後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「1月21日(水)の日記」

2009年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム

「1月21日(水)の日記」

今日は天気予報では晴れ。久しぶりに山梨県、甲斐駒山麓の「山林の中の小屋」へ独りで行くことにした。山道には雪が積もっていて車は上がらない

。下の方の知り合いの別荘の前に車をおいてリックサックを背負って雪道を登るつもりだ。

ブログの師匠の鬼家雅雄さんは、近くの雪山の中の山荘に住んでいる。午後に寄る約束になっている。

朝7時に家を出発し、9時30分に車を預ける別荘の前に着く。それから雪に覆われた雑木林の中の道を30分ほど歩く。

一泊したくなったら泊まれるように十分な食料をリックサックに詰めてある。

食料は別にして水1500cc、350ccの缶ビール1缶、スコッチウイスキー300ccが重要品だ。小川の水を薪ストーブで沸騰させて生活用水に使う。午後、時間があれば尾白温泉へ行くつもり。夜は、薪ストーブのそばでスコッチを少しずつ飲む。読む本は小屋にある。ステレオはオペラ名曲集がある。まだ泊るか、日帰りにするかは決めていない。小屋に着いてから決めることにして気軽に出発する。車の運転は気軽でなく慎重にする。(終わり)

今日も皆様のご健康と平和をお祈りします。

草々、 藤山杜人

追記:結局日帰りにしました。

明日にかけて雪が降り、積もるという現地の人々の話を聞いて日帰りにして帰って来ました。普通のタイヤを付けた私の車が動けなくなるからです。でも零下10度になる夜を薪ストーブで過ごす厳しさを思うと、実はホッとしています。軟弱な精神を鍛えるために無理して泊まろうとしていたのですが、困ったものです。

でも鬼家雅雄さんの山荘」を訪ね、ブログの使い方や、楽しさを話合えて、楽しい一時を過ごしました。午前中は3時間、マキストーブを焚いて、静かな、静かな時を独りで過ごしました。(終わり)


地方で情感豊かな人生を送る人々(1)琵琶湖詩情と日本舞踊

2009年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム

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アメリカで覚えた言葉に、Quality of liferというものがある。もう20年近くなるが忘れられない言葉だ。情感豊かな質の高い人生というような意味と感じている。

ブログを始めて、あちこちの地方の人々が情感豊かな質の高い人生を送っていることが分かった。そこでそのような方々のブログを御紹介するソリーズ記事を始めることにした。

第一回目として、私のお気に入りのブログのちひろさんの「日々いきること」をご紹介したい。

URLは、http://blog.goo.ne.jp/hanamusasi である。

琵琶湖の東岸の彦根城の近辺に住んでいる女性でご主人、お子さん皆お元気で幸せなご生活のようである。

このブログの特徴は写真技術が非常に高い上、感性が素晴らしいことにある。琵琶湖の詩情あふれる作品が多い。撮っている人の繊細な息づかいを感じさせる。被写体へ対する限りない慈しみを感じさせる。

琵琶湖の東岸には長浜、彦根、近江八幡など歴史の古い町がある。そして情感溢れる写真を数多く見ると琵琶湖の東岸に住んで見たくなる。

ちひろさんは日本舞踊が趣味である。長年、日本舞踊で磨き上げられた美へ憧れる感性が写真に表れていると思う。

ここでご紹介した数葉の写真は昨年の1月と2月の琵琶湖にまつわる写真です。

お楽しみ頂ければ嬉しく思います。(続く)

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「イスラム諸国を植民地にした欧米の負の遺産」への補足

2009年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム

よくコメントを下さるmugiさんから客観的な、そして補足的なコメントを頂きました。

ブログ本体のこのページにご紹介いたします。

私はいつも自分の体験を通して理解できたこと、そしてそれから想像できる範囲の事のみをブログに書いています。「体験というフィルター」を通ったものだけしか書きません。本や文献を調べ上げてかくという人々の正反対にいます。どちらにも一長一短があります。

