生来軽率な私は若い頃から離れ島への独り旅に憧れていました。はっきりした理由もなく離れ島はロマンティックな別世界のように憧れていたのです。
しかし若い頃は忙しくて旅に出る余裕もありません。しかも離れ島は数多くあるのです。東京都の離れ島を列挙すると次のようになります。
大島(伊豆諸島|大島町)
利島(伊豆諸島|利島村)
新島(伊豆諸島|新島村)
式根島(伊豆諸島|新島村)
神津島(伊豆諸島|神津島村)
三宅島(伊豆諸島|三宅村)
御蔵島(伊豆諸島|御蔵島村)
八丈島(伊豆諸島|八丈町)
青ケ島(伊豆諸島|青ケ島村)
父島(小笠原諸島|小笠原村)
母島(小笠原諸島|小笠原村)
硫黄島(小笠原諸島|小笠原村)
南鳥島(小笠原諸島|小笠原村)
(有人離島一覧、 https://ritokei.com/shima )
上の島のなかで私が訪れた島は、大島、神津島、八丈島だけです。
今日は八丈島への独り旅について書きたいと思います。
しかしその前に藤村の独り旅の詩をご覧下さい。
「小諸なる古城のほとり」 -落梅集より- 島崎藤村
小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず 若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る
・・・中略・・・
暮行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
千曲川いざよふ波の 岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む
さて私は2009年1月に冬の波荒れる八丈島へ独りで旅をしました。
帰りの船が悪天候で欠航したので非常に印象深い旅になりました。
芝浦の桟橋から遥か286Kも船に揺られて翌朝辿り着いたのです。
着いてみると八丈島は想像以上に大きな島でした。
島の東に10万年前の噴火山の三原山があり、西に1万年前に出来た八丈富士があり、その間が平野で農村が広がっています。
そして西の海上には八丈小富士という急峻な火山が突き出ています。この3つの山が近過ぎず、遠過ぎず、丁度良い距離でどっしりと座っています。この配置が雄大な景観を作っています。島の周囲は60Kmです。
冬の荒波で帰りの船が欠航したので長い逗留になりました。そこでレンタカーを借りて島の隅々まで走り回りました。
江戸幕府の島役所跡や古い集落や秀吉の家老だった宇喜多秀家のお墓にも行きました。そして八丈島の自然の景観も楽しみました。
島の西にある八丈富士の中腹に広大な牧場があり、そこまで車が上がれます。写真を撮るには丁度よいので2回登りました。
1番目の写真は八丈富士のある西半分の写真です。西山 (八丈富士) の麓は平野になっていて農村が広がっています。左奥の海上には八丈小富士が見えました。
手前の町は大賀郷町です。左の方向に飛行場が見えます。そして町の左右に港があります。風の向きによって客船の発着する港が変わります。
2番目の写真は車でもっと八丈小富士に近づき撮った写真です。昔は人が住んでいて小学校もありましたが現在は無人島です。
私は伊豆七島の大島や神津島へは何度か行きましたが、景観の雄大さという点で八丈島は抜群です。
八丈島で感動的なことは、島全体が熱帯性の植物で覆われていて、さながら天然の植物園のように見えることです。
3番目の写真は島の大賀卿町の中央にある東京都立公園です。公園の真中にドライブウエイがあって車で楽しみながら通り抜けられるようになっています。
車を停めて歩いていたら、赤ん坊を抱いた母親に会いました。島の観光案内のような話をしてくれました。そして三原山の東の山麓の樫立に團伊玖磨の記念館がありますと教えてくれました。
4番目の写真は島の主産業の観葉植物の栽培地の風景です。三原山の麓にあったアロエの花です。1月の末なのにウグイスが啼いていました。
八丈島で忘れられない人に歴史民俗資料館でお会いした細谷昇司氏という方がいます。
