近所に幸せに死ぬための終末期医療の施設があります。山崎章郎氏が作ったものです。
幸せに死ぬためには3つの方法があります。1、神を信じ天国によんでもらう。2、家族、友人に囲まれて医者の治療を受けながら自宅で死ぬ。3、神を信じ、なおかつ医者の治療を受け自宅で死ぬ。
2の方法を実践するシステムを作り、その拠点として「ケアタウン小平」を作ったのが山崎章郎氏です。「ケアタウン小平」は近所なので昨日写真を撮ってきました。「ケアタウン小平」の山崎氏の発想は小金井の桜町病院のホスピスで生まれたのです。
山崎氏の運動のお陰で同様のシステムの拠点が全国に710ケ所もできました。皆さまのお住まいの所にも必ずあると思います。
この拠点のことを在宅緩和ケア充実診療所・病院と言います。それを利用する費用は介護保険が支払います。市役所の福祉課にお問い合わせください。
今日は昨日撮って来た「ケアタウン小平」の写真を示し、山崎章郎氏の考え方をご紹介したいと思います。
1番目の写真が「ケアタウン小平」です。「ケアタウン小平」に隣接する「いつぷく荘」です。
2番目の写真は「ケアタウン小平」です。
ゴルフ場、小金井カントリー倶楽部の樹木群に隣接した土地なので「ケアタウン小平」の敷地にも大木があります。
詳しくは、http://caretownkodaira.net/npo/ をご覧下さい。
3番目の写真は山崎 章郎氏です。
山崎 章郎(やまざき ふみお)は1947年に福島県で生まれました。1975年、千葉大学医学部卒業し、1984年、千葉県八日市場市(現匝瑳市)市民病院消化器科医長になります。1991年、小金井市のカトリック聖ヨハネ会桜町病院ホスピス科部長になります。
そして2005年に在宅診療専門診療所のケアタウン小平クリニックを作りました。1991年、『病院で死ぬということ』で日本エッセイストクラブ賞を受賞し、1993年に市川準監督で映画化のされました。
さて山崎章郎氏の考え方のご紹介をしたいと思いいろいろ調べました。
その結果、次のインタビュー記事の抜粋をお送りすることにしました。インタビュー記事の全文は、
https://www.jusei-news.com/gyoukai/topics/2018/10/20181001_01.html に出ています。
山崎章郎氏は〝患者さんのための終末期医療を提供するには、如何すれば良いか〟として自問自答、葛藤を続け、聖ヨハネ会桜町病院ホスピスで実践し、在宅ホスピスケアのための「ケアタウン小平」を作ったのです。
(1)山崎院長のこれまでの歩みを教えて下さい?
私は1983年に1年間大学病院を休み、船医として、前半は北洋のサケマス船団、後半は、南極海底地質調査船で働きました。後半の南極海で、故エリザベス・キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」という本を読んで、感銘を受けました。船をおりてから再び外科医として勤務していましたが、今までの自分の終末期医療に対する考え方が全く変わってしまいました。
1980年代の頃は、未だガンの告知もされていない時代で、亡くなる時は必ず心臓マッサージや蘇生術等をした後に、初めて〝ご臨終です〟と言えるような時代でした。そこで私は、終末期医療の一つ一つの行為の在り方について確認をしていきました。その本を読んで、臨終の場面で蘇生術を行うというのが本当に正しかったかどうかを考えることになり、家族の人たちに〝もう直ぐ臨終は近いけれども、心臓マッサージは出来ますがどうしますか?〟と尋ねると多くのご家族から〝静かに見守りたい〟と、断られました。そういうことを積み重ねてきた訳です。人生の主役は本人ですが、その当時、がんの告知はタブーでしたので、自分は何で死んでいくのか分からないままに殆どの方が死んでいきました。これはおかしいだろうということで、タブーだった末期の癌告知をするようになりました。
(2)桜町病院には何年位いらしたのでしょうか?
桜町病院ホスピスには1991年から2005年までの14年間勤務しました。ホスピスケアは、人生の終末を過ごさざるを得ない人にとって、大切なケアですが、医療保険制度に基づいたホスピス(緩和ケア病棟)では、そのケアは終末期がんの人たちにしか出来ませんし、ホスピスに来られた患者さんしか診ることが出来ません。また、患者さんの多くはホスピスに入院したことをとても喜んでいたけれども、やはり〝本当は家に居たかった〟という人も多かったのです。家に居たかった人と癌ではない人も診るためには、ホスピスのチームが家に出向けば良いのです。しかしそれにはどうしたら良いかと考えた時に、ホスピスのチームが地域に出やすいような拠点を作ろうとなったのです。「医療」と「看護」と「介護」のチームが一か所にあれば、いつでもカンファレンスも出来ますし、それはホスピスと変わりません。距離3から4km圏内の所に行きますが、その患者さんに関わる職種は皆同じ所に戻ってきますから、桜町病院ホスピスのケアと変わらないケアが出来るだろうと思って、そのために必要なハードを作ろうとなりました。
(3)「ケアタウン小平」は、幸運にも理想とされる場所を見つけられたということでしょうか?
