後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日は魚を買いに行きました」

2019年07月18日 | 写真
車で30分くらいの所に角上魚類店という大型の鮮魚専門店があります。大きな蓮子鯛を1枚買いました。今晩は塩焼きです。
活き活きした魚を見て楽しんで来ました。
写真のように昔風の売り方をしています。





日本の絵画(9)岸田 劉生の「切り通し」

2019年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム
岸田 劉生が1915年に描いた油彩画の「切り通し」を見るといろいろなことを考えさせられます。
絵が美しいだけでなく人間の一生を暗示しているように感じられるのです。
日本の重要文化財に指定され東京国立近代美術館に常に展示されております。
私はこの絵を近代美術館で見た時の感動を忘れません。

1番目の写真は岸田 劉生が代々木の道路と土手と塀を描いた「切り通し」です。
この絵と「麗子像」は37歳で夭折した岸田 劉生の代表作と言われています。
「切り通し」をよく見ると左の道に沿って伸びる白い塀と、電信柱の影を真横に落とした土の坂道と、右の緑の丘の3つがそれぞれ独立していながら妙に一体感を与えています。
私が若い頃この絵を見た時は真ん中の生々しい土の坂の遥か向こうには何があるのだろうと考えていました。若かったので人生に明るい希望を抱いていたのです。坂の上の碧い空と白い雲に何故か胸が熱くなりました。
そして老境に至ってこの絵を見ると左の道に沿って伸びる白い塀こそこの絵の命だと思うのです。丁寧に描けています。それは美しい塀です。そして右の丘も心地良い風景です。
老境になって坂の上の向こうには何も無いことが分かったのです。人生は邯鄲の夢だったのです。
そんな境地でこの絵を見ると、この絵は美しい純粋な風景画なのです。芸術的感動を与える風景画なのです。
見る私が勝手な解釈をしても無意味なのです。
老境に至ってようやく絵を虚心坦懐に楽しめるようになったのです。雑念を無くして素直に芸術作品を楽しむのです。これも老境の幸せの一つと想うこの頃です。一方家人は卓上の静物を描いた穏やかな筆遣いが好ましいと申します。

さて岸田 劉生のことです。彼は1891年に生まれ 1929年に37歳で亡くなりました。
大正から昭和初期の傑出した洋画家で、父親は実業家でジャーナリストの岸田吟香でした。(https://ja.wikipedia.org/wiki/岸田劉生 )
1891年(明治24年)、薬屋「楽善堂」を経営する岸田吟香の四男として東京銀座に生まれます。
東京高師附属中学中退後の1908年(明治41年)、東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事します。1910年(明治43年)の文展に2点の作品が入選します。
1911年(明治44年)の『白樺』主催の美術展がきっかけでバーナード・リーチと知り合い、柳宗悦・武者小路実篤ら『白樺』周辺の文化人とも知り合うようになります。
劉生は『初期肉筆浮世絵』、『図画教育論』や、没後に出された随筆『美の本体』(河出書房)など、多くの文章を残し、これらは『岸田劉生全集』(全10巻、岩波書店、1979年~1980年)にまとめられています。
1912年(明治45年)、高村光太郎・萬鉄五郎・斎藤与里・清宮彬・木村荘八らとともにヒュウザン会を結成し、第1回ヒュウザン会展には14点を出品しています。これが画壇への本格的なデビューと言われています。
そして 1929年に37歳で亡くなってしまうのです。37歳とはあまりにも早い死でした。長生きすればもっともっと感動的な油彩画を描いたと思います。残念です。
なお岸田劉生の作品の一覧と収蔵美術館は、(https://ja.wikipedia.org/wiki/岸田劉生 )にありますから是非他の油彩画もご覧下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)