地域歴史の専門家で、その後、数か月にわたってメールの交換もしました。島独特の風習や歴史を教えて頂いたのです。
例えば、八丈島から約6000年前の縄文時代の人々の遺骨や石器・土器が出土していることを教えて頂きました。
そして石斧の石は海岸にあるような石ですが、土器に使われた粘土は火山で出来た島には無い粘土です。従って縄文人は土器を持って太平洋を渡って本州から来たのです。それを証明するために海用のカヌーで伊豆半島、大島、神津島と島づたいに漕ぎ渡った青年の写真も送ってくれたのです。
5番目の写真は團伊玖磨の記念館の中にある作曲室です。写真は地方新聞、「南海タイムス」の2002年5月31日の掲載写真です。
随筆と言えばこれまでに、いろいろ読みました。寺田寅彦、中谷宇吉郎、團伊玖磨などのものは長年愛読してきました。團伊玖磨の「パイプのけむり」は、アサヒグラフに連載されていました。1963年に八丈島の樫立に別荘を作った翌年から2001年に亡くなる直前まで40年近く続いた随筆です。朝日新聞社から27巻の本として出版されていますので、お読みになった方々も多いと思います。
外国で仕事をしながら忙しく書いたものや、葉山の自宅や、八丈島でゆっくり書いたものなど変化があって飽きさせません。
世界の珍しい風物や人情、そして八丈島の自然、人々や植物のことなどが軽妙洒脱な筆致で活き活きと描いてあります。話題は多岐ですが、いずれも上品な書き方で、文章の裏に人間愛が流れています。読後の爽快感が忘れられません。
八丈島では團伊玖磨氏を誇りにしています。2002年の没後一周忌に團さんの別荘を公開し、遺品や著作を展示しました。
八丈 島では島唯一のホテルに投宿していました。そこから島の寿司屋に通いご主人から島の周辺で取れる魚のことをいろいろ教わりました。地魚の姿を見たいと言ったら、スーパーに沢山並んでいますと教えてくれます。翌日行ってみたら、成程スーパーの魚売り場に活き活きした地魚が5種類ほど並んでいます。
独り旅は淋しいものです。家族旅行のように楽しくはありません。
しかし旅先で会う人がみんな優しく話しかけてくれるのです。そしてその地方独特の暮らし方や地域の歴史を教えてくれるのです。
藤村ではありませんが、「八丈の海辺のほとり 雲白く遊子悲しむ」の境地です。欠航の船よ、明日は波荒れるとも出てくれ・・・と想いながら日が暮れ行きます。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料==============
八丈島生成の地質学、
東京の南方海上287キロメートル、御蔵島の南南東方約75キロメートルにあり、東山(別名:三原山・標高701メートル)と西山(別名:八丈富士・標高854メートル)のふたつの火山が接合した北西-南東14キロメートル、北東-南西7.5キロメートルのひょうたん型をした島。面積は山手線の内側とほぼ同じ。(面積の比較)
富士火山帯に属する火山島で、東山は約10万年前から約3700年前まで活動し、約4万年前にカメソウノ鼻火砕流、鴨川火砕流を噴出した噴火で山頂部に6×4.5kmの東山カルデラを形成したと考えられている。完新世内では約4千年前と約6.6千年前に規模の大きな噴火が発生している。最終噴火は有史以前であり歴史記録上の噴火はない。西山は数千年前から活動を始めた新しい火山で、山頂に直径約500メートルの火口がある。1487年12月、1518年2月、1522年 - 1523年、1605年10月、1606年1月に噴火が記録されており、特に1606年の記録には、海底噴火によって火山島ができたとされる。
東山と西山の間にある低地には、20以上の側火山(寄生火山)があり、海岸近くには神止山などのマグマ水蒸気爆発による火砕丘がある。17世紀までに数回活動した記録があるが、規模は大きくなかったと考えられている。
気候は、暖流である黒潮の影響を受け、海洋性気候となっている。年平均気温は17.8℃となっており、高温多湿。年間を通して風が強く、雨が多いのが特徴。そのため、「常春の島」とも言われている。