後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「アメリカでのお正月の過ごし方」

2024年01月02日 | うんちく・小ネタ
1月1日を英語では「New Year’s Day」と呼び祝日にはなっていますが、日本のように初詣に行く習慣はありませんし、日本でいう凧あげなどのお正月ならではの遊びもありません。

おせち料理に代わる料理もありませんし、大晦日にパーティーで大勢での飲食を楽しんだあとなので、ゆっくりと過ごす人が多いです。
アメリカではクリスマス前後に長期の休みをとるので、お正月は2日から通常勤務に戻るのが大半です。


「季節の風物詩、猪苗代湖の白鳥 そして想うこと」

2024年01月02日 | 日記・エッセイ・コラム
寒い寒い冬です。日本のあちこちの湖に白鳥の飛来する季節です。
北日本の湖と言えば摩周湖、阿寒湖、屈斜路湖、洞爺湖、十和田湖、田沢湖、猪苗代湖、中禅寺湖、諏訪湖などなどと沢山ありますが、これら全ての湖に白鳥が舞っています。無数のカモ類が水面を覆っています。
遥かシベリヤから4000Kmも飛来して来た冬鳥たちの遊ぶ湖の美しい風景は季節の風物詩です。
湖と言えば今は亡き親友の星野君と一緒に遊んだ猪苗代湖を思い出します。この湖にも毎年、白鳥が海を渡ってやって来ます。
ある年の冬に、猪苗代湖に白鳥が沢山遊んでいる光景を見ました。その向こうに白雪の磐梯山が輝いていました。その猪苗代湖と白鳥の写真をお送り致します。

1番目の写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=01674000752 です。そして岸辺に上がっている写真もありました。

2番目の写真の出典は、http://rabbit191.blog.so-net.ne.jp/2011-02-26 です。

3番目の写真の出典は、http://kitairo.blog102.fc2.com/blog-entry-18.html です。
このような3枚の写真を見ると想うことがあるのです。猪苗代湖で今は亡き友人の星野君とヨットレースに出たことなどを思い出すのです。そこで猪苗代湖のヨットの写真を探し、下のような写真を見つけました。

4番目の写真は猪苗代湖のヨットの孤影の写真です。出典は、http://pub.ne.jp/miyasan/?monthly_id=200809 です。
星野清一郎君は2011年9月に病死してしまいました。
彼は猪苗代湖に係留していたヨットに私を何度も招待してくれたのです。ヨットはヤマハ29のセンター・コックピットのヨットでした。係留していた場所は下の写真のような場所でした。

5番目の写真の出典は、https://ameblo.jp/normanhiga/entry-11034780813.html です。
このような猪苗代湖の写真を見ていると、今は亡き星野君を懐かしく思います。
星野君とは、仙台の大学の専門課程の1957 年と1958年に机を並べました。
卒業と同時に彼は父が経営する精密鋳物会社の仕事をするために福島へ行ってしまいます。
それから15年間くらいはお互いに多忙で会うこともありませんでした。ところがある時の同級会の折、彼がヨットの話をしていました。猪苗代湖で大きなキャビンのクルーザーでセイリングしているのです。
そして花春カップというクルーザーレースへ3回ほど私を招待してくれたのです。花春カップとは猪苗代湖のそばの大きな酒造会社、「花春」が主宰するレースなのです。花春は現在でも酒造をしていますが、ヨットレースはやめてしまったようです。
彼のヨットはヤマハ29という楽しい構造のクルーザーです。船体の真ん中の甲板に操縦席があります。その後ろのキャビンへ降りてゆくと大きなパーティ向きの部屋があり、簡単な炊事用具がついています。
船尾が大きく湾曲して張り出していて、そこに大きなガラス窓が横並びについているのです。シャンパンやビールを飲みながら、美しい猪苗代湖が静かに風波を立てている様子が眺められのです。
レースでは、彼のヨットは遅い船なので、いつも終りの方を走ります。前の方を列を作って競い合いながらセイリングしている他のヨットの夢幻的な光景を見ながら悠々と走ります。
遅れてゴールしても、船体ごとにハンディキャップがついているのでレース結果は何時も2位か3位でした。
残雪の磐梯山を眺めながらの花春カップは終生忘れられない思い出になりました。

それから又何年かが過ぎ去りました。今度は私が霞ヶ浦にクルーザーを係留していました。以前、猪苗代湖でお世話になったことを思い出して彼を招待しました。一緒に仙台の大学時代の同級生も招待しました。7人が集まりました。
彼は福島から大きな荷物を背負ってやって来ました。
かなり激しいセイリングの後のパーティの時、彼がその大荷物を解き始めました。ぶ厚い断熱布の中から出てきたのはよく冷えたシャンパン3本でした。その上冷えたシャンパングラスも、人数分の7個も出て来たのです。男ばかり7人のキャビンの中が途端に華やかになったものです。
こんなセイリングの会を4回ほどしました。何時も熱心な彼は福島からシャンパンを担いでやって来るのです。私のヨットには彼が預けていた白いデッキシューズだけが残りました。
ヨットを係留していた霞ヶ浦にも毎年、白鳥が飛来します。

彼の住む彼方の国の湖にも、白い鳥が舞っているでしょうか?
季節の風物詩の湖に遊ぶ白鳥の姿の写真を見ながら猪苗代湖への想いを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「関東地方のお正月の風物詩、箱根駅伝とその歴史」

