後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

時が止まったような奈良井、妻籠、馬籠の宿場の風景

2019年07月04日 | 日記・エッセイ・コラム
時が止まったような村や町の風景を見るといろいろなことを思い浮かべます。人々が活き活きと生き、そしてどんどん死んで行きます。
古い宿場町の風景が昔と変わらない所が木曽の山の中にあります。そんな古い宿場町の家並みの風景はシーンとして静かに時を刻んでいるだけです。
今日ご紹介する奈良井の宿、妻籠の宿、馬籠の宿はそんな所です。好きな町なので何度も行き写真を撮って来ました。写真を撮りながら人の生き死にの儚さを考えていました。写真をお送りします。

1番目と2番目の写真は中山道の奈良井の宿です。江戸時代の宿場町がそのまま保存してあります。



3番目と4番目の写真は中山道の奈良井宿から南に行った場所にある妻籠の宿場町の風景です。数年前に3度ほど行きました。

3番目と4番目の写真の出典は、「自分を探す旅 見つめ直す旅 」というブログからお借りしました。素晴らしい旅行記のブログです。

5番目と6番目の写真は中山道をさらに南に行った所にある馬籠の宿場町です。馬籠の宿場町へも3度ほど行きました。

5番目と6番目の写真の出典は、http://www.livedo.net/tabi/276.html です。

7番目の写真は庄屋をしていた馬籠の島崎藤村の生家です。

以上のような奈良井宿や妻籠宿や馬籠宿は全て険しい山の谷に沿った危険な道でした。
木曽福島の厳重な関所の先の峠までは木曽川に沿い、分水嶺の奈良井の峠を越すと日本海へ注ぐ川に沿っています。
その中山道の険しさは島崎藤村の「夜明け前」の序文に描かれていますので、下にご紹介します。
出典は、http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1504_14585.html です。
・・・島崎藤村の「夜明け前」の序文・・・
木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖がけの道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間に埋うずもれた。名高い桟も、蔦のかずらを頼みにしたような危い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。・・・この谿谷けいこくの最も深いところには木曾福島の関所も隠れていた。・・・・

この中山道は現在、国道19号線として立派な舗装の自動車道路になっています。車で走りながらこの島崎藤村が描いた昔の中山道を思い浮かべていました。昔の道らしい細い道路が所々で19号線から分かれて山の斜面に入っています。
昔の中山道は現在は奈良井、妻籠、馬籠の宿場町の真ん中に残っているだけなのです。嗚呼、時はどんどん流れ行きますが、そこだけは時が止まっているのです。此処で生活し、古い建物を維持している人々のご苦労は如何ばかりかと感じ入りながらの写真をとりました。
新幹線が走り高速自動車道路が出来ても奈良井、妻籠、馬籠の宿は頓着しません。人間は何故そんなにいそぐのでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========================
島崎藤村の「夜明け前」あらすじ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E6%98%8E%E3%81%91%E5%89%8D から引用します。
日本の近代文学を代表する小説の一つとして評価されている「夜明け前」のあらすじです。

・・・中仙道木曾馬籠宿で17代続いた本陣・庄屋の当主、青山半蔵は、平田派の国学を学び王政復古に陶酔し、山林を古代のように皆が自由に使う事ができれば生活はもっと楽にできるであろうと考え、森林の使用を制限する尾張藩を批判していた。下層の人々への同情心が強い半蔵は新しい時代の到来を待っており、明治維新に希望を持つが、待っていたのは西洋文化を意識した文明開化と、政府による人々への更なる圧迫など半蔵の希望とは違う物で、更に山林の国有化により一切の伐採が禁じられるという仕打ちであった。半蔵はこれに対し抗議運動を起こすが、戸長を解任され挫折。また嫁入り前の娘、お粂が自殺未遂を起こすなど、家運にも暗い影が差してきていた。村の子供たちに読み書きを教えて暮らしていた半蔵は意を決して上京し、自らの国学を活かそうと、国学仲間のつてで、教部省に出仕する。しかし同僚らの国学への冷笑に傷つき辞職。また明治天皇の行列に憂国の和歌を書きつけた扇を献上しようとして騒動になる。その後、飛騨にある神社の宮司になるが数年で帰郷。半蔵の生活力のなさを責めた継母の判断で四十歳ほどで隠居して、読書をしつつ地元の子供たちに読み書きを教える生活を送ることになったが、次第に酒浸りの生活になっていく。維新後、青山家は世相に適応できず、家産を傾けていた。親戚たちはこの責任は半蔵にあると、半蔵を責め、半蔵を無理やり隠居所に別居させ親戚間での金の融通を拒否し、酒量を制限しようとする。温厚な半蔵もこれには激怒し、息子である宗太に扇子を投げつけるのだった。そして半蔵は国学の理想とかけ離れていく明治の世相に対する不満や、期待をかけて東京に遊学させていた学問好きの四男、和助(作者島崎藤村自身がモデル)が期待に反し英学校への進学を希望したことなどへの落胆から、精神を蝕まれ、自分を襲おうとしている『敵』がいると口走るなど奇行に走っていく。ついには寺への放火未遂事件を起こし、村人たちによって狂人として座敷牢に監禁されてしまう。当初は静かに読書に励んでいたが、次第に獄中で衰弱していき、最後には廃人となってしまい、とうとう座敷牢のなかで病死してしまった。遺族や旧友、愛弟子たちは、半蔵の死を悼みながら、半蔵を丁重に生前望んでいた国学式で埋葬したのだった。(終り)