南信州の阿南町の即身仏「行人様」の祭典の記事を読んで私は感動しました。その素朴な信仰に心が震えました。行人様はぎょうにんさまと読みます。
以下は「日本唯一の禅宗の即身仏「行人様」」からの抜粋です。
https://deepjapan-niino.info/2023/04/28/post-11505/
【行人様とは】
江戸時代初期、修行をしつつ入定し、生きながら即身仏になった僧侶のことです。
出家前の名前は久保田彦左衛門。実在の新野の人物。1644年(正保元年)に新野に武士として生まれる。怪力で背丈が6尺(約180cm)の大男だったといわれている。
まじめな男で多くの人に親しまれていた。若いときは、山吹(現:長野県下伊那郡高森町山吹)のお殿様にお仕えしたお侍。しかし故郷新野、妻への恋しさも募り、26歳でお暇を頂き新野に帰る。
新野の戻りしばらくしたある日、彦左衛門が山に薪を取りに行った留守中に家が火事になり、最愛の妻と子どもを亡くしてしまう。
彦左衛門は、深い悲しみに暮れた。この世の無常を感じた彦左衛門は、神仏の力にすがることを思いつき、
新野の名刹瑞光院の南岸和尚に出家を申し出て弟子になる。名を「行順」と改め、瑞光院にて仏門に入った。
しばらくして全国行脚の修行に出た。修行に出るにあたり、鼻緒まで全て鉄製の下駄、手には大きな錫杖、頭には銅の笠をかぶった姿で、行順は富士山、御嶽山、白山、高野山、恐山等の日本各地の霊山にこもり、荒滝に打たれた。火を使った食事を断つ木喰行を行いながら、過酷な修行を17年間続けた。
【行人様の逸話】
その記録は、京都三十三間堂の建立記の古文書にも登場する。
ある日、三十三間堂の建設中、太い棟木がどうしても上がらず大工らが困っていた。すると、群衆の中から粗末な身なりの旅の僧侶が現れ、何やらお経を唱えた。すると、今までびくともしなかった棟木がスルスルと上がった。
大工らが驚いて「あなた様のお名前は?」と聞くと、「信濃の国 行順」とだけ言って、群衆の中に消えて行ったという。
また、ある時は、日照りが続き水不足で困っていた新野の村で、瑞光院近くのある場所に村人を集めて、お経を唱えた後、鉄の錫杖を地面に突き立てて、「ここを掘りなさい。水が湧くであろう。」と言った。村人が掘ってみると、行順のいった通りそこから泉が湧きだしたという。その井戸は新野の寺山地区に現存している。
【行人様の入定】
さて、17年の厳しい修行を終えて新野の瑞光院に戻った行順は、妻子の17回忌を済ませると、余命があまり長くないことを悟り、最後の修行場として瑞光院の奥山の山頂に石室を作る。
そして、幼友達の栗生惣兵衛に後を託した。「もし、鐘が聞こえなくなったら、見に来てほしい。そして、10年後掘り出してほしい。」
村中の安全、五穀豊穣、子孫繁栄を願いながら、水だけを飲みながら、鐘を叩いてお経を唱えつつ、7日後鐘の音が途絶え石室の中で一人入定した。1687年(貞享4年)43歳の時だった。こうして、久保田彦左衛門(行順)は、「行人様」となった。(天龍村坂部に伝わる古文書「熊谷家伝記」に記載)
【信仰の始まり】
入定されて10年後、栗生惣兵衛が行人様を石室から取り出して、村人らがお堂を建てて御尊体を祀り、瑞光院の僧侶たちによって大法要が営まれたのが、行人様信仰の始まりと言われている。
入定から72年後、台風の為お堂が山頂から森の中に飛ばされる事故が起こった。慌てた村人らがご尊体を拾い集めてお堂を再建し厨子に納めたが、鉄下駄、錫杖、笠、鉦などは森の中に埋もれて不明になった。
それから100年たった1860年の秋、キノコ採りに山へ入った村人が錫杖と鉄下駄の右足を見つけて自宅に持っていた。この鉄下駄、錫杖は現在お堂に安置されていて、ご開帳の折には見ることができる。
現在日本には即身仏が16体存在するが、長野県に現存する唯一の即身仏が行人様。新野の行人様はきれいなお姿で残っている。自分の強い意志で入定され、そのまま完全な即身仏として現在も残っている。
火災で妻子を亡くし仏の道に進んだ行人様。300年以上地元の人に守られながら、現代に家族愛の大切さを伝えている。
添付の写真は南信州の阿南町の風景と「行人様」の祭りの写真です。
今日は阿南町の即身仏「行人様」をご紹介致しました。その素朴な信仰に私の心が震えました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)