後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

異国の魅力にとりつかれて住み着く人々(4)ベルリン路上の人々が好きになって8年住む

2009年01月14日 | 日記・エッセイ・コラム

 とにかくこんなに内容の豊かなブログは見たことが無い。中村真人氏の書いている「ベルリン中央駅」(http://berlinhbf.exblog.jp/ )というブログだ。

開けて、手当たり次第にエッセイのページを立ち読みのように読み飛ばしてみる。するとその瑞々しい情感と、ものを見る確かな視座に思わず座り込んで熟読することになってしまう。中村氏はまだ30歳前後の若い男性だ。ベルリンに8年住み着いて、「路上観察者」と称して文筆活動を展開している。ベルリンの芸術、文化、歴史、から森鴎外のことまで実に広い話題を満遍なく取り上げている。

1936年生まれの私はベルリンというとヒットラー帝国の首都、連合軍の徹底的な空襲、高い陰惨な壁で分けられた二つのベルリン、1989年の壁の崩壊、、、となにか血なまぐさい歴史をつい思い出してしまう。用がなければ避けて通る街だ。

戦後生まれの中村氏にはそのような暗い連想が無かったのかも知れない。とにかくちょっとしたキッカケからベルリンに住み着いてその人々の生活を描き続ける。

ベルリンの輝く芸術や歴史を紹介している。ヨーロッパ文化の香を身近に感じさせてくれる。ヒューマニスティックな文章で描いているので心が温まる。勇気が出る。そのようなブログです。

先日転載許可のメールを送った。まだ何処を選んで、どのように編集するか決めてませんが、とにかく何処か使わせてくださいと。返事が来た。何処をどう使っても良いという快諾の返事。それから何処を転載するか考え始めた。内容があまりにも多岐にわたり、どれも名文なのだ。最後に決めたのが以下の内容。

始めと終わりにテアガルテンの冬景色の写真を1枚ずつ出す。間に小さく3枚の写真を出すことにした。ヒットラーによってアウシュービッツへ送られ、殺された子供の追悼展示列車の写真である。展示列車は2輌。ドイツの幾つかの駅で展示された。それに関する中村氏の文章も転載する。

かつてドイツと日本は軍事同盟を結び第二次大戦を一緒に戦った。その友人がユダヤ人を大量に殺したのだ。戦前に生まれた日本人として全く無縁な出来事とは思われない。ドイツ人というヨーロッパの外国人が勝手にしたことだから日本人には関係ないとも思う。しかし、テアガルテンの冬景色の中に身を置いて、殺されたユダヤ人の冥福をはるかに祈りたいとも思う。

写真のながにAnfangenwagenという字があるが、「囚人列車」の意味である。その時刻表の冊子の表紙である。原文では写真がもっとあり、その下に文章が説明文としてついていた。写真の何枚かは省略して文章だけを繋ぎ合わせたので分かりにく部分が出来てしまった。ご寛容のほどをお願いいたします。

なを中村氏はアウシュービッツも訪問してブログで紹介しています。

=======中村真人のブログより=========

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ベルリンへ戻った翌週、久々に新聞を見ていたら、ちょうどベルリンに「記憶の列車

(Zug der Erinnerung

)

という展示列車が来ていて大きな話題になっていることを

知った。これは、ナチスによるホロコーストの犠牲になったヨーロッパ中の子供たちを

追悼する移動展示で、昨年11月にフランクフルトを発って以来、ドイツ中の都市を

巡回し、これからベルリンの5つの駅で展示されることになっていた。

主催者側は当初ベルリン中央駅での展示を希望していたが、ドイツ鉄道(DB)

