後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

人生と旅(3)遥かな田舎道で受けた温情

2017年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム
遠い外国の田舎道で、通りかかった見知らぬ人に受けた温情の話です。その思い出は私の人生を豊かにしてくれたのです。
あれは1962年の春の事でした。オハイオのコロンバスで、私共は赤子を抱え、とても貧乏な生活をしていました。貧乏なだけでなく私は厳しい勉強と夜遅くまでの実験で遊ぶ暇がありません。
たった一つの贅沢は週末に中古の大きな車で農村地帯を家族と一緒にドライブすることでした。
車はダッチ・コルネットという6年前の中古の大型車でした。クリーム色と空色のツートンカラーの乗り心地の良い車でした。
ある春の日に少し足を延ばして有名なオハイオキャバーンという鍾乳洞を見に行ったのです。それは大規模な鍾乳洞で美しい鍾乳石が沢山垂れ下っています。不思議なことに広大なトーモロコシ畑の地下に大きな鍾乳洞の空間が広がっているのです。地上はまったくの平野で、山も洞窟も一切無いのです。
ですからその鍾乳洞に入るには1番目の写真にあるような建物に入り、入場券を買ってから地下へと続く階段を下りて行きます。
鍾乳洞の光景は写真に示したように、いろいろな形と色合いの鍾乳石が照明に輝き、それは美しかったのです。
その帰りの田舎道で突然、車が止まってしまったのです。車は中古だったので、それまでハンドルが震えたりオイルが漏れたりしていました。そんないろいろな故障を直しながら乗っていたのです。ところが今回はエンジンがいきなり止まってしまって、ウンともスンとも言いません。ボンネットを上げて見ましたがエンジンにはこれといった異常が見えません。このような故障は始めてです。
静かになった広いトーモロコシ畑の上空でヒバリが鳴いています。その声が気のせいか不吉に聞こえるのです。
そこは人家が見えない場所です。車の通らない細い田舎道です。
車内には離乳食をやっと食べ始めた赤ん坊と心配そうにしている妻がいます。
私は妻にすぐ誰かが助けてくれるよと陽気に話しました。
しかし30分待っても誰も来ません、50分待っても誰も来ません。私も妻も心配で顔色が変わっています。
その時です。一台の車が来たのです。その車は迷うことなく私の車の後ろにピタリと止まります。
車から出て来たのは35歳くらいの男です。私はトラクターで畑を耕しているから車の故障はなんとか直せるよと言いながらエンジンを見てくれました。ダメだ。このエンジンは私の手では動かせないと言って、牽引用のロープを持ち出して来ました。
牽引されている間は前の車のブレーキランプが点いたら、自分もブレーキを踏むんだよと私に教えるといきなり牽引し始めました。
そこから10km位離れた村の修理屋さんまで引っ張って行ってくれたのです。
修理している間、彼は私達を見守っていてくれたのです。その時気が付いたのですが、彼の車にも奥さんと子供が乗っていたのです。
故障は15分位で直ってしまいました。エンジンへ電気を供給するデストリビューターにヒビが入り、割れかけていたのです。デストリビューターだけ交換して直ってしまったのです。
彼は私の車のエンジンが動き出すとすぐに帰って行きました。お礼の言葉も聞かずに帰って行きました。
幸い修理している間に妻が彼の名前と住所を書いて貰っていました。後日、妻が御礼状と感謝の品を送りました。そうしたら彼の奥さんから丁寧なお礼の手紙が来ました。
これだけの話ですが、この温情が家内と私の一生の財産になったのです。
この一年前に私は日本から婚約者を呼びコロンバスで結婚しました。その折にはセント・ピエール先生と奥様に結婚式の準備を全てして貰いました。同級生の奥さん達も私の妻へ対してとても優しくしてくれました。その思い出はやはり家内と私の一生の財産なのです。
しかしオハイオの田舎道で助けてくれた人は全くの見ず知らずです。私共とは何の関係も無い人です。この世では一度しか会わない人です。それなのに彼は躊躇なく、当たり前のことをするように困っていた私達を助けてくれたのです。
これは善い意味で衝撃的な体験でした。
はるばる遠くに旅をしたおかげで家内と私は一生の財産を頂いたのです。
この思い出を私共は大切ににしています。時々思い出して話合いながら感謝しているのです。
考えようによっては小さな出来事ですが、感謝して生涯忘れません。

皆様にも必ず似たようなご経験があると信じています。是非、お聞かせ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







