私どもは縁あって1964年から東京の小金井市に住んでいます。愛着もあり、折にふれてこの地の歴史を調べています。
ここ小金井には1万5千年以上前の縄文時代から人が住んでいました。その後はあまり人が増えませんでしたが江戸幕府の直轄になって新田が盛んに開発されて住む人が急に増えました。
明治維新後に小金井村、貫井村、貫井新田、小金井新田、梶野新田、関野新田などが合併して新しい小金井村になりました。その後、現在のJR中央線の前身の鉄道が出来てから大きな町になったのです。
現在の小金井市は江戸時代の新田開発と鉄道の建設のお陰で出来た町です。
ですから現在の小金井市には縄文時代の土器と江戸時代の遺物や遺跡が少しあります。しかし江戸時代のものは時代の流れで消滅して行きます。
私はそれらを写真に撮り、この欄に掲載して来ました。江戸時代からある小金井神社、貫井弁天、稲穂神社などの写真です。そして江戸初期に出来た玉川上水とそれから分水した小金井分水路の写真も掲載して来ました。
この続きとして昨日は江戸時代の庚申塔と石灯篭の写真を撮りに行きました。
江戸時代の庚申塔と石灯篭はほとんど消滅してしまいましたが古い小金井街道に沿った大松の木の下の稲荷神社にわずかに保存してあります。
1番目の写真は大松木下之稲荷神社です。とても小さな神社です。
2番目の写真は大松木下之稲荷神社の鳥居の中の右手にある2つの江戸時代の庚申塔です。
右の黒い庚申塔の年号は不明ですが石の劣化から江戸初期以前のものと考えられます。左の庚申塔は寛政4年、1792年に建てられたものです。地元の上山谷講中が建てたもので、青面金剛が彫ってあります。鬼と猿を青面金剛の足もとに彫った江戸後期の典型的な庚申塔です。
3番目の写真は稲荷神社の中にある2つの江戸時代の石灯篭です。
右の黒い石灯篭は享和2年、1802年建立のものです。榛名大権現と大山大権現と刻まれていて、当時の山岳信仰で寄進した石灯篭であることが分かります。
左の白っぽい石灯篭の年号は不明ですが前澤村や貫井村や梶野新田などの「籠細工講中」が寄進したものです。籠細工の組合が寄進したものは大変珍しいもので他にはありません。
現在の小金井市には江戸時代の庚申塔は非常に少なく私の知るかぎりはここに紹介した2つと、もう一つだけです。もう一つとは、小金井市の貫井南町(旧貫井村)の三叉路に1794年に建てられた庚申塔のです。(詳しくは、「日本人に忘れられた道教の庚申信仰、その一」、2016年11月09日 掲載をご覧下さい) 他は消滅したのでしょう。
そこで心配になり大松木下之稲荷神社の近くにある白龍の大ケヤキの写真を撮りに行きました。
4番目の写真は保存木の白龍の大ケヤキです。大正時代この辺は栗林だけが広がる寂しい農村でした。ここに住んでいた朝倉市威の妻、ミヤがある夜に白龍の夢を見ます。そこで白龍を祀った祠を建て一本のケヤキを植えたのです。それでこのケヤキを白龍のキヤキと言います。
しかし写真が示すように高層マンションが隣接してケヤキの木を圧迫しています。
5番目の写真は白龍の大ケヤキの根本の写真です。3方から建物が迫っていて地面が見えません。その上前面は小金井街道の歩道の敷石で固められ雨水も浸み込めません。こんな状態では早晩枯れてしまうでしょう。残念なことですが仕方ないのです。
時代の流れとともに古いものは皆消滅して行きます。こんな古いものにこだわるのは老人だけなのでしょう。嗚呼。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
ここ小金井には1万5千年以上前の縄文時代から人が住んでいました。その後はあまり人が増えませんでしたが江戸幕府の直轄になって新田が盛んに開発されて住む人が急に増えました。
明治維新後に小金井村、貫井村、貫井新田、小金井新田、梶野新田、関野新田などが合併して新しい小金井村になりました。その後、現在のJR中央線の前身の鉄道が出来てから大きな町になったのです。
現在の小金井市は江戸時代の新田開発と鉄道の建設のお陰で出来た町です。
ですから現在の小金井市には縄文時代の土器と江戸時代の遺物や遺跡が少しあります。しかし江戸時代のものは時代の流れで消滅して行きます。
私はそれらを写真に撮り、この欄に掲載して来ました。江戸時代からある小金井神社、貫井弁天、稲穂神社などの写真です。そして江戸初期に出来た玉川上水とそれから分水した小金井分水路の写真も掲載して来ました。
この続きとして昨日は江戸時代の庚申塔と石灯篭の写真を撮りに行きました。
江戸時代の庚申塔と石灯篭はほとんど消滅してしまいましたが古い小金井街道に沿った大松の木の下の稲荷神社にわずかに保存してあります。
1番目の写真は大松木下之稲荷神社です。とても小さな神社です。
2番目の写真は大松木下之稲荷神社の鳥居の中の右手にある2つの江戸時代の庚申塔です。
右の黒い庚申塔の年号は不明ですが石の劣化から江戸初期以前のものと考えられます。左の庚申塔は寛政4年、1792年に建てられたものです。地元の上山谷講中が建てたもので、青面金剛が彫ってあります。鬼と猿を青面金剛の足もとに彫った江戸後期の典型的な庚申塔です。
3番目の写真は稲荷神社の中にある2つの江戸時代の石灯篭です。
右の黒い石灯篭は享和2年、1802年建立のものです。榛名大権現と大山大権現と刻まれていて、当時の山岳信仰で寄進した石灯篭であることが分かります。
左の白っぽい石灯篭の年号は不明ですが前澤村や貫井村や梶野新田などの「籠細工講中」が寄進したものです。籠細工の組合が寄進したものは大変珍しいもので他にはありません。
現在の小金井市には江戸時代の庚申塔は非常に少なく私の知るかぎりはここに紹介した2つと、もう一つだけです。もう一つとは、小金井市の貫井南町(旧貫井村)の三叉路に1794年に建てられた庚申塔のです。(詳しくは、「日本人に忘れられた道教の庚申信仰、その一」、2016年11月09日 掲載をご覧下さい) 他は消滅したのでしょう。
そこで心配になり大松木下之稲荷神社の近くにある白龍の大ケヤキの写真を撮りに行きました。
4番目の写真は保存木の白龍の大ケヤキです。大正時代この辺は栗林だけが広がる寂しい農村でした。ここに住んでいた朝倉市威の妻、ミヤがある夜に白龍の夢を見ます。そこで白龍を祀った祠を建て一本のケヤキを植えたのです。それでこのケヤキを白龍のキヤキと言います。
しかし写真が示すように高層マンションが隣接してケヤキの木を圧迫しています。
5番目の写真は白龍の大ケヤキの根本の写真です。3方から建物が迫っていて地面が見えません。その上前面は小金井街道の歩道の敷石で固められ雨水も浸み込めません。こんな状態では早晩枯れてしまうでしょう。残念なことですが仕方ないのです。
時代の流れとともに古いものは皆消滅して行きます。こんな古いものにこだわるのは老人だけなのでしょう。嗚呼。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)