皆様は柿右衛門が磁器に赤絵の焼き付けに成功したことを学校の教科書で習ったことを憶えていると思います。それは1646年のことでした。
それ以前、秀吉の朝鮮出兵まで日本では、磁器の焼成ができず土器を焼いた須恵器という器しか出来なかったのです。それが連行されて来た朝鮮の陶工たちによって初めて磁器が焼成されたのです。それは革命的な技術革新でした。
この新しい技術には2つの絶対条件が要求されます。
(1)磁器になる岩石成分を多く含有する磁石(じせきと言い、じしゃくとは違う)を発見する技術。
(2)焼成する炉の熱効率を上げて1000度以上の温度が出る構造の焼成炉を作る技術。
この二つの技術が日本には無かったのです。
それはさておき日本で現在でも尊重されている朝鮮本土の李朝白磁の歴史を見てみましょう。
李朝の陶磁器は、初期には粉青沙器が主流でしたが、17世紀以後は白磁に変わりました。
中国の元、明の白磁の影響を受けたものですが、17世紀には色が青味がかり李朝末期には濁った白色に変わったのです。
李朝では、磁器の製造は官窯でである工匠が行っていました。
1752年に広州に分院の官窯が作られ生産の中心になっていましたが、1883年に分院が民営化され官窯の歴史は終わったのです。
コバルト顔料で下絵付した青花も作られましたが、コバルト顔料が不足したため、鉄絵具で下絵付する鉄砂や銅絵具で下絵付する辰砂(赤茶色)も作られたのです。
しかし、李朝白磁の95%以上は他の色による装飾がない純白磁であり、江戸時代に日本で作られていたような華やかな色絵磁器は李氏朝鮮には存在していません。
さて李朝の白磁は素朴で暖かみがあります。その上、上品な感じがします。見る人の心をなごやかにするのです。私も好きです。現在の日本人も尊重していますので、その写真を示します。写真の出典は、http://www.nakamaga.com/newpage11.html です。
1番目の写真は李朝初期の白磁壺です。
2番目は李朝初期の白磁皿です。
3番目は初期の白磁徳利です。
4番目は李朝中期の貝文大徳利です。
5番目は李朝後期の大白磁徳利です。
さて朝鮮から連行されて来た陶工達はどのようにして上の新しい技術を伝えたのでしょうか?
この問題を詳細に研究して発表している専門家がいます。彼は東京都の東京都の清瀬市郷土博物館の学芸員の内田祐治さんです。以下は彼の2008年6月発表の研究論文(http://members3.jcom.home.ne.jp/nabari.u.y/imari.pdf)からの抜粋です。
佐賀県の一帯には、古来より須恵器からつづく窯が点在していました。その景観が一変する契機となったのが、次の秀吉による朝鮮半島への出兵でした。
・文禄の役(1592 ~ 94)
・慶長の役(1597 ~ 98)
この文禄・慶長の出兵により、数多くの朝鮮人がわが国へ渡って来たのです。そのなかに陶工達がいました。
もともと朝鮮半島での戦は恩賞としての領地を与えられぬ戦です。
そこで朝鮮陶工を帰化させることにり、諸藩へ新たな窯業を興させ、それをもって恩賞に代えることにしたのです。それが秀吉の政策でした。
彼らは付き従った諸藩へ帰化し、各々の領主の庇護を受けて陶器の焼造をはじめたのです。それらは後に、唐津焼、上野焼、高取焼、薩摩焼、萩焼と呼ばれる窯業地帯を形成させていったのです。
なかでも多数の朝鮮陶工をともない、後の唐津焼きの礎を築いたのが北九州の鍋島藩、平戸藩、唐津藩でした。
その陶工らは、松浦・佐賀・多久・武雄、平戸・諫早に陶土をみいだし、それぞれの窯を築いたのです。
やがて有田西部の乱橋に移住した李参平は、有田川上流の泉山の地で磁器原料となる磁石を発見します。
上白川の天狗谷に窯を築き、磁器の試作を完成させました。これこそが我が国で初めて磁器が焼成された新しい技術革新でした。
そして正保三年(1646)、酒井田柿右衛門が赤絵に成功したのです。
国産赤絵の成功を契機に、藩は一方で磁器製法の秘術を守り抜くために有田皿山へ番所を設け商人の直取引を禁じ、他方で海上輸送の焼物の集積港である伊万里津へ買い付けの場を定め販売の制度を確立しました。
美しい絵模様のついた磁器はやがていろいろな藩で焼成されるようになり藩財政を潤したのです。そして江戸時代の外国貿易の主要な輸出品になっていったのです。その詳細は是非、清瀬市郷土博物館の学芸員の内田祐治さんの研究論文をご覧ください。
現在、日本の陶磁器生産技術は世界でも一流で生産される陶磁器の品質は非常に高く評価されています。
この原因は上記のように李氏朝鮮からの技術者の導入にあったのです。李氏朝鮮のお陰だったのです。それは輝かしい朝鮮文化の一つでした。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============
李 参平(り さんぺい、生年不詳 - 明暦元年8月11日(1655年9月10日))は、 朝鮮出身の陶工で、有田焼(伊万里焼)の生みの親として知られている。日本名は金ヶ江 三兵衛(かながえ さんべえ)。現在も直系の子孫が作陶活動などを行い、14代まで続いている。
現在の14代の陶芸家のホームページは下記をご覧くださ。
http://toso-lesanpei.com/owner/index.html
・・・ 十四代金ヶ江三兵衛の挨拶・・・・
草創期の有田焼から感じる陶工たちの想いと技術を蘇らせ、李参平の子孫として日々精進しております。
そして、その作陶活動から韓日文化交流の架け橋のひとつになりたいと思います。 ・・・以下省略