後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の日記、多摩湖の写真を撮りに行った」

2020年02月10日 | 日記
午前中は「日本の共産主義(1)若者は何故共産主義に魅せられた?」という記事を書きました。
戦前、戦後の日本人が何故共産主義に魅せられたか2つのケースとして宮本百合子と日本共産党本部で働いていた私の友人の場合をご紹介しました。
金持ちの家に1899年に生まれた宮本百合子は30歳の頃、共産主義に魅せられた理由は3つです。
彼女のソビエト時代の変化の理由は三つあったそうです。
一番目はソビエト・ロシアにおいて女性の生活と社会での役割が非常に尊重されていたこと。
二番目は宮本百合子に精神的な影響があった実弟の1928年の自殺によって日本社会には将来がないと感じたこと。
三番目はソビエト・ロシアと比較して資本主義制度はすぐなくなるという信仰を深めた1929年の西欧の旅。

私の友人が共産党に興味を持ったのは終戦が近い北海道帝国大学の学生の時でした。教授が強制的に学生に軍隊が使う飛行場を作らせたからです。飛行場作りの過酷な労働が連日続いたそうです。それが嫌になって共産党に入ることにしたそうです。
戦時下の日本で軍国主義に反対して自由にものが言えるのは共産党のなかだけだったのです。その人は共産主義よりも自由主義にあこがれて入党を決意したそうです。共産主義の何たるかを深く考えませんでした。

さて午後は多摩湖と呼ばれている村山貯水池の写真を撮りに行きました。それは東京都の水道水の水源の一つです。
冬の多摩湖は水が深い碧色で美しい風景になります。
湖の向こうに見る白いドームは西武球場の屋根です。白い丸い屋根の右の森には西武遊園地が広がっています。
遠方にかすんでいる山並みは奥多摩の山々です。
広々した自然の風景を見て幸せな気分になりました。
老境のある日の午後でした。写真をお送りいたします。





日本の共産主義(1)若者は何故共産主義に魅せられた?

2020年02月10日 | 日記・エッセイ・コラム
2020年02月07日に「今日の日記、歯医者に行って、小平墓地の写真を撮りに行く」という記事を書きました。その中で宮本百合子の墓をご紹介して、彼女の有名な小説の『伸子』1928年、『播州平野』1947年、『風知草』1947年などの傑作に言及しました。
この記事の中では言及しませんでしたが、彼女は熱心な共産主義者でした。日本の共産党の書記長、宮本顕治の妻でした。
そこで戦前、戦後の日本人が何故共産主義に魅せられたか2つのケースを書いてみたいと思います。
2つのケースとは宮本百合子と日本共産党本部で働いていた私の友人の場合です。

さて宮本百合子が共産主義になったのはソ連への滞在がきっかけになりました。そして1931年に秘密裡に共産党員になりました。
しかし表向きにはプロレタリア文学運動のメンバーとして合法的に活躍しました。戦前の日本では共産主義者は特高や公安警察の厳しい弾圧が続いたのです。
金持ちの家に1899年に生まれた百合子は30歳の頃、何故共産主義に魅せられたのでしょうか?
彼女のソビエト時代の変化の理由は三つあったそうです。
一番目はソビエト・ロシアにおいて女性の生活と社会での役割が非常に尊重されていたこと。
二番目は宮本百合子に精神的な影響があった実弟の1928年の自殺によって日本社会には将来がないと感じたこと。
三番目はソビエト・ロシアと比較して資本主義制度はすぐなくなるという信仰を深めた1929年の西欧の旅。
以上は宮本賢治、『宮本百合子の世界』1963年、新日本出版社に書いてある理由です。
以上の理由は戦前の日本の政治が軍事御独裁政治で若者が求めていた自由と平等が皆無だった時代に必然的に生まれた理由でした。

さて次に共産主義のある友人の話をご紹介いたします。
彼とは甲斐駒岳の麓の私の小屋の庭で知り合いました。近くの別荘に独りで住んでいた老人でした。日本共産党の本部で生涯働いていたそうです。
彼は散歩が好きで私の小屋の前をよく通っていました。明るい性格の気さくな人でした。お茶を飲みながら家内と三人で話をしました。
ここで3枚の写真をお送りします。





3枚の写真は順々に1私の小屋から見上げた甲斐駒岳、2森の中の私の小屋、3彼と何度も談笑したテーブルの脇を流れる小川です。

彼が共産党に興味を持ったのは終戦が近い北海道帝国大学の学生の時でした。教授が強制的に学生を集合させて軍隊が本土防衛のために使う飛行場を作ることになったと言い放ったのです。そして飛行場作りの過酷な労働が連日続いたそうです。それが嫌になって共産党に入ることにしたそうです。
戦時下の日本で軍国主義に反対して自由にものが言えるのは共産党のなかだけだったのです。その人は共産主義よりも自由主義にあこがれて入党を決意したそうです。共産主義の何たるかを深く考えませんでした。
終戦直後に東京の共産党本部へ行き、入党の意思を述べたそうです。当時は帝国大学の卒業生は貴重な人材でした。即入党が許され本部で働き始めました。
ところが終戦後でも警察の調べと嫌がらせが親類まで執拗に行われました。彼は札幌の下宿の娘さんと恋愛結婚していましたが、公安警察の取り調べと嫌がらせはその奥さんの親類まで徹底的に行われたのです。新婚の家庭にまで公安警察が何度も来て、荒っぽい言葉で共産主義の悪口を言います。それが原因で結局は離婚してしまったそうです。
そして共産党本部へは何度も警察の捜索が入り、その度に逮捕されそうになりました。しかし彼は一回も逮捕されませんでした。警察が襲って来る数日前から予想出来たので雲を霞と逃げてしまったそうです。
そして二度目の結婚をしました。奥さんは気丈で有能な職業婦人でした。山梨に彼の為に別荘を建ててくれました。彼とはそこで知り合ったのです。

さて何故、日本の警察は終戦後も共産党を弾圧したのでしょうか。その理由は冷戦構造にあったのです。アメリカに敵対するソ連と中国は共産党独裁の国です。資本主義を敵視するのが当時の共産主義だったのです。そんな情勢の中で日本はアメリカと安保条約を結んだ同盟国です。日本に共産主義が蔓延すればアメリカにとっては不利になります。
それを防ぐために日本は共産主義を弾圧しなければなりません。公安警察がこの国策に従うのは当然です。
最後に当時も共産党員だった彼に公安警察に対する感想を聞きました。彼は残雪に輝く甲斐駒岳を見上げて、しばし沈黙していました。
そして言ったのです。「すべては時代が悪かったのです」と。
この彼ももう別荘にはいません。空き家になった別荘が白樺林のなかにポツリと建っているだけです。
上に書いた様子は共産党が政権を取れなかった日本の特殊な様子です。
しかし共産党が政権を取ったソ連、東欧諸国、中国、北朝鮮、ベトナム、カンボジア、ラオス、そしてキューバなどの中南米の国などでした。これらの国々では大きな悲劇が続いたのです。
カール・マルクスの主張した共産主義思想はキリスト教ヨーロッパ文化の鬼っ子でした。それは輝かしい西洋文化の陰です。悪魔のような思想だと言う人もいます。
しかし何故多くの国でその思想が風靡したのでしょうか?それは人類史の謎です。
そこで「日本の共産主義」と題する連載で日本における共産主義の功罪を少し考えて行きたいと思います。
誤解なさらないで下さい。私自身は共産主義思想は間違った考えで20世紀の人類に大きな不幸をもたらしたと考えています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)