後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

キリスト教の簡単な説明(3)イエスは何故生き返って来たか?

2017年11月12日 | 日記・エッセイ・コラム
この連載では仏教には無いキリスト教の特徴を幾つか取り上げて説明しようと思います。
そこで2017年11月05日 の「キリスト教の簡単な説明(1)何故イエスは処刑されたか?」では、イエスがユダヤ教の保守派に捕まって死刑になった経緯を書きました。
イエスは十字架の上で苦しみながら、「神は私を見捨てられるのか!」と叫んで絶命したのです。
仏教と比較すると、お釈迦様は弟子たちに見守られながら、平和に死んで行くのです。
続いて、2017年11月08日 には「キリスト教の簡単な説明(2)水を葡萄酒に変えたイエス」を掲載しました。
カナの婚姻で葡萄酒が足りなくなったときイエスが水を葡萄酒に変えたという奇跡を書きました。
佛教ではお釈迦さまは奇跡を行いません。人間自身が色即是空、空即是色を理解し信じれば悟りの境地に入れるのです。奇跡なんて必要ないのです。

連載の第三回目の今日はいよいよキリスト教の一番重要な「復活」ということを取り上げます。
復活とは死んだイエスが生き返って弟子たちに現れることです。そして最後の日に全ての死んだ人間がまた生き返えることも意味します。
新約聖書に十字架上で刑死したイエスが、その後白い亜麻布に包まれて洞窟の中に葬られたことが書いてあります。
ところが死んだはずのイエスが亜麻布を脱ぎ捨て、マグダラのマリアや弟子たちの前に現れたのです。
イエスは何故生き返って出て来たのでしょうか?
その理由の一つは愛する弟子たちに自分の姿をもう一度見せる為でした。そして弟子たちに聖霊を与え、「あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされる」という聖職者としての力を与えたのです。
もっと俗な説明をします。
人間は誰でも、死んだ両親や兄弟や恩人、友人にもう一度会いたいと思います。しかしそれはかなわない夢にすぎません。先に死んでしまった夫や妻に恋い焦がれます。でも二度と会えません。
しかしイエスの生き返りはそれが儚い夢ではなく実現することを暗示しているのです。
キリスト教が愛の宗教だと言われる所以でもあるのです。
そして先に死んでしまった夫や妻に恋い焦がれることは民族の違いに関係なく人類共通のことです。
これもキリスト教が世界宗教だという根拠の一つになっているのです。
さて生き返ったイエスはその後、天に昇って神の右の座につきます。
そうして最後の審判の日に再びこの世に帰ってくるのです。その最後の日に全ての死者の肉体が蘇ってくるのです。私はこの永遠の命を信じています。これがキリスト教の復活の意味なのです。
写真に生き返ったイエスが弟子たちの前に現れている場面を描いた絵画を示します。

1番目の写真は『キリストの復活』の絵画です。18世紀にポーランドで描かれました。
(写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E6%B4%BB_(%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99) です。)

さて科学的に考えれば一度死んだ人間は絶対に生き返りません。それは明々白々なことです。
私の昔の職業は実験科学者でした。ですからイエスの復活は有り得ないと思います。
しかし信仰の上ではイエスの復活を信じています。これはキリスト教の一番重要な教えだと信じています。
何故、信じているかを言葉では説明できません。ですから他人へ信じなさいと言うことも絶対に出来ません。
強いて言えば次のように聖書に書いてあるからです。
ヨハネによる福音書、第20章
(1)弟子たちがイエスの遺体が消えていることを発見する場面
1さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。 2そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。 3そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。 4ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、 5そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。 6シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、 7イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。 8すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。 9しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。 10それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
(2)生き返ったイエスがマグダラのマリヤに話しかける場面
11しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、 12白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。 13すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。 14そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。 15イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。 16イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。 17イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
(3)マグダラのマリヤが弟子たちへイエスが生き返ったと報告する場面
18マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。
(4)イエスが弟子たちに会い、聖霊を与える場面
19その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 20そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。 21イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。 22そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。 23あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。
(5)弟子のトマスだけがイエスの生き返りを信じないと言う場面
20:24十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。 20:25ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
(6)イエスがトマスの前に現れ、手を釘跡の傷穴に入れて見なさいと言う場面

2番目の写真は生き返って立ったいるイエスがそれを信じないトマスが脇腹の傷跡を探っている光景を描いた絵画です。(出典は、http://lifepeace365.blogspot.jp/2011/04/ です。)

26八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 27それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。 28トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 29イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
30イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。 31しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。

如何でしょうか?
佛教には無い教えですね。仏教とキリスト教の違いはお分かりになったと存じます。
こういう教えがキリスト教なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)