人権とは何でしょうか?あなたは明快に説明出来るでしょうか?
よく人権は「人間が人間らしく生きる権利で全ての人間が持っている権利」と言われています。この言い方は抽象的で意味が分かりません。
そこで人間が人間らしく生きる権利を次のように具体的に書いてみます。
(1)生きるために必要な最低の衣食住を獲得する権利。(個人の財産権も含む)
(2)政治家を投票によって自由に選らべる権利。
(3)政府による検閲が無く新聞やテレビが自由に政治的発言をする権利。
(4)デモや集会を自由にしても良い権利。
(5)職業を自由に選べる権利。
(6)外国旅行を自由にして良い権利。
(7)移住を自由に選らべる権利。
(8)同性婚も含めて結婚相手を自由に選らべる権利。
(9)どんな宗教でも選らべる権利。
(10)宗教的戒律に従わない権利。
(11)お葬式や墓の形式を自由に選らべる権利。
(12)その他いろいろな個人の権利。
この様に具体的に書き出してみると人権にはいろいろな種類があって人権と纏めて議論することの間違いが明快に分かります。
それでは欧米人の考える人権と独裁国家の人々とイスラム教国の人々の人権を別けて書くと次のようになります。
(1)欧米人の考える人権とは上記の(1)から(12)の全て。
(2)軍事独裁国や共産党独裁国の人権は上記の(2)(3)(4)は厳禁されます。
(3)イスラム教国では上記の(9)(10)(11)は当然ながら厳禁されます。
尚その他の(5)(6)(7)(8)のような項目は皆様ご存知のように国々のよって差異があります。
このように具体的に書くと欧米人の考える人権は絶対的な価値が無く重要でないとも考えられます。
つまり欧米人の考える人権はアジア人の考える人権とは非常に違うのです。
この主張を強く宣言したのが1993年の「バンコク宣言」です。
人権の普遍性に真っ向から対立するこの主張は次のようなものです。
(https://www.hurights.or.jp/japan/learn/q-and-a/2010/03/post-10.html )
冷戦後、はじめて開催される「世界人権会議」の準備のため、アジアで開かれた地域会合で、いくつかの国の政府代表者が「アジアには欧米とは異なる人権の考えがある」と強力に主張したのです。
その結果、人権とは相対的なもので、アジアでは国家の社会権の実現が優先され、個人より集団の発展の権利が優先されるべきだという主張に賛同が集まったのです。
そして人権は国内問題であるから欧米や外部の介入は許されるべきではないという主張が強くなされたのです。
この結果この主張を書いた「バンコク宣言」が採択されたのです。
これらが「アジア的人権論」と呼ばれる考え方なのです。
この「アジア的人権論」が出来た原因には次の2つの深い理由があるのです。
(1)発展途上のアジア諸国では欧米人の考える人権では内戦が起き餓死者が多くなるという切実な理由。
(2)欧米人の考える人権はイスラム教や仏教やヒンズー教に違反している。
例えばお釈迦さまはこの世の全ては空なのだから私欲を捨てて悟りの境地へ入れと言いました。私欲を満足させるような人権は捨てるべきなのです。
「バンコク宣言」はアジア人の叫びなのです。
しかし私は最後に1961年に始まったアムネスティの人権の考え方の普遍的重要性を強調したいと思います。
アムネスティ・インターナショナルは世界中で起きている人権侵害の存在を知り、「苦しんでいる人を助けたい」と願う人びとが集まり結成されたのです。
誰もが紛争や貧困、拷問、差別などの人権侵害で苦しむことのない世界の実現を目指しているのです。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/アムネスティ・インターナショナル )
独裁政権下のポルトガルで学生2人がカフェで「自由のために!」と、乾杯したために逮捕されたことに対して、1961年5月28日の新聞に英国の弁護士、ピーター・ベネンソンが記事を投稿したことをきっかけに多数の人々の支持を得て発足したのです。
その組織は国際連合にならって編成されており事務総長が組織全体の総責任者となっています。
1976年にエラスムス賞を受賞し、1977年にはノーベル平和賞を受賞しました。また翌年の1978年には国連人権賞も受賞しています。
アムネスティを私が讃える理由はその活動が一切の政治権力と関係なく「苦しんでいる人を助けたい」という願で行っているからです。
この政治的中立性故に、幾つかの国々の政治権力者がアムネスティを恐れています。
今日の挿し絵代わりの写真は昨日小金井公園で撮ったタチアオイの花です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
