後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の日記、キリエとグロリアの簡単な説明」

2020年02月09日 | 日記
午前中はカトリック小金井教会のミサに行きました。
ミサではイエスさまの語った言葉、福音書の朗読を聞いて神父さまの説教があり、その後でパン片をイエスの体として頂いて終わります。毎回同じで十年一日のようです。
今日はミサの冒頭で歌うキリエとグロリアの簡単な説明をしたいと思います。

キリエは罪深い私を憐れんで下さいという祈りの文句を唄います。

先唱
主よ、あわれみたまえ。
会衆
主よ、あわれみたまえ。
先唱
キリスト、あわれみたまえ。
会衆
キリスト、あわれみたまえ。
先唱
主よ、あわれみたまえ。
会衆
主よ、あわれみたまえ。


グロリアは神の栄光を讃える祈りです。
つぎの歌詞を唄います。
「天のいと高きところには神に栄光。
地には善意の人に平和あれ。
われら主をほめ、主をたたえ、主をおがみ、主をあがめ、主の大いなる栄光のゆえに感謝したてまつる。
神なる主、天の王、全能の父なる神よ。
主なる御ひとり子、イエス・キリストよ。
神なる主、神の小羊、父のみ子よ。
世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ。
世の罪を除きたもう主よ、われらの願いを聞き入れたまえ。
父の右に座したもう主よ、われらをあわれみたまえ。
主のみ 聖なり、主のみ 王なり、
主のみ いと高し、イエス・キリストよ。
聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに。
アーメン。」

上記のキリエとグロリアはミサ用の短いものですが神の助けを求めるキリエと神の栄光を讃えるグロリアは昔からいろいろな歌詞がありました。
現在の市販のレコードの歌唱にも、キリエとグロリアは取り入れられて数々のヒット曲があります。
キリエとグロリアは西洋人の心にある基底低音です。日本人にはあまり見えない西洋の魂なのです。

それはそれとして今日の聖書朗読は小松史彦さんがしました。Face Bookによく興味深い記事を掲載されている方です。知っている方が出席しているとミサも楽しくなります。
写真は今日のカトリック小金井教会の風景です。





「キリスト教の根本は『愛』、他人の信仰を知る方法」

2020年02月09日 | 日記
キリスト教の根本は、『愛』です。
愛という言葉は多くの女性が好きです。この言葉は文明開化の折に、Loveという言葉が輸入され、愛と翻訳され広がりました。
昔の日本では、愛する人を「好きな人」や「いとしい人」『恋しい人」と言いました。愛というとなにか胡散臭く、嘘っぽい感じが否めません。しかし、キリスト教の根本は愛とよく言われます。何か胡散臭い感じがします。
この言葉につまずいてキリスト教を避ける人が多いと思います。少なくとも以前の私がそうでした。「愛」なんてバタ臭くて口に合いませんでした。
しかし「愛」を「好き」と置き換えると全てが自然に納得できます。
天におられる神様は地上にいる全ての人間が好きなのです。本物の神父様は近づいて来る全ての人々が大好きなのです。宗派も洗礼にも関係なく大好きなのです。ですから私はそのような神父様が大好きです。その上にいるローマ法王も、その上にいる神様も大好きです。これがカトリックの信仰というものです。
自分の通っている教会の神父様は時々変わります。しかし私は全ての神父さまが好きです。
神父様は人々を分け隔てなく大好きな様子です。本物の神父様は洗礼の有無に関係なく全ての人々に優しく、親切です。
洗礼を受けてない人々を差別する神父さんが居たら、それは本物ではありません。
信者は神父様の知識の広さは問題にしません。神父様が初対面の人をどれだけ大切にしているかを注意深く見ています。初対面の人をどれだけ好きになっているかを見ています。それだけが信仰の深さの尺度なのです。
この原則は全ての他人の信仰の深さを評価するためにも使われます。他人の信仰の深さを判定する方法なのです。
皆様は、マザーテレサがインドの都会の街路で孤独に死にそうな人々を屋内へ運びこんで優しく看取ってあげていたことをご存じと思います。その崇高な働きはヒンズー教徒からも支援されて来ました。ノーベル平和賞も受賞しました。
マザーテレサはインドの貧民をも大好きなのです。好きでなければ出来ないことです。

いきなりお釈迦様の話に飛んで済みませんが、仏教の根本も「慈悲の心」です。欧米の言葉で言えば「愛」に対応します。お釈迦さまは一切の衆生が大好きだったのです。大好きだったので救ってくれたのです。ですから人々がお釈迦様が大好きなのです。
もう少し分かりやすい一例をあげます。弘法大師は全国をめぐり歩き、井戸を掘ったり、農耕の為に溜め池を作ったり、温泉を見つけたりしました。全ての人々が大好きなので助けようとしたのです。大師様の「慈悲の心」を我々は忘れません。
ですから宗教の根本は全ての人々がお互いに大好きになることなのです。少なくとも私はそのようにしたいと思います。出来る出来ないは別にして。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日、薬用植物園で撮ってきた福寿草と水仙と温室の中のブーゲンビリアの花です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)