明治維新の文明開化から153年にもなりますが日本には秘境が幾つもあり、平家の落人と呼ばれている場所が方々の山奥にあります。
今日はそのうちの宮崎県の椎葉村をご紹介いたします。平家の落人であることが文献に記録されています。家屋の構造が独特なので国の重要文化財に指定されています。
椎葉村は険しい山地で急な斜面に点々と集落が存在しています。
壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党がこの地に落ち延びたのです。1191年(建久2年)、追討のため那須大八郎宗久が襲って来ますが、平氏に再挙の見込み無しと見て追討を取り止め引き揚げます。
那須大八郎宗久が椎葉滞中に侍女の鶴富が娘を生みます。この娘に後に婿を娶らせ那須下野守と名乗らせ、この地方の領主とさせました。また、椎葉という地名は宗久の陣小屋が椎の葉で葺かれていた事に由来すると言います。
この地方は戦国時代に那須氏が支配しており1559年(永禄2年)那須氏が肥後に出兵しています。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/椎葉村 をご覧下さい。
現在の「椎葉村」は住民が3000人ほどが暮らす村です。国の重要文化財の鶴富屋敷などが公開されており、当時の生活が見れる貴重な場所になっています。(http://tabico.jp/neta/tp100000304/ )
それでは「椎葉村」の写真をお送りいたします。
1番目の写真は十根川の重要建造物群のある山地の風景です。写真の出典は、https://www.pmiyazaki.com/siiba/tonegawa/index.htm です。
椎葉村の十根川保存地区は十根川集落、大久保集落と周辺の山林を含んだ山村集落です。この地方特有の平面一列の民家からなる建物群が険しい山に囲まれています。美しい歴史の古い山村です。
2番目の写真は昭和31年国指定重要文化財になった「鶴富屋敷(那須家住宅)」です。家屋前面に縁を横一列に長く配置しているのが特徴です。以前は茅葺(かやぶき)屋根でしたが、昭和38年から銅板葺きに変更しました。
3番目の写真は鶴富屋敷(那須家住宅)の軒下です。
部屋の間取りは藤原期の寝殿造りになっていて、その特徴は「コザ」(神仏を祭る神聖な場所)、「デイ」(一番広い部屋で冠婚葬祭などの行事にも使用)、「ツボネ」(寝室)、「ウチネ」(茶の間)と呼ばれる四室が横一列に並んでいます。また「ドジ」と呼ばれる土間には雑穀をつく空臼と大小の石造りのかまどがあります。部屋の背面は戸棚を造り付けにし開口部が全くないのが特徴です。
4番目の写真は斜面を有効に活用するため、部屋を横一列に並べた「椎葉型」の家屋が残る十根川集落です。
写真の出典は、https://www.sankei.com/photo/story/news/160826/sty1608260013-n1.html です。
5番目の写真も一列平面型(「椎葉型」といわれる)の民家からなる建物群の風景です。
写真の出典は、https://www.pmiyazaki.com/siiba/tonegawa/index.htm です。
規模が大きい主屋と隣接する馬屋、火災を考慮して少し離れて建つ倉とで構成されています。
景観的特徴である石垣は集落全域に分布しており、高さ4m、長さ40mを越えるものもあります。
これらの写真に示した椎葉村は現在でも住人が3000人もいます。しかし日本の他の地方の秘境の多くは過疎化して廃村になっています。
例えば東京の山地の檜原村には過疎化して人の住んでいない集落が沢山あります。
椎葉村は現在でも健全な農村として存続しているのは驚きです。その理由は温暖な気候と豊かにある稲田です。棚田ですが米が毎年沢山採れるのです。自分達が食べる以上に沢山採れるので人々は豊かな暮らしが出来るのです。
東京の山地の檜原村では米が採れません。採れるのはコンニャク芋とジャガイモとカボチャだけです。これでは豊かな暮らしが出来ないのが当然ではないでしょうか。
何処に生まれるかは自分で選べません。運命です。椎葉村と檜原村を比較すると此の世の不公平をしみじみと感じます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
