戦前に生まれた人は現在75歳以上です。高齢化のせいで、日本で一番人口が多い世代は65~69歳ですので、そのすこし上の75歳以上の割合は日本の人口のかなりの部分を構成しています。
今日はこの戦前生まれの人々のふる里が消えてしまったという悲しみを書きたいと思います。
生まれた場所は変わらず存在していますが、幼いころ見た風景が完全に消えてしまったのです。世の移り変わりの速さに驚きます。
故郷を離れた人々が久しぶりに帰省してみると故郷の風景の変貌ぶりに驚く筈です。故郷の風景が消失しまったのです。
私は戦前に仙台で生まれ、戦後にそこで育ったので、仙台に行く度に故郷が消えてしまったような気分になります。
我がふるさと、仙台が見知らぬ白い街になってしまったのです。
あれは確か2010年の10月のことでした。久しぶり仙台に行き、思い出をたどりながら町々を歩き回ったのです。
ただ高いビル群の見知らぬ白い街が広がり、大きな道路には沢山の車が容赦なく疾走しているだけです。道行く人々は足が長く、見知らぬ外国人のように速足に過ぎ行くばかりです。以前は同級生や知り合いに、二人三人と、偶然会ったものでした。みんな何処かへ行ってしまったようです。
繁華街の一番丁の店もすっかり名前が変わっています。昔と変わらない お茶屋の井ケ田屋と コーヒー店のエビアンが存続していましたが、後は全て消えてしまったようです。消えてしまったふるさとの街を歩く寂寥感が身に沁みます。
1番目の写真に青葉城跡の高台から見た仙台の風景を示します。
この白いビルの並ぶ風景は見知らぬ風景です。以前の仙台は杜の都と呼ばれていました。大きな街路樹や庭木が昔風の家々を覆っていました。その緑の間から赤レンガの県庁のビルや裁判所のビルが見えるだけでした。
街の風景が変わっただけではありません。子供の頃遊んだ秘密の場所がすっかり変わってしまっていたのです。
昔住んでいた家は伊達政宗の廟所のある経ケ峯という小山のそばにあったのです。政宗から三代までの廟所のある杉木立の暗い淋しい山でした。
戦争で忙しい大人達はめったに足を向けない森閑とした場所です。そのうち戦災で廟が焼失しました。
その跡に粗末な白木のお堂が立っているだけでした。
そこへ独り登ると、そこは私の天下です。隠れ家です。誰にも拘束されない自由の空間でした。遠方で鳴くセミの声を聞くだけです。ゆっくり石段を降り、下馬の明るい広場へ出ます。
その先には評定河原へ渡る一銭橋がありました。広瀬川へ遊びに行くお決まりの道だったのです。私の大切にしていた思い出の聖地でした。
それが久し振りに行って見たら、金ぴかの桃山調の瑞鳳殿という豪華な廟堂になっています。
2番目の写真が立派に改装された瑞鳳殿の写真です。そしてこの瑞鳳殿は仙台観光の目玉らしく、観光客がゾロゾロと歩いています。
私は何故か悲しくなり、中に入る勇気が出ません。幼少の頃の私の大切な場所を観光客に奪われてしまったような気分になってしまったのです。そんな感じ方はまったく理不尽なことは判っています。
家内だけが一人の観光客になって気楽に中に入って楽しそうに見物しています。
しかし一方、自然の景色だけは変わらないで残っている場所もありました。
3番目の写真は旧一銭橋から見た青葉城方面の風景です。川原に樹木が茂っている風景やその向こうの青葉山は昔のままです。右手の白い住宅は60年前もあった公務員住宅でした。
変わったものは風景だけではありません。
昔の仙台の名産品は仙台平という絹織物でした。埋木細工でした。笹蒲鉾でした。仙台駄菓子でした。
この昔の仙台の名産品は、笹蒲鉾以外、全部消えてしまいました。
最近、急に仙台の名物が、牛タン焼になったのです。
老人の私は牛タンが名物だとは信じません。牛タン焼を食べるために仙台へ観光旅行へ行く人々が沢山います。そんなニュースを聞く度に何故か、「それは違う」とつぶやきます。
牛タンは美味しいものです。それは知っています。しかし私は仙台では絶対に食べないようにしています。老人の頑固です。
日本全国各地の名物が年月と共に変わって行きます。名産品が変わっていくことが何故か淋しいものです。
そして人々も忙しく変わって行きます。風景も名産品も変わってしまった仙台は私のふるさとは違う気分です。
大袈裟に言えば私の故郷は完全に消失してしまったのです。これも輪廻転生なのでしょうか。
しかし自然の景観だけは何時までも同じです。
こんなことを感じる人が多いので故郷の風景をいつまでも残そうとした場所があります。八王子市の旧恩方村にある「夕焼け小焼けふれあいの里」という野外公園です。
「夕焼け小焼けで日が暮れて・・」という歌詞を作った中村雨紅の出身地です。
『夕焼小焼』
夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘が鳴る
お手々つないで皆帰ろ
烏と一緒に帰りましょ
この童謡は野口雨情の弟子の中村雨紅が故郷恩方の風景を歌ったものです。
4番目の写真は「夕焼け小焼けふれあいの里」の中にある水車小屋の風景です。
5番目の写真は江戸時代の甲州街道の裏街道の口留番所あとの碑です。番所跡の碑と松姫の碑とが並んでいます。武田信玄が娘の一人、松姫を恩方村の豪族に嫁がせ国境の守りとした歴史があるのです。
ここは日本人のふる里の原風景です。故郷でよく歌った「夕焼け小焼け」の作詞者の生まれた旧恩方村の山の風景が昔のまま残っています。
さて皆様のふるさとは変わったでしょうか?どのような故郷の思い出をお持ちでしょうか?沢山思い出があると存じます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============
中村雨紅(なかむら うこう、1897年- 1972年)は、詩人・童謡作家である。本名は、井宮吉(たかい みやきち)だが、出版物など一般的には高井宮吉と記される。東京府南多摩郡恩方(おんがた)村(現在の東京都八王子市上恩方町)出身。
1909年(明治42年)上恩方尋常小学校(現・恩方第二小学校)を卒業し、1911年(明治44年)恩方村報恩高等小学校を卒業して、1916年(大正5年)東京府青山師範学校卒業後、その年に東京北豊島郡日暮里町第二日暮里小学校の教師になる。
1917年(大正6年)おばの家である中村家の養子となる(1923年解消)。
1921年(大正10年)高井宮のペンネームで童謡『お星さん』などが児童文芸雑誌『金の船』に掲載される。1923年(大正12年)『夕焼小焼』を発表。同年、漢学者本城問亭の次女千代子と結婚。1924年(大正13年)長男・喬が生まれる。1926年(大正15年)日本大学高等師範部を卒業後、神奈川県立厚木実科高等女学校(現・厚木東高校)の教師となる。1927年(昭和2年)長女・緑が生まれる。この間、野口雨情に師事し、その名前の「雨」の一字をもらい、雨紅と称する。1949年(昭和24年)教師を退職。1971年(昭和46年)神奈川県立厚木病院に入院、翌年5月6日逝去。享年75。八王子市上恩方町・宮尾神社南、井丹雄墓所内に埋葬。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E9%9B%A8%E7%B4%85)
今日はこの戦前生まれの人々のふる里が消えてしまったという悲しみを書きたいと思います。
生まれた場所は変わらず存在していますが、幼いころ見た風景が完全に消えてしまったのです。世の移り変わりの速さに驚きます。
故郷を離れた人々が久しぶりに帰省してみると故郷の風景の変貌ぶりに驚く筈です。故郷の風景が消失しまったのです。
私は戦前に仙台で生まれ、戦後にそこで育ったので、仙台に行く度に故郷が消えてしまったような気分になります。
我がふるさと、仙台が見知らぬ白い街になってしまったのです。
あれは確か2010年の10月のことでした。久しぶり仙台に行き、思い出をたどりながら町々を歩き回ったのです。
ただ高いビル群の見知らぬ白い街が広がり、大きな道路には沢山の車が容赦なく疾走しているだけです。道行く人々は足が長く、見知らぬ外国人のように速足に過ぎ行くばかりです。以前は同級生や知り合いに、二人三人と、偶然会ったものでした。みんな何処かへ行ってしまったようです。
繁華街の一番丁の店もすっかり名前が変わっています。昔と変わらない お茶屋の井ケ田屋と コーヒー店のエビアンが存続していましたが、後は全て消えてしまったようです。消えてしまったふるさとの街を歩く寂寥感が身に沁みます。
1番目の写真に青葉城跡の高台から見た仙台の風景を示します。
この白いビルの並ぶ風景は見知らぬ風景です。以前の仙台は杜の都と呼ばれていました。大きな街路樹や庭木が昔風の家々を覆っていました。その緑の間から赤レンガの県庁のビルや裁判所のビルが見えるだけでした。
街の風景が変わっただけではありません。子供の頃遊んだ秘密の場所がすっかり変わってしまっていたのです。
昔住んでいた家は伊達政宗の廟所のある経ケ峯という小山のそばにあったのです。政宗から三代までの廟所のある杉木立の暗い淋しい山でした。
戦争で忙しい大人達はめったに足を向けない森閑とした場所です。そのうち戦災で廟が焼失しました。
その跡に粗末な白木のお堂が立っているだけでした。
そこへ独り登ると、そこは私の天下です。隠れ家です。誰にも拘束されない自由の空間でした。遠方で鳴くセミの声を聞くだけです。ゆっくり石段を降り、下馬の明るい広場へ出ます。
