高齢になると口が不自由になります。歯も悪くなります。たべものも呑み込み難くなります。声もしゃがれます。ろれつが回らなくなり会話が流暢でなくなります。誤嚥やむせることも多くなります。
このような問題に取り組み問題を解決するのが『口腔リハビリテーション・センター』です。
私の住んでいる小金井市には日本歯科大学が作った口腔リハビリのセンターがあります。
この春からこのセンターに通っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/29/c8b3b5de2afe4bb7fa2f3784d836975b.jpg)
1番目の写真にこの日本歯科大学口腔リハビリステーション多摩クリニックの建物の写真を示します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/b1/fbdddd78670ddf75645ce6a696d5b7e5.jpg)
2番目の写真はこのセンターのスタッフの写真です。センター長の菊谷教授は前列の中央に写っています。
この写真の出典は、http://dent-hosp.ndu.ac.jp/nduhosp/tama-clinic/ です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/b1/5fc2a4fc9c1f9e762f7c4066fd7e7545.jpg)
そして3番目の写真は2月以来、10回の咀嚼、嚥下訓練と歯の治療をしてくれた岩渕 信歯科医の写真です。
ここで今年の2月と3月に10回の咀嚼、嚥下訓練を受けた後で、この4月から私の話す言葉を明瞭にする訓練が毎月一回のペース始まりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/dd/ec9e3b3a8523cd994e3ce109f31d93e2.jpg)
4番目の写真にその指導をしてくれる言語聴覚士の橋本久美先生の写真です。
この橋本先生は教育系の有名大学を卒業し、発達障害児童の特殊クラスの先生の資格も取得しています。そして国家資格の言語聴覚士もとっているのです。
言語聴覚士の橋本久美先生の守備範囲は高齢者特有のコミュニケーションの指導だけではありません。
乳幼児・学童期の、「どもってしまう・声がうまく出ない・聞こえが悪いなどによる、発達の遅れ・自閉症・学習障害など」の治療も行っているのです。
この橋本先生の所へは現在45日っくらいの間隔をあけて通っています。
毎日、自宅で口腔の動きの自主訓練をして、その効果を診てもらうのです。
自主訓練は、(1)舌の運動の練習、(2)発音の難しい言葉の朗読、(3)パタカという発生練習、(4)プラスチック板を噛む練習、そして文学作品を2000字位朗読する練習をします。
今迄朗読の練習をした作品は宮沢賢治の「風の又三郎」や「銀河鉄道の夜」の抜粋文や小川未明の童話の「いろいろな花」などでした.
このような古い作品を読むと昔の日本人の生活の様子や感じ方が分かって面白いのです。
今日から夏目漱石の「坊ちゃん」の一部の抜粋文を朗読し始めました。
下にその抜粋を示しますが、東京からはるばる松山の旧制中学校へ坊ちゃんが数学の先生として赴任する時の様子が面白いのです。下の部分は「坊ちゃん」がいよいよ真夏の松山に着いて、とりあえず泊まった宿屋での場面です。
(二) ぶうと云って汽船がとまると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。もっともこの熱さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見つめていても眼がくらむ。事務員に聞いてみるとおれはここへ降りるのだそうだ。見るところでは大森ぐらいな漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。威勢よく一番に飛び込んだ。続づいて五六人は乗ったろう。外に大きな箱を四つばかり積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ戻して来た。陸へ着いた時も、いの一番に飛び上がって、いきなり、磯に立っていた鼻たれ小僧をつらまえて中学校はどこだと聞いた。小僧はぼんやりして、知らんがの、と云った。気の利かぬ田舎ものだ。猫の額ほどな町内の癖に、中学校のありかも知らぬ奴があるものか。ところへ妙な筒っぽうを着た男がきて、こっちへ来いと云うから、尾いて行ったら、港屋とか云う宿屋へ連れて来た。やな女が声を揃えてお上がりなさいと云うので、上がるのがいやになった。門口へ立ったなり中学校を教えろと云ったら、中学校はこれから汽車で二里ばかり行かなくっちゃいけないと聞いて、なお上がるのがいやになった。おれは、筒っぽうを着た男から、おれの革鞄を二つ引きたくって、のそのそあるき出した。宿屋のものは変な顔をしていた。
