後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ソ連に侵攻し2000万人以上を殺戮したドイツ―歴史上最大の殺戮者数」

2024年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム
1941年6月22日3時15分、ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連を奇襲攻撃します。
ソ連は首都モスクワ前面まで攻め込まれ、ドイツ軍は2000万人以上のロシア人を殺戮したのです。
しかし英米を主力とする西側連合国はノルマンデーに上陸し反撃に転じます。最後のベルリンの戦いでナチス・ドイツが完全に敗北してヨーロッパでの第二次世界大戦が終了したのです。
この戦いにおいてソ連側の死者は大規模でした。独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1,470万人、ドイツ兵が390万人でした。民間人の死者を入れるとソ連は2,000 - 3,000万人が死亡し、ドイツは約600 - 1,000万人であると言われています。
ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いばかりか、人類史上全ての戦争・紛争の中で最大の死者数を計上したのです。
話は変わります。私は1969年にシュツットガルト 市にあるマックスプランク研究所でプルシュケル博士と親しくなりました。彼と一緒に「固体電解質の物理」という専門書の一つの章を共同執筆したのです。
プルシュケル氏の言葉が忘れられません。
「日本人は中国人を軽蔑しているが、ドイツ人は中国を軽蔑している日本人を信用も尊敬もしないよ。もっと東洋と西洋の文化と相互交流の歴史を考えて、東洋の利益を考えるべきでは」「西洋の近代植民地主義に便乗するのではなく、東洋の利益、日本の利益を基本的に考えて西洋諸国と交流するのがよいと思う」と言ったのです。
プルシュケル氏は第二次世界大戦以前は東ドイツの村に住んでいました。ロシア軍が侵入した時に村人は皆殺しに遭い、1人だけ生き延びて西ドイツに逃げ、研究所の主任研究員(後に大学教授)になった人です。
ロシア人を憎んでいないのかと質問すると、「ドイツが電撃作戦でロシアに侵入した時、若いロシア人を2000万人以上も殺した。ロシア側は当然のことをしたので特に憎む気持ちはない」と答えました。このような男が「日本人は中国人と信頼関係を維持したほうがよい」と言うのです。
それから私は中国の共産党員と本気で付き合うようになったのです。中国に5回も行きました。北京科学技術大学の周栄章教授と非常に親しくなりました.東京の私が勤めていた大学へ中国人を3人留学させました。みな
共産党員でした。

以上、私の経験を少しばかり書きました。

添付の写真は独ソ戦の寫眞です。

上段左:ベルリンの戦いでのT-34
上段右:クルスクの戦いでのティーガーI
中段左:スターリングラード攻防戦時のソ連軍
中段右:1943-1944年時のJu 87 シュトゥーカ
下段左:降伏文書に署名するカイテル元帥
下段右:ユダヤ人女性を銃殺する特別行動部隊

「素人が鰻の蒲焼を作るのは本当に難しい!」

2024年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム
鰻の蒲焼は美味しいものです。特に家内が好きです。鰻の蒲焼で有名な浜名湖や諏訪湖にはわざわざ食べに行きました。鰻の蒲焼を食べるための旅行でした。

1番目の写真は以前に諏訪湖の畔で食べた鰻の蒲焼です。
このような鰻の蒲焼を自分で作ると難しいのです。素人が作ると実に難しいものです。
以下にその苦心談をお送り致します。
それは1969年の秋でした。南ドイツのシュツットガルトのある研究所で働いていた頃のことです。
ある日、デパートの鮮魚売り場に行ったところ、水槽にマスやドイツ鯉を沢山泳がせて売っています。足元のバケツには太いウナギがうごめいています。パッとひらめきました。鰻の蒲焼を作る決心をしたのです。
一番太いウナギを買いながら、何処で獲れたか聞きました。ライン河です。その支流の流れのよどんだところに仕掛けを沈めておくと獲れると説明します。

2番目の写真はドイツの鰻の写真です。写真の出典は、https://passaulife.blogspot.jp/2016/06/blog-post_94.html です。
ドイツではウナギは棒状の燻製にして売っています。ハンブルグでは筒切にしたウナギ入りのスープを飲んだこともあります。
しかし生きたまま売っているのは珍しいことです。活きウナギを買って意気揚々と帰宅しました。
しかし蒲焼など作ったことがありません。自宅の台所で2枚におろし、3角形の中骨を切り離し、何とかウナギを開いた形の切り身にしました。
3番目の写真はウナギを割いて蒲焼の下準備が終わった状態の切り身です。
この写真の出典も、https://passaulife.blogspot.jp/2016/06/blog-post_94.html です。

