後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本の秘境、国の重要文化財のある宮崎県の椎葉村」

2020年05月05日 | 日記・エッセイ・コラム
明治維新の文明開化から153年にもなりますが日本には秘境が幾つもあり、平家の落人と呼ばれている場所が方々の山奥にあります。
今日はそのうちの宮崎県の椎葉村をご紹介いたします。平家の落人であることが文献に記録されています。家屋の構造が独特なので国の重要文化財に指定されています。
椎葉村は険しい山地で急な斜面に点々と集落が存在しています。
壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党がこの地に落ち延びたのです。1191年(建久2年)、追討のため那須大八郎宗久が襲って来ますが、平氏に再挙の見込み無しと見て追討を取り止め引き揚げます。
那須大八郎宗久が椎葉滞中に侍女の鶴富が娘を生みます。この娘に後に婿を娶らせ那須下野守と名乗らせ、この地方の領主とさせました。また、椎葉という地名は宗久の陣小屋が椎の葉で葺かれていた事に由来すると言います。
この地方は戦国時代に那須氏が支配しており1559年(永禄2年)那須氏が肥後に出兵しています。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/椎葉村 をご覧下さい。

現在の「椎葉村」は住民が3000人ほどが暮らす村です。国の重要文化財の鶴富屋敷などが公開されており、当時の生活が見れる貴重な場所になっています。(http://tabico.jp/neta/tp100000304/ )
それでは「椎葉村」の写真をお送りいたします。

1番目の写真は十根川の重要建造物群のある山地の風景です。写真の出典は、https://www.pmiyazaki.com/siiba/tonegawa/index.htm です。
椎葉村の十根川保存地区は十根川集落、大久保集落と周辺の山林を含んだ山村集落です。この地方特有の平面一列の民家からなる建物群が険しい山に囲まれています。美しい歴史の古い山村です。

2番目の写真は昭和31年国指定重要文化財になった「鶴富屋敷(那須家住宅)」です。家屋前面に縁を横一列に長く配置しているのが特徴です。以前は茅葺(かやぶき)屋根でしたが、昭和38年から銅板葺きに変更しました。

3番目の写真は鶴富屋敷(那須家住宅)の軒下です。
部屋の間取りは藤原期の寝殿造りになっていて、その特徴は「コザ」(神仏を祭る神聖な場所)、「デイ」(一番広い部屋で冠婚葬祭などの行事にも使用)、「ツボネ」(寝室)、「ウチネ」(茶の間)と呼ばれる四室が横一列に並んでいます。また「ドジ」と呼ばれる土間には雑穀をつく空臼と大小の石造りのかまどがあります。部屋の背面は戸棚を造り付けにし開口部が全くないのが特徴です。

4番目の写真は斜面を有効に活用するため、部屋を横一列に並べた「椎葉型」の家屋が残る十根川集落です。
写真の出典は、https://www.sankei.com/photo/story/news/160826/sty1608260013-n1.html です。

5番目の写真も一列平面型(「椎葉型」といわれる)の民家からなる建物群の風景です。
写真の出典は、https://www.pmiyazaki.com/siiba/tonegawa/index.htm です。
規模が大きい主屋と隣接する馬屋、火災を考慮して少し離れて建つ倉とで構成されています。
景観的特徴である石垣は集落全域に分布しており、高さ4m、長さ40mを越えるものもあります。

これらの写真に示した椎葉村は現在でも住人が3000人もいます。しかし日本の他の地方の秘境の多くは過疎化して廃村になっています。
例えば東京の山地の檜原村には過疎化して人の住んでいない集落が沢山あります。
椎葉村は現在でも健全な農村として存続しているのは驚きです。その理由は温暖な気候と豊かにある稲田です。棚田ですが米が毎年沢山採れるのです。自分達が食べる以上に沢山採れるので人々は豊かな暮らしが出来るのです。
東京の山地の檜原村では米が採れません。採れるのはコンニャク芋とジャガイモとカボチャだけです。これでは豊かな暮らしが出来ないのが当然ではないでしょうか。
何処に生まれるかは自分で選べません。運命です。椎葉村と檜原村を比較すると此の世の不公平をしみじみと感じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「興味深い朝鮮の歴史と文化(1)高麗時代に漢族が大量移住」

