1988年、舵社から出版された、白崎謙太郎著、「日本ヨット史」は名著です。史的価値の高い本です。
この本はわが国におけるスポーツとしてのヨットの歴史を、その発祥から第二次世界大戦の終戦に至るまでを区切りとして、「舵」誌の昭和60年12月号から62年4月号までの16回にわたって連載した“日本ヨット史稿”をまとめた本です。
現在も入手は可能で次の amazonから購入出来ます。
https://www.amazon.co.jp/日本ヨット史-文久元年-昭和20年-白崎-謙太郎/dp/4807243012
この本と2017年出版の白崎謙太郎著の戦後のヨット史を書いた「小網代ヨット史」を読むと明治維新前から現在までの日本のヨットの歴史が分かるのです。日本におけるヨットの歴史を書いた本は他にあまり無いのです。
そこで今日は白崎謙太郎著、「日本ヨット史」を紹介したいと思います。
さっそくですが、この本の全体の構成を以下に示します。
1章 横浜浮世絵と古写真
第2章 最初期のヨット
第3章 横浜ヨットクラブの誕生
第4章 T.M.ラフィンと幻のアルバム
第5章 日本人ヨットの胎動・大正時代
第6章 日本ヨット協会設立のころ
第7章 ヨットレースの幕あけ
第8章 Lクラスと外人クラブ
第9章 国内5メーターと設計の発展
第10章 ブルーウォーター派の台頭
第11章 戦前の外洋ヨットレース
第12章 知られざる野尻湖のヨット
第13章 戦前のオリンピックとヨット
第14章 もう一つの伝統・九州のヨット
第15紹 軍国主義下のヨット
この本によるとヨットが日本へ入って来たのは明治維新前後からです。
横濱に在住していたイギリス人などの欧米人が自分達の趣味として楽しんでいたのです。そうして横濱ヨットクラブが明治19年(1886年)に出来たのです。
このクラブや他の外人のヨットクラブが週末毎に横濱で盛んにレースを展開していました。
「日本ヨット史」の面白い点は、明治初期から大正12年の関東大震災までの横濱における外人ヨットマンを詳しく調べ上げ正確に記録している点にあります。
そしてそのヨットの建造場所も突き止めています。横濱での小さな造船所で欧米人や中国人、そして日本人の船大工によって作られたのです。その詳細は省略しますが著者の白崎謙太郎氏の資料の読み方が厳正なので信頼出来ます。
例えば江戸幕府が貧しい漁村を横濱港として整備し、欧米人へ開放する準備の経過などの一節は歴史的研究として一論文を成すくらい検証が厳密です。
明治19年頃までには、多くの在住欧米人がヨットを所有するようになったのです。
写真に明治20年頃に横浜で使われていたヨットを示します。外国人在住者の多かった神戸港や長崎でも同じような光景があったと想像できます。
これらの古い写真は白崎さんが見つけたのです。熱海駅前で歯科医をしていた館野常司氏を訪問し、古いヨットの写真集から転写したものです。
日本で一番古いと考えられるこのヨットの写真集は米人のラフィン氏が持っていて、後には、末娘のミス・ラフィンが秘蔵していたのです。彼女は親切に歯を治療してくれた歯科医でヨットマンの館野常司氏へ写真コピーを提供したのです。そして白崎さんが遂にそのコピー写真集の写真を撮ってきたのです。
はじめ日本人はヨットには関心を示しませんでした。少なくとも大正時代になるまでは外人だけの遊びでした。
このような状況の週末毎の華やかなヨットレースは、大正12年の関東大震災で消えてしまったのです。
震災で横濱は壊滅し、在住していた欧米人の事業も破滅に追いやられ、ヨットどころでは無くなったのです。関東大震災の横濱の被害は想像を絶する凄さだったのです。
日本人がヨットというスポーツを始めるようになったのはこの関東大震災後からなのです。
明治維新前後から実に50年間も経過してからヨットが日本人の間に普及しはじめたのです。その間に日清戦争があり、日露戦争があり、イギリス製の軍艦が多数輸入され大活躍していたのです。
何故ヨットの普及が50年間も遅れたのでしょうか?
