後藤和弘のブログ

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白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の貴重な歴史的価値

2019年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム
1988年、舵社から出版された、白崎謙太郎著、「日本ヨット史」は名著です。史的価値の高い本です。
この本はわが国におけるスポーツとしてのヨットの歴史を、その発祥から第二次世界大戦の終戦に至るまでを区切りとして、「舵」誌の昭和60年12月号から62年4月号までの16回にわたって連載した“日本ヨット史稿”をまとめた本です。
現在も入手は可能で次の amazonから購入出来ます。
https://www.amazon.co.jp/日本ヨット史-文久元年-昭和20年-白崎-謙太郎/dp/4807243012
この本と2017年出版の白崎謙太郎著の戦後のヨット史を書いた「小網代ヨット史」を読むと明治維新前から現在までの日本のヨットの歴史が分かるのです。日本におけるヨットの歴史を書いた本は他にあまり無いのです。
そこで今日は白崎謙太郎著、「日本ヨット史」を紹介したいと思います。
さっそくですが、この本の全体の構成を以下に示します。
1章 横浜浮世絵と古写真
第2章 最初期のヨット
第3章 横浜ヨットクラブの誕生
第4章 T.M.ラフィンと幻のアルバム
第5章 日本人ヨットの胎動・大正時代
第6章 日本ヨット協会設立のころ
第7章 ヨットレースの幕あけ
第8章 Lクラスと外人クラブ
第9章 国内5メーターと設計の発展
第10章 ブルーウォーター派の台頭
第11章 戦前の外洋ヨットレース
第12章 知られざる野尻湖のヨット
第13章 戦前のオリンピックとヨット
第14章 もう一つの伝統・九州のヨット
第15紹 軍国主義下のヨット

この本によるとヨットが日本へ入って来たのは明治維新前後からです。
横濱に在住していたイギリス人などの欧米人が自分達の趣味として楽しんでいたのです。そうして横濱ヨットクラブが明治19年(1886年)に出来たのです。
このクラブや他の外人のヨットクラブが週末毎に横濱で盛んにレースを展開していました。
「日本ヨット史」の面白い点は、明治初期から大正12年の関東大震災までの横濱における外人ヨットマンを詳しく調べ上げ正確に記録している点にあります。
そしてそのヨットの建造場所も突き止めています。横濱での小さな造船所で欧米人や中国人、そして日本人の船大工によって作られたのです。その詳細は省略しますが著者の白崎謙太郎氏の資料の読み方が厳正なので信頼出来ます。
例えば江戸幕府が貧しい漁村を横濱港として整備し、欧米人へ開放する準備の経過などの一節は歴史的研究として一論文を成すくらい検証が厳密です。
明治19年頃までには、多くの在住欧米人がヨットを所有するようになったのです。
写真に明治20年頃に横浜で使われていたヨットを示します。外国人在住者の多かった神戸港や長崎でも同じような光景があったと想像できます。









これらの古い写真は白崎さんが見つけたのです。熱海駅前で歯科医をしていた館野常司氏を訪問し、古いヨットの写真集から転写したものです。
日本で一番古いと考えられるこのヨットの写真集は米人のラフィン氏が持っていて、後には、末娘のミス・ラフィンが秘蔵していたのです。彼女は親切に歯を治療してくれた歯科医でヨットマンの館野常司氏へ写真コピーを提供したのです。そして白崎さんが遂にそのコピー写真集の写真を撮ってきたのです。
はじめ日本人はヨットには関心を示しませんでした。少なくとも大正時代になるまでは外人だけの遊びでした。
このような状況の週末毎の華やかなヨットレースは、大正12年の関東大震災で消えてしまったのです。
震災で横濱は壊滅し、在住していた欧米人の事業も破滅に追いやられ、ヨットどころでは無くなったのです。関東大震災の横濱の被害は想像を絶する凄さだったのです。
日本人がヨットというスポーツを始めるようになったのはこの関東大震災後からなのです。
明治維新前後から実に50年間も経過してからヨットが日本人の間に普及しはじめたのです。その間に日清戦争があり、日露戦争があり、イギリス製の軍艦が多数輸入され大活躍していたのです。
何故ヨットの普及が50年間も遅れたのでしょうか?
日本には江戸時代以前から連綿として船を遊びの目的に使う文化が存在していませんでした。但し船頭に艪を漕がせて、船内で客が飲食しながら景色を楽しむ屋形船は各地にありました。
お客を運ぶ、荷物を運ぶ、魚を獲る、などと実用的な目的だけに使用していたのです。
高価な船を遊びだけに用いる事は贅沢過ぎ良い事と考えられていなかったのです。
そのような事を考えると横濱で盛んに活動していた外人のヨットクラブが日本人へ影響を与えるのに50年間もかかった理由が理解できます。

