暮れからお正月にかけては除夜の鐘や神社の初詣などで日本の伝統を楽しみました。食べ物もお雑煮やお汁粉やお節料理と日本の味ばかりです。
お正月ですから、それも楽しいいものです。しかし何故か西洋が懐かしくなります。何気なく印象派の油彩画の写真を見ていたらヨンキントの絵画に目が止まりました。ヨンキントはクロード・モネの師匠で印象派の先駆者と言われているオランダの画家です。外光の様々な変化を捕らえています。
その油彩画の5枚の写真をお送りします。mnnoblog さんのブログ;http://mnnoblog.exblog.jp/15483482/ より転載させて頂きました。
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1番目の写真は「オンフルールの港を出航する帆船」です。19世紀のヨーロッパはまだ帆船が実用されていたのです。出港する帆船を2艘の手漕ぎのボートが引っ張っています。遠景に黒煙を盛んに上げているのはタグボートでしょうか。帆船は19世紀後半になると内部に蒸気機関やジーゼルエンジンがついて、港の出入りは簡単になりました。
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2番目の写真は「パリのセーヌ川とノートルダム寺院」です。この風景は現在でもあまり変わっていないと思います。昨年ノートルダム寺院の尖塔が焼け落ちてしまったことはショックでした。1970年にこの寺院を訪れた時の感動が忘れられません。
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3番目は「パリ、ノートルダム通り」です。古いヨーロッパの懐かしい街の風景ですね。
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4番目の写真は「水辺の風車」です。オランダの風景のようです。
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5番目の写真は「ポーランドのスケーター」です。昔は道路を凍らせてスケートを楽しんだのですね。
ヨンキントはオランダとドイツの国境近くのラートロープで生まれました。
彼はハーグの芸術アカデミーに学び、1846年にパリのモンマルトル地区に移り住みました。
2年後パリ・サロンは彼の作品を受け付け、シャルル・ボードレールやエミール・ゾラから称賛を浴びたそうです。
ヨンキントは1861年からパリ、モンパルナスで印象主義の先駆けとも言える作品を沢山描き始めます。
クロード・モネはヨンキントを「師匠」と呼んでいたそうです。
1878年、彼は妻の画家ヨセフィン・フェッサーと共にフランス南東のラ・コート=サン=タンドレに移り住み、1891年に亡くなりました。享年70歳でした。
さてヨンキントが住んでいたパリとはどのような雰囲気の街なのでしょう?
パリに長く住んでいたEsu Keiさんの小文を次にお送りします。
・・・ 長男が8歳半を越した頃、私は住んでいたアパルトマンの裏手の教会の庭で、時々ボーイスカウトの集まりがあるのを知って、息子が参加できるものかどうかを尋ねに行った。フランスではスカウト活動はカトリック、プロテスタント、無宗教の3つのグループに分かれていることを知った。カトリックの教会を活動の拠点にしているのだから、当然それはカトリック系のグループだ。
「私達は、カトリックの洗礼を受けてはいませんが、このグループに参加できますか?」と聞くと、帰ってきた答えは、「スカウト活動は、土日を挟むことが多いので、教会に行き、ミサにあずかることも多いのですが、息子さんをそういう場に連れて行くことが許されるなら構いません。」
答えてくれた20歳を少し過ぎたくらいの若者が子どもをまとめるリーダーだそうだ。20歳を過ぎればヨーロッパの社会では責任ある立派な大人だ。息子の気に入るかどうかは、入ってみなければ分からない。息子の友達の二コラ君が入っているし、二コラ君のお母さんが紹介してくれて、早速入れてもらった。
服装は白い襟付きのシャツに濃紺の無地のセーター、濃紺のズボン(冬は長ズボン)、濃紺のベレー帽(てっぺんのチョンチョリンは鋏で切っておく)。
寒い時期のコートは自由だ。それぞれ手持ちのものなので、ネックの形や、ズボンのポケットの位置が微妙に違うが、わざわざ制服と言うものを作ったりはしない。
その辺はフランス流だ。月に一回の日帰りの活動と、年に一回の泊りがけの自然の中でのキャンプがある。
入って3カ月がたち、12月の下旬が活動日にあたると、当然クリスマスの催しになり、待降節のミサに参加する。
家に帰ってきた息子はいつもと違う教会の様子をさぞかし興味津々で眺めてきたことだろう。
普段は学校や、小学生向けの余暇活動に出かけても、あまり話してくれない息子が、ちょっとおしゃべりになって話してくれた。
「あのね、ジェジュ(イエス様)が生まれた厩が飾ってあったよ。僕達もその場面の寸劇をやったよ。僕は3人の博士の一人だったんだ。二コラはヨゼフの役だったよ。」ということだった。「まあ、素敵」。男の子のグループでマリア様になった子はどんな気分だったのだろうと、ちょっと笑える。
クリスマスのお話は絵本で何回か読み聞かせていたが、息子はどうとらえていたのだろう。
私は小さい頃、叔母の読むイエスの生涯の物語を初めて聞いた時に、イエス様が可哀想で可哀想で泣いてしまったことを思い出していた。
この日仰天するほど私を驚かせたことは、「今日はぼくもみんなと一緒にパン(ご聖体)をいただいたよ。」という言葉だった。
息子は洗礼も受けていないし、カテシスム(公教要理)の教えも受けていない。
秘蹟にあずかるということは、それなりの教育を受け、儀式を経て許されることと聞いていた。何かの間違いではないかと、恐る恐る二コラのお母さんに聞いてみると、
「特別なお祝いの時なのだから神父様もお許しになったんじゃない?」
「なるほど、きっと息子は特別なお恵みをいただいたのだ。私の中で、神様は厳しいより寛大な存在になった。・・・」
この小文はパリの市井の自由な雰囲気も描いています。
この自由な雰囲気が芸術には重要なことなのかも分かりません。
お正月も過ぎ行こうとする今日このごろこんなよしなし事を考えています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)