2020年05月05日 | 日記・エッセイ・コラム
我々日本人が学校で習う朝鮮の歴史はおもに3件の出来事です。大和朝廷と高句麗、新羅、百済との交流と、豊臣秀吉の李朝時代の出兵と、1912年の朝鮮併合のことです。すべて政治的な事件です。多くの日本人はこれ以外のことは知りません。
さて朝鮮の歴史は大雑把に言うと高句麗、新羅、百済の三国時代の後に統一した高麗時代が長く続きやがて李朝朝鮮になるのです。
朝鮮のことを英語でコリア、Koreaと言いますが、これは高麗時代の高麗から来ているのです。高麗時代は重要な時代ですが、多くの日本人はこの時代のことは知りません。
その上、朝鮮に花咲いた文化についても多くの日本人は知りません。
朝鮮に古代からあった郷歌のことや百済、新羅、高句麗の三国時代の『三国史記』や『三国遺事』のことも多くの日本人は知りません。日本に古事記や日本書紀、万葉集があったように朝鮮にも同じような文学作品や歴史書があったのです。

朝鮮の歴史の面白い点は島国の日本と違い、中国に陸続きなので絶えず中国王朝の影響を受けて来たことにあります。
その上、中国東北部の渤海族や女真族や漢族がいろいろな時代に朝鮮へ移住して独特の文化を作って来たのです。
例えば朝鮮の仏教信者は仏教とシャーマニズムの一種の「三聖閣」とを結び付けて信仰しています。この「三聖閣」は仏教の寺院の奥に存在しています。「三聖閣」には「山神」や「七星神」や「独聖」が祀ってあります。それは日本の神社とお寺の混淆とは全く違うものです。
このように日本と大いに違う歴史と文化に焦点をあてて見ると、朝鮮の歴史と文化は非常に面白くなるのです。

今日は高麗時代の女真族や漢族が大量移住ついて簡略にご紹介します。
女真族や漢族の朝鮮への移住はいろいろな時代にありましたが高麗時代には特に多かったのです。
高麗時代前時期だけでも流入した女真族や漢族などの数は23万8000人余りに達すると言われています。(https://ja.wikipedia.org/wiki/渡来人 )
定住した漢族は国際情勢に明るく、文芸にたけていて官僚にたくさん進出しました。流入した渤海人は契丹との戦争に参加して大きい功績を立てます。
火薬製造技術を伝えた人物の李元も中国の江南地方出身の人でした。
また流入した女真族は北方の情勢を伝え城を築いたりします。そして軍功をたてて高位官職についた人もいました。
後に李氏朝鮮を建国した李成桂は現在の中国の東北部の出身で、この地域の女真族を自身の支持基盤としていたのでた。
李氏朝鮮の開国で功臣だった李之蘭も中国の東北部の出身で女真族の指導者として女真族と朝鮮の関係を親密にする重要な役割を担当しました。
李氏朝鮮時代に朝鮮が北へ領土を拡大出来たのは女真族に助けられたからです。
この歴史的な事実は現在の韓国の学校では教えていないようです。
このことは京仁教育大学校の朴チョルヒ教授が次のように指摘しています。
「韓国の社会教科書が過度に民族中心的に叙述され、これら女真族の流入者の存在と文化的影響に対し教科書は沈黙し、女真族との友好的な内容は教科書で探せない」
そして女真族を朝鮮民族を困らせる民族だとだけ描写していると批判しているのです。
これも歴史教育の問題点です。それはさておきここで朝鮮の文化遺産の写真を示します。

1番目の写真は李氏朝鮮第4代国王・世宗の墓の写真です。

2番目の写真は昌徳宮の全体の写真です。このソウルにある昌徳宮の概略を説明すると以下のようになります。
李氏朝鮮の開祖李成桂は1392年に開城で王に即位、その2年後の1394年に漢陽(漢城、現在のソウル)への遷都を決定します。
無学大師の風水に基づき漢江の北、北岳山の南にあたる「陽」の地が選ばれ、李成桂が開城で政務を執っている間から王宮の建設が始まったのです。鄭道伝によって「景福宮」と命名され、1395年から李氏朝鮮の正宮として使用されたのです。1397年には漢陽の城郭と四大城門が完成しました。
1592年の文禄の役において、国王の宣祖が漢城から逃亡して治安が乱れると、先陣争いをする小西行長らの一番隊や加藤清正らの二番隊の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり再び焼失したのです。

3番目の写真は李氏朝鮮の昌徳宮の大門の前の風景です。1397年に漢陽の城郭と四大城門が作られのですが、その大門を復元したのです。

4番目の写真は韓国の世界遺産の南漢山城の写真です。

5番目の写真は世界遺産の「大韓民国の歴史的村落:河回と良洞」の風景写真です。郷愁を感じるような農村風景です。

このような朝鮮の歴史と文化へ対して、移住した女真族や漢族などが大きな影響を与えていたのです。李氏朝鮮の開祖李成桂は女真族だったのです。すなわち朝鮮と中国は渾然一体だったのです。この辺の所が日本と違い面白い点ではないでしょうか。

今日は高麗時代に女真族や漢族が大量移住して来て朝鮮の文化に影響を与えたことを簡略にご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)