後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

夏の季節の花10種の写真、花名の由来、花言葉

2019年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日、鬱陶しい梅雨空が続きます。
しかし野山や花園にはいろいろな季節の花々が咲いています。
そこで今日は夏の季節の花10種の写真、花名の由来、花言葉をご紹介いたします。
私が何度も写真に撮った馴染み深い花を10種選びました。
花言葉で自分の気持ちを相手に送ることはロマンチックですが、お互いに意味を知らないと役に立ちません。
しかし花言葉を一つ一つ見て行くと、それを始めて見た人間の感じ方が偲ばれて面白いものです。
一方、花の名前の由来は花の形や色に由来するものと学名に由来するものがあります。花の咲き方や他のことが由来になっているものもあります。丁寧に見て行くとその花と人間のかかわりが分かり、興味が尽きません。
お時間のある方はゆっくりお楽しみ下さい。
写真と花名の由来や花言葉の出典は、http://hananokotoba.com/natsu/ です。

1番の写真はアガパンパスです。
花名の由来、
属名の学名「Agapanthus(アガパンサス)」は、ギリシア語の「agape(愛)」と「anthos(花)」が語源となり、「愛の花」という意味があります。
別名は紫君子蘭(ムラサキクンシラン)、英語ではアフリカンリリー(African lily)とも呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉も「愛の花」という意味をもつアガパンサスの名前にちなんだものとなり、「恋の訪れ」「ラブレター」の花言葉がつけられました。「知的な装い」の花言葉は、淡青紫色の涼しげで繊細な花姿に由来するといわれます。

2番の写真はアサガオです。
花名の由来、
花名のアサガオ(朝顔)は、朝に花を咲かせ、昼にしぼんでしまう様子を「朝の美人の顔」に例えた「朝の容花(あさのかおばな)」の意味であるといわれています。
花言葉の由来、
花言葉の「はかない恋」は、朝咲いて午後にはしぼんでしまう短い命の花であることに由来します。また、「固い絆」の花言葉は支柱にしっかりとツルを絡ませることにちなみます。

3番の写真はアリウムです。
花名の由来、
属名の学名「Allium(アリウム)」は、「におい」という意味の言葉が語源となり、この属の植物の多くが強いにおいを放つことにちなむといわれます。ラテン語で「allium」はニンニクを意味します。
花言葉の由来、
花言葉の「深い悲しみ」は、アリウムの花姿が悲しみたたずむ人間を連想させることに由来するともいわれます。

4番の写真はオジギソウです。花名・花言葉の由来
花名の由来、
オジギソウ属の学名「Mimosa(ミモザ)」は、ギリシア語の「mimos(身振り、まね)」が語源で、この植物がおじぎのまねをすることに由来します。
このようにミモザは本来オジギソウ属を指す植物名ですが、フサアカシア(アカシア属)の葉がオジギソウのものに似ていることから、誤ってフサアカシアをミモザと呼ぶようになりました。
英語では「敏感な草(Sensitive plant)」、漢名では「含羞草(恥ずかしがる草)」と呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉の「繊細な感情」「感受性」「敏感」は、オジギソウの葉に軽く触れるだけで、葉が閉じ垂れ下がってしまうことにちなみます。

5番の写真はカラスウリです。
花名の由来、
属名の学名「Trichosanthes(トリコサンセス)」は、ギリシア語の「thrix(毛)」と「anthos(花)」が語源となり、花びらの縁部が細裂して糸状になることに由来します。
和名の烏瓜(カラスウリ)は、熟した赤い実をカラスが好んで食べることにちなむともいわれます。しかし、特にカラスの好物という観察例はほとんどないようです。
英語では「Japanese snake gourd(日本のヘビウリ)」とも呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉の「よき便り」は、実のなかの黒褐色のタネの形状が結び文に似ていることに由来するといわれます。特異なタネの形状はカマキリの頭部や打ち出の小槌にたとえられることもあります。
「男ぎらい」の花言葉は、この花が日没後にレースのような純白の花を咲かせ、日の出前にはしぼんでしまうことにちなむといわれます。

