後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「江戸時代の庚申塔と石灯篭の写真を撮りに行く」

2020年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム
私どもは縁あって1964年から東京の小金井市に住んでいます。愛着もあり、折にふれてこの地の歴史を調べています。
ここ小金井には1万5千年以上前の縄文時代から人が住んでいました。その後はあまり人が増えませんでしたが江戸幕府の直轄になって新田が盛んに開発されて住む人が急に増えました。
明治維新後に小金井村、貫井村、貫井新田、小金井新田、梶野新田、関野新田などが合併して新しい小金井村になりました。その後、現在のJR中央線の前身の鉄道が出来てから大きな町になったのです。
現在の小金井市は江戸時代の新田開発と鉄道の建設のお陰で出来た町です。
ですから現在の小金井市には縄文時代の土器と江戸時代の遺物や遺跡が少しあります。しかし江戸時代のものは時代の流れで消滅して行きます。
私はそれらを写真に撮り、この欄に掲載して来ました。江戸時代からある小金井神社、貫井弁天、稲穂神社などの写真です。そして江戸初期に出来た玉川上水とそれから分水した小金井分水路の写真も掲載して来ました。

この続きとして昨日は江戸時代の庚申塔と石灯篭の写真を撮りに行きました。
江戸時代の庚申塔と石灯篭はほとんど消滅してしまいましたが古い小金井街道に沿った大松の木の下の稲荷神社にわずかに保存してあります。

1番目の写真は大松木下之稲荷神社です。とても小さな神社です。

2番目の写真は大松木下之稲荷神社の鳥居の中の右手にある2つの江戸時代の庚申塔です。
右の黒い庚申塔の年号は不明ですが石の劣化から江戸初期以前のものと考えられます。左の庚申塔は寛政4年、1792年に建てられたものです。地元の上山谷講中が建てたもので、青面金剛が彫ってあります。鬼と猿を青面金剛の足もとに彫った江戸後期の典型的な庚申塔です。

3番目の写真は稲荷神社の中にある2つの江戸時代の石灯篭です。
右の黒い石灯篭は享和2年、1802年建立のものです。榛名大権現と大山大権現と刻まれていて、当時の山岳信仰で寄進した石灯篭であることが分かります。
左の白っぽい石灯篭の年号は不明ですが前澤村や貫井村や梶野新田などの「籠細工講中」が寄進したものです。籠細工の組合が寄進したものは大変珍しいもので他にはありません。

現在の小金井市には江戸時代の庚申塔は非常に少なく私の知るかぎりはここに紹介した2つと、もう一つだけです。もう一つとは、小金井市の貫井南町(旧貫井村)の三叉路に1794年に建てられた庚申塔のです。(詳しくは、「日本人に忘れられた道教の庚申信仰、その一」、2016年11月09日 掲載をご覧下さい) 他は消滅したのでしょう。
そこで心配になり大松木下之稲荷神社の近くにある白龍の大ケヤキの写真を撮りに行きました。

4番目の写真は保存木の白龍の大ケヤキです。大正時代この辺は栗林だけが広がる寂しい農村でした。ここに住んでいた朝倉市威の妻、ミヤがある夜に白龍の夢を見ます。そこで白龍を祀った祠を建て一本のケヤキを植えたのです。それでこのケヤキを白龍のキヤキと言います。
しかし写真が示すように高層マンションが隣接してケヤキの木を圧迫しています。

5番目の写真は白龍の大ケヤキの根本の写真です。3方から建物が迫っていて地面が見えません。その上前面は小金井街道の歩道の敷石で固められ雨水も浸み込めません。こんな状態では早晩枯れてしまうでしょう。残念なことですが仕方ないのです。

時代の流れとともに古いものは皆消滅して行きます。こんな古いものにこだわるのは老人だけなのでしょう。嗚呼。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「興味深い朝鮮の歴史と文化(5)客観的に考えた朝鮮併合の歴史」

2020年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は少し重い内容の記事を書きますので、まず始めに花々の写真をご覧下さい。昨日、三鷹市の花と緑の広場で撮って来ました。