実務上の理由から拒否したため抗議行動にまで発展していたことも知った。

その他、DBは、この列車の走行や駅に停泊させるための料金を請求してきたらしい

が、何しろドイツ鉄道の前身は、かつてナチスと手を組んでホロコーストの実行に

協力したドイツ帝国鉄道だけに、「記憶の列車」の主催者側は余計ナーバスにな

っていたのかもしれない。

先週火曜日のこの日、「記憶の列車」は東のリヒテンベルク駅に停まっていた。

展示車両は2両で、一度に中に入れる人数が限られていることもあってか、かなりの

行列ができていた。どうしようかと思ったが、とりあえず並んでみることに。結局、

寒い中1時間以上待つことになり、風邪をこじらせてしまうのだが・・・

狭い車内は人であふれていた。これはギリシャのIoanninaという町のゲットーで

強制連行された後、アウシュヴィッツで殺害された女の子に関するパネル。

消えたユダヤ人家庭の跡を探し求める、高校生の授業の研究発表も展示されて

いた。

展示の最後の方で、捕虜を収容する列車の時刻表というのを見つけた。

1943517日より有効」とあり、発行元はドイツ帝国鉄道。

例えばこのページはシュテティン発、ベルリン・シュテティン駅行きの列車の時刻表。

これを見ただけではわからないが、一体どういう人が乗せられて来たのかと思う。

広々とした博物館で見るのとはまた違う感覚がある。犠牲になった子供たちの大部分が家畜用の貨車で運ばれていった事実も、訪れる者は想起することになるだろう。

参考

アウシュヴィッツへの旅(1) - Different trainsに乗って -

11月にポーランドを旅した主目的は、クラクフに住む友人に会ううことの他にもう一つ、そこから遠くないアウシュヴィッツを訪れることだった。アウシュヴィッツ訪問は、いつの頃からか自分の漠然とした願いになっていたのかもしれない。実は7年前のちょうど今頃、友達と初めてクラクフを訪れたときにもそのチャンスはあった。だが、日程的にやや厳しかったことの他に、せっかく町を案内してくれるポーランド人の知人に「アウシュヴィッツに行ってみたい」とはなかなか言い出せなかったのだ。

前にも少し書いたように、ベルリンに長くいると、かつてここに住んでいたユダヤ人の存在に気付かされることが少なくない。例えば、住宅街の道に何気なく埋め込まれている「つまずきの石」によって(冒頭の写真。後で詳しく書きます)。今回クラクフに行く前、このブログではかつて多くのユダヤ人が強制収容所へと送られたベルリンの2つの場所を紹介した。グルーネヴァルト駅の17番線(写真)と橋の下の貨物駅(Putlitzbrücke)という2つの鉄道駅。

もし、鉄道という19世紀に人間が生み出した高度にシステマチックな輸送手段が存在しなかったら、ナチスによる計画的なホロコーストは実現不可能だったに違いない。そして、万単位の規模のユダヤ人を秘密裏のうちに運ぶために必要な鉄道や警察が、ベルリンにある総合司令部から組織化されていたという事実にぶつかる。これらを思うと、やはり鉄道を使った私のポーランド行きは、ベルリンからアウシュヴィッツへと強制輸送されたユダヤの人々をいくらかでも追憶する旅でありたいと思った。

以下省略しました。----藤山杜人


フィラデルフィアの盲目のジャズピアニスト

2009年01月14日 | 日記・エッセイ・コラム

あれは1976年の頃。こみいった昼間の仕事の疲れを背負ってホテルへ帰る。ジャズでも聴いてくつろごうと思った。ホテルの裏の薄暗い酒場へ独りで入る。

ジャズピアノが店なかに響いている。テンポの早い曲が丁度終わり、哀愁をおびたスローな曲を歌い上げるように弾いている。とにかく席につき、一層薄暗い片隅を見ると,

細面の端正な顔立ちの白人が一人でピアノを弾いている。目をつぶっている。自分のピアノに陶酔しているのか何時までも目を開けない。ピアノの上には譜面が無い。ふと足元を見ると大きな黒い盲導犬が幅広い皮帯を背にして座っている。先ほどまで見えなかったが、暗さに目が慣れたので見えたのだ。

若い黒人のウェイトレスがメニューを持って来る。この店のお勧め料理を聞くと、「タートル・スープ」だという。亀のスープとは面妖な。くどくど聞くとやはり本当に亀だという。昔この辺の黒人奴隷がひもじくて湿地帯の亀を捕って食べていたという。

ところがその美味さを白人が知るようになってフィラデルフィアの名物料理になったのだと説明してくれる。黒人は今でもよく食べるの?もう食べません。白人だけが高級料理としてレストランで食べるだけです。黒人が昔食べていたと良く知っているね?