その先には評定河原へ渡る一銭橋がありました。広瀬川へ遊びに行くお決まりの道だったのです。私の大切にしていた思い出の聖地でした。
それが久し振りに行って見たら、金ぴかの桃山調の瑞鳳殿という豪華な廟堂になっています。
2番目の写真が立派に改装された瑞鳳殿の写真です。そしてこの瑞鳳殿は仙台観光の目玉らしく、観光客がゾロゾロと歩いています。
私は何故か悲しくなり、中に入る勇気が出ません。幼少の頃の私の大切な場所を観光客に奪われてしまったような気分になってしまったのです。そんな感じ方はまったく理不尽なことは判っています。
家内だけが一人の観光客になって気楽に中に入って楽しそうに見物しています。
しかし一方、自然の景色だけは変わらないで残っている場所もありました。
3番目の写真は旧一銭橋から見た青葉城方面の風景です。川原に樹木が茂っている風景やその向こうの青葉山は昔のままです。右手の白い住宅は60年前もあった公務員住宅でした。
変わったものは風景だけではありません。
昔の仙台の名産品は仙台平という絹織物でした。埋木細工でした。笹蒲鉾でした。仙台駄菓子でした。
この昔の仙台の名産品は、笹蒲鉾以外、全部消えてしまいました。
最近、急に仙台の名物が、牛タン焼になったのです。
老人の私は牛タンが名物だとは信じません。牛タン焼を食べるために仙台へ観光旅行へ行く人々が沢山います。そんなニュースを聞く度に何故か、「それは違う」とつぶやきます。
牛タンは美味しいものです。それは知っています。しかし私は仙台では絶対に食べないようにしています。老人の頑固です。
日本全国各地の名物が年月と共に変わって行きます。名産品が変わっていくことが何故か淋しいものです。
そして人々も忙しく変わって行きます。風景も名産品も変わってしまった仙台は私のふるさとは違う気分です。
大袈裟に言えば私の故郷は完全に消失してしまったのです。これも輪廻転生なのでしょうか。
しかし自然の景観だけは何時までも同じです。
こんなことを感じる人が多いので故郷の風景をいつまでも残そうとした場所があります。八王子市の旧恩方村にある「夕焼け小焼けふれあいの里」という野外公園です。
「夕焼け小焼けで日が暮れて・・」という歌詞を作った中村雨紅の出身地です。
『夕焼小焼』
夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘が鳴る
お手々つないで皆帰ろ
烏と一緒に帰りましょ
この童謡は野口雨情の弟子の中村雨紅が故郷恩方の風景を歌ったものです。
4番目の写真は「夕焼け小焼けふれあいの里」の中にある水車小屋の風景です。
5番目の写真は江戸時代の甲州街道の裏街道の口留番所あとの碑です。番所跡の碑と松姫の碑とが並んでいます。武田信玄が娘の一人、松姫を恩方村の豪族に嫁がせ国境の守りとした歴史があるのです。
ここは日本人のふる里の原風景です。故郷でよく歌った「夕焼け小焼け」の作詞者の生まれた旧恩方村の山の風景が昔のまま残っています。
さて皆様のふるさとは変わったでしょうか?どのような故郷の思い出をお持ちでしょうか?沢山思い出があると存じます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============
中村雨紅(なかむら うこう、1897年- 1972年)は、詩人・童謡作家である。本名は、井宮吉(たかい みやきち)だが、出版物など一般的には高井宮吉と記される。東京府南多摩郡恩方(おんがた)村(現在の東京都八王子市上恩方町)出身。
1909年(明治42年)上恩方尋常小学校(現・恩方第二小学校)を卒業し、1911年(明治44年)恩方村報恩高等小学校を卒業して、1916年(大正5年)東京府青山師範学校卒業後、その年に東京北豊島郡日暮里町第二日暮里小学校の教師になる。
1917年(大正6年)おばの家である中村家の養子となる(1923年解消)。
1921年(大正10年)高井宮のペンネームで童謡『お星さん』などが児童文芸雑誌『金の船』に掲載される。1923年(大正12年)『夕焼小焼』を発表。同年、漢学者本城問亭の次女千代子と結婚。1924年(大正13年)長男・喬が生まれる。1926年(大正15年)日本大学高等師範部を卒業後、神奈川県立厚木実科高等女学校(現・厚木東高校)の教師となる。1927年(昭和2年)長女・緑が生まれる。この間、野口雨情に師事し、その名前の「雨」の一字をもらい、雨紅と称する。1949年(昭和24年)教師を退職。1971年(昭和46年)神奈川県立厚木病院に入院、翌年5月6日逝去。享年75。八王子市上恩方町・宮尾神社南、井丹雄墓所内に埋葬。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E9%9B%A8%E7%B4%85)