下のコメントは体験主義の欠陥の見本としても意義深いコメントと思います。

=====mugiさんからのコメント==============

植民地だけでなく、十字軍のことをお忘れではないでしょうか?
イスラム諸国の欧米に対する遺恨は、全て十字軍に端を発しています。中東のムスリム知識人の書物を見ると、決して十字軍時代を忘れていないことが分りますよ。
もちろん、イスラムもまず武力布教ありきで、中世のインド侵攻は十字軍に劣らぬほどの蛮行でした。これまたヒンドゥー教徒は内心は許していない。これが現代インドのヒンドゥーとムスリムの対立の原点となっている。

さて、中国ですが、近代は除いてそれ以外は常に覇権国家でしたね。
ベトナムは何度も侵攻を受けており、ウイグル、チベットは現代進行で弾圧を受けています。何故か日本の知識人は、中共の侵略については何も言わないへっぴり腰となる。
文化大革命時代の惨事は人類史上類を見ない蛮行でしたね。異民族を虐殺するのはまだ人ですが、平然と同胞を殺すのはもはや人ではない、と拙ブログにコメントされた人がいました。(一部省略しました。藤山杜人)

なおmugiさんのブログは左側サイドバーの推薦したいブログに紹介してあります。


「日本人とアウシュヴィッツのかかわりを考える」(2)石畳を掘り起こしている男

2009年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム

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ヨーロッパのクラシック音楽や印象派の絵画のことを詳細に書いているブログがある。さらに哲学者や文豪の個人的なことまで調べ上げ、自分の博識ぶりを自慢げに書いている本も多い。しかしこのたった1枚の写真ほど強くヨーロッパ文化の重要な一側面を伝えているものが無い。膝まづいて、一人の男が古い、分厚い石畳を掘り起こしている。アウシュヴィツで殺されたユダヤ人が此処に住んでいた。と、彫り込んだ石を埋め込んでいる。

ベルリンに住んでいる中村真人さんが撮ったものだ。

もう一つの写真に写っている2個の石には1876年と1978年生まれの男女(たぶん夫婦)はここに1943年3月3日まで住んでいた。そして、収容されアウシュヴィッツで殺されたと書いてある。

中村さんは、この事業を広く進めているキリスト教の牧師にあって話を聞いている。

彼の文章を転載いたします。なお、写真を省略して、下に付いた文章のみを繋ぎ合わせたの一部分かりにくところがあることをご容赦ください。

=======アウシュヴィッツへの旅(5)と(6)=========

アウシュヴィッツから帰って数週間後の昨年12月半ば、ヴェディング地区に住む友達からちょっと耳寄りな話を聞いた。彼女が住むアパートの前にいくつかの新しい「つまずきの石」が埋め込まれるらしく、その後小さなセレモニーが行われるというのだ。つまずきの石はベルリンの通りを歩いているとよく見かけるが、いつ、どのようなきっかけで埋め込まれるものなのかは何も知らなかった。かなり興味を引かれたので、その日の昼ヴェディングのオステンダー通り2番に行ってみることにした。

1時少し前、その場所に着くともう作業が始まっていた。「つまずきの石(Stolpersteine)」は、ベルリンに生まれ現在はケルン在住のアーティスト、グンター・デムニッヒ(Gunter Demnig)氏が1992年に始めたプロジェクトで、ナチス政権の犠牲になったユダヤ人、反体制活動家、同性愛者、ロマといった人々を弔い、記憶の忘却から防ぐために、彼らがかつて住んでいた場所に赴いて、名前、生れた年、死亡年とその場所が刻まれた10センチの正方形の石を、その町の協力を求めながら埋め込んでいったのだ。ベルリンで初めてつまずきの石が埋められたのは、1996年のこと。現在まで、その数はドイツを中心に約1万4000個にも達するという(日本にもあるらしいのですが、本当?)。