日本には江戸時代以前から連綿として船を遊びの目的に使う文化が存在していませんでした。但し船頭に艪を漕がせて、船内で客が飲食しながら景色を楽しむ屋形船は各地にありました。
お客を運ぶ、荷物を運ぶ、魚を獲る、などと実用的な目的だけに使用していたのです。
高価な船を遊びだけに用いる事は贅沢過ぎ良い事と考えられていなかったのです。
そのような事を考えると横濱で盛んに活動していた外人のヨットクラブが日本人へ影響を与えるのに50年間もかかった理由が理解できます。
日本人自身がヨットを所有し、小型ヨットのディンギーでレースを始めたのは昭和の初期からです。そして昭和11年のベルリンオリンピックへ初めて参加したのです。監督は日本ヨット協会生みの親の吉本祐一、コーチとして艇および帆走規則に詳しい理論家の小澤吉太郎が加わり、主将、財部実を含めて総数7名の日本代表団が参加したのです。
はるばるシベリア鉄道でベルリンへ行ったのです。結果は惨敗でした。
一方、日本の大型ヨットによる外洋レースは昭和12年に三浦半島の鐙摺港(現在の葉山湊)を出発して大島を回ってくるというコースで開催されました。
日本人が乗り組んだ4艇が参加して、26時間で帰って来たアオイ号が優勝しました。その後、鐙摺港から熱海沖の初島を回る外洋レースも開催されます。
しかし外洋レースに必要なハンディキャップの計算方法が分からず、大らか過ぎるレースでした。
こうしてやっと日本人自身によるヨットが始まったのですが、昭和12年からの中国との戦争、そして第二次世界大戦の勃発で日本のヨットも中断してしまうのです。
ここまでの歴史は白崎謙太郎著の「日本ヨット史」に詳しく書いてあります。
戦後すぐに、進駐軍の将校が横濱などで本格的な外洋向けのクルーザーの建造を指導したのです。そして外洋レースに必要なハンディキャップの計算方法を日本人へ教えたのです。初めは進駐軍の将校が中心になって大島周りの外洋レースが盛んに行われたのです。
昭和26年に日本が独立するとアメリカ軍人も本国に帰る人が多くなります。大型ヨットは日本人へ引き継がれ、外洋レースは日本人が主体になって組織した日本オーシャンレーシングクラブが主催して毎年行われるようになったのです。
そうして1970年代から始まった経済の高度成長に従って小型ヨットのディンギーも大型のクルーザーヨットも一気に盛んになります。
結論的に言えば現在の日本のヨットは戦後、アメリカの進駐軍のお陰で本格的になったと言っても過言ではありません。
この戦後のヨットの普及の歴史は2017年出版の白崎謙太郎著「小網代ヨット史」に記録されています。
いずれこの「小網代ヨット史」の内容もご紹介したいと思います。
以上のように「日本ヨット史」には草創期の頃から第二次大戦後までのまでの日本のヨットの歴史が詳しく書いてあります。
この本はわが国のヨットの歴史を調べようとする人にとっては絶対に貴重な資料です。
それだけではありません。明治維新後、日本政府が西洋文化を導入する時、軍事技術や議会制の導入を優先し、ヨットのような「遊びの文化」を無視してきたことも示している本です。
それが日本に導入されたのは敗戦後に進駐して来たアメリカ将校によってなされたのです。
白崎謙太郎著、「日本ヨット史」は何故かいろいろなことを考えさせる内容の本です。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===この記事に関連のあるバックナンバー==========
「後藤和弘のブログ」https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama
(1)白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(1)全体の構成、そして渡辺修治さんとの絆、2011年11月30日
(2) 白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(2)明治時代、横濱に在住した外人のヨット、2011/12/01
(3) 白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(3)明治20年代の横濱にあったヨットの写真集の発見、2011/12/03
(4)白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(4)ベルリンオリンピックへの参加と戦前の外洋レース、2011年12月24日