停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。それから車を傭って、中学校へ来たら、もう放課後で誰も居ない。宿直はちょっと用達に出たと小使が教えた。随分気楽な宿直がいるものだ。校長でも尋ねようかと思ったが、草臥れたから、車に乗って宿屋へ連れて行けと車夫に云い付けた。車夫は威勢よく山城屋と云ううちへ横付けにした。山城屋とは質屋の勘太郎の屋号と同じだからちょっと面白く思った。
何だか二階の楷子段の下の暗い部屋へ案内した。熱くって居られやしない。こんな部屋はいやだと云ったらあいにくみんな塞がっておりますからと云いながら革鞄を抛り出したまま出て行った。仕方がないから部屋の中へはいって汗をかいて我慢していた。やがて湯に入れと云うから、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がった。帰りがけに覗いてみると涼しそうな部屋がたくさん空いている。失敬な奴だ。嘘をつきゃあがった。それから下女が膳を持って来た。部屋は熱つかったが、飯は下宿のよりも大分旨かった。給仕をしながら下女がどちらからおいでになりましたと聞くから、東京から来たと答えた。
膳を下げた下女が台所へいった時分、大きな笑い声が聞えた。くだらないから、すぐ寝たが、なかなか寝られない。熱いばかりではない。騒々しい。下宿の五倍ぐらいやかましい。うとうとしたら清(きよ)の夢を見た。清が越後の笹飴を笹ぐるみ、むしゃむしゃ食っている。笹は毒だからよしたらよかろうと云うと、いえこの笹がお薬でございますと云って旨そうに食っている。おれがあきれ返って大きな口を開いてハハハハと笑ったら眼が覚めた。下女が雨戸を明けている。相変らず空の底が突き抜けたような天気だ。
道中(どうちゅう)をしたら茶代をやるものだと聞いていた。茶代をやらないと粗末に取り扱われると聞いていた。こんな、狭くて暗い部屋へ押し込めるのも茶代をやらないせいだろう。見すぼらしい服装(なり)をして、ズックの革鞄と毛繻子(けじゅす)の蝙蝠傘を提げてるからだろう。田舎者の癖に人を見括(みくび)ったな。一番茶代をやって驚かしてやろう。おれはこれでも学資のあまりを三十円ほど懐に入れて東京を出て来たのだ。汽車と汽船の切符代と雑費を差し引いて、まだ十四円ほどある。みんなやったってこれからは月給を貰うんだから構わない。田舎者はしみったれだから五円もやれば驚ろいて眼を廻すに極っている。どうするか見ろと済して顔を洗って、部屋へ帰って待ってると、夕べの下女が膳を持って来た。盆を持って給仕をしながら、やににやにや笑ってる。失敬な奴だ。顔のなかをお祭りでも通りゃしまいし。これでもこの下女の面(つら)よりよっぽど上等だ。飯を済ましてからにしようと思っていたが、癪に障ったから、中途で五円札を一枚出して、あとでこれを帳場へ持って行けと云ったら、下女は変な顔をしていた。それから飯を済ましてすぐ学校へ出懸けた。靴は磨いてなかった。
[そしてその日の夕方に中学から宿屋に帰ってみると以下のようにことになっていたのです]
・・・帳場に坐っていたかみさんが、おれの顔を見ると急に飛び出してきてお帰りと板の間へ頭をつけた。靴を脱いで上がると、お座敷があきましたからと下女が二階へ案内をした。十五畳の表二階で大きな床とこの間がついている。おれは生れてからまだこんな立派な座敷へはいった事はない。この後いつはいれるか分らないから、洋服を脱いで浴衣ゆかた一枚になって座敷の真中まんなかへ大の字に寝てみた。いい心持ちである。・・・以下省略。
明治は遠くなりにけりと言いますが、本当に昔だったのですね。・・・見るところでは大森ぐらいな漁村だ。・・・というところを見ると明治時代の大森は漁村だったのですね。その頃は渋谷は渋谷村という農村だったとも聞きます。
それから日本は戦争をして大変なことになったのです。
