松本竣介は1912年に生まれ 1948年に36歳で亡くなった日本の洋画家です。
色調が暗いのですが深い内容を感じさせる油彩画を沢山描きました。暗い絵ですが美しいのです。
3枚の絵を選んで写真を示します。
1番目の写真は「建物」で1935年 23歳の時の作品で第22回二科展入選作です。神奈川県立近代美術館蔵です。暗い色調ですがよく見ると美しい絵画です。松本竣介のこの絵のような画風は死ぬまで変わりませんでした。
2番目の写真は「立てる像」で彼の抜群のデッサン力が分かる構図です。(1942年、神奈川県立近代美術館)
戦後まもなく36歳で没した松本竣介の代表作です。都会の風景と人間を描いたこの作品には、静まり返った街に両足を踏ん張って立つ青年像が描かれています。人物は暗い時代に抵抗しつつ画家としての生き方を模索している松本自身の自画像のように見えます。
3番目の写真は「Y市の橋」で1943年作です。(1942年、岩手県立美術館)
4点ある同タイトルの油彩画のうちの2番目の作品で東京国立近代美術館蔵です。
Y市とは戦前運河の多かった横浜市のことでしょうか?
絵の右にある煙突の出ている大き建物は火力発電所のように見えます。都会の海側にはよくこんな発電所や工場の風景があったものです。工場地帯なのに静まり返った風景です。見る人の心も静かにさせます。
さて松本竣介を簡略にご紹介します。(https://ja.wikipedia.org/wiki/松本竣介 )
彼は1912年 (明治45年) 渋谷に生まれその後岩手県で育ち、17歳になる年に再び上京し、その後は東京で絵を描き続けました。
旧制中学にあがった時に聴力を失います。1944年(昭和19年)制作の作品以降、名前の文字を本名の「俊介」から「竣介」に改めます。父は佐藤勝身で母はハナで二人の二男として生まれます。
1936年(昭和11年)に結婚する以前の旧姓は「佐藤」でしたが松本禎子と結婚して松本姓となったのです。
幼少の竣介は父親の仕事の関係で満2歳の時に岩手県花巻へ、10歳の時に盛岡へ移ります。
盛岡は父勝身の故郷でした。
実家が豊かだったので岩手師範付属小学校に通い1925年(大正14年)小学校を首席で卒業します。
岩手県立盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)に1番の成績で入学しました。
入学式の前日に頭痛を訴えたが無理を押して入学式に出席、翌日に脳脊髄膜炎と診断されます。この病気が原因で聴力を失ったのです。初秋に退院し、10月から登校しました。
父の勝身は竣介を当時のエリート校の陸軍士官学校に入れたいと思っていたが竣介自身は技師になりたいと考えていました。耳が聴こえなくなり軍人への道が断たれたのです。
盛岡中学2年の夏頃からスケッチに熱中するようになり3年の時には学校に絵画倶楽部を作ります。そして次第に絵の道を志すようになったのです。
竣介が盛岡中学2年の時に、兄彬が卒業後上京し府立一中の補習科へ通いだしたのです。
これが切っ掛けで竣介も1929年(昭和4年)に盛中学を3年で中途退学し東京へ上京します。その時に兄が油絵の道具一式を買って弟へ贈ったのです。
それから竣介は油絵を沢山描くようになったのです
東京では太平洋画会研究所(後の「太平洋美術学校」)へ通います。この研究所には中村靉光、井上長三郎、鶴岡政男も通っています。
当時の竣介はモディリアニの生き方に傾倒していました。「太平洋近代藝術研究会」と名付けた会を作って「線」という雑誌を昭和6年9月に出したりします。
1932年になると、この頃池袋に林立しつつあったアトリエを仲間と共同で一軒借り、ここで絵画の制作を行うようになります。
ここまでが松本竣介の修行時代です。
1935年、鶴岡政男らが作ったNOVA美術協会の展覧会に出品しすぐに同人に推薦されます。同年秋のニ科展に「建物」が入選し画壇にデビューしプロの画家として認められるようになったのです。今日の1番目の写真はこの時の作品です。
その後は以下のような傑作を描きます。
街(1938年、大川美術館)
画家の像(1941年、宮城県美術館)
立てる像(1942年、神奈川県立近代美術館)
Y市の橋(1942年、岩手県立美術館) - 同名の油絵は4点あり。
鉄橋付近(1943年、島根県立美術館)
裸婦(1944年頃)(文化遺産オンライン)
そして1948年(昭和23年)に病死しました。享年三十六歳、戒名は浄心院釋竣亮居士で墓所は松江市の真光寺にあります。
今日は彼の作品の3枚しか示しませんでしたが、https://ja.wikipedia.org/wiki/松本竣介 には30枚ほどの油彩画が掲載してあります。
それを見ると彼の非凡さが分かります。
松本竣介は印象派の巨匠たちの絵を模倣しませんでした。深いところで影響はあったでしょうが彼独自の画風を一生貫いたのです。独創的な日本人でした。
それにしても36歳とは早過ぎる死でした。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)