6番の写真はキョウチクトウです。
花名の由来、
花名の夾竹桃(キョウチクトウ)は、葉がタケに、花がモモに似ていることにちなみます。
属名の学名「Nerium(ネリウム)」は、ギリシア語の「neros(湿った)」を語源とし、この属の植物が湿地によく育つことに由来します。
花言葉の由来、
花言葉の「注意」「危険」「用心」は、キョウチクトウに強い毒性があることに由来します。

7番の写真はサルスベリです。
花名の由来、
花名のサルスベリ(猿滑)は、樹皮がツルツルしていて、猿でも滑りそうなところに由来します。実際には滑ることなく、簡単に登ってしまいます。
また、百日紅(ヒャクジツコウ)とも呼ばれ、サルスベリが夏の盛りに長い間咲き続けることにちなみます。
花言葉の由来、
花言葉の「雄弁」は、枝先に群がり咲くサルスベリの華やかな咲きかたに由来するといわれます。
また、枝をこすると葉や花が揺れ、盛んに話しているようにみえることから「雄弁」の花言葉がついたともいわれます。

8番の写真はヒマワリです。
花名の由来、
和名の「向日葵(ヒマワリ)」は、花が太陽の方向を追うように動くことに由来します。
英語では「太陽の花(Sunflower)」と呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉の「私はあなただけを見つめる」は、ヒマワリが太陽の方向を追うように動く性質にちなみます。
西洋の花言葉の「偽りの富(false riches)」は、インカ帝国(ペルー)を征服したスペイン人が、太陽の神殿に仕えた巫女のヒマワリを形どった純金の装身具などを奪い取ったことに由来するともいわれます。

9番の写真はスイレンです。
花名の由来、
花名のスイレン(睡蓮)は、この花が夕方に閉じる(睡る)ことに由来するといわれます。
日本全国の池や沼に広く分布するスイレン属のヒツジグサ(未草)の名前は、未(ヒツジ)の刻(午後2時)に花を開くことにちなみますが、実際には朝から夕方まで花を咲かせます。
花言葉の由来、
朝に花を開き、夕方に花を閉じるスイレンは、古代エジプトにおける太陽のシンボルとされ、エジプトの装飾や神話にも多く登場します。花言葉の「信仰」もこれにちなむといわれます。
花言葉において、白い花は「純潔」「清浄」をあらわすことが多く、スイレンの花言葉「清純な心」も野生のスイレンの多くが白い花であることに由来します。

10番の写真はジキタリスです。
花名の由来、
属名の学名「Digitalis(ジギタリス)」は、ラテン語の「digitus(指)」を語源とし、花の形が指サックに似ていることに由来します。
別名の「狐の手袋(キツネノテブクロ)」は、英名のフォックス・グローブ(Foxglove)をそのまま訳したもので、この花が手袋の指のように見えることにちなみます。
花言葉の由来、
花言葉の「不誠実」は、ギリシア神話にてサイコロ遊びが好きだったゼウスの妻ヘラに由来するといわれます。

さて以上では10種類の花だけを選びましたが、本当はもう10種位は示したかったのです。夏の花と言えば皆様ももっと違う花を思い浮かべるかもしれません。全国の場所、場所によって代表的な夏の花も変わることでしょう。
そして幼少の頃の夏にみた懐かしい花の思い出を大切にしている方も多いと思います。そんな私の懐かしい花は野原に咲いていた夏の夜の月見草の花でした。最近は野原も少なくなって野の月見草を見ることは稀になりました。淋しいです。

竹内義信著「遥かなるハイラルと仙台の大学生活」

2019年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム
竹内義信君は私の仙台の大学時代の友人です。数年前からこのブログにハイラルでの小学校の思い出やイタリア駐在時代の記事を寄稿してくれました。
しかし仙台の大学時代の思い出を書いたものが無かったので先般それをお願いしました。
頂いた原稿にハイラルでの小学校の思い出を組み合わせて編集しました。
竹内義信君は竹を割ったような清々しい性格です。文章も淡々として雑味の無いものです。
この竹内君の文章を読むと満州の実態や戦後の新制大学の混乱ぶりがあぶり出されています。これは民衆の立場から見た日本の敗戦にまつわるささやかな歴史書になっています。
ヴァイツゼッカー大統領の有名な謝罪演説の「荒れ野の40年」にあるように、過去に目をつぶる者は現在に対しても盲目になるのです。
今日は竹内義信著「遥かなるハイラルと仙台の大学生活」をお送りいたします。心静かにお読み頂くようにと祈っております。
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竹内義信著「遥かなるハイラルと仙台の大学生活」