花の写真を見ると人間は穏やかに気持ちになります。そんな気分で以下をお読み頂ければ幸いです。

日本による1910年から1945年までの朝鮮併合を客観的に考えるためには、日本人と韓国人の歴史観を公平に書くことが最も重要です。

韓国人は現在の韓国は1919年の上海の亡命政府から始まったと考えています。現在の韓国の憲法にそう明記してあるからです。
一方、日本人は隣の大韓民国は1945年の日本の敗戦によって生まれた新しい国だと理解しています。
しかし韓国人は日本の朝鮮併合に反対して、上海に1919年に作った大韓民国臨時政府が現在の大韓民国のはじまりだという教育を受けます。韓国の学校では次のような憲法の冒頭に書いてある通り教えているのです。
・・・悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と、、、以下省略。
ここに出て来る3・1運動とは韓国人なら誰でも知っている1919年の朝鮮独立運動のことです。
これは韓国人の歴史認識です。これは冷厳な事実です。
以下に1919年の韓国の臨時政府が出来る歴史的な経緯をご紹介いたします。
三・一独立運動後、独立運動の継続と拡大のため、朝鮮や中国の各地で亡命政府の樹立のための準備が進められていました。
当時、上海には多くの朝鮮人独立運動家が集結し、彼らは臨時議政院を設立します。そして李承晩を首班とする閣僚を選出、臨時憲章を制定し、1919年4月、大韓民国臨時政府の樹立を宣言したのです。この李承晩は戦後に韓国の初代大統領になります。
同じころ、京城(ソウル)とシベリアでも臨時政府が樹立されましたが、やがて上海の臨時政府に統合されました。
1919年9月に統合された上海の臨時政府は国務総理に李東輝を選出し、1920年に李東輝が臨時政府を去ると李東寧、申圭植、盧伯麟が国務総理代理を引き受けます。
国務総理代理体制は1922年9月、李承晩の大統領制に改編され、1925年には朴殷植を大統領に選出しました。
一方、大韓民国臨時政府の地方組職は朝鮮国内の連通府と交通局にあり、海外には朝鮮併合に反対する居留民団組職がありました。
連通府と交通局は朝鮮北西地方で結成され、江原道と忠清道の一部には大韓独立愛国団、中部以南では大韓民国青年外交団が活動していました。
また、この時期に大同団、ソウルの大韓民国愛国婦人会、平壌の大韓愛国婦人会・大韓赤十字会なども大韓民国臨時政府との関係で活動したのです。
居留民団組職は上海などの中国本土に存在し、アメリカとメキシコ、フランスでは大韓人国民会の組職が活動していました。そして満州では大韓民国臨時政府傘下に結成されていた西間島の西路軍政署と北間島の北路軍政署の組職が活動していました。
戦争終結直前の地方組職は重慶の居留民団とアメリカの大韓人国民会と国本土に点在する光復軍とが活発でした。
(上記は、http://ja.wikipedia.org/wiki/大韓民国臨時政府 より抜粋、転載しました)

なお三・一運動は1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった運動です。独立万歳運動や万歳事件とも呼ばれています。現在の韓国では3月1日を三一節として祝日に指定しています。
以上が現在の韓国人が理解している朝鮮併合にまつわる歴史です。

一方日本人は朝鮮併合は彼等の希望で平和的になされたものだという理解です。従って日本の学校では朝鮮の独立運動や亡命政府のことは一切教えていません。
日本側の認識では、1910年(明治43年)に韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印されたのです。これにより日本は大韓帝国を併合し朝鮮半島を領有しました。
1945年(昭和20年)8月15日、日本は連合国に対する敗戦に伴って朝鮮半島の実効支配を喪失し、日本による朝鮮半島の領有は終了します。これが日本側の朝鮮併合の歴史認識です。
もっとも伊藤博文が朝鮮独立運動家の安重根によって1909年にハルビン駅頭で暗殺されたことは学校で教わります。

このように朝鮮併合の歴史観は日本と韓国で大きく異なるのです。
それにしても朝鮮併合は日本にとって大きな負の遺産となりました。朝鮮民族にとっては歴史的に大きな悲劇になりました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)