2024年01月02日 | 日記
関東地方のお正月の風物詩の一つに箱根駅伝があります。
関東学連加盟校の大学の学生だけに出場権があります。ですからこのイベントは関東地方のローカル文化です。
この駅伝は1月2日の東京から箱根まで5人の学生が走り、今日復路をまた5人で競います。
今年もこの箱根駅伝が始まりました。我が家では熱狂的に好きな家内が毎年8時から13時までテレビを見て声援を送っています。こうして新しい年が始まります。
1番目の写真は現在の箱根駅伝のコースです。
この駅伝は箱根山の登り下りが興味深いレース展開になります。
2番目の写真はその箱根山のコースです。

帰りの駅伝は次の朝の8時に芦ノ湖畔をスタートします。箱根を下りる帰りのコースは毎年波乱万丈になります。
この箱根駅伝が大好きな家内二日間テレビに釘づけになっています。これが我が家のお正月の風景です。
私の趣味は歴史です。箱根駅伝の歴史を調べるのが楽しいのです。
いろいろ調べた結果、http://history-land.com/hakone-ekiden/ の資料が明快至極なので以下に引用することにしました。
(1)箱根駅伝には100年の歴史があるのです。
1920年に始まったのが箱根駅伝です。
第一回の参加校は明治、早大、慶大、東京高師(いまの筑波大)というわずか四校のみの状態でした。初期の大会の開始時刻は、午前中の授業の影響もあって午後から始まるようになっており、選手がゴールした時は真っ暗になっていたことも少なくありませんでした。
さてこの駅伝の1923年の第4回大会からは、夜間学生の出場が禁止されます。これは新聞配達を行っている勤労学生はその道のプロであるから、アマチュアではないという事が主張された為でした。
また1927年の第8回大会では、大正天皇崩御を受けて開催が4月にずれこみ、出場校もわずか5校という状態になった事もありました。

(2)戦前の箱根駅伝の優勝校
戦前の優勝校の主な顔ぶれですが、1920年から1934年までの15回の大会のうち早大が7回、明治が5回の優勝を飾っており、まさに二強といってよい時代でした。また、1935年の第16回からは、日大が大会初の4大会連続優勝を飾った事でも話題になっています。

 (3)箱根駅伝が受けた第二次世界大戦の影響
第二次世界大戦の影響は箱根駅伝にも及んでいます。1941年には戦争により、東海道と箱根路の使用が禁止されたことを受け、明治神宮から青梅の熊野神社間で往復する形で箱根駅伝が実施された事もありました。しかし、これは歴代の大会にはカウントしていません。
また、その翌年の1942年には戦時命令として日本学連が解体され、駅伝大会も中止となります。しかし1943年には、戦時下ながら靖国神社から箱根神社までを往復するコースに変更され実施され、日大が5回目の優勝を果たしています。
しかし、その後3年間の大会は、戦争の影響により再び中止とされています。
このように現在隆盛している箱根駅伝にも苦難の歴史があったのです。

(4)戦後の箱根駅伝と1987年の日本テレビによる実況放送の開始
戦後の箱根駅伝の歴史は、1947年の23回大会から再開されます。初めて予選会が導入されたのがこのときでした。また、読売新聞社が共催に名乗りをあげるも、GHQの指導により後援にとどまることになりました。
この頃の箱根駅伝の特徴として、学生の数が少なく、出場者の10名を揃える事が困難だったこともありました。そのため他の陸上競技の選手を入れたりしていたのです。
戦後の優勝校の趨勢は以下のとおりです。
1960年代前半まではほぼ中大の独壇場といってよい時代でした。そして1969年から1980年頃までは日体大が、その後は順大が台頭します。90年代は大東文化大、山梨学院大、神奈川大などが台頭しています。
2000年代には駒大が初優勝。2008年に至るまで6回もの優勝を重ねます。当時の駒大と順大の覇権争いは紫紺対決と呼ばれ注目されました。2009年には東洋大初優勝し、その後4回の優勝を重ねた後、2015年からは青学大が連覇しています。このように時代によって強い大学がガラリと変わるのが興味深いですね。

ラジオ中継の歴史にも変化が見られます。1953年にはNHKラジオによる全国中継がはじまり、1979年にはテレビ東京による初のテレビ中継があり、ゴールだけ生放をしました。翌年もNHKテレビが二区のみ中継しています。全国的な中継は1987年の日本テレビにより行われ現在に至っています。この頃から箱根駅伝が有名になり現在の隆盛につながっています。

以上の歴史を要約すると、1戦前の日本学連主催の時代、2戦時下の混乱期、3戦後の復活と読売新聞社の参加の時代、41987年の日本テレビの実況放送の開始以後の時代の4つの時代に別けることが出来ます。
箱根駅伝が関東地方のお正月の風物詩として定着したのは日本テレビの実況放送以後のことです。1987年の後のことです。
テレビは日本の風物詩もどんどん変えて行くのです。
そして時代によって強い大学がガラリと変わるのが興味深いです。

往路107.5Km 復路109.6KM 計217.1KMを10人の選手が襷を繫ぐのですからさまざまなドラマが毎年生まれます。
我が家ではお正月の2日と3日は箱根駅伝のテレビ実況放映が非常に重要になっています。
全国に住んでいる方々は箱根駅伝にご興味があるでしょうか?長距離走なら何でも興味があるという方は見ていると思います。

しかし各地には出雲駅伝のようにいろいろなものがあるので箱根駅伝はローカル文化と考えるのが公平な考え方ではないでしょう?
ローカル文化は人生を豊かにし大切なものです。

私は全国各地に豊かなローカル文化があることが日本を幸せな国にすると信じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)