日本人自身がヨットを所有し、小型ヨットのディンギーでレースを始めたのは昭和の初期からです。そして昭和11年のベルリンオリンピックへ初めて参加したのです。監督は日本ヨット協会生みの親の吉本祐一、コーチとして艇および帆走規則に詳しい理論家の小澤吉太郎が加わり、主将、財部実を含めて総数7名の日本代表団が参加したのです。
はるばるシベリア鉄道でベルリンへ行ったのです。結果は惨敗でした。

一方、日本の大型ヨットによる外洋レースは昭和12年に三浦半島の鐙摺港(現在の葉山湊)を出発して大島を回ってくるというコースで開催されました。
日本人が乗り組んだ4艇が参加して、26時間で帰って来たアオイ号が優勝しました。その後、鐙摺港から熱海沖の初島を回る外洋レースも開催されます。
しかし外洋レースに必要なハンディキャップの計算方法が分からず、大らか過ぎるレースでした。
こうしてやっと日本人自身によるヨットが始まったのですが、昭和12年からの中国との戦争、そして第二次世界大戦の勃発で日本のヨットも中断してしまうのです。
ここまでの歴史は白崎謙太郎著の「日本ヨット史」に詳しく書いてあります。

戦後すぐに、進駐軍の将校が横濱などで本格的な外洋向けのクルーザーの建造を指導したのです。そして外洋レースに必要なハンディキャップの計算方法を日本人へ教えたのです。初めは進駐軍の将校が中心になって大島周りの外洋レースが盛んに行われたのです。
昭和26年に日本が独立するとアメリカ軍人も本国に帰る人が多くなります。大型ヨットは日本人へ引き継がれ、外洋レースは日本人が主体になって組織した日本オーシャンレーシングクラブが主催して毎年行われるようになったのです。
そうして1970年代から始まった経済の高度成長に従って小型ヨットのディンギーも大型のクルーザーヨットも一気に盛んになります。
結論的に言えば現在の日本のヨットは戦後、アメリカの進駐軍のお陰で本格的になったと言っても過言ではありません。
この戦後のヨットの普及の歴史は2017年出版の白崎謙太郎著「小網代ヨット史」に記録されています。
いずれこの「小網代ヨット史」の内容もご紹介したいと思います。

以上のように「日本ヨット史」には草創期の頃から第二次大戦後までのまでの日本のヨットの歴史が詳しく書いてあります。
この本はわが国のヨットの歴史を調べようとする人にとっては絶対に貴重な資料です。
それだけではありません。明治維新後、日本政府が西洋文化を導入する時、軍事技術や議会制の導入を優先し、ヨットのような「遊びの文化」を無視してきたことも示している本です。
それが日本に導入されたのは敗戦後に進駐して来たアメリカ将校によってなされたのです。
白崎謙太郎著、「日本ヨット史」は何故かいろいろなことを考えさせる内容の本です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===この記事に関連のあるバックナンバー==========

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(1)白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(1)全体の構成、そして渡辺修治さんとの絆、2011年11月30日
(2) 白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(2)明治時代、横濱に在住した外人のヨット、2011/12/01
(3) 白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(3)明治20年代の横濱にあったヨットの写真集の発見、2011/12/03
(4)白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(4)ベルリンオリンピックへの参加と戦前の外洋レース、2011年12月24日
(5)新刊紹介、白崎謙太郎著、「小網代ヨット史」、2017年08月04日

追記:上の資料には2つの間違いがあります。
1、渡辺修治さんを潜水艦乗りの将校と書きましたがそれは間違いです。渡辺修治さんは東大工学部船舶工学科出身の技術将校で海軍では潜水艦を設計し建造監督をしていました。
2、上の資料の中に横型の帆では風上に登るのは不可能という表現が含まれていますが、正しくは横型の帆は立て型の帆のようには容易に風上には登れないという表現にすべきでした。
以上2点の間違いを慎んで訂正いたします。

「今日の相模湖の風景写真」

2019年07月24日 | 写真
天気が悪くて数日、遠方に行きませんでしたが、今日は晴れました。午後から相模湖までドライブして来ました。
富士五湖の一つの山中湖から桂川が流れ下り相模湖に注いでいます。相模湖からは相模川になって平塚で相模湾へ出ます。
今日の相模湖の風景写真をお送りいたします。帰途は曲がりくねっ大垂水峠を越えました。