あの盲のピアニストに教わりました。彼は時々言っています、「Jazzは苦しい生活を強いられていた黒人の音楽です。昔、そんな人々の魂から生まれた音楽です」。

成程、それでピアノが黒人の魂の歌声のように聞こえたのか。

タートル・スープはコンソメのように澄んだスープで底にカメの肉の細切れが少し沈んでいる。味は薄めのスッポンのおすましにコショーを入れ、塩を強めに効かせたような味である。亀はスッポンに違いないと勝手に合点する。

タートル・スープが本当にフィラデルフィアの名物料理かは知らない。その後何人かのアメリカ人に聞いたが誰も知らないと言う。

その後、あちこちでジャズを聴くたびにフィラデルフィアの盲目のピアニストのもの悲しいジャズとタートル・スープを思い出している。あの男は私と同じ位の年恰好に見えた。今では年老いたピアニストとして一層、悲しくてそして陽気な、Jazzを歌い上げているのだろう。フィラデルフィアの薄暗い酒場で。(終わり)


エマージェンシー・ラダーの実験成功

2009年01月13日 | うんちく・小ネタ

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海上でヨットの舵が壊れてしまったら、どのようにして港まで帰ってくるのでしょうか?Hootaさんはセイルのトリミングを上手に調整すると帰れると教えてくれました。実際にして見るとかなり難しい技術と分かりました。そこで緊急用の舵を手製で作りました。先日、実際に船上で使ってみました。舵を船体にしっかり取り付ける必要があることが分かりました。

そこで太い角材の先に舵を固定し、角材を船尾にロープでしっかり結びました。

今日は快晴でしたので霞ヶ浦へヨットを出して実験しました。手製の舵だけで港を出て、4ノットの速度で大回りに回頭し、また港の中へ帰ってきました。舵棒の握りの所にエクセテンション用の細い角材を付けたので、使い易くなりました。

これなら遠方から港まで帰って来れると思いました。実験後は係留して、2本のバックステイの間から舵を抜き取って、キャビン後方に仕舞い込みました。

Hootaさんのお陰で面白い遊びが出来ました。今日はついでにエンジンオイルを交換して来ました。ヨットの趣味では冬の間はペンキを塗ったり、エンジンの調整をしたりして係留したまま遊びます。(終わり)

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多摩の横山に、万葉時代と同じ風景を探す

2009年01月13日 | 写真

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多摩の横山という名前は万葉集の中の歌に出てくる。

「赤駒を山野にはかし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」

――宇遅部黒女―万葉集・巻20-4417―――

(意味:山野に放牧していた馬をどうしても捕まえることが出来なかったので、出征する夫を徒歩で出発させてしまった。尚、蛇足ながら巻20には数多くの防人にちなんだ歌がある

この歌は武蔵の国の防人(さきもり)の妻の歌である。武蔵の防人は、まず府中にあった国府に集合し、多摩川を南岸へ渡り、相模の国の国府があった現在の平塚市へ向かった。その道筋は現在の多摩市にある山々の南北に連なる尾根の上にあった。見晴らしの良い道である。

従って万葉集の歌にある多摩の横山とは府中から多摩川を渡り、相模の国へ出る途中の山々のことである。

現在、この尾根道は遊歩道として整備されている。この遊歩道を歩いて見ると、西には相模平野の向こうに丹沢の山並、その後ろに高く聳える富士山がよく見える。その右方向に目を転ずると武蔵の国が広がり、遠方に奥多摩の山々、さらに右奥には秩父の山が見渡せる。雑木林の尾根道は見える山々の風景から自分の歩いている位置が容易に分かる。

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ここに示した3枚の写真は1月11日午後に筆者が独り散策しながら撮った写真である。1300年前の万葉集の出来たころと同じ風景を撮ろうとして遠くにある高圧線や自動車道路が写らないようにした。

出征兵士は平塚から箱根を越えて、数十日、やっと難波の港へ出て船旅で九州の防備へ行く。一旦武蔵の国を出ると何年も故郷へ帰れない。疫病にかかって死んでしまう者も多いという。多摩の横山を歩いている間は暗澹たる気持ちだったに違いない。その暗い気持ちを表すように逆光を用い暗い写真にした。

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なお、多摩の横山のルートマップはhttp://www.ur-net.go.jp/tama/yokoyama/ にある。

(終わり)


涙を流しながらコントラバスを弾く上海の老ジャズマン

2009年01月13日 | 日記・エッセイ・コラム

1982年、上海の旧租界にある酒場でジャズ演奏を聴いた。文化革命という内戦が終わりやっと平和がきて6年。下方と称し、遠くの農村へ追いやられていた知識人や芸術家がやっと、もとの職場へ帰って来た。それにしても大編成のジャズバンドである。