(1)遥かなるハイラルの小学校
海拉爾(ハイラル)とは満州の北西の端にある町です。
当時の住民はロシア人と満州人の漢民族が主で、他に蒙古人でした。そこに関東軍が堅固な陣地を構築し、多数の日本人が住んでいたのです。
ハイラル駅付近を新市街と称し、多くの日本人が住み役所を置きハイラル地方を統治していたのです。
純然たるロシア人は5000人ほどで、道路は広く、区画は整然としていたそうです。
北側に城壁と大門があり、東、南、西側には城壁がありませんでした。東に伊敏河(イミンホー)が流れ、西に西土山があります。南は茫々たる草原でした。
私はこのハイラルに存在していた日本の小学校で4年生まで勉強していました。ハイラル小学校は昭和8年4月1日に開校され昭和20年8月9日のソ連軍の侵攻で消滅します。最盛時の昭和19年には児童数は400人にも増大し、職員数も20人以上いたそうです。それが昭和20年8月9日のソ連軍侵攻で消えてしまったのです。昭和8年の開校以来12年4ケ月の短い命でした。
ハイラルの小学校は楽しい思い出ばかりです。その上郊外は一面の草原でした。
 私は昭和20年8月9日のソ連侵攻まで、ハイラルで平和に暮らしていたのです。
その海拉爾(ハイラル)の西側の砂山は西山と呼ばれてました。そこに生えていた赤松を「樟子松」と言います。
西山には樟子松が沢山生えており、20メートルを超えるものも少なくありませんでした。神社や忠霊塔の後背地になっており神々しさを与えるのに役立っていました。
学校から帰るとそんな場所が遊び場でした。
この平和な楽しい生活が昭和20年8月9日のソ連軍侵攻で突如崩壊してしまったのです。
苦難の引き揚げの後、郷里の新潟県の小千谷町に帰って来ました。
そこの小千谷高校から仙台の東北大学へ入学したのです。

(2)東北大学に入学出来て一番喜んだのは母
私は昭和29年(1954年)に東北大学に入学して、工学部応用化学科を昭和33年に卒業して、昭和35年に修士課程を終えました。昭和29年と言うのは戦後9年目で新制大学制度になってから5年目でした。
化学をやりたいと中学の時から決めていましたが、理学部にするか工学部にする迷いましたが、就職のことを考えて工学部にしました。
私が卒業した新潟県立の小千谷高校からは前年工学部に三人、農学部に一人と四人も東北大学に受かっておりましたので、何とか入れるだろうと受験しました。
東北大に合格して母が一番喜びました。母は大正時代に東北大学医学部の看護婦養成所を出ていました。
満洲から引き揚げてからずっと小千谷で看護婦をやっておりました。私の入学式には「杜の都 仙台」が見たいと約30年ぶりに仙台を訪れましたが、戦災で街路樹が消失しており大変残念がっておりました。

(3)仙台での下宿生活が始まる
受験の時は長町の早坂医院に小千谷高から7名が宿泊して、二年上の加藤先輩と一年上の斉藤先輩のお二人がお世話をして下さいました。入学してからも私は早坂医院に下宿したので、小千谷高校の卒業生が6名となり、早坂医院の下宿生総勢17名の一大勢力となりました。
早坂医院と言うのは開業医だったのですが、先生が年を取られ廃業して、病室と診察室を利用した食事つきの学生下宿となっておりました。食事は一組8~9人の二交代制で、女中のオチヨサン(清子)が声を掛けると座式の食卓に並びました。奥さんのオバンゲルとお嬢さんのマスミさんも手伝っていました。
入学して早坂医院の昔の診察室に新潟県出身の三名が割り当てられました。長岡高出身の中川君と新発田高出身の佐藤君でした。12畳ほどの畳の大部屋に三人が机と布団を並べて暮らしました。

