安井 曾太郎は1888年に生まれ1955年に67歳で亡くなった大正、昭和期の洋画家でした。 彼の油彩画の写真をお送りいたします。
1番目の写真はパリで描いた「孔雀と女」です。帰国後の1915年の第2回二科展で特別陳列されました。 京都国立近代美術館にあります。
2番目の写真はパリで1913年に描いた「山の見える町」です。
3番目の写真は1914年の作品で「下宿の人々」です。
4番目の写真はフランスで描いた「田舎の寺」です。
5番目の写真は帰国後10年ほどしてやっと独自の画風を確立して描いた「金蓉」と題した中国服を着た婦人像です。この昭和9年の「金蓉」が安井曽太郎の最高の傑作と言われています。
6番目の写真は独自の画風を確立した後のバラの絵です。
7番目の写真は画風を確立した後の玉蟲先生の肖像画です。
安井曽太郎は19歳の時、それまで描いた油絵を一切焼き捨てて白紙の状態でパリの美術学校に入りました。そこでは彼の抜群のデッサン力で何度も優等賞を取りました。
そしてセザンヌの影響を受けて7年のパリ在住の間に数多くの油彩画を描いて高く評価されていたのです。
1番目の写真から4番目の写真がフランスで描いた作品です。
しかし帰国後、画風が決まらないで苦悩した時期が続きました。この低迷の苦しみを示す安井曽太郎の展覧会が2005年にありました。
それは「没後50年・安井曽太郎展」でした。
水戸市の千波湖のほとり、県立近代美術館で2005年の7月に安井曽太郎氏の油彩109点、水彩・素描35点が年代順に展示されたのです。それを見た私の感想記です。
この「没後50年・安井曽太郎展」では浅井忠に師事していたころの少年期の作品、フランスでセザンヌの影響を受けていたころの滞欧期の作品、帰国後の東洋と西洋のはざまで苦しんだころの作品、そして曽太郎流画風の確立した後の傑作の数々が順序よく、ゆったりしたスペースに展示されていたのです。
全国の美術館や個人所有の油彩を109点も借り出して、曽太郎氏の芸術遍歴を浮き彫りにした企画展は、見る人にいろいろなことを考えさせます。
浅井忠に師事して描いた油彩を見た曽太郎氏の家族や友人は一流の画家になれると誉めたに違いありません。
そして19歳でパリに行ったのです。
美術学校で何度も優等賞を取り、後期印象派、特にセザンヌの直接的な影響を受け、澄んだ青を基調にしたいかにもセザンヌ風の裸婦、フランスの風景、静物などを精力的に描いたのです。
ところが、帰国後数年間の画風は混乱に続く混乱です。
パリで学んだ絵画精神で日本の風景、日本の裸婦、日本の静物を描こうとすればするほどバランスの取れない絵画になってしまうのです。
私はこの混乱期の、例えば京都近郊の多くの風景画や裸婦群像などは好きにはなれません。見ているうちに私自身も苦しくなってくるのです。
独自の画風を確立するまでの帰国後やく10年間の模索と深い思索こそがその後の曽太郎独自の芸術を生んだのです。
西洋の絵具、画材を使い西洋風の色合いで日本画の構図や線描を交えて和洋折衷の絵画を作ることは可能です。日本の風景、日本人モデルを用いてセザンヌ風に描くことも可能です。しかし安井氏はそんな浅薄なことは出来なかったのです。
東洋と西洋の文化の両方を受容して独自の境地を作り上げることに成功した画家はそんなに多くはありません。
ところが、昭和初期の少女像、玉蟲先生像、気位の高い和服の婦人像のころから、いわゆる曽太郎流画風が確立されたのです。それはフランスからの卒業です。
昭和9年の「金蓉」と題した絵からは女性の強さ、美しさが伝わって来ます。
日本画の精神性を背景にした表現で独創的な画風を作りあげたのです。
8番目の写真は「外房風景」です。
横長の大きなキャンバスに描いた外房風景には強風の沖を、左から右へ流れるように白波が動いています。漁村の歪んだ家々が漁師一家の必死の生を暗示しているのです。風景が美しいだけではなく漁師の生活そして人生を描いているのです。
薔薇・果物を重厚に描いた静物画にも氏の誠実な心が表れています。深い余韻を感じさせるのも、研鑽を重ねた技量のおかげです。
もし「玉蟲先生像」、「金蓉」、「外房風景」、など曽太郎画風確立以後の傑作のみの展示であれば、曽太郎氏の絵の面白みや深みが理解出来なかったに違いありません。
没後五十年・安井曽太郎展を企画した方々の考えの深さに感心します。
安井曽太郎は梅原龍三郎とともに昭和期を代表する洋画家と評されてります。
そして1944年には東京美術学校教授、1952年の文化勲章受賞など、その功績が認められ画家としての成功を収めることとなったのです。
