北海道に行くたびに風景に新しい感動を受けます。ヨーロッパのようです。氷河にけずられた丘がなだらかな曲面を見せ、かなたに白樺林が光っています。四季が巡るにしたがって風景も華やかに変わって行きます。
この北海道には昔からアイヌ民族が住みつて豊かな文化を花咲かせました。
今日はアイヌ民族の文学作品の中から『アイヌ神謡集』と『若きウタリ』をご紹介したいと思います。尚、アイヌ民族の文学、北海道にまつわる文学作品などの詳細は、http://www.h-bungaku.or.jp/exhibition/pdf/list.pdf に集大成されています。
さて『アイヌ神謡集』は知里幸恵さんの翻訳による叙事詩です。彼女は、東京の金田一京助氏の自宅へ招ばれ、翻訳、編集作業中に19歳で病死したアイヌの少女です。アイヌ語から日本語へ翻訳した数多くの叙事詩、「アイヌ神謡集」の冒頭の詩です。後半は省略しましたが、http://www.nextftp.com/y_misa/sinyo/sinyo_01.html をクリックすると全文を見ることができます。
知里幸恵著、『梟の神の自ら歌った謡』
「銀のしずく降る降るまわりに,金のしずく
降る降るまわりに.」という歌を私は歌いながら
流に沿って下り,人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持になっていて,昔のお金持が
今の貧乏人になっている様です.
海辺に人間の子供たちがおもちゃの小弓に
おもちゃの小矢をもってあそんで居ります.
「銀のしずく降る降るまわりに
金のしずく降る降るまわりに.」という歌を
歌いながら子供等の上を
通りますと,(子供等は)私の下を走りながら
云うことには,
「美しい鳥! 神様の鳥!
さあ,矢を射てあの鳥
神様の鳥を射当てたものは,一ばんさきに取った者は
ほんとうの勇者,ほんとうの強者だぞ.」
云いながら,昔貧乏人で今お金持になってる者の
子供等は,金の小弓に金の小矢をつがえて私を射ますと,金の小矢を
私は下を通したり上を通したりしました.・・・以下省略。
この「アイヌ神謡集」の序文に19歳で夭折した知里幸恵さんは次のように書いています。
その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀る小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬ぎ摘み,紅葉の秋は野分に穂揃をわけて,宵まで鮭とる篝も消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,まどかな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.平和の境,それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく.・・・以下省略
詳しくは、http://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/44909_29558.html をご覧下さい。
この「アイヌ神謡集」を読むと、アイヌ民族は自然とともに幸せに暮らしていたことに感動します。フクロウやいろいろな神々をうやまい、家族を大切にし、心豊かに生活していたのです。そして動物たちと人間のかかわりあいが美しく謳いあげあるのです。美しい文学です。
そして続けて短歌を「若きウタリに」(向井バチェラー八重子)からご紹介します。
(https://researchmap.jp/kaizen/八重子若きウタリに )
ふみにじられ ふみひしがれし ウタリの名 誰しかこれを 取り返すべき
野の雄鹿 牝鹿子鹿の はてまでも おのが野原を 追はれしぞ憂き
せまき野も ありなば飼はむ 親子鹿 赤き柵など 廻らしてしも
野より野に 草食み遊びし 鹿の群 今はあとだに なき寂しさ
國も名も 家畑まで うしなふも 失はざらむ 心ばかりは
古の ラメトク達の 片腕も ありてほしかり 若きウタリに
夏ながら 心はさむく ふるふなり ウタリが事を 思ひ居たれば
いにしへの ユーカラカムイ 育てにし 姉君今も 在らまほしけれ
愛らるる 子より憎まるる 子は育つ などてウタリの 子は育たぬぞ
ウタリ思ひ 泣き明したる この朝の やつれし面わ はづかしきかな
たつ瀬なく もだえ亡ぶる 道の外に ウタリ起さむ 正道なきか
灰色の 空を見つむる 瞳より とどめがたなき 涙あふるる
寄りつかむ 島はいづこぞ 海原に 漂ふ舟に 似たり我等は
作者の向井バチェラー八重子の経歴です。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/バチェラー八重子 )
1884年(明治17年)6月13日に生まれる。
父は、アイヌ豪族の向井富蔵で、アイヌ名はモコッチャロでした。母もアイヌで、フッチセという名前でした。
父の向井富蔵は、イギリス人の聖公会宣教師のジョン・バチェラーを信頼し、娘の八重子の受洗を承認します
八重子が13歳の時、ジョン・バチェラーを頼り、札幌に出て、バチェラーが運営する「アイヌ・ガールズスクール」に通い、さらに、東京のミッション・スクール香蘭聖書学校に通ったのです。
1906年(明治39年)、八重子は、ジョン・バチェラーの養女となります。22歳のことででした。なお、ジョン・バチェラーには、妻のルイザがいて、彼女ルイザがバチェラー八重子の養母となります。
1908年(明治41年)、養父母とともにシベリア鉄道経由で英国に行き、カンタベリー大主教から伝道師として任命されます。
イギリスから帰国後、北海道の幌別、平取の聖公会教会で伝道活動を展開します。
そして1931年(昭和6年)に、バチェラー八重子による短歌の歌集『若きウタリに』が出版されたのです。
1940年12月、太平洋戦争が始まると、敵性外国人として、養父ジョン・バチェラーは帰国させられるのです。八重子は1962年4月29日、関西旅行中に京都にて死去します。77歳でした。
日本人のことを和人と言いますが、和人はアイヌ民族を差別し迫害しました。その悲劇を美しい短歌にしたのが バチェラー八重子の「若きウタリに」です。
他にもアイヌ民族による文学作品はたくさんありますが、今日はこれで終わりにします。
今日の挿絵代わりの写真は北海道の新緑の風景です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
この北海道には昔からアイヌ民族が住みつて豊かな文化を花咲かせました。
今日はアイヌ民族の文学作品の中から『アイヌ神謡集』と『若きウタリ』をご紹介したいと思います。尚、アイヌ民族の文学、北海道にまつわる文学作品などの詳細は、http://www.h-bungaku.or.jp/exhibition/pdf/list.pdf に集大成されています。
さて『アイヌ神謡集』は知里幸恵さんの翻訳による叙事詩です。彼女は、東京の金田一京助氏の自宅へ招ばれ、翻訳、編集作業中に19歳で病死したアイヌの少女です。アイヌ語から日本語へ翻訳した数多くの叙事詩、「アイヌ神謡集」の冒頭の詩です。後半は省略しましたが、http://www.nextftp.com/y_misa/sinyo/sinyo_01.html をクリックすると全文を見ることができます。
知里幸恵著、『梟の神の自ら歌った謡』
「銀のしずく降る降るまわりに,金のしずく
降る降るまわりに.」という歌を私は歌いながら
流に沿って下り,人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持になっていて,昔のお金持が
今の貧乏人になっている様です.
