後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の日記、戦争の遺物と菜の花の写真を撮りに行く」

2020年02月12日 | 日記
今日も快晴です。
午前中は「時代の空気、楽しい思い出、悲しい思い出」という記事を書きました。
時代の空気とは何でしょう?
日本の社会にある時代に流れていた空気のことです。その時代の社会の雰囲気です。それは煙のようにはかないものですが独特の香りや臭いを持っていました。
そして東京に都電が走り回っていた時代の空気を書きました。
それからお医者さんに行っていつもの血圧を下げる薬を4週間分貰って来ました。

午後は近所の調布飛行場に行きさきの戦争の遺物の写真を撮りました。
遺物とは旧陸軍の戦闘機、飛燕の掩体壕です。75年前の戦闘機の掩体壕です。
飛燕は首都を守るために調布飛行場に配備されていたのです。
それから東京天文台の下の畑の菜の花の写真を撮って来ました。
写真をお送りします。3番目の写真は調布飛行場を基地にしていた飛燕のカラー化写真です。
写真は、http://blog.livedoor.jp/aoneko57/archives/54493872.html からお借りしました。









三式戦闘機「飛燕」は第二次世界大戦時に大日本帝国陸軍が開発し、1943年(昭和18年)に制式採用された戦闘機です。製造は川崎航空機がしました。
ドイツの液冷航空エンジンを国産化したエンジンを搭載していました。当時の日本唯一の量産型液冷戦闘機でした。
総生産機数は各型合わせておおよそ3,150機だったそうです。
一般に中島飛行機の一式戦闘機が5,751機、同じく中島の四式戦闘機が約3,500機生産されたとされているので、太平洋戦争世代の陸軍戦闘機としては第三位の生産機数でした。この10000機以上の戦闘機はほとんど全てが灰燼に帰したのですから戦争の虚しさをしみじみと感じますね。

時代の空気、楽しい思い出、悲しい思い出

2020年02月12日 | 日記
時代の空気とは何でしょう?
日本の社会にある時代に流れていた空気のことです。その時代の社会の雰囲気です。それは煙のようにはかないものですが独特の香りや臭いを持っていました。
その時代の空気のことを考えると楽しい思い出、悲しい思い出が心に浮かんできます。

今日はそんな儚い、そして掴みどころの無いことを書いてみたいと思います。
昭和11年生まれの私は大学卒業まで仙台に育ちました。仙台市の市電に良く乗りました。乗り物が好きだった私は、運転席の後ろに立って、風景が変わるのを楽しみました。それは楽しい思い出として心に残っています。
1962年にアメリカ留学から帰って東京に住むようになりました。
当時は都電の全盛時代のなごりで、都電が都区内の全域に走っていました。
仙台の楽しかった市電を思い出しながら都電にもしょっちゅう乗ったものです。
その時、感じたのですが都電がその時代の東京の空気を作っていると思いました。
武骨な形をした都電にはいろいろな人が乗っていました。楽しそうな顔、悲しそうな顔、その顔顔が時代の雰囲気をかもし出しています。東京の1960年代の時代の空気です。
その都電のある東京の風景の写真をお送りします。

1番目の写真は38系統、砂町方面行きの都電です。1番目から3番目の写真の出典は、http://interview-todenmo.cocolog-nifty.com/blog/cat35588006/index.html です。

2番目の写真は13系統、新宿行きの都電です。

3番目の写真は19系統、王子行きの都電が須田町の停留所に停まっている風景です。

皆様はもう忘れたかも知れませんが当時は車が普及してなく都電だけが庶民の頼りでした。
まだ生活が苦しくて人々は生きるために精一杯働いていたのです。社会には緊張した、しかし希望に満ちた空気が流れていました。
私の楽しい思い出は新婚の家庭生活でした。家内も若々しく2人の小さな子供がいました。
それはさておき、都電の最盛期は1955年頃だったそうです。その頃の営業キロは約213kmもあり、40の運転系統があったそうです。そして毎日、約175万人が利用する日本最大の路面電車だったそうです。
しかし1960年代の終わり頃、都電は少しずつ消えて行きました。
東京都交通局が財政再建団体に指定されると再建策の一環として1972年まで都電が廃止されることになったのです。時代の空気が大きく変わり始めたのです。
唯一つ荒川線だけが存続しましたが時代の変化は止めることは出来ません。
都電が消えた原因は地下鉄網の完備と自家用車の普及です。
日本国中で高速道路が建設され日本全体が車社会になってしまったのです。
しかし、地方に行くとまだ路面電車を大切に使っている都市も幾つか残っています。函館市、富山市、広島市、熊本市などです。しかしそれらの都市も車社会になっています。時代の空気が車社会の空気になっているのです。
それでは東京が車社会になった後の風景を示します。

4番目の写真は車が充満している道路の風景写真です。

5番目の写真は都電が撤去され美しく整備された新宿の風景です。

さて日本から市電や都電などの路面電車が消え、車社会になって日本の空気は大きく変わりました。
ついでに、そのずっと前の戦前、戦争中はどんな雰囲気だったのか考えてみましょう。
戦前、戦争中に都電に馴染んでいたある人の回想をお送りいたします。
(1)昔日の池之端七軒町界隈の思い出
市電(その後の都電)は、確か大正7年に、計画が持ち上がったと聞いています。それで、市電の軌道が不忍通りをこの池之端で曲がって、不忍池 の方へ通るようになったんです。私はそのだいぶ後に生まれたわけですが、私の小さい頃は、市電のレール沿いにずーっとドブ川が流れていて、そこでエビガニだとか、オタマジャクシを捕ったりしたものです。
(2)間一髪 !! アメリカの爆撃機に狙われて
戦争中の昭和20年3月の東京大空襲の後、5月だったか、私は都立工芸の夜学に通っていたのですが、授業中に空襲警報が発せられました。皆、家に帰るようにっていうので、水道橋からきて須田町で乗り換えて、こちらに帰ってくる時に末広町で爆弾が落っこったんですよね。
それがねえ、乗っていた電車が当時は「ポール集電」だったでしょう。電車を走らせていると、時々、ポールと架線が離れたりまたくっついたりして、そのときに電流が「バチッ!」とスパークして火花が散るんですよ。灯火管制で町中が真っ暗のなか、アメリカの爆撃機はその一瞬の、火花の光をめがけて爆弾を落っことしてくるんですよね。
そのスパークした場所に正確に爆弾が落とされて、その後続の電車が被害を受けた、というわけです。
(以上は、都電網研究会、
http://interview-todenmo.cocolog-nifty.com/blog/cat35588006/index.html からの抜粋です。)
以上は何気ない都電に関する思い出です。
都電が走っていた戦前の空気が感じられます。人々の感情が描かれています。それは戦前の義理人情の生きていた社会の空気でした。
時代が大きく変わって車社会になって古い義理人情の空気も消えました。
しかし車社会では人々が他人に優しくなりました。ボランティアの精神が行き渡り、見ず知らずの誰にでも優しくなったのです。これが現在の社会の空気なのです。
これも良い時代です。私はそのように楽観的に考えることにしています。

今日は時代の空気という儚い、そして掴みどころの無いことを書いてみました。
何の役にも立たない私の想像です。しかし時代の空気というものを感じる方々には意味のある文章だったかも知れません。そして時代の空気というものは人それぞれなのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)