今日はそのうちの宮崎県の椎葉村をご紹介いたします。平家の落人であることが文献に記録されています。家屋の構造が独特なので国の重要文化財に指定されています。
椎葉村は険しい山地で急な斜面に点々と集落が存在しています。
壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党がこの地に落ち延びたのです。1191年(建久2年)、追討のため那須大八郎宗久が襲って来ますが、平氏に再挙の見込み無しと見て追討を取り止め引き揚げます。
那須大八郎宗久が椎葉滞中に侍女の鶴富が娘を生みます。この娘に後に婿を娶らせ那須下野守と名乗らせ、この地方の領主とさせました。また、椎葉という地名は宗久の陣小屋が椎の葉で葺かれていた事に由来すると言います。
この地方は戦国時代に那須氏が支配しており1559年(永禄2年)那須氏が肥後に出兵しています。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/椎葉村 をご覧下さい。
現在の「椎葉村」は住民が3000人ほどが暮らす村です。国の重要文化財の鶴富屋敷などが公開されており、当時の生活が見れる貴重な場所になっています。(http://tabico.jp/neta/tp100000304/ )
それでは「椎葉村」の写真をお送りいたします。
1番目の写真は十根川の重要建造物群のある山地の風景です。写真の出典は、https://www.pmiyazaki.com/siiba/tonegawa/index.htm です。
椎葉村の十根川保存地区は十根川集落、大久保集落と周辺の山林を含んだ山村集落です。この地方特有の平面一列の民家からなる建物群が険しい山に囲まれています。美しい歴史の古い山村です。
2番目の写真は昭和31年国指定重要文化財になった「鶴富屋敷(那須家住宅)」です。家屋前面に縁を横一列に長く配置しているのが特徴です。以前は茅葺(かやぶき)屋根でしたが、昭和38年から銅板葺きに変更しました。
3番目の写真は鶴富屋敷(那須家住宅)の軒下です。
部屋の間取りは藤原期の寝殿造りになっていて、その特徴は「コザ」(神仏を祭る神聖な場所)、「デイ」(一番広い部屋で冠婚葬祭などの行事にも使用)、「ツボネ」(寝室)、「ウチネ」(茶の間)と呼ばれる四室が横一列に並んでいます。また「ドジ」と呼ばれる土間には雑穀をつく空臼と大小の石造りのかまどがあります。部屋の背面は戸棚を造り付けにし開口部が全くないのが特徴です。
4番目の写真は斜面を有効に活用するため、部屋を横一列に並べた「椎葉型」の家屋が残る十根川集落です。
写真の出典は、https://www.sankei.com/photo/story/news/160826/sty1608260013-n1.html です。
5番目の写真も一列平面型(「椎葉型」といわれる)の民家からなる建物群の風景です。
写真の出典は、https://www.pmiyazaki.com/siiba/tonegawa/index.htm です。
規模が大きい主屋と隣接する馬屋、火災を考慮して少し離れて建つ倉とで構成されています。
景観的特徴である石垣は集落全域に分布しており、高さ4m、長さ40mを越えるものもあります。
これらの写真に示した椎葉村は現在でも住人が3000人もいます。しかし日本の他の地方の秘境の多くは過疎化して廃村になっています。
例えば東京の山地の檜原村には過疎化して人の住んでいない集落が沢山あります。
椎葉村は現在でも健全な農村として存続しているのは驚きです。その理由は温暖な気候と豊かにある稲田です。棚田ですが米が毎年沢山採れるのです。自分達が食べる以上に沢山採れるので人々は豊かな暮らしが出来るのです。
東京の山地の檜原村では米が採れません。採れるのはコンニャク芋とジャガイモとカボチャだけです。これでは豊かな暮らしが出来ないのが当然ではないでしょうか。
何処に生まれるかは自分で選べません。運命です。椎葉村と檜原村を比較すると此の世の不公平をしみじみと感じます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)