夫婦とは何でしょう?
縁もゆかりも無い人が一緒になって何十年も暮らしているから不思議です。その上2人の考え方が大きく違う場合があるのです。
今日は我が家の場合を例にとり考え方が大きく違う実例を一つご紹介します。そしてこの大いなる違いにもかかわらず離婚もしないで60年間一緒に暮らしてきた理由を書きます。
まず我々夫婦の考え方が大きく違う一つの実例は日本語に関する考え方の違いです。考え方が違うので必ず小さな夫婦喧嘩になります。
私は言葉というものは時代、時代によって変わるので新しい言葉や外来語や変な略語を使います。よく言えば生きた言葉を使います。
しかし妻は古い日本語を大切にし、流行語を使いません。なにせ万葉集や源氏物語にある言葉が美しいと思い、昭和の言葉が美しいと思い込んでいるのですから困るのです。
流行語の一例は、私が「インスタバエする」写真を撮って来たと言います。毎日、掲載しているような美しい写真です。
こんな言葉を使う瞬間に妻は眉をひそめて、「そんな言葉は使わないでください」と言明します。
私は言葉は生きているものだから古臭い言葉を使うのは間違っていると主張します。
小さな夫婦喧嘩になります。
まだあります。会話をしていても妻の発言に意味不明の文章が出て来るのです。例えば「道路のゴミは困る」と言います。そこで私が誰が困るの?と聞き返します。すると「皆も困るし、ゴミを拾う私も困るのです」と言います。
ようするに文章の主語を省略するのです。私が何時でも主語を明確に言わなければいけないと説教します。すると妻は古い文章を引っ張り出して来て、ここにある文章には主語が書いてありません。しかし前後の脈絡から主語が誰なのか明快に分かるのです。それが日本語の使い方ですと言い張ります。
小さな夫婦喧嘩になります。
それで私は分かりました。曖昧に言うから日本語が美しいのだと分かりました。主語を明快に書き、事実関係をはっきり書いた瀬戸内寂聴さんの源氏物語に厳しい非難をする日本人がいます。源氏物語を若者にも分かるように明快に書き替えたからです。これでは曖昧模糊とした源氏物語の美しさが無くなってしまうのです。
日本語に由来する小さな夫婦喧嘩の原因はまだあります。
私は生まれも育ちも仙台です。ですから宮城県の東北弁の中で育ったので標準語の発音が言えないのです。橋と箸と端の発音が皆同じなのです。その上、宮城県の東北弁では言葉が全て濁った発音になります。例えば「学校へ行く」は「がっごうさ いぐ」となります。
「そうです」は「うだうだ」となります。
一方、東京弁を軽やかに駆使する妻がいささか蔑むように、「正しい発音をなさって下さい」と言います。
私は「東京弁が正しくて、仙台弁が間違っていると一体、誰が決めたんだ」と色めきます。どうも明治政府が決めたようです。
私は「東北弁も関西弁も鹿児島弁も沖縄弁も皆正しいのです」と主張します。
小さな夫婦喧嘩になります。
こんな事を書いていたらキリがありません。結論だけを書きます。
私の妻は伝統的な日本文化が好きな原日本人なのです。日本原人なのです。
一方私は西洋文化の影響を受けた近代的な日本人なのです。これでは夫婦喧嘩になるのは自然の成り行きです。
言葉に対する考え方がこんなに大きく違うのに何故離婚しないのでしょうか?
それは妻のお陰で日本文化の特徴が深く理解出来たのです。日本文化では明快過ぎることは忌み嫌うのです。
一番分かり易い一例は日本の宗教です。日本ではよく神仏に祈るという表現をします。
この時、神と仏は違うのですかと聞いてはいけません。神はキリスト教の神と同じですかと聞いてはいけません。佛とは観音菩薩ですか?お釈迦さまですか?と聞いてはいけません。
全ては神仏に祈る人の心の中にあることなのです。
それにしても日本の佛教とお釈迦さもの教えの違いには気になります。
ご興味のある方は次の記事をご覧ください。
「日本の仏教と釈迦の教えの違い(1)5つの具体例」(2018年05月14日 掲載記事)
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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「日本の仏教と釈迦の教えの違い(1)5つの具体例」の抜粋です。
・・・さてそれでは釈迦の教えと日本の仏教の違いを以下に示して見ようと思います。
(1)釈迦は自分が死んだら墓を作らず、遺骨は野に捨てよと言って入滅しました。
しかし日本の仏教では先祖の墓を大切にし、お寺はお墓の管理で収入を得ています。
(2)釈迦は全ての像を拝んではいけない。仏像など作ってはいけないと教えました。
しかし日本には観音さまや薬師さまや大日如来さまの像が沢山あり、崇拝されています。
(3)釈迦は全ての殺生を禁じました。
しかし現在の日本の仏教徒はこの戒律を破っています。しかし江戸時代までの日本人も四つ足の動物は殺して食べませんでした。
(4)釈迦は妻や家族から離れて出家しました。
しかし日本の僧侶は妻帯し子供を大切にしています。お寺は世襲制で子供がまた住職になるのです。お寺の住職の世襲制は釈迦の教えとは違います。
(5)釈迦は教えの中心の「色即是空、空即是色」と「受想行識亦復如是」を本当に深く理解し信じるためには家族から離れて出家しなければいけないと教えました。
しかし日本では出家しなくても釈迦の教えが理解でき悟りの境地に入れると信じられています。・・・