これがそのデムニッヒ氏ご本人で、カウボーイハットがトレードマークらしい。1万個以上の石は全て本人が現地に赴いて、自分で埋め込んだのだろうか?だとしたらすごいことである。まず路上の敷石を取り除き、次にコンクリートの土台に固定されたつまずきの石を埋め込んで、いま最後の仕上げをしているところ。

アパートの住人や通りすがりの人が彼の周りに集まり、その様子を興味深く見守っている。5つの石の埋め込み作業は15分ぐらいで終わり、その後小さなセレモニーが始まった。

5つのつまずきの石が埋め込まれた後、集まった付近の住民を囲んで小さなセレモニーが始まった。前回ご紹介したグンター・デムニッヒ氏は、いつの間にかその場から姿を消していた。

ヴェディングの教区の牧師コンスタンツェ・クラフトさん(右)と区長と思われる人がそれぞれ挨拶、それから石の周りに花を添えた。かつてここに住んでいた5人の犠牲者のことを、「われわれの隣人」と呼んでいたのが印象的だった。

その後、女性の歌い手が出てきて、明るいテンポの歌を2曲ほど披露していった。これがつまずきの石やユダヤと関係がある歌なのかどうか、聞いておくべきだったと後になって思う。

牧師のクラフトさんに少し話を聞いた。
このつまずきの石プロジェクトは教会がイニシアチブを取ることが多いのだという。それはキリスト教会が第2次大戦中の強制収容所に送られたユダヤ人を救えなかったことに対して罪の意識を抱いていること。そして、昔から戸籍票は教区が管理しているという実務的な理由も関わっている。犠牲者の遺族からつまずきの石を埋めてほしいという依頼を受けると、戸籍などから彼らが当時どこに住んでいて、その後どういう運命をたどったのかを調べる。必要な場合は遺族などに手紙を書いて情報提供を求める。実際に石を埋めるまで、半年から1年近くかかるそうだ。つまずきの石プロジェクトが、募金のみで賄われていることもそのとき知った。

アウシュヴィッツへの旅はまだ終わらない。

by berlinHbf | 2008-02-27 01:29 | 欧州を感じる旅

最後にご自分のブログを自由に編集し転載する許可を下さいました中村真人さんへ深い感謝の意を表します。藤山杜人  (続く)


イスラム諸国を植民地にした欧米の負の遺産

2009年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム

過激なイスラム主義者が2001年9月11日にニューヨークの貿易センタービルやワシントンDCにある国防省のペンタゴンを攻撃して以来、アフガン戦争やイラク戦争が起きた。この戦争の直接的な原因はアメリカの大規模な武力行使である。しかし、もう少し歴史的に考え、欧米によるイスラム諸国の植民地化が原因であるという説明がよくなされている。

筆者はイスラム国を訪問したことが無い。しかし以下の中国での話は、植民地支配への怨念の深さを示している。外国体験のいろいろ(10)の一部を抜粋して再録する。

@中国人の植民地主義への怨念

中国5000年の歴史で、西洋人に侵略され植民地になったことは歴史的大事件であり、その期間は清朝から1949年の共産国家成立までの約百年に及ぶ。北京の大学へ集中講義に行った際、親しくなった教授から「59年にソ連と中国が大喧嘩をした理由を知っていますか」と聞かれたことがある。「日本の新聞では、イデオロギー路線の論争でソ連が絶交して出て行ったことになっている」と私。

この教授は苦笑いして「イデオロギー論議なんて高尚な話ではない。ソ連の空軍と海軍が中国全土の空港と港湾を自由に使い、すべての軍事作戦の指揮権をソ連に与えよと要求したからである。簡単に言うと、中国全土がソ連の植民地になるということだ」「それは知らなかった」「毛沢東は断固拒絶した。ソ連は中国全土から引き揚げる時、無償供与した工業設備をネジ一本まで貨車に積んでシベリア鉄道で撤収した。私の大學でもすべての実験装置が持って行かれ、ガランとした建物だけが残った」。

