1/ )が客観的記述な上、分かり易い優れた説明であることを知りました。
そこでまずこの記述に従って最近明らかになってきた黄河文明と長江文明の関係をご紹介します。
中国大陸には西から東へ二本の大河が流れています。北部を流れる黄河、中部を流れる長江(揚子江)ですね。
従来、中国の農耕文明は黄河の流域で誕生し、後に長江から中国全土に広がって行ったと考えられていました。

しかし近年遺跡発掘の調査において、長江流域の農耕誕生は黄河文化よりも早く、大河流域を離れたところでも独自の農耕社会が発展していることが分かってきました。
中国古代文明は黄河文明だけではなかったのです。
近年の調査では、長江(揚了江)流域にも古代文明かあったことがわかってきました。
黄河流城では、紀元前6000年までにアワなどの雑穀を中心とした農耕がありましたが、同じ頃、長江の流域では稲を中心とした農耕がはじまっていたのです。
 紀元前5000年~4000年には、それぞれの流域で農耕技術が発達し、小さな村落が生まれた。黄河中流域には、文様のある彩文土器(彩陶)を用いる仰韶文化がおこりました。
紀元前3000年~2000年になると、地城間の交流が活発になり、黄河と長江を含む広い地域で、竜山文化か起こりました。竜山文化は、薄手で光沢のある3本足の黒陶の使用か特徴です。それぞれの地城では、支配者層が強大な権力を持ち始めていたと考えられています。これがその後の数多くの国々の始まりでした。

さて上に日本の縄文時代の前期には長江流域で米の栽培が普及していたと書きました。
縄文時代は、最近では紀元前約1万3,000年から紀元前約300年前までと考えられています。その間の日本人は竪穴式の家に住み、まだ農耕は始まっていないで、漁業や狩猟、そして採集で食料を集めていました。そのような時代に長江流域では水田を作り米を栽培し食べていたのです。
その証拠は何処にあるのでしょうか?
長江下流の河姆渡遺跡から大量の米や藁、もみの層や水稲栽培に使った骨製のスキが発見されたのです。焼けた米の炭素の同位体分析からこの遺跡は紀元前5000年頃のものと推定されたのです。日本の縄文時代のほぼ中期の遺跡なのです。
河姆渡遺跡では、人々は高床式の住居に住み、機織りをし、衣服は自給し、犬や豚を飼っていた痕跡も発見されたのです。
そして近年、長江の中流域からは、河栂渡遺跡よりさらに古い彭頭遺跡が発見され、紀元前1万年前後の水稲栽培の跡が発見されました。
紀元前1万年とは縄文時代の前期に相当します。
従来、稲作の発祥地は雲南・アッサム地方と考えられていましたが、最近では長江中流説が有力になったのです。
これにともなって、日本に渡ってきた稲作も、長江中流から朝鮮経由又は中国の福建、台湾、沖縄経由が有力視されるようになりました。
 
ついでに良渚文化と三星堆遺跡のこともご紹介します。
良渚文化は長江流域、下流デルタ地帯で発見された紀元前3000~2000年の遺跡です。黄河流域の黒陶竜山文化の時期です。
この良渚遺跡では大規模な集落遺跡の中に宮殿又は神殿の祭壇があり、住居跡の分布や墓地の状況から、貴族と戦士と奴隷の階層に分かれていたことが確認できています。ここで良質な玉器が大量に出土したのも中国では初めてのことだそうです。
さらに長江上流に近い三星堆遺跡で発掘された異様な仮面や人頭像、立人像など特色のある青銅器でした。
三星堆文化は、黄河と長江両文化の影響を受けながら独自の文化を残したと言われています。

ここで上の文章に出てきた6つのキーワードを整理しておきます。
仰韶文化。竜山文化。河姆渡遺跡。彭頭山文化。三星堆遺跡。良渚遺跡。
これら6つのキーワードを検索して調べると最近の中国の考古学の急速な発展を知ることが出来ます。
その他、岡部隆志先生の講演記録(http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-okb/sub13-3.htm )も大変分かり易い素人向けのせつめいです。
3枚の写真を示します。

1番目の写真は 仰韶文化の彩陶です。紀元前5000年から紀元前3000年あたりに作られたものです。仰韶文化は彩陶で有名で、職人は美しい白、赤、および黒の彩陶で人面、動物、および幾何学模様を作成しました。

2番目の写真は三星堆遺跡の貼金銅人頭像です。金箔でできた金面を被せた青銅人頭像です。極めて古い時代に属する三星堆遺跡から出土しました。

3番目の写真は三星堆遺跡から出た目の飛び出た青銅縦目仮面です。異形を呈する神の仮面です。世界最大の青銅製仮面で、異形を呈する巨大な青銅製の仮面であり、三星堆文化の代表的な考古遺物の一つです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

