山梨県は昔甲斐の国と呼ばれていました。現在この甲斐は紅葉まっさかりです。
一昨日は甲府市内のある旅館に泊り、二日間、周辺のいろいろな場所に行って紅葉の写真を撮って来ました。
そこで以下のように連載記事にして順にお送りしたいと思います。
(1)昇仙峡の紅葉、(2)甲斐駒山麓の雑木林の紅葉、(3)七里が岩の紅葉(4)武田神社の紅葉、(4)山梨県立美術館の紅葉。
さて今日は「修験道の昇仙峡と紅葉」をお送りします。
甲斐のくには険しい山が沢山ありますので昔から修験道が盛んでした。皆様よくご存知の富士山の他に、白い花崗岩の姿の美しい瑞牆山(みずがき山)や地蔵岳や金峰山などなどがあります。
昇仙峡はその源流にある金峰山へ登る道筋として多数の修験者たちが白装束で歩いた道です。
その道には覆いかぶさるように聳え立つ岩山が続いているのです。
その岩山の神秘的な姿は此の世のものではありません。別世界に足を踏み入れたと感じるのです。
修験道とは大昔からあった山岳信仰に空海の密教が混淆した日本独自の信仰です。
そんな昔の修験者たちの白装束の行列を想像しながら紅葉の写真を撮って来ました。
1番目の写真は覚円峰です。昇仙峡を代表する岩峰でほぼ垂直に屹立する高さ約180mの巨岩です。
その昔、僧侶覚円が畳が数畳敷ける広さの頂上で修行したことが、その名の由来です。
2番目の写真は覚円峰の対岸にある天狗岩です。
江戸時代後期に成立した『甲斐国志』では、この岩峰の下の道は玉塁と称されていた金峰山に至る道になっていました。古くからの信仰の道だったので、付近の洞窟には修験者の修行跡や刻字が残り、また空海の伝説も伝わっておるそうです。
3番目の写真は日本の滝百選に選ばれた仙娥滝の上の山の紅葉です。
昇仙峡は1923年(大正12年)に国の名勝に指定され、1953年(昭和28年)には特別名勝に指定されています。
昇仙峡は入り口の長潭橋から仙娥滝までの全長約5キロメートルに亘る渓谷です。渓谷内には、柱状節理の花崗岩および輝石安山岩の奇岩が至る所にあります。
4番目の写真は昇仙峡を過ぎてさらに荒川ダムへ登って行く道の紅葉です。
5番目の写真は荒川ダムに着いた所にあった紅葉です。このダムは甲府市内を流れる荒川の上流にあり甲府市の水道水になっています。
6番目の写真はダム湖に映る紅葉の写真です。美しかったので長い間眺めていました。
7番目の写真はダム湖の対岸の紅葉と陽にきらめく水面の写真です。
昇仙峡は紅葉の頃によく行きました。派手なホテルや都会風のレストランが無く静かな観光地です。入り口の長瀞橋を渡ると広い無料駐車場がありますので、そこに車を置き、観光馬車で渓谷の道を登ったこともありました。
さらに車で上の方に登ると広い県営の無料駐車場があり、そこに車を置き、仙娥滝まで下りて行ったこともあります。
紅葉はまだまだ美しいので是非一度お出掛け下さい。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料======================
昇仙峡の山岳信仰としての歴史、
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%87%E4%BB%99%E5%B3%A1 )
金峰山信仰と昇仙峡
昇仙峡を含む奥秩父山塊には甲信国境に金峰山があり、古来から山岳信仰が広まり、甲府方面から昇仙峡を通過し金峰山頂に至る吉沢口など修験道の道として御嶽道が存在していた。
金峰山信仰は近世にも展開され、御嶽道は甲府方面の南口のみならず東口・西口方面からも山口九所と呼ばれる登拝口が整備され、いずれも昇仙峡を通過する街道として整備された。また、近世初頭には甲州街道が整備され甲斐には江戸から多くの文人が往来し、昇仙峡は地誌類を通じて山岳信仰のみならず甲斐の名所として広まった。
御岳新道(渓谷沿いの観光ルート)の開削と観光開発[編集]
江戸時代に荒川上流の猪狩村(甲府市猪狩町)と周辺諸村は製炭が盛んで、甲府城下へ薪炭を販売するために御岳道(外道)を通過していた。御岳道は荒川西岸の難路であったため、荒川沿いの新道の開発が望まれていた。
御岳新道は天保14年(1843年)には完成しており、この御岳新道は現在の渓谷沿いの観光ルートとしても利用される。
昇仙峡を描いた絵画資料として『甲州道中図屏風』がある。『甲州道中図屏風』は幕末期の嘉永4年(1851年)から慶応3年(1867年)にかけて作成され、本来は巻子状であったものが近代に順不同で屏風絵に仕立て直されたと考えられている。作者は不明であるが武士であり、高尾山・身延山久遠寺の参詣、武田氏に関する史跡来訪を目的とした旅で、時期は8月下旬であると推定されている。