(4)マッカーサーの命令で帝国大学が消滅し新制大学になり混乱する
新制の東北大には、旧制の二高、仙台高専、宮城県の各師範が吸収されました。二高は工学部と教育学部以外の文学、法学、経済、理学、農学の各学部の教養部となり一教と呼ばれ三神峯にありました。
工学部の教養部は二教と呼ばれ、片平丁の本部に隣接した南六軒町にありました。旧仙台高専の校舎を使用しました。二教の敷地内に新築の体育館があり、入学式や卒業式に使用されておりました。従って、入学式の体育館からそのまま二教の教養部で二年間を過ごしました。
工学部は専攻は帝国大学当時と同じ機械、精密、電気、通信、応化、金属、鉱山、土木、建築の9学科で一学年350名でした。
二教では350名が8クラスに分けられ私は8組だったと思います。
マッカーサーの命令で変わったことは旧制の高校や専門学校などが消えそれが2学年までの教養部になったことでした。帝国大学の専門教育はそのまま残ったのです。マッカーサーの命令はアメリカと同じ大学を作れという命令でしたが徹底しませんでした。大学改革は中途半端に終わったのです。

(5)担任の宮崎芳三助教授と親しくなる
担任の宮崎芳三助教授は土居光知大先生の教え子で新進気鋭の英文学者でした。また私が8組クラス委員に指名されたので、宮崎先生とは比較的親しくさせて頂きました。
 一学年の履修科目の英語は講読で二人の先生がおり、一年に一冊上げると言う旧態依然とした授業で面白くないのです。宮崎先生のところにつまらないと言いに行きました。
 理科は物理、化学、生物、地学の四教科を全部履修しました。生物の永野為武先生は俳人としても知られておられましたが、工学の世界でも生物に学ぶ点は多いと教えられました。
地学では2万5千分の1を使って等高線により横断面を書くのが面白かったです。
 図書館で見付けたライナス・ポーリングの「一般化学」(関集三、千原秀昭、桐山良一郎共訳、岩波書店)で化学結合が電子雲で表現されているのに目が覚める思いでした。
 その頃の学生の愛読書として河合栄次郎「学生に与う」と阿部次郎の「三太郎日記」が人気がありました。

(6)入学一年後に応用化学科へ進学
 私達の学年から工学部の専攻学科をこれまで三学年になる時に決めていたのを一学年が終わった時点で決めることになり、一年早く専攻学科が決まることになりました。
 各学科には厳密な定員があるので希望者が多い場合は成績順に決めると言うことでした。応用化学科は定員超過だと言う噂がありました。第一志望から第九志望まで記入することになっていたが、応用化学科以外には行く気がなかったので、またクラス担任の宮崎先生のところへ相談に行きました。「私は応用化学科へどうしても進みたいので、第一志望の応用化学科しか書かない」と言うと宮崎先生はニコニコしながら、「君の成績は分らないが、私の英語の成績からだけでも君が希望の応用化学科に行けないことはないと思うから心配しなくとも良い。」と言われました。結局宮崎先生の仰る通り二学年になる時、応用化学科進学予定者に入れて貰えました。
 このように二学年になる時に専攻学科を決めるのは、二学年の後期から基礎専門学科の授業を開始するためでした。旧制大学は三年間だったのですから、それを二年間で教えると言うのは無理と言うものです。新制大学と旧制大学とを常に比較し旧制に戻ろうとう風潮があったように思います。
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こうして竹内君は応用化学科へ進学しますが、その専門教育については続編の、竹内義信著、「イタリアの魅力と大学の専門教育」という記事に続きます。

今日の挿し絵代わりの写真はハイラル郊外の草原と樟子松の林の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)





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竹内義信氏の略歴:1958年、東北大学、応用化学科卒業。1960年大学院を修了。総合化学会社の帝人の研究所に就職。その研究所が彼の生涯の仕事場になったのです。その研究所からアメリカの大学へ留学し、博士号をとります。そして帰国後数年してから、今度はイタリーのミラノに派遣され4年間在住しました。大会社の研究所にいる優秀な研究者がよくたどる経歴でした。