===参考資料===================
オハイオ・キャバーンが1897年に発見された時のいきさつです。
Ohio Caverns;https://en.wikipedia.org/wiki/Ohio_Caverns
Discovery:
The tunnel system known today as the Ohio Caverns was discovered August 17, 1897 by Robert Noffsinger, a farmhand who worked on the land. A sinkhole had been forming on land owned by Abraham William Reams over a period of about 10 years. In August 1897, this sink hole measured 50 feet across by 10 feet deep. One particular night, the sinkhole was filled completely with water during a hard rain. By morning, the water was completely gone. Reams reported to the local newspaper that he lost "several hundred barrels of water." Reams had recently hired Robert Noffsinger, a young man from Virginia, to work on his farm. By Reams' orders, Noffsinger and Jordan Reams (unknown relation to William Reams) began to dig in the sinkhole. Noffsinger dug a few feet of soil until he hit the top of the ground's limestone layer. After finding a crack in the limestone, Noffsinger broke through this rock as well. Immediately feeling the caverns' 54 °F (12 °C) air, Noffsinger was even more curious. He lowered himself into the caverns and became the first living creature inside of the Ohio Caverns system.

私は南米に移民した友人の悲しみが忘れられない

2017年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム
どうも年をとるといけません。昔の小学校や中学校の友達のことがしきりに懐かしく思い出されるのです。その一人に水元君という中学校の友がいました。戦争未亡人の母と2人だけで仙台市の霊屋下(おたまやした)という町に住んでいました。家に遊びに行くと母は働いていて水元君だけが独り淋しそうにしています。その彼が卒業式の前に、「南米へ移民する」と悲しそうに告げたのです。そしてその年の夏に、水元くんは仙台からフッと消えてしまったのです。その後一切音沙汰はありません。
しかし私は彼の悲しそうな顔を終生忘れません。私も悲しかったのです。
そんな思い出があるので、時々、南米へ移民した人々のことが水元君の淋しそうな姿と重なってしまうのです。
そんないきさつがあったのでブラジルに在住している日本人に次のような文章を書いて頂きました。
平峰盛敏著、「ブラジル生活あれこれ(1)19歳で日本から移民して感じたこと」(2017-04-22)
平峰 盛敏 著、「ブラジル生活あれこれ(2) ブラジルは左傾反米思想」(2017-04-29)
平峰盛敏著、「ブラジル生活あれこれ(3)19歳で日本からコチア産業組合の契約移民になる」(2017-05-17)
その上、客船の旅をするために横浜の大桟橋に行くと向こうに移民船としても活躍した氷川丸が係留され一般公開されているのです。

1番目の写真は自分で撮った氷川丸の写真です。私は係留されている氷川丸の内部を何度も見学しました。そして一等客室と移民の乗った3等客室のあまりにも大きな差別に暗い気持ちになったものです。
それはさておき、客船の旅を楽しみにしている家内には言いませんが、私は氷川丸を見るたびに水元君の悲しそうな顔を思い出すのです。客船の出港にはブラスバンドが賑やかな音楽を奏で、デッキの上の人々は楽しそうにシャンパングラスを手にしたり、いい加減なダンスなどしています。
しかし私の脳裏を水元君の顔の映像がかすめるのです。

2番目の写真は横浜を出航する氷川丸です。戦後の南米への移民はこのようにして多くの親類や友人に見送られながら今生の別れをしたのです。
移民たちに交じって1960年以前にアメリカへ留学した日本人もこの氷川丸で渡米したのです。オハイオ州立大学で知り合った福山さんと小林さんもこの氷川丸に乗って、はるばる太平洋を横断したのです。一緒に下宿した黒田さんも移民達と一緒にアルゼンチナ丸に乗って11日を費やしてサンフランシスコへ上陸したと言うのです。

3番目の写真はアルゼンチナ丸の写真です。1962年の勇姿です。パナマ運河の向こうの南米沖で撮った写真です。

中学校を卒業した後、母と2人だけで南米に渡り、音沙汰が無くなった水元君はどんな一生を過ごしたのでしょうか?
ある時、このアルゼンチナ丸や戦後の南米への移民について少しだけ調べてみました。
そうしたら戦前、戦後の移民の歴史をまとめた詳しいブログ記事を見つけたのです。
3番目の写真の出典はこのブログ記事です。そのブログのURLは、http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1571 です。
アルゼンチナ丸での生活の記録が載っているブログです。そしてその後の開拓の様子も報告してあります。
このよう戦後の移民の実態を記録した文献は歴史的に大変貴重な文献と考えられますので末尾にその抜粋をお送りしました。筆者の和田好司さんは早稲田大学海外移住研究会出身で、在学時に農業移住者としてブラジルに船で渡りました。現在、ブラジルに移住して約半世紀です。
このような資料を読みながら南米に渡った水元君の一生を偲んでおります。

