こんにちは。毎日、ご気分よくお過ごしでしょうか?
今日はまず美しい水蓮の花々の写真をお送りいたします。先日、神代植物公園の温室で撮ったものです。熱帯では、水蓮の花が年中いつでも咲いているのでしょうか?この温室では季節に関係無く、何時行っても色とりどりの花々が咲いています。
写真の花々の色合いをお楽しみ頂けたら嬉しくおもいます。
さて、キリスト教は1549年にザビエルによって日本に伝えられました。それから468年がたちました。
この長い年月にもかかかわらず、日本人にとってはキリスト教とはどんな宗教なのか簡単には理解できません。
それまで馴染んで来た仏教や神道とはあまりにも違うからです。
そこで2017年10月27日 に掲載した「キリスト教を簡単に理解する方法」という記事では、仏教と比較しながら説明をしました。
それでも分かり難かったかも知れません。
そこで現在の日本人の常識にしたがってキリスト教の理解し難い点を幾つか説明したいと存じます。幾つかの分かり難い点を説明して行けばやがて全体像が明快に見えて来るのではないでしょうか?
断片的に思い付く話題を出しますので、体系的でもありませんし、学問的でもありません。
今日は「何故、キリストは死刑になったか?」という疑問を説明したいと思います。
結論を先に書けば、イエスが従来のユダヤ教の指導者達を馬鹿にしたからです。怒ったユダヤ教の保守的な指導者達がイエスを捕まえて裁判にかけて十字架の死刑に処したのです。
この事件は西洋社会に2000年も続いたユダヤ人の差別と迫害の原因になったのです。それは大変重大な事件だったのです。
その直接的な原因となったイエスがユダヤ教の指導者達を馬鹿にした場面は新約聖書に書いてあるのです。
それはマタイによる福音書の第23章の冒頭に明示してあります。私の勝手な意訳と説明を付けた文章を以下に示します。
・・・イエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、「ユダヤ教の保守的な指導者達の律法学者とパリサイ人は、モーセのような宗教上には正しい座にすわっている。 だから、彼らがあなたがたに言っていることだけは、みな守って実行しなさい。
しかし、彼らの行為には、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないからです。
一般信者へ重い荷物を肩にのせるだけです。しかしその重い荷物を動かすために、保守的な指導者達は自分の指一本も貸そうとはしないのです。
保守的な指導者達のすることは、すべて他人へ見せるためだけなのです。すなわち、彼らは儀式に使う道具をきらびやかに作り、法衣のふさ飾りを大きくします。そして、宴会では必ず上座に着き、会堂の上席を好みます。
保守的な指導者達は常に広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいます。
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとり、神だけであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。
また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である神だけである。
また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。(この文章はマタイが書いているのです)
そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。
保守的な指導者達の偽善的な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々を入らせない。自分も入らないし、入ろうとする人を入らせもしない。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見栄のために長い祈をする。だから、もっと厳しいさばきを受けるに違いない。・・・
どうでしょうか?以上を読めば保守的な指導者達の律法学者、パリサイ人たちと、彼等に扇動された群衆がイエスを捕まえた事情がご理解出来たと思います。そして、ローマ総督の裁判で死刑の判決を受けたのです。当時の中東はローマ帝国の支配地だったのです。
重大な事件の裁判権はローマから派遣される総督が持っていたのです。
常識的に言えばイエスの処刑はユダヤ教の中の権力争いの結果だったのです。
しかし皆様はユダヤ教の保守的な指導者達の律法学者を好きになれますか?彼等と同じような指導者は仏教の僧侶にもいますね。困ったものですね。
一方、日本の常識でも次のイエスの言葉には納得するでしょう。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」 、そして「常に広場であい挨拶されることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいます」・・・これらのことは世界中に共通しますね。それでこの教えがユダヤ教が民族宗教から世界宗教へ脱皮した一つの原因になっているのです。他にも原因がいろいろありますが、いずれ取り上げて行きます。
こういう教えがキリスト教なのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
今日はまず美しい水蓮の花々の写真をお送りいたします。先日、神代植物公園の温室で撮ったものです。熱帯では、水蓮の花が年中いつでも咲いているのでしょうか?この温室では季節に関係無く、何時行っても色とりどりの花々が咲いています。
写真の花々の色合いをお楽しみ頂けたら嬉しくおもいます。
さて、キリスト教は1549年にザビエルによって日本に伝えられました。それから468年がたちました。
この長い年月にもかかかわらず、日本人にとってはキリスト教とはどんな宗教なのか簡単には理解できません。
それまで馴染んで来た仏教や神道とはあまりにも違うからです。
そこで2017年10月27日 に掲載した「キリスト教を簡単に理解する方法」という記事では、仏教と比較しながら説明をしました。
それでも分かり難かったかも知れません。
そこで現在の日本人の常識にしたがってキリスト教の理解し難い点を幾つか説明したいと存じます。幾つかの分かり難い点を説明して行けばやがて全体像が明快に見えて来るのではないでしょうか?