昔、上海の英国租界の公園に「中国人と犬は入るべからず」という看板があった。この看板を中国人は今でも忘れない。靖国問題を非難する中国にはいろいろな理由がある。しかし、中国全土の国家重点工業特区に、欧米や日本の企業が立派な工場をつくった1990年ごろからこの問題が大きくなった。工業団地は周辺の貧しい農村とあまりにも違う。特区の恩恵にあずからない貧困農民には、工業特区がかつての外国租界や植民地と同じように見えるに違いない。

特に、内陸部の生活格差の不満を解消するには、日本のかつての軍国主義と植民地主義を攻撃しなければならない。欧米列国は租界をつくったが、広範に武力占領をしたのは日本のみである。1990年代に河北省の工業団地へ何度か行ったが、日本の工場進出歓迎は尋常でない。しかし、映画館のポスターには日本軍閥粉砕の赤い字が大きく踊っていた。「あの映画はなんです?」「あ、あれは娯楽映画ですよ。現在の日中友好に関係ないです」と、特区の幹部は軽く答える。

====================以下省略==========

中国人は礼儀正しいから、日本人である筆者には直接何も言わなかった。

しかし、満州国という植民地、そして南京虐殺などへ日本人の子孫として罪悪感を感じ、深く反省せざるを得ない。

以上の体験からだけでイスラム諸国の欧米への怨念の深さを短絡的には説明するつもりはない。

アメリカ追随も良いが日本人は近代の歴史を少し考えてみることも重要である。

(終わり)


春節の飾りをした立川中華街

2009年01月19日 | 写真

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立川中華街はJR立川駅の南口のグランデュオというビルの7階にある。

中国のお正月は旧暦に近い農歴のなので毎年2月に来る。立川中華街には北京、上海、四川、広東、香港、台湾の各地の料理店がそろっている。まもなく来る春節のお祝いの為の飾り付けが華やいでいる。

中国の春節には都会に出て働いている人々が一斉に故郷に帰る。1週間か10日以上の休日なのだ。中国にいる日本人が仕事にならないとよくぼやく季節でもある。しかし中国人にとっては離れ離れの家族が会える一番重要な休日なのだ。そのような喜びが立川中華街にも溢れている。働いている中国人が故郷を思っているのだろう。

昨日は小生の73歳の誕生日で、家内が北京料理をご馳走してくれた。龍福園という店である。昼でも、「夜のメニュー」の料理はもとよりメニューに無い料理でも出してくれる。

立川中華街では料理人やウェイトレスは中国人なので、中国語が飛び交っている。味を日本人向けに変えていない本場の味である。横浜の中華街には及ばないが試してみる価値はあると思う。ご存じの方も多いとは思うが、ご参考までに写真数枚とともにご紹介いたします。

尚、全ての料理店の詳細な情報は「立川中華街」として検索すると出てくる。 (終わり)


日本人とアウシュヴィッツのかかわりを考える(1)論理ではなく感じ方を

2009年01月19日 | インポート

[ベルリンに住んでいる若い中村真人さんへ、73歳の筆者から送ったメールの一節]

ーーーー前の部分の文章は省略ーーーーー

戦前生まれの日本人は「無抵抗のユダヤ人を600万人殺戮した国」と軍事同盟したのですから、アウシュヴィッツへ全然関係がないとは言いきれないと感じています。

このような感じ方を他の日本人へ話すと、関係ない!という意見が多いのです。
また、 戦後生まれの日本人には罪が無いという主張もよく聞きました。それら全ての人々の考えは論理的には正しいのかも知れません。しかし個人の感じ方は人それぞれで、色々な感じ方があるのが自然です。

