後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日は日本の悲劇、2・26事件の日」

2020年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は1936年2月26日雪の朝に陸軍が起こした軍事クーデター、2・26事件の日です。日本の悲劇でした。明治維新以後の日本の近代史の闇です。
最近は新聞も2・26事件のことを取り上げなくなったので忘れている人も多くなりました。
今日はこの日本の悲劇、2・26事件をもう一度思い出すことにしました。
痛ましい悲劇ですのでまず心を静かにするために3月に咲く花々の写真をお送りいたします。小平市の都立薬用植物園で去年撮りました。

1番目の写真はサンシュユの花です。

2番目の写真はアンズの花です。

3番目の写真はキクザキリュウキンカです。

4番目の写真はミツマタの花です。

5番目の写真はコブシです。
さて2・26事件ほど分りにくい事件はありません。
何故分かり難いかというとこの大規模な事件は陸軍の主導権を握ろうという2つの派閥の争いの結果起きた血なまぐさい悲劇なので理解しにくいのです。
分かりやすく言えば2つのヤクザの組の争いです。銃剣を使った争いです。何十人という要人の死者が出ました。その後の裁判で反乱軍を指揮した将校が何人も銃殺刑になりました。
それは明治維新以後の日本の近代史の闇です。忘れたい悲劇です。

争った2つの派閥とは皇道派と統制派です。
皇道派とは元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、農村の困窮が終息すると考えていた一派です。
統制派とは統制のとれた中央集権化により軍事計画や総力戦理論を作ることを主張する一派です。そして技術の近代化や機械化を推進して中国への戦線の拡大を支持していたのです。
この2つの派閥の違いが分かり難いのです。2つのヤクザの組の喧嘩なのでその思想や主張が明確でないのです。 思想や主張の違いよりも腕力の強い方が勝ってしまうのです。
当時は荒木大将が陸軍大臣で皇道派が陸軍の主流派となり、多くの重要な参謀ポストを占めていたのです。
そのような状況で1936年2月26日に皇道派が多数の部隊を動員して当時の政府要人を殺害し、東京の主な新聞社や警視庁などの施設を占拠してしまったのです。
内閣総理大臣・退役海軍大将の岡田啓介は天皇大権を掣肘する「君側の奸」として襲撃の対象となりましたが隠れて難を逃れました。
高橋是清蔵相は拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺され即死します。
斎藤実内大臣は銃殺されました。遺体からは四十数発もの弾丸が摘出されたそうです。
鈴木貫太郎侍従長は複数の拳銃弾を撃ち込まれて瀕死の重傷を負うが、妻の鈴木たかの懇願により安藤大尉は止めを刺さず敬礼をして立ち去ったのです。その結果、鈴木侍従長は辛うじて一命を取り留めたのです。
渡辺錠太郎教育総監は殺されるであろう事を感じ、傍にいた次女の渡辺和子を近くの座卓の陰に隠し、拳銃を構えたが、直後にその場で殺害されました。
血生臭い話です。もっとありますが書いている自分が嫌になったのでこれで止めます。
結論を言えば、政府の要人を多数殺害し、皇道派が勝ったのです。
しかしこの勝利は長く続きませんでした。
その後昭和天皇が皇道派を悪者と言い、統制派を支持すると言明したのです。
その結果、都内各所に展開していた皇道派の部隊は鎮圧されたのです。
その後の軍事裁判は統制派が指導します。
当然皇道派は反乱の罪で多くの将校が銃殺刑になったのです。皇道派の多くの将官は左遷され退役されました。
こうして陸軍は統制派が主流になり、やがて中国との戦争が始まり太平洋戦争になるのです。

この記事では2・26事件はヤクザの2つ組の争いだと何度も書きました。
その理由はどちらが勝っても中国との戦争と太平洋戦争を避けられなかったと考えられるからです。皇道派も統制派もどちらも戦争拡大を望んでいたからです。戦争拡大こそが陸軍の権力増大につながるのです。

今日は日本の悲劇、2・26事件の日です。
派閥争いの怖さと軍隊のシビリアンコントロールの重要さを心に刻む日です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)