後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本における砂糖の歴史と美しい和菓子

2017年10月12日 | 日記・エッセイ・コラム

(写真の出典は、http://m.noa195.net/sima/gallery49/index.phpです。)
1番目の写真はサトウの原料にするサトウキビの沖縄における栽培風景です。

砂糖は人間の食べもに夢を与えます。人間がこの世に現れると甘い美しい天然の果実を食べていたことは現在の猿たちの果物好きから想像できます。
砂糖はおもにサトウキビとテンサイからつくりますが、日本では奈良、平安の時代には枕草子にあるように甘蔦(あまづら)を削った氷にかけたりして楽しんでいました。蔓性の植物の樹液をを煮詰めて作っていたのです。
ところが驚くべきことにサトウキビから砂糖を作る方法は紀元前6000年頃に既に北インドで使われていたのです。
サトウキビを絞ってその甘い液体を煮詰めて黒砂糖を作ります。黒砂糖を精製して真っ白い砂糖にします。この方法で作った砂糖を始めて日本へもたらしたのが唐招提寺を建てた鑑真和尚だと言われています。その後、遣唐使が中国から砂糖を持ち帰ったことは正倉院の記録にも明記してあります。
しかし当時はほんの少しの砂糖を遣唐使が唐から持ち帰り、一握りの貴人たちだけが味見をしたに過ぎません。
一般の人々は甘い干し柿や熟した自然の果実をたべて甘さを楽しんでいたのです。
甘蔦からとった「あまづら」は上流階級しか味わえなかったのです。この「あまづら」のつくりかたと味わいは検索すると出ています。
さて日本へサトウキビで作った砂糖が広まったのは何時からでしょうか?
それは江戸時代の初めころの1623年以後のことです。
その年に琉球王国が中国からサトウキビの栽培方法と黒砂糖の製造方法を導入してからです。現在、沖縄では何処に行っても、上の1番目の写真のようにサトウキビ畑が広大に茂っています。琉球王国の産業が現在も伝承されているのです。
しかし琉球王国は薩摩藩の支配も受けていたのです。薩摩藩は琉球の黒砂糖を大阪や江戸へ運び莫大な利益を得たのです。
砂糖は長崎の出島でも輸入され大阪の問屋へ送られたのです。
江戸幕府は財政の安定のために全国へサトウキビの栽培を奨励したのでしす。しかしサトウキビは九州や四国では生育しますが本州では無理でした。
四国の高松藩と徳島藩は特に熱心に黒砂糖を生産し、更にその黒砂糖を独特の精製法で白くして「和三盆」という上品な味の砂糖を作ったのです。
現在、徳島県で生産されている和三盆を阿波和三盆糖といい、香川県で生産されている和三盆を讃岐和三盆糖と呼ばれています。
現在、日本で日常の料理に使う砂糖はサトウキビやテンサイから工業的に抽出し精製した安価な白砂糖か、あるいは澱粉を糖化した砂糖です。
一方、和三盆は上質な和菓子を作るとき使用します。
それでは和三盆を使った美しい和菓子の写真をお贈りして今日の記事の終わりといたします。
和菓子の写真の出典は、スタッフブログ: 田町梅月 ―静岡県浜松市の御菓子処、http://www.tamachi-baigetsu.co.jp/staff_blog/archives/2013_04.html です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)












====参考資料=====================
日本に砂糖が伝えられたのは中国から;
(http://www.alic.go.jp/koho/kikaku03_000078.html より)
我が国における砂糖の歴史は古く、鑑真和上が伝えたという説もありますが、遣唐使によって中国からもたらされたものと考えられています。
日本における砂糖の最初の記録は、「正倉院」献納目録の「種々薬帖」の中に「蔗糖二斤一二両三分并椀」の記録があります(825年)。当時は大変な貴重品であったため、ごく一部の上流階級が用い、それも食用ではなく、むしろ薬用でした。その後、鎌倉時代末頃から大陸貿易が盛んになり、砂糖の輸入も増加しました。1543年にポルトガル人が種子島に上陸し、砂糖を原料としたカステラ、コンペイトウなどの南蛮菓子をもたらしましたが、当時の大陸貿易の品目の中では生糸、絹織物、綿織物に次ぐ重要輸入品が砂糖でした。
日本での砂糖の製造;
さとうきび:
江戸時代の初期、最初に砂糖の製造を始めたのは当時の琉球(沖縄県)でした。1623年に琉球の儀間真常が中国に使いを出し、砂糖の製造方法を学ばせ黒糖を製造したと言われています。その後、琉球をはじめ奄美大島、喜界島、徳之島おいても、さとうきびは製造増産され、管轄していた薩摩藩に莫大な収益をもたらしました。
 当時は鎖国状態であったため、貿易の窓口である長崎の出島に限定して陸揚げされた砂糖のほとんどが、中央市場である大阪の問屋(当初は薬種問屋のちに砂糖問屋)へ運ばれ、そこから江戸や諸国の問屋へ出荷されていきました。
幕府は砂糖の国産化の方針を打ち出し サトウキビの作付けを全国に奨励します。江戸時代の中期以降、さとうきび栽培は、西南日本の気候温暖な地域において積極的に取り入れられ「和糖業」として広まっていきました。1798年に讃岐(香川県)の砂糖(和三盆)が始めて大阪の中央市場に登場します.
和三盆とは:(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86)
徳川吉宗が享保の改革において全国にサトウキビの栽培を奨励すると、高松藩が特産物創生と財源確保を目的としてこれに呼応した。
その後、徳島藩でもサトウキビが育てられるようになり、領内各地で栽培できるまでなった。しかし精糖の方法については不明だったため、他国における秘伝扱いの情報を収集し、高松藩とほぼ同時期の1700年代末に精糖方法を確立させた。徳島県で生産されている和三盆を阿波和三盆糖、香川県で生産されている和三盆を讃岐和三盆糖と呼ぶ。
和三盆は貴重な特産品として諸国へ売りに出され、全国の和菓子や郷土菓子の発展に大いなる貢献を果たした。