(5)新刊紹介、白崎謙太郎著、「小網代ヨット史」、2017年08月04日
追記:上の資料には2つの間違いがあります。
1、渡辺修治さんを潜水艦乗りの将校と書きましたがそれは間違いです。渡辺修治さんは東大工学部船舶工学科出身の技術将校で海軍では潜水艦を設計し建造監督をしていました。
2、上の資料の中に横型の帆では風上に登るのは不可能という表現が含まれていますが、正しくは横型の帆は立て型の帆のようには容易に風上には登れないという表現にすべきでした。
以上2点の間違いを慎んで訂正いたします。
この本はわが国におけるスポーツとしてのヨットの歴史を、その発祥から第二次世界大戦の終戦に至るまでを区切りとして、「舵」誌の昭和60年12月号から62年4月号までの16回にわたって連載した“日本ヨット史稿”をまとめた本です。
現在も入手は可能で次の amazonから購入出来ます。
https://www.amazon.co.jp/日本ヨット史-文久元年-昭和20年-白崎-謙太郎/dp/4807243012
この本と2017年出版の白崎謙太郎著の戦後のヨット史を書いた「小網代ヨット史」を読むと明治維新前から現在までの日本のヨットの歴史が分かるのです。日本におけるヨットの歴史を書いた本は他にあまり無いのです。
そこで今日は白崎謙太郎著、「日本ヨット史」を紹介したいと思います。
さっそくですが、この本の全体の構成を以下に示します。
1章 横浜浮世絵と古写真
第2章 最初期のヨット
第3章 横浜ヨットクラブの誕生
第4章 T.M.ラフィンと幻のアルバム
第5章 日本人ヨットの胎動・大正時代
第6章 日本ヨット協会設立のころ
第7章 ヨットレースの幕あけ
第8章 Lクラスと外人クラブ
第9章 国内5メーターと設計の発展
第10章 ブルーウォーター派の台頭
第11章 戦前の外洋ヨットレース
第12章 知られざる野尻湖のヨット
第13章 戦前のオリンピックとヨット
第14章 もう一つの伝統・九州のヨット
第15紹 軍国主義下のヨット
この本によるとヨットが日本へ入って来たのは明治維新前後からです。
横濱に在住していたイギリス人などの欧米人が自分達の趣味として楽しんでいたのです。そうして横濱ヨットクラブが明治19年(1886年)に出来たのです。
このクラブや他の外人のヨットクラブが週末毎に横濱で盛んにレースを展開していました。
「日本ヨット史」の面白い点は、明治初期から大正12年の関東大震災までの横濱における外人ヨットマンを詳しく調べ上げ正確に記録している点にあります。
そしてそのヨットの建造場所も突き止めています。横濱での小さな造船所で欧米人や中国人、そして日本人の船大工によって作られたのです。その詳細は省略しますが著者の白崎謙太郎氏の資料の読み方が厳正なので信頼出来ます。
例えば江戸幕府が貧しい漁村を横濱港として整備し、欧米人へ開放する準備の経過などの一節は歴史的研究として一論文を成すくらい検証が厳密です。
明治19年頃までには、多くの在住欧米人がヨットを所有するようになったのです。
写真に明治20年頃に横浜で使われていたヨットを示します。外国人在住者の多かった神戸港や長崎でも同じような光景があったと想像できます。
これらの古い写真は白崎さんが見つけたのです。熱海駅前で歯科医をしていた館野常司氏を訪問し、古いヨットの写真集から転写したものです。
日本で一番古いと考えられるこのヨットの写真集は米人のラフィン氏が持っていて、後には、末娘のミス・ラフィンが秘蔵していたのです。彼女は親切に歯を治療してくれた歯科医でヨットマンの館野常司氏へ写真コピーを提供したのです。そして白崎さんが遂にそのコピー写真集の写真を撮ってきたのです。
はじめ日本人はヨットには関心を示しませんでした。少なくとも大正時代になるまでは外人だけの遊びでした。
このような状況の週末毎の華やかなヨットレースは、大正12年の関東大震災で消えてしまったのです。
震災で横濱は壊滅し、在住していた欧米人の事業も破滅に追いやられ、ヨットどころでは無くなったのです。関東大震災の横濱の被害は想像を絶する凄さだったのです。
日本人がヨットというスポーツを始めるようになったのはこの関東大震災後からなのです。
明治維新前後から実に50年間も経過してからヨットが日本人の間に普及しはじめたのです。その間に日清戦争があり、日露戦争があり、イギリス製の軍艦が多数輸入され大活躍していたのです。
何故ヨットの普及が50年間も遅れたのでしょうか?
