後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「私のアイヌの友人への追憶と惜別」

2020年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
老人になると妙に昔のことが懐かしなります。少年の頃のことをありありと思い出します。私は本物の老人になったのです。
今日は小学校の頃のある一つの思い出を書きたいと思います。

5年生の時、私にはアイヌ人の友人がいました。この事は以前にも書きました。また今日も書くのは彼を忘れたくないからです。彼に対する哀惜の気持ちが書かせるのです。
私は仙台市に生まれ育ちました。そこへアイヌ人一家が移住して来たのです。私の家の近所の雑木林を切り開いて生活をしようとしていたのです。私はそのアイヌ人の一家の少年と仲良くなったのです。
仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまいました。二度と会えません。悲しみだけが残りました。84歳になった現在でも、その頃の事をよく思い出します。
終戦後の小学5、6年のころ、私は仙台市の郊外の向山という所に住んでいました。小学校の裏山にある開拓の一軒にアイヌ人家族が移住して来たのです。その一家には同じ年ごろの少年がいたのでよく遊びに行きました。
トタン屋根に板壁、天井の無い粗末な家の奥は寝室。前半分には囲炉裏があり、炊事や食事をしています。建坪が10坪くらいの小さな家でした。
父親は白い顔に黒い大きな目で豊かな黒髪に黒髭でした。母親も黒髪で肌の色はあくまでも白いのです。

1番目の写真は1904年に撮った北海道のアイヌの人々の写真です。私の付き合っていたアイヌ一家の主人はこの写真の右から3人目のような風貌でした。妻は右端の女性のように見えました。服装は日本人と同じでしたが、色が白く、目鼻立ちの彫りが深く、滅多に声をあげない静かな人々でした。

私が仲良くなった少年は学校に来ません。遊びに行くと、1人で家の整理や庭先の畑の仕事をしています。無愛想でしたが歓迎してくれているのが眼で分かります。夕方、何処かに、賃仕事に行っていた両親が帰って来ます。父親が、息子と仲良くしている和人の私へほほ笑んでくれました。それ以来時々遊びに行くようになります。アイヌの一家はいつも温かく迎えてくれます。いつの間にか、アイヌの少年と一緒に裏山を走り回って遊ぶようになりました。

夏が過ぎて紅葉になり、落ち葉が風に舞う季節になった頃、開拓の彼の家へ行きました。無い。何も無いのです。忽然と家も物置も消えているのです。白けた広場があるだけです。囲炉裏のあった場所が黒くなっています。黒い燃え残りの雑木の薪が2,3本転がっています。
アイヌ一家にはなにか事情があったのでしょう。さよならも言わないで消えてしまったのです。これが、私がアイヌと直接交わった唯一度の出来事でありました。70年以上たった今でもあの一家の顔を鮮明に覚えています。
惜別の念にかられて私はのちに調べてみました。
戦後に日本共産党が北海道で困窮しているアイヌ村落の人々を助けるために東北地方への移住を斡旋したというのです。
しかしそれは無責任な移住斡旋でした。移住後の就職も斡旋しないで生活の世話もしませんでした。
こんな事情で私の友人一家も住み慣れた北海道に帰ったのでしょう。

北海道に旅をする度にこのアイヌの友人のことを思い出します。そして、あちこちにあるアイヌ民族の博物館を見ます。
昔アイヌ村落のあった日高の平取や白老の博物館を訪問しました。旭川の郊外にある民族博物館などにも行行ました。
他にも北海道大学の付属植物園の中にあるアイヌ博物館や函館市のアイヌ文化博物館も見ました。
その結果、第二次大戦の終戦まで北海道にはアイヌ人達だけの村落が沢山あったことが分かったのです。
私の友人の一家もその北海道のアイヌ人村落から仙台の郊外の雑木林へ移住して来たのです。

2番目の写真と3番目の写真は白老の博物館の写真です。

北海道へ帰った友人のその後の一生はどうだったのでしょうか。私は時々想像しています。
そして何の根拠も無く北海道の漁村でつつましく暮らしていると思っています。そしてロマンチックな帆船を使った北海シマエビ漁をしていると想像しています。
続く4番目と5番目の写真は野付湾で北海シマエビをとる打瀬帆舟の風景です。野付半島は北海道の東部にあります。




私は祈っています。アイヌの友人が写真のように美しい風景のなかで幸せに暮らしていることを。

今日は私のアイヌの友人への追憶と惜別を書きました。それは私の人生にとってとても重要なことです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)