今日はパリで褒められ帰国し、その後低迷し苦悩した安井曽太郎の油彩画をご紹介致しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真はパリで描いた「孔雀と女」です。帰国後の1915年の第2回二科展で特別陳列されました。 京都国立近代美術館にあります。
2番目の写真はパリで1913年に描いた「山の見える町」です。
3番目の写真は1914年の作品で「下宿の人々」です。
4番目の写真はフランスで描いた「田舎の寺」です。
5番目の写真は帰国後10年ほどしてやっと独自の画風を確立して描いた「金蓉」と題した中国服を着た婦人像です。この昭和9年の「金蓉」が安井曽太郎の最高の傑作と言われています。
6番目の写真は独自の画風を確立した後のバラの絵です。
7番目の写真は画風を確立した後の玉蟲先生の肖像画です。
安井曽太郎は19歳の時、それまで描いた油絵を一切焼き捨てて白紙の状態でパリの美術学校に入りました。そこでは彼の抜群のデッサン力で何度も優等賞を取りました。
そしてセザンヌの影響を受けて7年のパリ在住の間に数多くの油彩画を描いて高く評価されていたのです。
1番目の写真から4番目の写真がフランスで描いた作品です。
しかし帰国後、画風が決まらないで苦悩した時期が続きました。この低迷の苦しみを示す安井曽太郎の展覧会が2005年にありました。
それは「没後50年・安井曽太郎展」でした。
水戸市の千波湖のほとり、県立近代美術館で2005年の7月に安井曽太郎氏の油彩109点、水彩・素描35点が年代順に展示されたのです。それを見た私の感想記です。
この「没後50年・安井曽太郎展」では浅井忠に師事していたころの少年期の作品、フランスでセザンヌの影響を受けていたころの滞欧期の作品、帰国後の東洋と西洋のはざまで苦しんだころの作品、そして曽太郎流画風の確立した後の傑作の数々が順序よく、ゆったりしたスペースに展示されていたのです。
全国の美術館や個人所有の油彩を109点も借り出して、曽太郎氏の芸術遍歴を浮き彫りにした企画展は、見る人にいろいろなことを考えさせます。
浅井忠に師事して描いた油彩を見た曽太郎氏の家族や友人は一流の画家になれると誉めたに違いありません。
そして19歳でパリに行ったのです。
美術学校で何度も優等賞を取り、後期印象派、特にセザンヌの直接的な影響を受け、澄んだ青を基調にしたいかにもセザンヌ風の裸婦、フランスの風景、静物などを精力的に描いたのです。
ところが、帰国後数年間の画風は混乱に続く混乱です。
パリで学んだ絵画精神で日本の風景、日本の裸婦、日本の静物を描こうとすればするほどバランスの取れない絵画になってしまうのです。
私はこの混乱期の、例えば京都近郊の多くの風景画や裸婦群像などは好きにはなれません。見ているうちに私自身も苦しくなってくるのです。
独自の画風を確立するまでの帰国後やく10年間の模索と深い思索こそがその後の曽太郎独自の芸術を生んだのです。
西洋の絵具、画材を使い西洋風の色合いで日本画の構図や線描を交えて和洋折衷の絵画を作ることは可能です。日本の風景、日本人モデルを用いてセザンヌ風に描くことも可能です。しかし安井氏はそんな浅薄なことは出来なかったのです。
東洋と西洋の文化の両方を受容して独自の境地を作り上げることに成功した画家はそんなに多くはありません。
ところが、昭和初期の少女像、玉蟲先生像、気位の高い和服の婦人像のころから、いわゆる曽太郎流画風が確立されたのです。それはフランスからの卒業です。
昭和9年の「金蓉」と題した絵からは女性の強さ、美しさが伝わって来ます。
日本画の精神性を背景にした表現で独創的な画風を作りあげたのです。
8番目の写真は「外房風景」です。
横長の大きなキャンバスに描いた外房風景には強風の沖を、左から右へ流れるように白波が動いています。漁村の歪んだ家々が漁師一家の必死の生を暗示しているのです。風景が美しいだけではなく漁師の生活そして人生を描いているのです。
薔薇・果物を重厚に描いた静物画にも氏の誠実な心が表れています。深い余韻を感じさせるのも、研鑽を重ねた技量のおかげです。
もし「玉蟲先生像」、「金蓉」、「外房風景」、など曽太郎画風確立以後の傑作のみの展示であれば、曽太郎氏の絵の面白みや深みが理解出来なかったに違いありません。
没後五十年・安井曽太郎展を企画した方々の考えの深さに感心します。
安井曽太郎は梅原龍三郎とともに昭和期を代表する洋画家と評されてります。
そして1944年には東京美術学校教授、1952年の文化勲章受賞など、その功績が認められ画家としての成功を収めることとなったのです。
今日はパリで褒められ帰国し、その後低迷し苦悩した安井曽太郎の油彩画をご紹介致しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)