おはようございます。今日は日曜日の朝ですので宗教の話を少しだけいたします。
佛教の顕教と密教の以下の説明は理解が難しいが、新約聖書は読めば分かるという話を書きます。
まずご通読下さい。
・・・顕教とは、仏教の中で、秘密にせず明らかに説かれた教えのことです。密教の反対語です。真言宗の開祖である空海が、密教が勝れているという優位性の観点から分類した仏教の解釈の一つです。
そして空海は、顕教と密教を次のように区別したのです。
顕教とは、衆生を教化するために姿を現した釈迦如来が、秘密にすることなく明らかに言葉で説明した教えなのです。
それに対して密教とは真理そのものの姿で容易に理解出来ない大日如来が説明した教えで、その奥深い教えである故に言葉では容易に説明出来ない神秘的な教えのことです。
そして空海の解釈では、経典をそれぞれ次のように位置づけたのです。
顕教の経典は、 『華厳経』・『法華経』・『般若経』(一部を除く)・『涅槃経』などです。
そして密教の経典は、 『大日経』・『金剛頂経』・『理趣経』などなのです。
一方最澄や弟子の円仁らは、中国の天台宗とは趣を異にした日本独自の天台教学の確立を目ざし、『法華経』を核にし、他の仏教の経典を含んだ『四宗兼学』という立場から密教を説いています。・・・
如何でしょうかお分かりになったでしょうか?
さて以下に新約聖書の数カ所を示します。
・・「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは,世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな,またおじけるな。」ヨハネ14:27、
「弟子たちはイエスに尋ねて言った,『先生,この人が生れつき盲人なのは,だれが罪を犯したためですか。本人ですか,それともその両親ですか』。
イエスは答えられた,『本人が罪を犯したのでもなく,また,その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが,彼の上に現れるためである。』」ヨハネ9:2-3、
「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである」。マタイ11:28-30、
「イエスは,すべての町々村々を巡り歩いて,諸会堂で教え,御国の福音を宣べ伝え,あらゆる病気,あらゆるわずらいをおいやしになった。」マタイ9:35、
「患難をも喜んでいる。なぜなら,患難は忍耐を生み出し,忍耐は練達を生み出し,練達は希望を生み出すことを,知っているからである。そして,希望は失望に終わることはない。なぜなら,わたしたちに賜っている聖霊によって,神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」ローマ5:3-5・・・
如何でしょうか?普通の日本人なら読めば何が書いてあるか簡単に分かるのではないでしょうか?
密教と顕教とは簡単に言ってしまえば、密教は言葉では説明出来ないお釈迦様の教えであり、修行をすることで初めて理解出来る教えなのです。一方顕教は言葉で説明のつく教えであり、別に修行をしなくても理解出来る教えのことです。
今日は佛教は理解し難いがキリスト教の新約聖書は平易で理解しやすいということを主張しようとしたのではなかったのです。
本当の目的はキリスト教にも言葉では説明のつかない奥深い教えがあるということを言いたかったのです。
毎週、日曜日に遊びに行かないで教会に通い続けていると神の深い愛が実感的に理解できるのです。
より本格的な修行とは修道院に入れば出来ると思います。修道士さんたちは普通の信者よりも深い理解をしているのです。毎週教会に通い続けていると修道士さん達の深い理解が想像出来るようになるのです。
今日の主張はどんな宗教でも密教的な信仰が非常に重要なのだということです。
浅学菲才の私にとっては空海の論の全てを理解することは不可能です。
しかし真言密教の重要さは何となく分かります。私はカトリックの信者ですが、空海様、弘法大師さまを尊敬しています。
今日の挿し絵代わりの写真は真鶴道路から見た海の風景写真と真鶴港のヨットの風景写真です。9月29日に撮った写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)