縁もゆかりも無い人が一緒になって何十年も暮らしているから不思議です。その上2人の考え方が大きく違う場合があるのです。
今日は我が家の場合を例にとり考え方が大きく違う実例を一つご紹介します。そしてこの大いなる違いにもかかわらず離婚もしないで60年間一緒に暮らしてきた理由を書きます。
まず我々夫婦の考え方が大きく違う一つの実例は日本語に関する考え方の違いです。考え方が違うので必ず小さな夫婦喧嘩になります。
私は言葉というものは時代、時代によって変わるので新しい言葉や外来語や変な略語を使います。よく言えば生きた言葉を使います。
しかし妻は古い日本語を大切にし、流行語を使いません。なにせ万葉集や源氏物語にある言葉が美しいと思い、昭和の言葉が美しいと思い込んでいるのですから困るのです。
流行語の一例は、私が「インスタバエする」写真を撮って来たと言います。毎日、掲載しているような美しい写真です。
こんな言葉を使う瞬間に妻は眉をひそめて、「そんな言葉は使わないでください」と言明します。
私は言葉は生きているものだから古臭い言葉を使うのは間違っていると主張します。
小さな夫婦喧嘩になります。
まだあります。会話をしていても妻の発言に意味不明の文章が出て来るのです。例えば「道路のゴミは困る」と言います。そこで私が誰が困るの?と聞き返します。すると「皆も困るし、ゴミを拾う私も困るのです」と言います。
ようするに文章の主語を省略するのです。私が何時でも主語を明確に言わなければいけないと説教します。すると妻は古い文章を引っ張り出して来て、ここにある文章には主語が書いてありません。しかし前後の脈絡から主語が誰なのか明快に分かるのです。それが日本語の使い方ですと言い張ります。
小さな夫婦喧嘩になります。
それで私は分かりました。曖昧に言うから日本語が美しいのだと分かりました。主語を明快に書き、事実関係をはっきり書いた瀬戸内寂聴さんの源氏物語に厳しい非難をする日本人がいます。源氏物語を若者にも分かるように明快に書き替えたからです。これでは曖昧模糊とした源氏物語の美しさが無くなってしまうのです。
日本語に由来する小さな夫婦喧嘩の原因はまだあります。
私は生まれも育ちも仙台です。ですから宮城県の東北弁の中で育ったので標準語の発音が言えないのです。橋と箸と端の発音が皆同じなのです。その上、宮城県の東北弁では言葉が全て濁った発音になります。例えば「学校へ行く」は「がっごうさ いぐ」となります。
「そうです」は「うだうだ」となります。
一方、東京弁を軽やかに駆使する妻がいささか蔑むように、「正しい発音をなさって下さい」と言います。
私は「東京弁が正しくて、仙台弁が間違っていると一体、誰が決めたんだ」と色めきます。どうも明治政府が決めたようです。
私は「東北弁も関西弁も鹿児島弁も沖縄弁も皆正しいのです」と主張します。
小さな夫婦喧嘩になります。
こんな事を書いていたらキリがありません。結論だけを書きます。
私の妻は伝統的な日本文化が好きな原日本人なのです。日本原人なのです。
一方私は西洋文化の影響を受けた近代的な日本人なのです。これでは夫婦喧嘩になるのは自然の成り行きです。
言葉に対する考え方がこんなに大きく違うのに何故離婚しないのでしょうか?
それは妻のお陰で日本文化の特徴が深く理解出来たのです。日本文化では明快過ぎることは忌み嫌うのです。
一番分かり易い一例は日本の宗教です。日本ではよく神仏に祈るという表現をします。
この時、神と仏は違うのですかと聞いてはいけません。神はキリスト教の神と同じですかと聞いてはいけません。佛とは観音菩薩ですか?お釈迦さまですか?と聞いてはいけません。
全ては神仏に祈る人の心の中にあることなのです。
それにしても日本の佛教とお釈迦さもの教えの違いには気になります。
ご興味のある方は次の記事をご覧ください。
「日本の仏教と釈迦の教えの違い(1)5つの具体例」(2018年05月14日 掲載記事)
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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「日本の仏教と釈迦の教えの違い(1)5つの具体例」の抜粋です。
・・・さてそれでは釈迦の教えと日本の仏教の違いを以下に示して見ようと思います。
(1)釈迦は自分が死んだら墓を作らず、遺骨は野に捨てよと言って入滅しました。
しかし日本の仏教では先祖の墓を大切にし、お寺はお墓の管理で収入を得ています。
(2)釈迦は全ての像を拝んではいけない。仏像など作ってはいけないと教えました。
しかし日本には観音さまや薬師さまや大日如来さまの像が沢山あり、崇拝されています。
(3)釈迦は全ての殺生を禁じました。
しかし現在の日本の仏教徒はこの戒律を破っています。しかし江戸時代までの日本人も四つ足の動物は殺して食べませんでした。
(4)釈迦は妻や家族から離れて出家しました。
しかし日本の僧侶は妻帯し子供を大切にしています。お寺は世襲制で子供がまた住職になるのです。お寺の住職の世襲制は釈迦の教えとは違います。
(5)釈迦は教えの中心の「色即是空、空即是色」と「受想行識亦復如是」を本当に深く理解し信じるためには家族から離れて出家しなければいけないと教えました。
しかし日本では出家しなくても釈迦の教えが理解でき悟りの境地に入れると信じられています。・・・