海辺に人間の子供たちがおもちゃの小弓に
おもちゃの小矢をもってあそんで居ります.
「銀のしずく降る降るまわりに
金のしずく降る降るまわりに.」という歌を
歌いながら子供等の上を
通りますと,(子供等は)私の下を走りながら
云うことには,
「美しい鳥! 神様の鳥!
さあ,矢を射てあの鳥
神様の鳥を射当てたものは,一ばんさきに取った者は
ほんとうの勇者,ほんとうの強者だぞ.」
云いながら,昔貧乏人で今お金持になってる者の
子供等は,金の小弓に金の小矢をつがえて私を射ますと,金の小矢を
私は下を通したり上を通したりしました.・・・以下省略。
この「アイヌ神謡集」の序文に19歳で夭折した知里幸恵さんは次のように書いています。
その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀る小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬ぎ摘み,紅葉の秋は野分に穂揃をわけて,宵まで鮭とる篝も消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,まどかな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.平和の境,それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく.・・・以下省略
詳しくは、http://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/44909_29558.html をご覧下さい。
この「アイヌ神謡集」を読むと、アイヌ民族は自然とともに幸せに暮らしていたことに感動します。フクロウやいろいろな神々をうやまい、家族を大切にし、心豊かに生活していたのです。そして動物たちと人間のかかわりあいが美しく謳いあげあるのです。美しい文学です。
そして続けて短歌を「若きウタリに」(向井バチェラー八重子)からご紹介します。
(https://researchmap.jp/kaizen/八重子若きウタリに )
ふみにじられ ふみひしがれし ウタリの名 誰しかこれを 取り返すべき
野の雄鹿 牝鹿子鹿の はてまでも おのが野原を 追はれしぞ憂き
せまき野も ありなば飼はむ 親子鹿 赤き柵など 廻らしてしも
野より野に 草食み遊びし 鹿の群 今はあとだに なき寂しさ
國も名も 家畑まで うしなふも 失はざらむ 心ばかりは
古の ラメトク達の 片腕も ありてほしかり 若きウタリに
夏ながら 心はさむく ふるふなり ウタリが事を 思ひ居たれば
いにしへの ユーカラカムイ 育てにし 姉君今も 在らまほしけれ
愛らるる 子より憎まるる 子は育つ などてウタリの 子は育たぬぞ
ウタリ思ひ 泣き明したる この朝の やつれし面わ はづかしきかな
たつ瀬なく もだえ亡ぶる 道の外に ウタリ起さむ 正道なきか
灰色の 空を見つむる 瞳より とどめがたなき 涙あふるる
寄りつかむ 島はいづこぞ 海原に 漂ふ舟に 似たり我等は
作者の向井バチェラー八重子の経歴です。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/バチェラー八重子 )
1884年(明治17年)6月13日に生まれる。
父は、アイヌ豪族の向井富蔵で、アイヌ名はモコッチャロでした。母もアイヌで、フッチセという名前でした。
父の向井富蔵は、イギリス人の聖公会宣教師のジョン・バチェラーを信頼し、娘の八重子の受洗を承認します
八重子が13歳の時、ジョン・バチェラーを頼り、札幌に出て、バチェラーが運営する「アイヌ・ガールズスクール」に通い、さらに、東京のミッション・スクール香蘭聖書学校に通ったのです。
1906年(明治39年)、八重子は、ジョン・バチェラーの養女となります。22歳のことででした。なお、ジョン・バチェラーには、妻のルイザがいて、彼女ルイザがバチェラー八重子の養母となります。
1908年(明治41年)、養父母とともにシベリア鉄道経由で英国に行き、カンタベリー大主教から伝道師として任命されます。
イギリスから帰国後、北海道の幌別、平取の聖公会教会で伝道活動を展開します。
そして1931年(昭和6年)に、バチェラー八重子による短歌の歌集『若きウタリに』が出版されたのです。
1940年12月、太平洋戦争が始まると、敵性外国人として、養父ジョン・バチェラーは帰国させられるのです。八重子は1962年4月29日、関西旅行中に京都にて死去します。77歳でした。
日本人のことを和人と言いますが、和人はアイヌ民族を差別し迫害しました。その悲劇を美しい短歌にしたのが バチェラー八重子の「若きウタリに」です。
他にもアイヌ民族による文学作品はたくさんありますが、今日はこれで終わりにします。
今日の挿絵代わりの写真は北海道の新緑の風景です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)