さて皆様には南米に行ってしまって音沙汰の無い友人がおありでしょうか?
南米だけではありません。外国に行ってしまって音沙汰の無くなった友人がいますでしょうか?
どうも年をとるといけません。そんな友人のことがしきりに思い出されるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
======『ブラジル戦後移民』 50年の記録 ======
「ブラジル移住半世紀・和田好司」
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/index.php
私たち、あるぜんちな丸第12次航(1962年5月11日サントス港下船)の同船者681名は、平成14年5月11日で40年を迎えました。当時のあるぜんちな丸第12次航の船内新聞「さくら」の編集責任者をしていた私と船内ニュース班の仲間として手伝って呉れた編集員が中心になり船内新聞の40年後の特別号、号外の形で戦後移民40年の移住史の一部を皆で書き残そうとの企画が持ち上がり、出来れば印刷、出版もと考えていましたが、時間的な問題、資金面の問題もありせめて寄稿して頂いた貴重な記録、原稿を大事にし、書き物にして後世に残して置きたいとの切なる願いから、当時のガリ版刷りの船内新聞の一部、黄色くなった名簿、懐かしい写真等を文明の利器PCを使い資料のDIGITAL化による保存を考えついた次第です。これらの無形に近い数多くの資料、写真等を我々同船者全員の資産として共有し、後世に残して行く事、民族の移動、移民、移住問題、個人の人生の選択等に関心を寄せる人達、特に海外に夢を馳せる若い人達に読んで頂ければとの気持ちでこのホーム・ページを開設しました。

平成14年5月にこのHPを正式公開し既に10年5ヶ月の歳月が過ぎました。今年の5月で私たちも着伯50年を迎えました。この50年に及ぶ戦後移住者の定着の過程、移住者としての記録を書き残すという作業は、編集者の私の力不足、時間的制約等に起因して思うような成果が挙がっていませんが、2008年は、日本移民100周年を日本とブラジルの両国で盛大に祝い日伯、特にブラジル社会で日本移民の100年に渡る歴史を認識して頂き、マスコミにも大いに喧伝されました。これからのブラジルに置ける我々日本移民は、200年に向かいどのように生きて行けば良いか問い掛けられる立場にあります。特に2009年にはアマゾン移民の80周年の節目の年に当たり、トメアスー、べレン、マナウスに置いて9月に盛大な式典が行われ在伯県人会主催の『第32回移民のふるさと巡り』の慶祝団232名の一員として参加させて頂き北伯に入られた同船者の皆さんと共にお祝いできたことはブラジルに住む者として大変幸せに思いました。
また昨年、2011は、南伯リオグランデドスール州の戦後移民55周年に当たり8月20日に初めてリオグランデ港に降り立った23人の内、州内に健在の9名の先駆者に州議会よりメダルを送られる式典を日本文化祭に実施しました。
本日、250万回アクセスを記録したのに合わせこのTOP PAGEの一部を書き換える事にしました。同船者仲間、ブラジルの領域を大きく超えて現在では、世界150カ国以上の国々からのアクセスが記録されており、2007年10月11日(水)になんと一日に6575回のアクセスがありました。10年5ヶ月で250万回のアクセスを記録、ブラジル総合サイトとして育って来ており、その管理運営にも大袈裟に云えば社会的な責任も伴うのではないかと身が引締まる思いがしております。

しかしながらアクセス数がどんなに増えようが基本的には同船者681名の戦後移住者としての生き様を書き残して行くという大要は変わりませんが今後はあるぜんちな丸で着伯した多くの仲間(合計11,102人)、ひいては戦後移住者全員、移住と直接関係の無い日本企業短期派遣社員、留学生、研修生、旅行者と幾らかでもブラジルと繋がりの出来た多くの方にブラジルを語って頂きインタネットを通じて少しでもブラジルに関心を持ちブラジルを知りたいとのお気持ちを持たれた時には『私たちの40年!!』にアクセスすればその目的が果たせると云った総合『ブラジル学?』のサイトとして育って行けばと念願しております。更に私達の同船者が入ったボリビア、パラグアイ、アルゼンチンの仲間の様子、それらの国以外の移民の歴史(明治初期のメキシコ榎本移民、ハワイ移民、ペルー移民、戦後のドミニカ移民等)についても記録を集めて行きたいと思います。
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