最近、奥多摩や相模湖などへはよく遊びに行きますが海の方には久しく行っていません。
昨日は春のような晴天です。明るい陽光に誘われ湘南の海の写真を撮って来ました。小金井から中央高速で八王子ジャンクションで圏央道に入り茅ケ崎海岸まで約80Kmです。
昨日、撮って来た茅ケ崎海岸の波の写真をお送りします。
湘南海岸は1950年代後半から太陽族が集まって賑わっていました。70歳代、80歳代の人々はご記憶のことと存じます。
この太陽族という言葉は石原 慎太郎の小説の『太陽の季節』に由来します。
この小説に出て来る若者達は葉山で遊びましたが、鎌倉、茅ケ崎、大磯、小田原にかけた湘南海岸を太陽族の海と呼ぶのが普通です。そして湘南海岸は太陽族の海として人気が高まりました。
『太陽の季節』は1956年(昭和31年)に、第34回(1955年下半期)芥川賞を受賞しました。
小説の内容は裕福な家庭に育った若者の無軌道な生活を通して、戦後の新世代の遊び方や考え方を描いた作品です。
ストーリーは石原慎太郎の弟・石原裕次郎が、ある仲間の噂話として慎太郎に聞かせた話が題材になっていると言います。この作品は石原の出世作です。
ストーリーが倫理性に欠けることで、発表されるや文壇のみならず一般社会にも賞賛と非難を巻き起こした問題作だったのです。
その頃、私は仙台の大学生でした。暗い東北地方の海しか知らない私はまだ見ぬ湘南海岸はキラキラ輝く華やかな海として憧れていました。
それはそれとして『太陽の季節』の芥川賞の選考委員の評価が面白いでの以下にご紹介します。
選考委員の評価文の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/太陽の季節 です。
賛成派:
伊藤整は、「いやらしいもの、ばかばかしいもの、好きになれないものでありながら、それを読ませる力を持っている人は、後にのびる」と推奨し、武田泰淳は、「彼は小説家より大実業家になるかも知れない」と述べている。
石川達三は、「欠点は沢山ある。気負ったところ、稚さの剥き出しになったところなど、非難を受けなくてはなるまい」、「倫理性について〈美的節度〉について、問題は残っている。しかし如何にも新人らしい新人である。危険を感じながら、しかし私は推薦していいと思った」とし、「この作者は今後いろいろな駄作を書くかも知れない。私はむしろ大胆に駄作を書くことをすすめたい。傑作を書こうとする意識はこの人の折角の面白い才能を萎縮させるかも知れない」と述べている。
舟橋聖一は、「この作品が私をとらえたのは、達者だとか手法が映画的だとかいうことではなくて、一番純粋な〈快楽〉と、素直に真っ正面から取り組んでいる点だった」とし、「彼の描く〈快楽〉は、戦後の〈無頼〉とは、異質のものだ」と評している。また、「佐藤春夫氏の指摘したような、押しつけがましい、これでもか、これでもかの、ハッタリや嫌味があっても、非常に明るくはっきりしているこの小説の目的が、それらの欠陥を補ってあまりあることが、授賞の理由である」と述べている。
井上靖は、「その力倆と新鮮なみずみずしさに於て抜群だと思った」とし、「問題になるものを沢山含みながら、やはりその達者さと新鮮さには眼を瞑ることはできないといった作品であった」、「戦後の若い男女の生態を描いた風俗小説ではあるが、ともかく一人の―こんな青年が現代沢山いるに違いない―青年を理窟なしに無造作に投げ出してみせた作品は他にないであろう」と述べている。
反対派:
吉田健一は、「体格は立派だが頭は痴呆の青年の生態を胸くそが悪くなるほど克明に描写した作品」と酷評し、「ハード・ボイルド小説の下地がこの作品にはある」とした上で、「その方を伸ばして行けば、『オール讀物』新人杯位まで行くことは先づ請け合へると思ふ」と述べている。
平野謙は、「私などの老書生にはこういう世界を批評する資格がない」とさじを投げた。
丹羽文雄は、「若さと新しさがあるというので、授賞となったが、若さと新しさに安心して、手放しで持ちあげるわけにはいかなかった。才能は十分にあるが、同時に欠点もとり上げなければ、無責任な気がする」とし、「プラス・マイナスで、結局推す気にはなれなかった。私には何となくこの作品の手の内が判るような気がする」と述べている。
佐藤春夫は、「反倫理的なのは必ずも排撃はしないが、こういう風俗小説一般を文芸として最も低級なものと見ている上、この作者の鋭敏げな時代感覚もジャナリストや興行者の域を出ず、決して文学者のものではないと思ったし、またこの作品から作者の美的節度の欠如を見て最も嫌悪を禁じ得なかった」とし、「これでもかこれでもかと厚かましく押しつけ説き立てる作者の態度を卑しいと思ったものである。そうして僕は芸術にあっては巧拙よりも作品の品格の高下を重大視している。僕にとって何の取柄もない『太陽の季節』を人々が当選させるという多数決に対して、僕にはそれに反対する多くの理由はあってもこれを阻止する権限も能力もない」と投げやりになりながら、「僕はまたしても小谷剛を世に送るのかとその経過を傍観しながらも、これに感心したとあっては恥しいから僕は選者でもこの当選には連帯責任は負わないよと念を押し宣言して置いた」と批判している。
宇野浩二は、「読みつづけてゆくうちに、私の気もちは、しだいに、索然として来た、味気なくなって来た」とし、「仮に新奇な作品としても、しいて意地わるく云えば、一種の下らぬ通俗小説であり、又、作者が、あたかも時代に(あるいはジャナリズム)に迎合するように、(中略)〈拳闘〉を取り入れたり、ほしいままな〈性〉の遊戯を出来るだけ淫猥に露骨に、(中略)書きあらわしたり、しているからである」と批判している。
さて皆様は上のいろいろな選評のどれに賛成しますか?
私は反対派のいろいろな意見にいささか同感です。それにしても石原慎太郎は政治家として活躍しました。その政治姿勢は賛成出来ませんが偉い人です。
それはそれとして、今日は皆様のご健康と格調の高い老境をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)