ここまで来たのはそんなに簡単ではないんですよ(笑)。地域の中でホスピスケアをというケアタウン小平構想に、桜町病院ホスピスでコーディネーターとして一緒に仕事をしていた長谷方人氏が、共鳴してくれて、ホスピスを辞めて「暁記念交流基金」という不動産会社を立ち上げてくれたのです。そして、ハードは私が担う、ソフトは先生が担ってと言うことになったのです。実際に1年近く土地探しをして、あの頃はバブル崩壊の時期で、銀行が土地をいろいろ手放していて、ここは東京都民銀行の運動場の跡地だった所です。この「ケアタウン小平」の一階部分の多くは、大家である長谷さんから借りているんです。また、ここの建物を運営するのは1階だけの収入では無理なので、であれば2階3階はアパートにしようということで、「いっぷく荘」というアパートになりました。「いっぷく荘」も大家さんが管理しています。
(4)いま、地域包括ケアシステムが推進されていますが、そのモデルのような場所という感じがします。
ケアタウン小平チーム活動当初は、よく厚労省の方がお見えになっていました。地域包括ケアシステムの旗振り役を務めておられる当時厚生労働省の事務次官をされていた辻さんも何度か来られて〝此処は一つの理想ですね〟と仰られて、いろんな講演等でもモデルとして「ケアタウン小平」をよく紹介してくれました。我々自身は、地域包括ケアシステムという構想をもっていた訳ではなく、地域の中でホスピスケアをしようと思って取り組んで来たのです。ただし、地域の中でのケアというのは、生活継続の上で出来るものであり、医療だけでは出来ません。必然的に医療と介護が連携を組まなければ、地域の中で最期まで暮らすことは出来ないということは、最初から分かっていました。
・・・以下省略します。
さて患者の尊厳を守る終末期医療の考え方は欧米では数十年前から根ずいています。
日本のこの分野は数十年遅れていたのです。日本では個人を尊重するという文化が弱く、この文化が患者の尊厳を守る終末期医療の導入を遅らせたと私は個人的に思っています。残念なことです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
幸せに死ぬためには3つの方法があります。1、神を信じ天国によんでもらう。2、家族、友人に囲まれて医者の治療を受けながら自宅で死ぬ。3、神を信じ、なおかつ医者の治療を受け自宅で死ぬ。
2の方法を実践するシステムを作り、その拠点として「ケアタウン小平」を作ったのが山崎章郎氏です。「ケアタウン小平」は近所なので昨日写真を撮ってきました。「ケアタウン小平」の山崎氏の発想は小金井の桜町病院のホスピスで生まれたのです。
山崎氏の運動のお陰で同様のシステムの拠点が全国に710ケ所もできました。皆さまのお住まいの所にも必ずあると思います。
この拠点のことを在宅緩和ケア充実診療所・病院と言います。それを利用する費用は介護保険が支払います。市役所の福祉課にお問い合わせください。
今日は昨日撮って来た「ケアタウン小平」の写真を示し、山崎章郎氏の考え方をご紹介したいと思います。
1番目の写真が「ケアタウン小平」です。「ケアタウン小平」に隣接する「いつぷく荘」です。
2番目の写真は「ケアタウン小平」です。
ゴルフ場、小金井カントリー倶楽部の樹木群に隣接した土地なので「ケアタウン小平」の敷地にも大木があります。
詳しくは、http://caretownkodaira.net/npo/ をご覧下さい。
3番目の写真は山崎 章郎氏です。
山崎 章郎(やまざき ふみお)は1947年に福島県で生まれました。1975年、千葉大学医学部卒業し、1984年、千葉県八日市場市(現匝瑳市)市民病院消化器科医長になります。1991年、小金井市のカトリック聖ヨハネ会桜町病院ホスピス科部長になります。
そして2005年に在宅診療専門診療所のケアタウン小平クリニックを作りました。1991年、『病院で死ぬということ』で日本エッセイストクラブ賞を受賞し、1993年に市川準監督で映画化のされました。
さて山崎章郎氏の考え方のご紹介をしたいと思いいろいろ調べました。
その結果、次のインタビュー記事の抜粋をお送りすることにしました。インタビュー記事の全文は、
https://www.jusei-news.com/gyoukai/topics/2018/10/20181001_01.html に出ています。
山崎章郎氏は〝患者さんのための終末期医療を提供するには、如何すれば良いか〟として自問自答、葛藤を続け、聖ヨハネ会桜町病院ホスピスで実践し、在宅ホスピスケアのための「ケアタウン小平」を作ったのです。
(1)山崎院長のこれまでの歩みを教えて下さい?