一昨日は甲府市内のある旅館に泊り、二日間、周辺のいろいろな場所に行って紅葉の写真を撮って来ました。
そこで以下のように連載記事にして順にお送りしたいと思います。
(1)昇仙峡の紅葉、(2)甲斐駒山麓の雑木林の紅葉、(3)七里が岩の紅葉(4)武田神社の紅葉、(4)山梨県立美術館の紅葉。
さて今日は「修験道の昇仙峡と紅葉」をお送りします。
甲斐のくには険しい山が沢山ありますので昔から修験道が盛んでした。皆様よくご存知の富士山の他に、白い花崗岩の姿の美しい瑞牆山(みずがき山)や地蔵岳や金峰山などなどがあります。
昇仙峡はその源流にある金峰山へ登る道筋として多数の修験者たちが白装束で歩いた道です。
その道には覆いかぶさるように聳え立つ岩山が続いているのです。
その岩山の神秘的な姿は此の世のものではありません。別世界に足を踏み入れたと感じるのです。
修験道とは大昔からあった山岳信仰に空海の密教が混淆した日本独自の信仰です。
そんな昔の修験者たちの白装束の行列を想像しながら紅葉の写真を撮って来ました。
1番目の写真は覚円峰です。昇仙峡を代表する岩峰でほぼ垂直に屹立する高さ約180mの巨岩です。
その昔、僧侶覚円が畳が数畳敷ける広さの頂上で修行したことが、その名の由来です。
2番目の写真は覚円峰の対岸にある天狗岩です。
江戸時代後期に成立した『甲斐国志』では、この岩峰の下の道は玉塁と称されていた金峰山に至る道になっていました。古くからの信仰の道だったので、付近の洞窟には修験者の修行跡や刻字が残り、また空海の伝説も伝わっておるそうです。
3番目の写真は日本の滝百選に選ばれた仙娥滝の上の山の紅葉です。
昇仙峡は1923年(大正12年)に国の名勝に指定され、1953年(昭和28年)には特別名勝に指定されています。
昇仙峡は入り口の長潭橋から仙娥滝までの全長約5キロメートルに亘る渓谷です。渓谷内には、柱状節理の花崗岩および輝石安山岩の奇岩が至る所にあります。
4番目の写真は昇仙峡を過ぎてさらに荒川ダムへ登って行く道の紅葉です。
5番目の写真は荒川ダムに着いた所にあった紅葉です。このダムは甲府市内を流れる荒川の上流にあり甲府市の水道水になっています。
6番目の写真はダム湖に映る紅葉の写真です。美しかったので長い間眺めていました。
7番目の写真はダム湖の対岸の紅葉と陽にきらめく水面の写真です。
昇仙峡は紅葉の頃によく行きました。派手なホテルや都会風のレストランが無く静かな観光地です。入り口の長瀞橋を渡ると広い無料駐車場がありますので、そこに車を置き、観光馬車で渓谷の道を登ったこともありました。
さらに車で上の方に登ると広い県営の無料駐車場があり、そこに車を置き、仙娥滝まで下りて行ったこともあります。
紅葉はまだまだ美しいので是非一度お出掛け下さい。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料======================
昇仙峡の山岳信仰としての歴史、
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%87%E4%BB%99%E5%B3%A1 )
金峰山信仰と昇仙峡
昇仙峡を含む奥秩父山塊には甲信国境に金峰山があり、古来から山岳信仰が広まり、甲府方面から昇仙峡を通過し金峰山頂に至る吉沢口など修験道の道として御嶽道が存在していた。
金峰山信仰は近世にも展開され、御嶽道は甲府方面の南口のみならず東口・西口方面からも山口九所と呼ばれる登拝口が整備され、いずれも昇仙峡を通過する街道として整備された。また、近世初頭には甲州街道が整備され甲斐には江戸から多くの文人が往来し、昇仙峡は地誌類を通じて山岳信仰のみならず甲斐の名所として広まった。
御岳新道(渓谷沿いの観光ルート)の開削と観光開発[編集]
江戸時代に荒川上流の猪狩村(甲府市猪狩町)と周辺諸村は製炭が盛んで、甲府城下へ薪炭を販売するために御岳道(外道)を通過していた。御岳道は荒川西岸の難路であったため、荒川沿いの新道の開発が望まれていた。
御岳新道は天保14年(1843年)には完成しており、この御岳新道は現在の渓谷沿いの観光ルートとしても利用される。
昇仙峡を描いた絵画資料として『甲州道中図屏風』がある。『甲州道中図屏風』は幕末期の嘉永4年(1851年)から慶応3年(1867年)にかけて作成され、本来は巻子状であったものが近代に順不同で屏風絵に仕立て直されたと考えられている。作者は不明であるが武士であり、高尾山・身延山久遠寺の参詣、武田氏に関する史跡来訪を目的とした旅で、時期は8月下旬であると推定されている。