日本には江戸時代以前から連綿として船を遊びの目的に使う文化が存在していませんでした。但し船頭に艪を漕がせて、船内で客が飲食しながら景色を楽しむ屋形船は各地にありました。
お客を運ぶ、荷物を運ぶ、魚を獲る、などと実用的な目的だけに使用していたのです。
高価な船を遊びだけに用いる事は贅沢過ぎ良い事と考えられていなかったのです。
そのような事を考えると横濱で盛んに活動していた外人のヨットクラブが日本人へ影響を与えるのに50年間もかかった理由が理解できます。
日本人自身がヨットを所有し、小型ヨットのディンギーでレースを始めたのは昭和の初期からです。そして昭和11年のベルリンオリンピックへ初めて参加したのです。監督は日本ヨット協会生みの親の吉本祐一、コーチとして艇および帆走規則に詳しい理論家の小澤吉太郎が加わり、主将、財部実を含めて総数7名の日本代表団が参加したのです。
はるばるシベリア鉄道でベルリンへ行ったのです。結果は惨敗でした。
一方、日本の大型ヨットによる外洋レースは昭和12年に三浦半島の鐙摺港(現在の葉山湊)を出発して大島を回ってくるというコースで開催されました。
日本人が乗り組んだ4艇が参加して、26時間で帰って来たアオイ号が優勝しました。その後、鐙摺港から熱海沖の初島を回る外洋レースも開催されます。
しかし外洋レースに必要なハンディキャップの計算方法が分からず、大らか過ぎるレースでした。
こうしてやっと日本人自身によるヨットが始まったのですが、昭和12年からの中国との戦争、そして第二次世界大戦の勃発で日本のヨットも中断してしまうのです。
ここまでの歴史は白崎謙太郎著の「日本ヨット史」に詳しく書いてあります。
戦後すぐに、進駐軍の将校が横濱などで本格的な外洋向けのクルーザーの建造を指導したのです。そして外洋レースに必要なハンディキャップの計算方法を日本人へ教えたのです。初めは進駐軍の将校が中心になって大島周りの外洋レースが盛んに行われたのです。
昭和26年に日本が独立するとアメリカ軍人も本国に帰る人が多くなります。大型ヨットは日本人へ引き継がれ、外洋レースは日本人が主体になって組織した日本オーシャンレーシングクラブが主催して毎年行われるようになったのです。
そうして1970年代から始まった経済の高度成長に従って小型ヨットのディンギーも大型のクルーザーヨットも一気に盛んになります。
結論的に言えば現在の日本のヨットは戦後、アメリカの進駐軍のお陰で本格的になったと言っても過言ではありません。
この戦後のヨットの普及の歴史は2017年出版の白崎謙太郎著「小網代ヨット史」に記録されています。
いずれこの「小網代ヨット史」の内容もご紹介したいと思います。
以上のように「日本ヨット史」には草創期の頃から第二次大戦後までのまでの日本のヨットの歴史が詳しく書いてあります。
この本はわが国のヨットの歴史を調べようとする人にとっては絶対に貴重な資料です。
それだけではありません。明治維新後、日本政府が西洋文化を導入する時、軍事技術や議会制の導入を優先し、ヨットのような「遊びの文化」を無視してきたことも示している本です。
それが日本に導入されたのは敗戦後に進駐して来たアメリカ将校によってなされたのです。
白崎謙太郎著、「日本ヨット史」は何故かいろいろなことを考えさせる内容の本です。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===この記事に関連のあるバックナンバー==========
「後藤和弘のブログ」https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama
(1)白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(1)全体の構成、そして渡辺修治さんとの絆、2011年11月30日
(2) 白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(2)明治時代、横濱に在住した外人のヨット、2011/12/01
(3) 白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(3)明治20年代の横濱にあったヨットの写真集の発見、2011/12/03
(4)白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(4)ベルリンオリンピックへの参加と戦前の外洋レース、2011年12月24日
(5)新刊紹介、白崎謙太郎著、「小網代ヨット史」、2017年08月04日
追記:上の資料には2つの間違いがあります。
1、渡辺修治さんを潜水艦乗りの将校と書きましたがそれは間違いです。渡辺修治さんは東大工学部船舶工学科出身の技術将校で海軍では潜水艦を設計し建造監督をしていました。
2、上の資料の中に横型の帆では風上に登るのは不可能という表現が含まれていますが、正しくは横型の帆は立て型の帆のようには容易に風上には登れないという表現にすべきでした。
以上2点の間違いを慎んで訂正いたします。