酒場の中央のフロアではゆっくりしたスウィングジャズに合わせて観光客がダンスをしている。アメリカの観光客らしい。

隣の席で、2、3人の女性が大声で話している。聞くともなしに聞いているとオハイオ州の農村から来た一行のようだ。20年前の昔、オハイオの大学にいたので、つい懐かしく話かけて見た。先方は喜んでいろいろ話始める。そのうちフロアの方を指してダンスをしようと言う。ダンスは苦手だが、ままよ!と立ち上がる。スローな曲なのでなんとか誤魔化していると、彼女が大きな声で無邪気に言う、「閉鎖的な共産主義中国も、ついに開放政策をとったのですね。冷戦でアメリカが勝利したからです。」

その勝利のお陰で昔の租界のバンドへこうして帰ってきたと言わんばかりである。

中国へ来て、そのような話題は避けたほうが礼儀と、ニガニガしく思いながらダンスを続ける。次第に演奏中のバンドに近づく。見ると後ろのほうでコントラバスを弾いている老楽士の皺よった顔がジャズに酔って輝いている。死ぬまでジャズは演奏出来ないと諦めて農村で辛い日々を過ごしてきたに違いない。それが多くの観光客の前で大編成のバンドを組み昔の仲間と一緒に演奏している。よく見ると黒っぽい頬の上に一筋の涙が静かに流れている。文革の間に餓死した仲間のことや辛いことを思い出しているのかも知れない。溢れる喜びと底知れぬ深い悲しみの両方を表している涙なのだろう。

改めてバンドの全メンバーの顔を注意深く見る。泣きながら 演演しているのはコントラバスの老楽士だけである。しかし皆の顔が「喜び」と「悲しみ」の両方で感慨深そうな表情をしている。ダンスを一緒にしている相手はそんなことを想像しない。あくまでも陽気に踊っている。

それからは、ジャズの生演奏を聴くたびに上海の酒場で見た年老いたジャズマンを思い出す。頬に流れる一筋の涙を思い出す。(終わり)


異国の魅力とそこに住み着く人々(3)フランスの田舎に住んで3年

2009年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム

 parismidoriさんのブログhttp://blog.livedoor.jp/parismidori/)を見ていると、フランスの御菓子の美しい写真が実に楽しいです。ボルドーの田舎に住んで3年。お菓子工房を主宰し、日仏食文化交流も活発になさっています。フランスのお菓子の魅力にとりつかれ、ボルドーの風土と人情を愛してやまない方です。ブログの紙面の割り付けや、編集も美しく仕上がっています。見て何故かホッとするブログです。

見て楽しいお菓子の写真を6枚お送りします。

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(転載許可は昨日頂きました。)


ネット友人のジャズライブを聞く、そして、

2009年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム

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BYOOLというSNSで出来た友人のHiro-T氏のジャズライブが昨夜、赤坂・一ツ木通りであった。ネットの上での友人のhanaさんが親切に世話をしてくれて、yokoさんも含めて数人の友人も参加した。

上左の写真がHiro-T氏でその右は会場の様子、下右がHiro-T氏の先生のマーサ三宅さんである。

Hiro-Tさんはアメリカ在住も長い。彼のジャズにはリズム感、美声、音程の正確さの3拍子が揃っている。それに美しい英語で折り目正しく歌い上げる。甘い声である。アメリカ黒人の魂を想像させる部分もある。

聞きながらジャズにまつわる思い出が心のなかを巡る。

フィラデルフィアの酒場で聴いた盲目のジャズピアニストと盲導犬の姿。旧友のジョージと一緒にシンシナティで聴いた大編成のジャズバンド。上海のバンドで涙を流しながらコントラバスを弾いていた老ジャズマンのことなど次から次へと思いだす。Hiro-Tさんの歌声が思い出を引き出してくれる。これらのエピソードについては続編として少しずつ書いて行きたいと思う。

昨夜のライブでの会場はハワイ風の内装だった。

家内もジャズが好きだった父のことを思い出し、楽しんでいた。帰りの車の中で父が好んだ曲を口ずさんでいた。

最後に、初めてお会いしたが親切にしてくれたhanaさん、yokoさん、そしてHiro-Tさんへ感謝します。

今日も皆さまのご健康と平和をお祈りします。

(終わり)


ある冬の日曜日の日記

2009年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム

題目通り日記を書きます。

今日は快晴の日曜日。冷え込みがはげしく庭の水盤に氷が張っている。このところ毎朝張っている。真夏の庭の暑さを思い出して不思議な気分になる。

10時からのミサへ家内と行く。神父様の説教の間なにを連想するのか?

