後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「故郷、仙台で昔住んでいた向山の長徳寺と愛宕神社の風景」

2024年01月20日 | 写真
故郷、仙台で昔住んでいた向山の長徳寺と愛宕神社の風景の写真をお送り致します。
1番目と2番目の写真は長徳寺です。
3番目4番目の写真は愛宕神社です。
写真の出典は、https://yamatsutsuji.hatenablog.com/entry/2022/07/22/231344 などです。



「樹氷の美しい風景と焼野原のなった故郷、仙台の風景」

2024年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム
人生は夢のようでした。
夢ですから楽しい夢も、悲しい夢もあります。驚きの夢も、悪夢もあります。

この前の記事で美しい樹氷と白鳥の寫眞をお送り致しました。
しかし私のもう一つの強烈な思い出は焼野原のなった故郷、仙台の風景です。
どうしてもその風景をお送り致したいのです。
故郷の仙台は1945年7月10日の123機のB29の空襲によって焼きつくされました。焼野原になってしまったのです。
9歳であった僕は、向山の高台から市街地が一面の火の海になっているのを立ち尽くして見ていました。
翌日は少年の単純な好奇心で、鹿落坂をくだって焼け跡を見に行きました。

1番目の写真のような光景が広がり、まだ彼方此方から煙が立ち昇っていたのを鮮明に思い出します。

2番目の写真はアメリカ空軍のB29です。
このB29が123機、来襲して仙台市を一挙に焼きつくしたのです。123機編隊でやって来たのです。小笠原のすぐ南の硫黄島の空軍基地からです。
それは一瞬の悪夢でした。そうして間もなく敗戦です。多数のアメリカ兵がやって来ました。
戦争中に第二師団があった川内の広大な敷地に白い宿舎や事務所を建てて占領政策を実施していました。
日本軍の使っていた松島飛行場や仙台霞の目飛行場は米軍基地になり、米兵が市内を闊歩していました。
その上、市内の金持ちの住宅は接収されアメリカ軍の上級将校の自宅になったのです。
仙台市の復興は遅々として進まず、砂埃の大通りを米軍のジープが走り回っていたものです。
あれから茫々75年。現在の仙台市を青葉城から見降ろすと3番目の写真のように復興したのです。

3番目の写真は復興した仙台の風景です。
仙台市の大空襲は悪夢です。そして立派に復興した姿も夢のようです。
この仙台を出て東京に暮らすようになって年以上になります。
時々、仙台に行き、思い出をたどりながら町々を歩き回りました。
ただ高いビル群の見知らぬ白い街が広がり、大きな道路には沢山の車が情け容赦なく疾走しているだけです。
道行く人々は足が長く、見知らぬ外国人のように速足に過ぎ行くばかりです。
以前は同級生や知り合いに、二人三人と、偶然会ったものでした。みんな何処かへ行ってしまったようです。もうみんな旅立ったのでしょうか?
繁華街の一番町の店もすっかり名前が変わっています。
昔と変わらないのは藤崎デパートと三越デパート、そして お茶屋の井ケ田屋と コーヒー店のエビアンなどです。
他は全て消えてしまったのです。

私の追憶の中のふるさと、仙台は見知らぬ白い街になってしまいました。甘い追憶の中のふるさと、仙台はついに消えて失くなってしまったのです。
昔の仙台の名産品は仙台平という絹織物でした。埋木細工でした。笹蒲鉾でした。仙台駄菓子でした。
笹蒲鉾以外は全部消えてしまいました。
最近、急に仙台の名物が、牛タン焼になったのです。
老人の私は牛タンが名物だとは信じません。牛タン焼を食べるために仙台へ観光旅行へ行く人々が沢山います。
そんなニュースを聞く度に何故か心が暗くなります。
牛タン焼は美味しいものです。それは知っています。しかし仙台では絶対に食べないようにしています。
仙台へ行く度に昔の名物や面影がドンドン消えて行きます。もう私のふるさとは完全に消失してしまったのです。
しかし。しかし街々を囲む山々の自然は変わりません。人々は忙しく変わって行きます。輪廻転生です。