よく人権は「人間が人間らしく生きる権利で全ての人間が持っている権利」と言われています。この言い方は抽象的で意味が分かりません。
そこで人間が人間らしく生きる権利を次のように具体的に書いてみます。
(1)生きるために必要な最低の衣食住を獲得する権利。(個人の財産権も含む)
(2)政治家を投票によって自由に選らべる権利。
(3)政府による検閲が無く新聞やテレビが自由に政治的発言をする権利。
(4)デモや集会を自由にしても良い権利。
(5)職業を自由に選べる権利。
(6)外国旅行を自由にして良い権利。
(7)移住を自由に選らべる権利。
(8)同性婚も含めて結婚相手を自由に選らべる権利。
(9)どんな宗教でも選らべる権利。
(10)宗教的戒律に従わない権利。
(11)お葬式や墓の形式を自由に選らべる権利。
(12)その他いろいろな個人の権利。
この様に具体的に書き出してみると人権にはいろいろな種類があって人権と纏めて議論することの間違いが明快に分かります。
それでは欧米人の考える人権と独裁国家の人々とイスラム教国の人々の人権を別けて書くと次のようになります。
(1)欧米人の考える人権とは上記の(1)から(12)の全て。
(2)軍事独裁国や共産党独裁国の人権は上記の(2)(3)(4)は厳禁されます。
(3)イスラム教国では上記の(9)(10)(11)は当然ながら厳禁されます。
尚その他の(5)(6)(7)(8)のような項目は皆様ご存知のように国々のよって差異があります。
このように具体的に書くと欧米人の考える人権は絶対的な価値が無く重要でないとも考えられます。
つまり欧米人の考える人権はアジア人の考える人権とは非常に違うのです。
この主張を強く宣言したのが1993年の「バンコク宣言」です。
人権の普遍性に真っ向から対立するこの主張は次のようなものです。
(https://www.hurights.or.jp/japan/learn/q-and-a/2010/03/post-10.html )
冷戦後、はじめて開催される「世界人権会議」の準備のため、アジアで開かれた地域会合で、いくつかの国の政府代表者が「アジアには欧米とは異なる人権の考えがある」と強力に主張したのです。
その結果、人権とは相対的なもので、アジアでは国家の社会権の実現が優先され、個人より集団の発展の権利が優先されるべきだという主張に賛同が集まったのです。
そして人権は国内問題であるから欧米や外部の介入は許されるべきではないという主張が強くなされたのです。
この結果この主張を書いた「バンコク宣言」が採択されたのです。
これらが「アジア的人権論」と呼ばれる考え方なのです。
この「アジア的人権論」が出来た原因には次の2つの深い理由があるのです。
(1)発展途上のアジア諸国では欧米人の考える人権では内戦が起き餓死者が多くなるという切実な理由。
(2)欧米人の考える人権はイスラム教や仏教やヒンズー教に違反している。
例えばお釈迦さまはこの世の全ては空なのだから私欲を捨てて悟りの境地へ入れと言いました。私欲を満足させるような人権は捨てるべきなのです。
「バンコク宣言」はアジア人の叫びなのです。
しかし私は最後に1961年に始まったアムネスティの人権の考え方の普遍的重要性を強調したいと思います。
アムネスティ・インターナショナルは世界中で起きている人権侵害の存在を知り、「苦しんでいる人を助けたい」と願う人びとが集まり結成されたのです。
誰もが紛争や貧困、拷問、差別などの人権侵害で苦しむことのない世界の実現を目指しているのです。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/アムネスティ・インターナショナル )
独裁政権下のポルトガルで学生2人がカフェで「自由のために!」と、乾杯したために逮捕されたことに対して、1961年5月28日の新聞に英国の弁護士、ピーター・ベネンソンが記事を投稿したことをきっかけに多数の人々の支持を得て発足したのです。
その組織は国際連合にならって編成されており事務総長が組織全体の総責任者となっています。
1976年にエラスムス賞を受賞し、1977年にはノーベル平和賞を受賞しました。また翌年の1978年には国連人権賞も受賞しています。
アムネスティを私が讃える理由はその活動が一切の政治権力と関係なく「苦しんでいる人を助けたい」という願で行っているからです。
この政治的中立性故に、幾つかの国々の政治権力者がアムネスティを恐れています。
今日の挿し絵代わりの写真は昨日小金井公園で撮ったタチアオイの花です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)