参院選挙で安倍首相派が勝った5つの理由

2019年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今回の参院選挙で自民党、公明党の与党が躍進して参議院の議席の半数以上になりました。衆議院でも以前から半数以上でしたから安倍首相は独自の政策を気楽に国会に提案し、国会の賛成を得られるようになりました。安倍さんの笑顔が印象的でした。
この勝利の原因は総理大臣就任以来の安倍さんの政策が広く国民に良く評価され支持されたためです。国民の評価が国会に反映されることは何と言っても民主主義の良さです。
私は安倍首相が特に好きでも嫌いでもありませんが、今回の参院選挙で安倍首相派が何故勝ったか客観的に考えてみたいと思います。
理由はいろいろあるでしょうが、私は彼の功績を外交面と国内政治の面から5つの理由に整理してみました。
(1)外交面での成果
1)トランプ大統領と素早く信頼関係を作り、それを維持して来た成果。
日本の安全保障にはアメリカの大統領と固い信頼関係を築くことが鉄則です。
安倍総理はまだ在任中だったオバマ大統領を無視してトランプ氏の大統領選挙の勝利を祝すために素早くトランプ氏を訪問し直接祝意を伝えたのです。これは外交儀礼上、顰蹙ものですが効果は覿面で、それ以来トランプ氏は安倍さんをシンゾウ、シンゾウと呼んで信頼するようになったのです。
この安倍さんの素早い外交行為は後の日米安保の日本側の負担や日米貿易におけるアメリカの要求を大幅にやわらげる効果に繋がったと考えられます。

2)アメリカの主張するペルシャ湾の安全を守る有志連合への参加を慎重にしている功績。
安倍さんは中央省庁の官僚の意見をよく勉強して外交政策を決めているようです。つまり官僚の使い方が上手なのです。以前、田中角栄の娘の田中真紀子さんが外務大臣の時、外務省の官僚の意見を聞かずにアメリカの重要人物との会談を突然キャンセルして大騒ぎになりました。安倍さんは絶対にこういうことはしません。
ペルシャ湾の安全を守る有志連合への参加を慎重にしていたのは外務省の官僚の意見だったと私は考えています。
最近、ヨーロッパのNATO諸国がアメリカの主張する有志連合へ参加しないことを決定し、それを発表したのです。安倍さんの慎重な態度はNATO諸国との信頼関係を強めることにつながります。日本の国益を守ったと評価されます。

3)イラン訪問など全方位外交の積極的推進は日本の海外経済活動に貢献する。
安倍さんは就任以来、気軽に外国に行き首脳外交に数々の成果をあげて来ました。
最近のイラン訪問やイスラム教のいろいろな国の訪問は日本の原油輸入の安全に大きな貢献をする筈です。
一方、中国との友好関係も着実に推進しています。
以上のように安倍さんの外交面での活動は歴代の総理に比較すると立派なものです。
しかし韓国とは子供っぽい感情的な喧嘩をしています。日本のような大国の総理の態度ではありません。
日韓友好を推進すべきです。韓国は日本の重要な貿易相手なのです。幼稚な喧嘩は止めるべきです。

(2)国内政治の面での評価
1)憲法改正を急ぎ過ぎる。
いろいろな新聞社が世論調査をしています。その結果によると安倍政権の急いで取り組むべき施策は1老後の生活の経済的保証、2地域経済の活性化と格差の是正、そして3憲法改正の真剣な議論の開始の順序になっています。
憲法改正はいずれ必要だが急ぐべきではないというのが国民の総意なのです。
それなのに安倍さんは在任中に憲法改正の国民投票の法律を作ると豪語しています。
現在の憲法は「平和憲法」なので日本が平和なのだと信じている人が多いのです。この人達の説得は容易ではありません。元々右翼の安倍さんの気持ちは分かりますが急ぐべきではありません。

2)各方面に気配りし国内各地へ行く気軽さは評価される。
自然災害の度に各地へ行って被災者を慰め勇気づける安倍さんの態度は好感を持たれます。
最近のハンセン病患者や家族を勇気づけるため裁判の控訴取止めも好感を持たれます。
安倍さんのこのような各方面への気配りが長期安定政権につながったと思います。

以上、私の評価は少し甘いものです。
さて皆様は安倍政権についてどのような評価をなさってるでしょうか?ご意見を頂けたら嬉しく思います。

今日の挿し絵代わりの写真は山梨県の甲斐駒岳の麓に咲いている花々の写真です。私が撮ったものです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)