私自身の感じ方を書きます。ヒットラーが行ったユダヤ人600万人、ジプシー60万人その他身体障害者などの大量殺戮については、罪悪感を感じます。

===中村真人さんからの返事のメールの一節===
おっしゃっていることには非常に共感できます。
戦争の痕跡が今も至る所に見られるベルリンという町に身を置いてみますと、60年前というのがそんなに昔ではないことが実感できます。
そのようにして、過去の人々、文化、歴史というものと現在の自分はどのようにつながっているのだろう、その接点を見出すことに興味を持つようになりました。
あの戦争は自分の世代が引き起こしたものではありませんが、親や祖父母など自分の身近な人々は直接関わり、場合によっては大きな苦しみを体験したのですから、他人事とは
思えません。
アウシュヴィッツを訪れたのは、なぜこんなことが起こりえたのかを知りたいという興味、
そして犠牲になったユダヤ人と同じ場所に身を置いて少しでも追悼したいという気持ちが
あったからではないかと思います。

ブログで過去の暗い話題を書くとアクセス数が減るかも知れない。もうこの様な暗い話は止めにしようと思っていました。

しかし戦後生まれの中村さんから共感できます、という返事を貰ってしまった。やっぱり書かずにはいられない。

明治維新以後の日本人はイギリス、ドイツ、フランス、アメリカなどを模範として国を作り上げて来た。科学や技術を学び、議会政治を導入し日本を軍事的にも強い国にして来た。

その過程において欧米人を優れている人種として尊敬もしてきた。「汝の敵を愛せよ」と言うキリスト教も崇拝する傾向があった。クリスチャンであるはずのドイツ人が異教徒のユダヤ人の大量殺戮をしたのだ。ヒットラーはユダヤ人の殺戮の命令者であった。しかしヒットラー個人のみでは実行出来る筈はない。多数のドイツ兵が協力して実行したのだ。私自身がドイツ兵であったとしたら、きっと殺戮へ協力し実行したであろう。ホロコーストの本当の怖さはここにあると思う。

中村さんは言う、「過去の人々、文化、歴史というものと現在の自分はどのようにつながっているのだろう、その接点を見出すことに興味を持つようになりました」、と。

これは彼の感性の問題であり、すべての人々がそうあるべきと主張しているのではない。

今日から、「日本人とアウシュヴィッツのかかわりを考える」と題したシリーズ記事を書いて行く決心をした。この題目通りの内容ではないときもあるが、「過去の人々、文化、歴史と自分の関わりを探す旅へ」へ出発したいと思う。

そんな決心をさせてくれた中村真人さんへ深い感謝を覚えています。(続く)


早春の湿地帯

2009年01月18日 | 写真

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1月12日は成人の日でした。午後に家内と時々行く湿地をテーマにした公園へ行きました。

国立市の西南端、立川との境の青柳北緑地公園です。早春の湿地はなにか淋しい風景と思いながら写真を撮ってきました。(終わり)

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異国の魅力にとりつかれて住み着く人々(5)永遠に輝くある日の日記

2009年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム

ブログは新聞のように、その日は読むが古くなったブログは見ない。そういう意見を何度か聞いた。しかし今日、紹介するShionさんは2007年の間だけブログ日記を書いていた。サンフランシスコ近辺の小さな町に住んでいる。このブログには難しい議論も新しいニュースも書いていない。平凡な日記である。しかし平穏無事な日常が最高の幸せなのだ。Shionさんの日記を続けて読んで行くと、「人生の幸せのためには注意深く日々を送って行くことが一番重要なのだ」と分かる。自分は仕事の忙しさにかまけて何と雑な日々を混えてしまったのか?この年になってやっと理解できた。

転載許可のメールを送ったところ、相変わらずの生活を送っているそうだ。忙しくて日記は更新していないが。

このShionさんが30年後に自分の2007年のブログを読んだら、その一日一日が永遠に輝いていることに気がつくであろう。いくら時間がたっても古くならないブログとは所詮こういう内容ではなかろうか。

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ハーフムーンベイでの午後の一時 (shionさんのブログの一節)