でも自然の景観は何時までも同じです。それを見るとやっぱりふるさとは良い。仙台は良い所だと思います。

4番目の写真は評定河原の一銭橋の上から見た広瀬川の写真です。

白い建物の後の小高い森が青葉城の本丸のあった所です。
真正面のテレビアンテナの鉄塔のある一体が八木山というところです。
川の左手は経が峯といい、伊達正宗の廟所があります。

それにしても仙台はただ高いビル群の見知らぬ白い街だけになりました。私の心の中の故郷、仙台はついに消えて失くなってしまったのです。嗚呼。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ロマンチックな蔵王山の樹氷と猪苗代湖の白鳥の風景」

2024年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年冬になると思い出す美しい風景があります。蔵王山の樹氷の風景と猪苗代湖の岸辺に遊ぶ白鳥のいる風景です。猪苗代湖の後には雪に覆われた磐梯山が輝いています。
今日はこの2種類の風景写真をお送りして、何故冬になると思い出すか書いてみようと思います。
はじめの2枚は蔵王山の樹氷で3枚目は霧氷です。続いての2枚は猪苗代湖の白鳥の写真です。
樹氷と霧氷と白鳥の写真をお楽しみ下さい。




はじめの樹氷と霧氷の3枚の写真は「 山形蔵王の樹氷写真集」、http://www.asahi-net.or.jp/~EH5W-KRD/zao/photo.htm からお借りしました。4番目の猪苗代湖の白鳥の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/y58122001/50010408.html です。そして5番目の白鳥の写真の出典は、https://www.tif.ne.jp/jp/photo/photo_disp.php?id=16812 です。

さて何故私の心の中に樹氷のある風景が焼き付いているのでしょうか?
私は仙台で生まれ育ちました。その一番近いところに蔵王山があります。ですから何度も蔵王山の樹氷の間でスキーをしました。茫々60年以上前のことです。
当時は仙山線で山形駅に行き、そこからバスで高湯温泉(現在の蔵王温泉)に上がりました。高湯温泉からはスキーを履いてドッコ沼の山小屋まで登り、そこの小屋に逗留するのです。
ドッコ沼の上の懺悔坂から地蔵岳までが樹氷地帯なのです。地蔵からの帰りは急坂の懺悔坂は怖いので、なだらかな大平コースを下ります。夕日を浴びた茜色の樹氷の光景が今でも私の網膜に焼き付いています。
毎年、今頃になると懺悔坂の怖さと夕日の樹氷の姿を思い出します。

そして冬になると猪苗代湖の岸辺に遊ぶ白鳥のいる風景も想い浮かべます。何故かチャイコフスキーの「白鳥の湖」を連想してロマンチックな気分になります。それと同時に今は亡き友人のことを懐かしく思い出すのです。
その友人は猪苗代湖に大きなヨットを係留していました。何度か招待され猪苗代湖のヨットレースに出た思い出があるのです。
友人は星野清一郎君といい2011年9月に病死してしまいました。
星野さんとは、仙台の大学の専門課程の1957 年と1958年に机を並べました。
残雪の磐梯山を眺めながらのヨットレースは終生忘れられない思い出になりました。
彼の住む彼方の国の湖にも、白い鳥が舞っているでしょうか?

冬になると蔵王山の樹氷の風景と猪苗代湖の岸辺に遊ぶ白鳥のいる風景を想い浮かべます。そして今は亡き友を思い出します。
こうして今日も老境の冬の日が静かに流れて行くのです。

最後に白鳥にまつわる2つバレエの動画のYouTubeのURLをお送りします。
チャイコフスキーの白鳥の湖、O Lago dos Cisnes (Swan Lake) - Final
https://www.youtube.com/watch?v=uauwx-cBd0s
サンサーンスの「白鳥」、The Dying Swan / Ulyana Lopatkina / 瀕死の白鳥
https://www.youtube.com/watch?v=82kWFGttaX8
是非美しい映像もお楽しみ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)