この記事の下にあるヨットの写真のさらに下にある、---「ゴッドファーザーへの追憶」ーーーをきっと連想すると思う。

昼は自宅で簡単な食事。午後は今のところ予定は無い。

夕方、早めの夕食を食べてから箱型の車を動かして、赤坂の一木通りへ行く。

あるSNSのネット友人がジャズのライブをするので家内と久し振りに夜に出歩く。

ネット友人のこのようなイベントへ出るのは初めてである。

主催者側のおゆるしが頂ければ詳報を後日に掲載します。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。

藤山杜人


夕日を浴びる鈴懸けの大木

2009年01月10日 | 写真

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近所を散歩していたらプラタナスの木の幹に夕日があたり白く輝いています。梢には鈴懸けの実が寒風にゆれていました。

急いで家内がカメラをとりに家に戻り、数枚撮影しました。お楽しみ頂ければ嬉しくおもいます。(終わり)


「ブログの普及は平等で自由な社会をつくる」(3)ブログやSNSの功罪

2009年01月10日 | 日記・エッセイ・コラム

新しい技術には完璧なものが無い。必ず危険が付きまとう。車の普及は生活を便利にするが毎年交通事故で死傷する人が多い。最近急速に発達したインターネット技術も例外ではない。使い方によって社会を良くもするし、悪くもする。

現代の技術の歴史を振りかえると、良い効果が悪い効果より大きい技術は広く普及し、改良を重ねながら何時までも使われる。

インターネット技術を使ったブログやSNSも使い方によって功罪の大小が分かれる。

今回の記事では功罪の比較検討をする。

前回の記事では先ずブログやSNSに参加している人々の種類を考えて見た。

時間的に余裕のある人々に限定されるが、参加している人々は完全に平等な立場に立っている。これが結論であった。

まずブログやSNSの良い効果を羅列すると、

(1)社会を「自由と平等にする可能性」を持っている。

(2)従来マスコミや出版社が独占していた情報発信の権利が個人へ平等に分与された。どんなに弱い個人でも自分の感情や作品を公開できるようになった。

(3)高齢者を含めて外出しにくい人々が社会的なつながりや種々の人々と友人になれる。

(4)遠方の外国に住んでいる人々とも友人になれる。外国の文化や宗教、そいて人々の生活感情に親近感をもてるようになる。

(5)職業や宗教の違う人々の交流が盛んになっり、教条主義的な狭量な考え方が弱くなる。年齢、性別、家族の有無に関係なく自由に話し合える。

その他にもいろいろ良い効果が考えられるが、ここで悪い効果も明記すべきである。

(1)従来の社会の秩序をあまりにも急速に壊す危険性がある。とくに政治家、官僚、新聞社やマスコミ、そして種々の業界の大会社の人々にとっては急速すぎる変化は不利益を招く。簡単に言ってしまえば社会の支配層はインターネット技術のもたらした価値観の急速な変化について行けず不利益を被る。

(2)このような恐れは引退した昔の支配層の人々も共有している。

(3)ブログやSNSは匿名性を基本にしているので無責任な発言がまま見られる。とくに世の中の良い習俗を破壊するような内容でも大いに歓迎される危険性がある。

(4)ブログやSNSに参加していると意外に時間をとられ読書の時間が無くなったり家族と話し合う時間が無くなる。

(5)ブログやSNSが数多くなりすぎ、お互いにゆっくり読む時間が無くなる。したがって内容が浅薄になり、人の目を引く写真やイラストが主になってしまう。内容の浅薄化がブログやSNSの社会的価値を低める可能性がある。

その他悪い効果はいろいろあります。

さて皆様は功罪の功と罪のどちらが大きいとお考えでしょうか?