昨日は良いお天気に恵まれたので、午後の時間をビーチで過ごそうとHalf Moon Bay(ハーフムーンベイ)に出かけてみました。私の住んでいるところからは、車で大体30分ぐらいでしょうか。ハイウェイ92 Westに乗って、山の中を海に向かって降りていくのですが、こんな風にお天気が良いと、この目的地へ着くまでのドライブもなかなか楽しいものです。92 Westを下ってハイウェイ1へ入った途端に、自分の間近の左側に一面に広がるビーチが見えてきました。この海のある景色を目の前にするなり、ほっとした安堵感を覚えました。それにしても空は雲一つない青さで、海もまた降り注ぐ優しい太陽の光を水面に反射して、どこまでも青くきらきらと輝いて、正に絶好のビーチ日和。Miramar Beach(ミラマービーチ)に車を駐車し、しばしの間、この海辺をゆっくりと歩いたり、寄せては返す波の様や音に眺めいったり耳を澄ませたり、深呼吸をしたりして、午後の時間を十分に満喫しました。魂への素敵なトリートメントとなりました。

帰りがけに、ハーフムーンベイのダウンタウンにも立ち寄りました。ダウンタウンと言ってもとてもこじんまりとしていて、1本のメインストリートの両側にいろいろなレストランやカフェやお店などが並んでいるといった成り立ちです。この可愛らしい通りを歩いたあと、通りに面しているカフェの外側のテーブルに座ってコーヒーとペーストリーを頂きながら、そこを歩いている人達や通りの様子などを見たりして、何気ない楽しさを感じたりして。晴れた日の午後を海辺で過ごすことにして大正解でした。ハーフムーンベイでの素晴らしい一時に乾杯!

by yoshie_YW | 2007-05-06 23:05 | 日記・エッセイ   

(ブログのURLは;http://yoshieblog.exblog.jp/ です)

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真冬でも瑞々しい常緑樹

2009年01月16日 | 写真

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016 今日も平穏無事。しみじみと幸せを感じる。お気に入りの道を散歩していたら、楠が緑豊に枝を伸ばしている。

家々の庭で緑豊かなものは、タイサンボク、夏ミカン、レモンの木、花をつけている山茶花と冬椿、などなど結構多い。

近所に紅色の濃い冬至梅が咲いている。大木で下からは花の写真が撮れない。それに太い電線が囲んでいる。毎年写真を撮ろうとしては諦めている。

2月になれば神代植物園のローバイも咲き始める。庭の水仙やクロッカスは葉が出てきた。

花々の咲く春が待ちどうしい。日本は南北に長いので地方によって花の咲く時期が非常に違う。まだまだ吹雪の続いている地方も多い。そんなことを想像しながらゆっくり散歩を楽しんできた。平穏無事な一日です。(終わり)


雑木林のお好きな方へ(9)崖の上の雑木林のシルエット

2009年01月16日 | 写真

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府中市から多摩川を渡って、南側へ行くと、そこはまだ東京都の範囲で稲城市があります。稲城市は梨の産地で昔の多摩川流域の砂地で甘い梨が出来ます。

稲城市の市役所の裏側(南側)には数キロの及ぶ崖が連なり、夏には雑木林が青々と繁っています。冬になると、すっかり葉を落とし梢のシルエットが素晴らしい造形美を見せてくれます。1962年から47年間見ていますが、この冬の崖上の雑木林の姿が一番好きです。

ある晩秋の日に雑木林の中に登って行きました。林の向こう側は意外にも平らな疎林で彼方此方が畑になっています。水田は有りません。そして全ての木々が紅葉して居ます。紅葉の間から遥かに遠く新宿の高層ビル群が白く光っていました。

雑木林への登り口は京王線稲城駅を出て、左に舗装道路を登りきったマンションの駐車場の奥にあります。とにかくこんなに広大な雑木林が都内にあるのは信じられません。久し振りに昨日行って写真を数枚撮って来ました。

