後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「農家の復元展示と太平洋戦争下の小作争議」

2025年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム
小金井公園の中にある「江戸東京たてもの園」にある江戸時代の農家の復元、展示の写真を5枚ご覧下さい。
1番目の写真は三鷹市の野崎村の名主の吉野家の江戸時代後期の家です。
2番目の写真は東京都世田谷区岡本三丁目にあった江戸時代中期の綱島家の農家です。
3番目のの写真は綱島家の農家の入り口です。余談ながら恐しそうに、中をうかがっている人は私の妻です。
4番目の写真は綱島家の囲炉裏のそばで「昔語り」を聞くイベントの様子を示しています。
このような江戸時代の農家を復元し展示しているところは全国に沢山あると思います。
しかしそれらの裕福な農家の作りから、江戸時代から昭和20年までの農村の様子を想像したら大きな間違いをすることになります。あるいは自給自足に憧れて昔の農村を美化して夢見るとしたら、それは実態とはあまりにもかけ離れています。
日本を占領したマッカーサーが農地解放を断行するまで農村には過酷な地主・小作制度が存在していたのです。江戸時代そのままの地主と小作人の制度が続いていたのです。
ところが全国にある農家の展示はほとんど全て地主階級の農家なのです。小作人が住んでいた小屋のような家は展示されていないのです。
下記は私が昭和37年に妻の実家で実際に見た光景です。
マッカーサーの農地解放までは地主だった妻の祖父が廊下に座り、昔その小作人だった人が下の庭に膝まついて話をしているのです。その地主だった妻の祖父に恩義を感じ、農地解放後も毎年、野菜や収穫物を少し届けに来ていたのです。その光景を見た私は吃驚しました。
そこで少しだけ調べてみました。
そうしたら、「日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動」
(http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-071.html)に驚くべきことが書いてあったのです。
あの一億総動員の戦争中に全国で小作騒動が蔓延していたのです。
戦前の農林省の官庁統計によれば、1935年の争議件数は6824件に達し、史上最高を記録したのです。その後、年を追って減少し1939年には3578件となったのです。この年以後も減少しつづけた争議件数は1941年には3308件と減り、翌年には2000件台に落ち、1944年には2160件となったのです。
農林省の官庁統計にいう「争議」にまで発展せず、紛議、紛争という形で地主と小作人との問に生起したトラブル(争い)の類を考慮にいれると、この争議の規模は官庁統計の示す数字から想像されるより、もっと深刻で大きかったと推定しても誤りではないでしょう。
贅沢は敵だ!とか勝つまでは欲しがりません!と叫んで大戦争をしていた日本の農村では小作人と地主の抗争と騒動がこんなにも起きていたのです。
勿論、この小作人騒動は共産主義者の扇動もあったのかも知れません。しかし共産主義者を特高が厳しく取り締まっていた時代です。共産主義の影響はかなり限定されたものだったと思います。
マッカーサーの占領政策には功罪もありますが、この農地解放は封建的な農村の地主制度を撤廃し、小作人を解放した大変評価すべき政策だったと思います。
小金井公園の江戸時代の農家の展示を見て廻りながら考えたことの一端を書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========================
そうしたら、「日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動」
(http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-071.html)

第一節 小作争議の概況
一 小作争議の件数と規模
 日中戦争開始以後、ことに太平洋戦争開始以後になると、農民が小作料を減免せよとか、小作地の引き上げ反対とかを要求して地主と争うことは、「社会主義者の煽動」による反国家的行為として官憲のきびしい弾圧をうけることを覚悟せねばならぬ情勢となった。
 しかし、以下に記すように、きびしい官憲のファッショ的弾圧と、小作調停や小作料適正化等の小作対策といえども、小作争議の息の根を完全に止めることはできなかった。太平洋戦争勃発の年、すなわち一九四一年における小作争議総件数三、三〇八件、参加小作人数三万二〇〇〇余人という農林省の公式発表数字は、このことをハッキリ示している。官庁統計にいう「争議」にまで発展せず、紛議、紛争という形で地主と小作人との問に生起したトラブル(争い)の類を考慮にいれると、この争議の規模は官庁統計の示す数字から想像されるより、もっと深刻で大きかったと推定しても誤りではないであろう。
 そこでまず、太平洋戦争下に、小作争議は全国的にみてどの程度の展開を示したかをみよう。官庁統計によれば、一九三五年の争議件数は六、八二四件に達し、史上最高を記録したのであるが、その後、年を追って減少し一九三九年には三、五七八件となった(第5表参照)。この年以後も減少しつづけた争議件数は四一年三、三〇八件から翌年には二千件台に落ち、四四年には二、一六〇件となった(注1)。これらの小作争議に参加した人員をみると(第6表)、一九四〇年には地主一万一、〇八二人に対し小作人は三万八、六一四人、翌四一年には前者の一万一、〇三七人に対し後者は三万二、二八九人となった。それ以後は参加人員は減少し、四四年になると地主三、七七八入、小作人八、二一三人となった。争議の関係土地面積をみると、四〇年には二万七、六二四町であったものが四四年には五、〇九五町に減少している。要するに総件数にしろ、参加人員または土地面積にしろ、太平洋戦争下に小作争議の規模は縮小しつづけたことがわかる。
二 小作争議の多発地域
 一九四〇年における小作争議の件数を府県別にみるとつぎのとおりである。すなわち、山形(二七五)、秋田(二一〇)福島(二一〇)、北海道(二〇〇)、山梨(一七八)、福岡(一四八)、青森(一三三)、富山(一二三)、宮城(一一四)、広島(九三)。翌四一年においては、山梨(二一三)が最も多く、ついで北海道(一九八)、秋田(一九三)、福島(一八四)、宮城(一七八)、福岡(一四四)、山形(一三一)、富山(一三〇)である(昭和一五・一六年「農地年報」による)。これによってわれわれは、小作争議は山形・秋田・福島・宮城など東日本、ことに東北地方に多発しており、大正中期から昭和初期にかけて争議多発地帯として記録された近畿・中国地方など西日本では、福岡など一部をのぞき、多発地の地位から退いたことを知るのである。もっともこのことは、太平洋戦争が開始された以後の新しい傾向というわけではなく、大正中期に小作争議が本格的に展開しはじめたころは、岐阜・愛知・大阪・兵庫・奈良など中部地方、近畿地方と岡山・香川・福岡などの地方がその多発地帯として聞こえたのであり、昭和初期にはいるとそれが東北・北陸・北海道の諸地方に拡大し、やがて後者の地方に小作争議の主戦場が移るようになったのである。
 また小作争議の規模を地域別に観察すると、一九四〇年においては、福井・山梨・愛知・大阪・兵庫・島根・広島・熊本等の府県では関係人員多く、その関係土地面積も比較的広いが、件数の多い東北地方では反対に関係人員・土地面積からみてその規模は小さい。翌四一年においても、東北地方は争議は多発しているがその規模は岐阜・奈良・山梨・愛知などに比べると小さく、小土地をめぐる少数の地主・小作人間の個人的争いの性格が濃い。以下省略

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動
発行 1965年10月30日
編著 法政大学大原社会問題研究所


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