「坊ちゃん」を読み、その後の日本の運命を想うと感慨無量です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
このような問題に取り組み問題を解決するのが『口腔リハビリテーション・センター』です。
私の住んでいる小金井市には日本歯科大学が作った口腔リハビリのセンターがあります。
この春からこのセンターに通っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/29/c8b3b5de2afe4bb7fa2f3784d836975b.jpg)
1番目の写真にこの日本歯科大学口腔リハビリステーション多摩クリニックの建物の写真を示します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/b1/fbdddd78670ddf75645ce6a696d5b7e5.jpg)
2番目の写真はこのセンターのスタッフの写真です。センター長の菊谷教授は前列の中央に写っています。
この写真の出典は、http://dent-hosp.ndu.ac.jp/nduhosp/tama-clinic/ です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/b1/5fc2a4fc9c1f9e762f7c4066fd7e7545.jpg)
そして3番目の写真は2月以来、10回の咀嚼、嚥下訓練と歯の治療をしてくれた岩渕 信歯科医の写真です。
ここで今年の2月と3月に10回の咀嚼、嚥下訓練を受けた後で、この4月から私の話す言葉を明瞭にする訓練が毎月一回のペース始まりました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/dd/ec9e3b3a8523cd994e3ce109f31d93e2.jpg)
4番目の写真にその指導をしてくれる言語聴覚士の橋本久美先生の写真です。
この橋本先生は教育系の有名大学を卒業し、発達障害児童の特殊クラスの先生の資格も取得しています。そして国家資格の言語聴覚士もとっているのです。
言語聴覚士の橋本久美先生の守備範囲は高齢者特有のコミュニケーションの指導だけではありません。
乳幼児・学童期の、「どもってしまう・声がうまく出ない・聞こえが悪いなどによる、発達の遅れ・自閉症・学習障害など」の治療も行っているのです。
この橋本先生の所へは現在45日っくらいの間隔をあけて通っています。
毎日、自宅で口腔の動きの自主訓練をして、その効果を診てもらうのです。
自主訓練は、(1)舌の運動の練習、(2)発音の難しい言葉の朗読、(3)パタカという発生練習、(4)プラスチック板を噛む練習、そして文学作品を2000字位朗読する練習をします。
今迄朗読の練習をした作品は宮沢賢治の「風の又三郎」や「銀河鉄道の夜」の抜粋文や小川未明の童話の「いろいろな花」などでした.
このような古い作品を読むと昔の日本人の生活の様子や感じ方が分かって面白いのです。
今日から夏目漱石の「坊ちゃん」の一部の抜粋文を朗読し始めました。
下にその抜粋を示しますが、東京からはるばる松山の旧制中学校へ坊ちゃんが数学の先生として赴任する時の様子が面白いのです。下の部分は「坊ちゃん」がいよいよ真夏の松山に着いて、とりあえず泊まった宿屋での場面です。
(二) ぶうと云って汽船がとまると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。もっともこの熱さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見つめていても眼がくらむ。事務員に聞いてみるとおれはここへ降りるのだそうだ。見るところでは大森ぐらいな漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。威勢よく一番に飛び込んだ。続づいて五六人は乗ったろう。外に大きな箱を四つばかり積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ戻して来た。陸へ着いた時も、いの一番に飛び上がって、いきなり、磯に立っていた鼻たれ小僧をつらまえて中学校はどこだと聞いた。小僧はぼんやりして、知らんがの、と云った。気の利かぬ田舎ものだ。猫の額ほどな町内の癖に、中学校のありかも知らぬ奴があるものか。ところへ妙な筒っぽうを着た男がきて、こっちへ来いと云うから、尾いて行ったら、港屋とか云う宿屋へ連れて来た。やな女が声を揃えてお上がりなさいと云うので、上がるのがいやになった。門口へ立ったなり中学校を教えろと云ったら、中学校はこれから汽車で二里ばかり行かなくっちゃいけないと聞いて、なお上がるのがいやになった。おれは、筒っぽうを着た男から、おれの革鞄を二つ引きたくって、のそのそあるき出した。宿屋のものは変な顔をしていた。