さて次の段階は「蒸し」です。鍋に少し水を入れ、皿に並べた切り身を置き、充分、蒸し上げました。
次は醤油、砂糖、日本酒のタレをつけてオーブンで焼きます。途中、何度もタレを塗り直して、コンガリ焼き上げます。
家中がウナギの蒲焼の美味しそうな香がします。これで出来上がりです。
そこで鰻の蒲焼のために招待した日本人の青年の前に自慢げに供しました。味の深いドイツビールとともに。
一口、食べた彼が興奮しています。でも無言です。
美味しくて感動しているに違いないと、「どうです。美味しいでしょう」と言いながら私も食べてみました。
兎に角すごく不味いのです。生臭くて嫌な泥の味がするのです。トイレに駆け込んで全て吐き出して、うがいをしました。
席にもどると客の青年が顔をゆがめています。泥臭いウナギを礼儀上、吞み込んでいたのです。
私は謝りました。冷蔵庫の中のチーズとソーセージと上等なワインを持ち出して来て、お客の機嫌が直るように努力したのです。あんなに冷や汗をかいたことがありません。
結論は、ライン河の活きウナギを清い水で数日飼って、泥の臭いを除いてから食べるべきだったので。後日、買ったデパートの鮮魚売り場に行って、「泥臭かったよ」と言いました。そうしたらドイツではお客が自分で泥を抜くものだと昂然と言うのです。食文化の違いは恐ろしいものです。

ライン河の鰻の蒲焼の思い出でした。ドイツの思い出でした。

ライン河にまつわる思い出はもっといろいろありますが、今日はこのくらいにしておきます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ドイツのことに無知だった私、冬の暗さと『30年戦争』」

2024年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム
ドイツは日本の同盟国として第二次世界大戦をともに戦った国でした。当時日本の新聞や雑誌にはドイツの良いことが沢山書かれていました。戦前は日本人の憧れの国だったのです。昭和11年生まれの私にとっても理想の国に思えたのです。
しかし日本よりも早く降伏したのでドイツの見方が少し変わりました。それでもドイツに留学したいと思い続けていました。
それが実現したのは1969年から1970年でした。1960年から1962年のアメリカ留学の後でした。
1969年の8月にドイツに到着しました。それから家族をよんで1970年の11月までシュツットガルトに住みました。娘はドイツの小学校に、息子は幼稚園に通いました。家内は教会の旅行や買物等の日常生活を楽しんでいました。南ドイツに住んでいたのでスイスやフランスにも旅しました。
ドイツに住んでみると知らなかった事が多くドイツを興味深く感じました。

今日は日本人があまり知らないドイツで重要な2つのことを書きたいと思います。寒さが厳しい冬の暗さと、『30年戦争』の2つのことです。
まずドイツの冬の風景の写真をご覧ください。


ドイツは気候も社会も若い頃留学したアメリカのオハイオ州とは全く違うのです。
同じ欧米人なのにアメリカとドイツでは人々の考え方が驚くほど違うのです。
「ヨーロッパの階級社会や伝統社会から逃れた人々がアメリカに行って国家を作った」という一行の文章の意味がしみじみ理解出来るのです。
それはさておき、まずはじめに寒い冬の暗さを書きます。その長い冬を体験した結果、ドイツの文化を理解するためにはこの冬の厳しさを考慮に入れて考えるべきと思ったのです。
これは重要なことで、その後、私がいろいろな外国の文化や社会を考える時、必ずその国の天候や自然条件を考慮に入れるようになったのです。
例えば北欧の観光写真を見ると、ほとんど全てが夏の晴天の日に撮ったものです。そんな輝く晴天の日は年間でほんの数日しか無いのです。北欧の人がそんな夏の日に感じる歓喜が想像出来ようになったのです。
内陸のヨーロッパの人々が明るい地中海沿岸のイタリヤや南フランスに強く憧れるのは暗くで長い冬のせいなのです。
私が外国を理解するとき天候や自然の条件を考慮に入れるように変わったのです。

もう一つドイツで重要なことは『30年戦争』です。
不思議なことにドイツの研究所の実験室に必ず冷蔵庫があってビールが沢山入っています。実験に疲れたとき1、2本水がわりに飲むのです。そんな折りの雑談の話題は決まったように中世の「30年戦争」のことなのです。
確かなことは忘れましたが1600年代にドイツの町や農村を徹底的荒廃させ人口の何割かが殺された内戦のことです。
私は日本の学校で「30年戦争」がそんなにドイツにとって重要だとは習いませんでした。ですから「30年戦争」など記憶になかったのです。
ところがドイツ人はビールを飲むたびにこれを話題にして喧々諤々の議論をするのです。
そこで判ったのです。人々が習う歴史とは国々によってまったく違うという事実です。
この世に絶対的に正しい歴史などは存在しないのです。歴史は権力者に都合良く書かれているのです。
歴史とは国々によってまったく違うという事実を体験的に理解できたのです。
アメリカでビールを飲んだ時の話題は野球やアメリカン・フットボール、バスケットボール等スポーツに関することが多いのです。あるいは趣味の話です。ところがドイツでは歴史が話題になるのです。
これもドイツ人とアメリカ人の違いの一つですね。

ドイツにはもっといろいろなことがありますが、今日はこれぐらいにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)