断片的に思い付く話題を出しますので、体系的でもありませんし、学問的でもありません。
今日は「何故、キリストは死刑になったか?」という疑問を説明したいと思います。
結論を先に書けば、イエスが従来のユダヤ教の指導者達を馬鹿にしたからです。怒ったユダヤ教の保守的な指導者達がイエスを捕まえて裁判にかけて十字架の死刑に処したのです。
この事件は西洋社会に2000年も続いたユダヤ人の差別と迫害の原因になったのです。それは大変重大な事件だったのです。
その直接的な原因となったイエスがユダヤ教の指導者達を馬鹿にした場面は新約聖書に書いてあるのです。
それはマタイによる福音書の第23章の冒頭に明示してあります。私の勝手な意訳と説明を付けた文章を以下に示します。
・・・イエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、「ユダヤ教の保守的な指導者達の律法学者とパリサイ人は、モーセのような宗教上には正しい座にすわっている。 だから、彼らがあなたがたに言っていることだけは、みな守って実行しなさい。
しかし、彼らの行為には、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないからです。
一般信者へ重い荷物を肩にのせるだけです。しかしその重い荷物を動かすために、保守的な指導者達は自分の指一本も貸そうとはしないのです。
保守的な指導者達のすることは、すべて他人へ見せるためだけなのです。すなわち、彼らは儀式に使う道具をきらびやかに作り、法衣のふさ飾りを大きくします。そして、宴会では必ず上座に着き、会堂の上席を好みます。
保守的な指導者達は常に広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいます。
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとり、神だけであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。
また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である神だけである。
また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。(この文章はマタイが書いているのです)
そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。
保守的な指導者達の偽善的な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々を入らせない。自分も入らないし、入ろうとする人を入らせもしない。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見栄のために長い祈をする。だから、もっと厳しいさばきを受けるに違いない。・・・
どうでしょうか?以上を読めば保守的な指導者達の律法学者、パリサイ人たちと、彼等に扇動された群衆がイエスを捕まえた事情がご理解出来たと思います。そして、ローマ総督の裁判で死刑の判決を受けたのです。当時の中東はローマ帝国の支配地だったのです。
重大な事件の裁判権はローマから派遣される総督が持っていたのです。
常識的に言えばイエスの処刑はユダヤ教の中の権力争いの結果だったのです。
しかし皆様はユダヤ教の保守的な指導者達の律法学者を好きになれますか?彼等と同じような指導者は仏教の僧侶にもいますね。困ったものですね。
一方、日本の常識でも次のイエスの言葉には納得するでしょう。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」 、そして「常に広場であい挨拶されることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいます」・・・これらのことは世界中に共通しますね。それでこの教えがユダヤ教が民族宗教から世界宗教へ脱皮した一つの原因になっているのです。他にも原因がいろいろありますが、いずれ取り上げて行きます。
こういう教えがキリスト教なのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)