停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。それから車を傭って、中学校へ来たら、もう放課後で誰も居ない。宿直はちょっと用達に出たと小使が教えた。随分気楽な宿直がいるものだ。校長でも尋ねようかと思ったが、草臥れたから、車に乗って宿屋へ連れて行けと車夫に云い付けた。車夫は威勢よく山城屋と云ううちへ横付けにした。山城屋とは質屋の勘太郎の屋号と同じだからちょっと面白く思った。
何だか二階の楷子段の下の暗い部屋へ案内した。熱くって居られやしない。こんな部屋はいやだと云ったらあいにくみんな塞がっておりますからと云いながら革鞄を抛り出したまま出て行った。仕方がないから部屋の中へはいって汗をかいて我慢していた。やがて湯に入れと云うから、ざぶりと飛び込んで、すぐ上がった。帰りがけに覗いてみると涼しそうな部屋がたくさん空いている。失敬な奴だ。嘘をつきゃあがった。それから下女が膳を持って来た。部屋は熱つかったが、飯は下宿のよりも大分旨かった。給仕をしながら下女がどちらからおいでになりましたと聞くから、東京から来たと答えた。
膳を下げた下女が台所へいった時分、大きな笑い声が聞えた。くだらないから、すぐ寝たが、なかなか寝られない。熱いばかりではない。騒々しい。下宿の五倍ぐらいやかましい。うとうとしたら清(きよ)の夢を見た。清が越後の笹飴を笹ぐるみ、むしゃむしゃ食っている。笹は毒だからよしたらよかろうと云うと、いえこの笹がお薬でございますと云って旨そうに食っている。おれがあきれ返って大きな口を開いてハハハハと笑ったら眼が覚めた。下女が雨戸を明けている。相変らず空の底が突き抜けたような天気だ。
道中(どうちゅう)をしたら茶代をやるものだと聞いていた。茶代をやらないと粗末に取り扱われると聞いていた。こんな、狭くて暗い部屋へ押し込めるのも茶代をやらないせいだろう。見すぼらしい服装(なり)をして、ズックの革鞄と毛繻子(けじゅす)の蝙蝠傘を提げてるからだろう。田舎者の癖に人を見括(みくび)ったな。一番茶代をやって驚かしてやろう。おれはこれでも学資のあまりを三十円ほど懐に入れて東京を出て来たのだ。汽車と汽船の切符代と雑費を差し引いて、まだ十四円ほどある。みんなやったってこれからは月給を貰うんだから構わない。田舎者はしみったれだから五円もやれば驚ろいて眼を廻すに極っている。どうするか見ろと済して顔を洗って、部屋へ帰って待ってると、夕べの下女が膳を持って来た。盆を持って給仕をしながら、やににやにや笑ってる。失敬な奴だ。顔のなかをお祭りでも通りゃしまいし。これでもこの下女の面(つら)よりよっぽど上等だ。飯を済ましてからにしようと思っていたが、癪に障ったから、中途で五円札を一枚出して、あとでこれを帳場へ持って行けと云ったら、下女は変な顔をしていた。それから飯を済ましてすぐ学校へ出懸けた。靴は磨いてなかった。
[そしてその日の夕方に中学から宿屋に帰ってみると以下のようにことになっていたのです]
・・・帳場に坐っていたかみさんが、おれの顔を見ると急に飛び出してきてお帰りと板の間へ頭をつけた。靴を脱いで上がると、お座敷があきましたからと下女が二階へ案内をした。十五畳の表二階で大きな床とこの間がついている。おれは生れてからまだこんな立派な座敷へはいった事はない。この後いつはいれるか分らないから、洋服を脱いで浴衣ゆかた一枚になって座敷の真中まんなかへ大の字に寝てみた。いい心持ちである。・・・以下省略。
明治は遠くなりにけりと言いますが、本当に昔だったのですね。・・・見るところでは大森ぐらいな漁村だ。・・・というところを見ると明治時代の大森は漁村だったのですね。その頃は渋谷は渋谷村という農村だったとも聞きます。
それから日本は戦争をして大変なことになったのです。
「坊ちゃん」を読み、その後の日本の運命を想うと感慨無量です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)