私は1983年に1年間大学病院を休み、船医として、前半は北洋のサケマス船団、後半は、南極海底地質調査船で働きました。後半の南極海で、故エリザベス・キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」という本を読んで、感銘を受けました。船をおりてから再び外科医として勤務していましたが、今までの自分の終末期医療に対する考え方が全く変わってしまいました。
1980年代の頃は、未だガンの告知もされていない時代で、亡くなる時は必ず心臓マッサージや蘇生術等をした後に、初めて〝ご臨終です〟と言えるような時代でした。そこで私は、終末期医療の一つ一つの行為の在り方について確認をしていきました。その本を読んで、臨終の場面で蘇生術を行うというのが本当に正しかったかどうかを考えることになり、家族の人たちに〝もう直ぐ臨終は近いけれども、心臓マッサージは出来ますがどうしますか?〟と尋ねると多くのご家族から〝静かに見守りたい〟と、断られました。そういうことを積み重ねてきた訳です。人生の主役は本人ですが、その当時、がんの告知はタブーでしたので、自分は何で死んでいくのか分からないままに殆どの方が死んでいきました。これはおかしいだろうということで、タブーだった末期の癌告知をするようになりました。
(2)桜町病院には何年位いらしたのでしょうか?
桜町病院ホスピスには1991年から2005年までの14年間勤務しました。ホスピスケアは、人生の終末を過ごさざるを得ない人にとって、大切なケアですが、医療保険制度に基づいたホスピス(緩和ケア病棟)では、そのケアは終末期がんの人たちにしか出来ませんし、ホスピスに来られた患者さんしか診ることが出来ません。また、患者さんの多くはホスピスに入院したことをとても喜んでいたけれども、やはり〝本当は家に居たかった〟という人も多かったのです。家に居たかった人と癌ではない人も診るためには、ホスピスのチームが家に出向けば良いのです。しかしそれにはどうしたら良いかと考えた時に、ホスピスのチームが地域に出やすいような拠点を作ろうとなったのです。「医療」と「看護」と「介護」のチームが一か所にあれば、いつでもカンファレンスも出来ますし、それはホスピスと変わりません。距離3から4km圏内の所に行きますが、その患者さんに関わる職種は皆同じ所に戻ってきますから、桜町病院ホスピスのケアと変わらないケアが出来るだろうと思って、そのために必要なハードを作ろうとなりました。
(3)「ケアタウン小平」は、幸運にも理想とされる場所を見つけられたということでしょうか?
ここまで来たのはそんなに簡単ではないんですよ(笑)。地域の中でホスピスケアをというケアタウン小平構想に、桜町病院ホスピスでコーディネーターとして一緒に仕事をしていた長谷方人氏が、共鳴してくれて、ホスピスを辞めて「暁記念交流基金」という不動産会社を立ち上げてくれたのです。そして、ハードは私が担う、ソフトは先生が担ってと言うことになったのです。実際に1年近く土地探しをして、あの頃はバブル崩壊の時期で、銀行が土地をいろいろ手放していて、ここは東京都民銀行の運動場の跡地だった所です。この「ケアタウン小平」の一階部分の多くは、大家である長谷さんから借りているんです。また、ここの建物を運営するのは1階だけの収入では無理なので、であれば2階3階はアパートにしようということで、「いっぷく荘」というアパートになりました。「いっぷく荘」も大家さんが管理しています。
(4)いま、地域包括ケアシステムが推進されていますが、そのモデルのような場所という感じがします。
ケアタウン小平チーム活動当初は、よく厚労省の方がお見えになっていました。地域包括ケアシステムの旗振り役を務めておられる当時厚生労働省の事務次官をされていた辻さんも何度か来られて〝此処は一つの理想ですね〟と仰られて、いろんな講演等でもモデルとして「ケアタウン小平」をよく紹介してくれました。我々自身は、地域包括ケアシステムという構想をもっていた訳ではなく、地域の中でホスピスケアをしようと思って取り組んで来たのです。ただし、地域の中でのケアというのは、生活継続の上で出来るものであり、医療だけでは出来ません。必然的に医療と介護が連携を組まなければ、地域の中で最期まで暮らすことは出来ないということは、最初から分かっていました。
・・・以下省略します。
さて患者の尊厳を守る終末期医療の考え方は欧米では数十年前から根ずいています。
日本のこの分野は数十年遅れていたのです。日本では個人を尊重するという文化が弱く、この文化が患者の尊厳を守る終末期医療の導入を遅らせたと私は個人的に思っています。残念なことです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)