その判断はご自分の職業や立場、そして家族関係、友人関係で違うのが当然と思います。

筆者の結論はいずれ書きますが、今回は申し上げません。(続く)


暗い雨の日はこんな写真をみて気を晴らしています

2009年01月09日 | 写真

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今日の東京は寒い暗い雨の日です。山梨の山林の小屋の回りは雪が積もっているようです。根雪になるのでしょう。

こんな日は晴天の下でヨットを快走させている写真を眺めて気分を明るくしています。右前方からの風を2枚のセールに受け快走しています。クローズホールドという帆走術です。岩壁から家内が撮ってくれました。昨年のある秋の日のことです。

現役で仕事のお忙しい方々にとってはお天気のことを考える暇もありません。羨ましいような気もします。でも悠々自適の境地も良いような気もします。

明日は全国的に晴天になるという予報です。つまらない話をして恐縮でです。

(終わり)


亡き人々が心の中で生きている、その(4)ゴッドファーザーへの追憶

2009年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム

30年以上前、アメリカ映画の名作といわれる「ゴッドファーザー」が公開された。映画音楽も哀愁にみち、美しいメロディーなので有名になる。家族を愛し、友人を信じるイタリア系マフィヤの親分の悲しみと怒りを描いた名作である。

ゴッドファーザーとはカトリックの洗礼を受けるときの後見人であり、洗礼を受ける人が男なら代父、女なら代母という。従ってゴッドファーザーとはこの代父のことである。

私のゴッドファーザーは山本大二郎先生である。家内のゴッドマザーは教会で神父様の生活の世話をしていらした荒垣さんの奥様がして下さった。

1972年にカトリック立川教会で塚本金明神父様から洗礼を受けた。

代父なって頂いた山本大二郎先生はある有名な大学の化学の教授であった。1975年までの3年間、立川教会で日曜日毎に会いした。いつも変わらぬ温顔で、「お元気ですか?」とお声をかけて下さる。

1975年、小金井にも教会が出来て立川へは行かなくなる。しかしそれから30年近く年賀状を頂いた。年賀状には毎年必ず多摩山地の珍しい山野草の花の写真がついている。デジカメも無い時代で年賀状に写真をつける人は居なかった。少なくとも私へくる年賀状では唯一枚だけである。毎年その年賀状を頂くのが楽しみで、家内と一緒によく話をした。もう亡くなって何年にもなるが、私の心の中には山本先生のニコニコとしたお顔が生きて住んでいる。

おる時、カトリック小金井教会へ新しい主任司祭様が赴任した。私のゴッドファーザーの山本大二郎先生のご子息の山本量太郎神父さんである。毎日曜、神父様の説教を聞きながら代父のことを追想している。

家内の代母の夫の新垣氏は沖縄出身のカトリックで、作曲の才がある。カトリックの本部へ転勤になったあとは数多くの作曲をし、宗教音楽の活動をしている。日曜日毎に歌われる聖歌のなかに時々新垣さんの作った曲が混じっている。歌うたびに立川でお会いした若々しく、新婚夫婦のようだった夫妻の様子を思い出す。住みついた心の中では人間は年を取らない。

小学校、中学校、高校の先生方、大学で研究の指導をしてくれた恩師、あるいは職場で親身のお世話を頂いた恩人たち。皆、この小さな心の中に住み着いている。

今日は宗教の世界での恩人についてご紹介致しました。(続く)


異国の魅力とそこに住み着く人々(2)タイ、ネパールのとりこになって25年

2009年01月09日 | 日記・エッセイ・コラム

この私のブログではバンコックとカトマンズに家をもって25年以上住んでいるHikarunoさんのことを何度もご紹介してきました。アジアのいろいろな言葉に通じ、観光客の行かないような市井に住んで、人々の哀歓を描いた文章が素晴らしいのです。

経済的には決して恵まれていない人々の心の豊かさを抒情的に、美しく、読みやすく書いた文章が胸をつきます。高度成長をした日本人が失ったものの大きさを静かに教えてくれます。Hikarunoさんは久しぶりに帰国して先月、東京で「インド刺繍とサリーの展示会」をしまた。開場の日に訪れて、つい2時間も話し込んでしまいました。文章は人を表すという通り、素朴で親切な人でした。決して難解な議論をしたり知識を自慢しません。品性の良さを感じました。今日は2ケ月の日本生活のあとでバンコックの自宅へ帰ったころの日記と写真を2枚ご紹介します。(転載の許可は昨日頂きました:http://asiancloth.blog69.fc2.com/ )