カトリック小金井教会のディン主任司祭の最後のミサ

2017年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム
カトリック教会では主任司祭が数年で交代になります。
これまで7年間、主任司祭を務めて下さったヨセフ・ディン神父さまが11月1日からカトリック習志野教会の主任司祭に転任されることになりました。
今日はヨセフ・ディン神父さまが司式をする最後のミサです。
昨日からの激しい雨にもかかわらず聖堂には溢れるほどの信徒が参集して、静かにミサが始まりました、お説教はディン神父さまがなさいました。カトリックの教会では毎日ミサがあります。その上、日曜日は3回のミサがあります。
ですからディン神父さまは7年間で3700回以上のミサをなさったのです。
この3700回のミサの他に結婚式やお葬式のミサや桜町病院でのミサなどが多数ありました。
ディン神父さまはこのように多数のミサだけでなく子供の日曜学校や卓球大会の世話をなさってくれました。
兎に角、信者の面倒見のよい神父様でした。
ミサの折りの説教も印象深いものでした。特にディン神父さまの素朴な信仰心には圧倒されました。信仰の優れた指導者でした。
ディン神父さまはベトナム戦争後、南ベトナムで神学生でした。しかし弾圧を逃れ、ボートピープルとして日本に渡って来たのです。そして当時の白柳大司教の指導で東京大司教区の神父に叙階されたのです。それは25年前のことでした。
7年間にわたって誠心誠意、主任司祭のお仕事をされたディン神父さまへ信徒は全員感謝しています。
ミサ後の昼食を兼ねた送別会も和気藹々と楽しい会でした。神父様は何も召し上がらず会場をゆっくりと廻り一人一人に優しく励ましの言葉をかけていらっしゃいました。
写真に、9月10日のミサを司式するディン神父さまとミサ後の敬老会の写真をお送り致します。
ディン神父さま有難う御座いました!

1番目の写真はミサの様子です。
2、3番目の写真は聖なるパン片を配っているのディン主任司祭様の写真です。
右で聖なるパン片を配っているのはベトナム出身のディン助祭さんです。
ディン助祭さんは9月23日に叙階して正式に神父になったのです。
4、5番目の写真は77歳以上の信者の敬老の昼食会の風景です。
食後、聖歌を少しだけ歌いました。5番目の写真にはギターで伴奏しているディン主任司祭が写っています。小金井で7年余り主任司祭をして下さっていますが、ギターがお上手とははじめて知りました。









参考資料:http://catholic-i.net/koramu/%E3%80%8C%E5%B0%8E%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%A6%EF%BC%8D%E5%8F%B8%E7%A5%AD%E5%8F%99%E9%9A%8E25%E5%B9%B4%E3%81%AB%E6%84%9F%E8%AC%9D%E3%80%8D%E3%83%A8%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3/
「導かれて-司祭叙階25年に感謝」ヨセフ・ディン神父
  召命のきっかけは
 3月8日、司祭叙階25周年を迎えました。司祭の道を考えるきっかけは、生まれ故郷のベトナムの小教区で司牧実習をしていた神学生が、教会学校で子供の僕と遊んでくれたことでした。
 教会の広い前庭でサッカーを楽しんだ後、侍者(祭壇奉仕)や祈り方を指導していただいたおかげで、神学生の道に魅力を感じ、小神学校に入りました。まだ、司祭になろう、という気持ちはなく、「あの神学生のようになりたい」という素朴な気持ちでした。
  難民として日本に
 1975年、ベトナム戦争終結で南北ベトナムが一つの共産主義国となり、教会の施設(学校や病院など)が閉鎖されたり、国有化されたりしました。僕が入っていた小神学校も閉鎖され、家に帰らねばならなくなりました。
 司祭への道に再度、挑戦したい、という強い思いから、小さなボートで国を脱出したのは、1981年㋄29日の真夜中のことです。海の上で3日たち、水も食べ物も無くなった時、日本に向かっていた液化天然ガス(LNG)のタンカーに助けられ、日本に上陸しました。
  粕谷神父との出会い
 日本では、徳島県の造船所で2年ほど働いた後、日本に定住するために品川の国際救援センターに受け入れてもらい、日本語を「あいうえお」から習い始めました。そこで粕谷甲一神父さまとの出会いがあったのです。粕谷神父さまは、毎日曜日にミサを捧げにセンターに来られ、侍者や聖歌の伴奏などのお手伝いを通して、お話しする機会ができました。そして、ちょうど3か月の日本語コースを終えた時、「東京教区の神学生になりたくないか」と声をかけてくださり、数か月後、白柳誠一大司教さまと養成担当司祭の面接を受けるために、関口の司教館に連れて行ってくださったのです。
  白柳大司教のはからいで
 面接の時は、まだ日本語が十分でなく、お2人の質問が全部は聞き取れず、自分の考えも表現しきれませんでした。それでも、気持ちは伝わったので、受け入れていただけたのだと思います。
 東京教区には外国人の司祭がいましたが、教区として外国人神学生を受け入れたのは初めてで、だいぶ戸惑っておられたようです。東京神学院でも、初の外国人神学生の受け入れとなり、日本語で授業を受けられなかった僕のために日本語学校を探したり、神学院での生活に早く慣れるように色々気を配ったりしていただきました。
 今振り返ってみれば、「感謝でいっぱい」の一言に尽きます。
 もし粕谷神父さまに出会わなかったら、もし白柳大司教さまがおられなかったら、僕は東京教区の神学生になり、東京教区の司祭になることができなかったかも知れません。お2人とも留学され、外国での生活を経験されていたこともあり、お1人は僕に司祭にならないか、と声をかけ、もうお1人は僕が司祭になることを受け入れてくださったのだ、と思います。神は、お2人を通して、僕を助け、導いてくださったので、今、小金井教会で皆さんのために働き、皆さんと共に叙階25周年のお恵みをいただくことができました。ほんとうに感謝しております。