雑木林のお好きな方へお勧めいたしたい場所です。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。

藤山杜人


見晴らしの良い丘の湯へ入って来ました

2009年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム

ここ2、3日、ヒットラーによるホロコーストの記事を書いていたので憂鬱な気分になった。そこで気分を変えるために、見晴らしの良い「岡の湯」へ入ってきました。

稲城市の南側にある丘陵の上にあります。空気も新鮮で、野天風呂もいろいろ有って楽しいところです。入場料の平日は大人600円であり広大な無料駐車場もある。

岡の湯の場所、営業時間などの詳細は「岡の湯」をキーワードにして検索すると出てきます。下に入口の様子、野外風呂のいろいろ、薬湯の入口、食堂などの写真を掲載します。

この他に内湯と大きなサウナが有ります。食堂も広く、清潔で料理も心がこもっています。気楽に昼食を食べられる料金です。今日は冷たいうどんにカキアゲ付きの昼食でした。湯上りなので冷たいうどんが大変美味に感じました。(終わり)

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ヒットラーは50万人のジプシーも殺した

2009年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日のこのブログで600万人以上といわれるユダヤ人の大量殺戮の記事を出した。ヒットラーによるホロコーストである。

この狂気の殺戮の対称ははユダヤ人だけで無かったのだ。50万人ものジプシーもホロコーストにあっている。ジプシーは日本では「流浪の民」という歌で、何かロマンチックで楽しそうな民族として受け止められて来た。その平和で無力な民族がヒットラーによって殺戮された。

ナチスが政権獲得後の1935年に、ジプシー(以下ドイツ語のロマを用いる)を「劣等民族」と見なす法律が施行された。ロマの選挙権は剥奪され、非ロマとの結婚禁止、商売の禁止、学校入学の禁止、ドイツ国内での移動禁止などが主な内容である。その後ロマは強制移住や強制労働政策の対象となり、収容されたロマには、強制的断種手術が行われた。

第二次世界大戦によりドイツの占領地域が広がると、ナチスは再び多数のロマを抱えこむことになった。ナチスが「最終解決策」と呼んだ政策で、ロマはユダヤ人と同様にホロコーストの対象とされた。正確な数は不明であるが、戦争中に約50万人のロマが殺害されたとされる。強制収容所への移送を待たずに現地で殺害されたものも多かった。ナチス親衛隊特別行動部隊「アインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)」が東欧の占領地域に派遣され、ユダヤ人、共産党員、ソ連軍捕虜とともに、多数のロマが殺害された。ナチスの被害にともなう戦後補償について、現在もロマはユダヤ人より不利な扱いを受けている。

ヨーロッパ諸国はイギリスの産業革命以来、汽車や自動車を作り現代文明を完成した。その同じヨーロッパ人の民族が互いに争い殺し合った。日本人には想像も出来ない残酷な方法で。文明は限りなく進歩するが人間は全然進歩しない。しないどころか一層残酷になる。西欧文化には輝かしい面もあるが底知れぬ闇がつきまとっている。この最後の文章の「西欧文化」という言葉を「日本文化」と置き換えて考えることも重要ではなかろうか? 

あまりにも暗い記事なので、最後に少し気が晴れる写真を出します。先日、多摩の横山で撮ったものです。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。          藤山杜人

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中村真人氏の撮ったアウシュービッツ

2009年01月14日 | 写真

中村真人氏のアウシュービッツ訪問記には写真も多く掲載れています。文章も感動的です。またそれへ若い日本人から多数のコメントが有ります。

この様な若い日本人を持ったことにホッとしています。誇りに感じています。ここには写真3枚だけを選んでご紹介します。やはり原文をお読みください。http://berlinhbf.exblog.jp/ の中の多数の記事からはカテゴリー分類の「ユダヤ人」の項目をクリックするとこれらの写真が全て出てきます。

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