====Hikarunoさんのバンコックへ帰った感想日記========

新年も2日目を迎え、のんびり過ごすことにした。
2ヶ月近く履いていなかったサンダルで2日間歩き通したものだから、あしの裏が痛い。
バンコクでもカトマンズでも 大半はサンダルで歩くことが多いのだが、2ヶ月の晩秋から冬の日本の滞在ではサンダルというわけには行かず、革靴を履いていた。
そのために馴染んでいたサンダルが馴染まなくなっていた。
歩かない日本の生活で太ったということもあるのだろう。この足の痛さも通過儀礼である。
31日の深夜2時過ぎに部屋につき、部屋の片付けも、バッグの中の荷の整理もそのままだったので少しずつ片付け始める。
日本の気候から暑いバンコクの気候にはまだ慣れておらず、疲れも溜まっている。
前日A 氏もMBKセンターでバンコク地図とバス路線図を買い求めたし、バンコクでの動き方にも慣れバンコク市内の移動を楽しんでいるだろうと思っていると2時過ぎにA氏から電話がかかってくる。バンコク最後の日なので一緒に食事でもという話だった。午後3時にA氏の滞在するホテル前で待ち合わせの約束をする。
センセーブ運河を走る水上バスに乗るのも楽しいかと思い、誘うと「まだ乗っていない」と言う。
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センターから近いサファン・フアチャン乗り場から水上バスに乗り込み、終点のバーンラムプーを目指す。
すぐ近くにヨーロッパ人の家族が乗り込むが、彼らのすぐそばにある運河の汚水よけのビニールシートの上げる紐を引っ張ろうとせず、運河の汚水が船内に入り込んでくる。さすがに乗っていたタイ人もこれには困り、紐を引くように教えている。

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バーンラムプーに船は到着し、すぐ近くのプーカオ・トーン(黄金テンプル)に行くが、ここもタイの人たちの詣でで混雑を極めている。
いつもは人の姿も少なく、寺の屋上でバンコク市内を見渡すことも出来るのだが、諦めて下に下りる。運河沿いにはビルマ軍の侵攻を防ぐための要塞がある。
その横には王室のための舞踊、音楽を演ずる人たちが住むことを許された古い集落がある。ラーマ3世の時代、150年前から住み着いているようだ。
この近辺にはラーマ3世によって建てられたいくつかの寺院がある。
その寺のわき道の一角に洒落たタイ風な喫茶店があり、そこで休憩と考えていたが、正月休みのせいか、閉まっていた。
旧王宮を囲むオンアン運河とマハナーク運河を結ぶ細い運河ロッド運河に沿って歩くと、そこは古くから住み着いているバンコク庶民の生活場所だ。
貴族の屋敷を囲むように小さな木造の家が密集している。1932年の立憲革命以後住み着いた人々の集落である。庭のない家に住む集落の人々にとっては通りは生活の場所であり、交流の場所でもある。そこには生き生きとした人々の自由な生活の匂いがあふれている。(終わり)

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江戸時代とまったく同じ風景3点

2009年01月08日 | 写真

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江戸時代、小金井村にあった貫井弁天様の現在の写真を3枚を示しました。建物が少し大きくなっただけで、鎮守の森や湧水を湛えた深い池などの様子は昔と同じです。

この様に案外近いところに江戸時代と変わらない風景があります。

しかし注意深く写真を見ると昔には無かったものが写っています。

一枚目では洋服を着た女性です。二枚目は階段の真中にある鉄製の手すりです。(当時は鉄は非常に貴重で手すりなどには使わない)。三枚目では社殿の前に真っ直ぐ立っている高い鉄棒です。祭礼のとき幟をあげるための高い鉄棒です。

神社はあちこちにあり、またそれを囲む鎮守の森は百年が一瞬に過ぎたように静まり返っています。時代が変わっても変わらない風景を探して歩くのも楽しいものです。

(終わり)


異国の魅力とそこに住み着く人々(1)私とハンガリー

2009年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム

異国の魅力とそこに住み着く人々(1)私とハンガリー

シリーズ記事「異国の魅力とそこに住み着く人々」を始めるにあたって:

ブログやSNSなどのインターネットで知り合った方々の生き方に興味を持ち、メールの交換をしたりお会いしたりしています。

異国の風土や人間そして文化にひかれ、ながく住み着いている個性的な人々を紹介する目的で今回このシリーズ記事を始めました。

第一回目の記事ではハンガリーに住んでいる盛田常夫さんを取り上げました。(盛田さんは、ハンガリーから内容豊かな日本語のHPを発表しています。http://morita.tateyama.hu )

ハンガリーは日本ではあまり知られていない国です。そこで何故ハンガリーに住み着くことになったのでしょうか?と聞きました。間もなく、「人生の節目と友人たち」という長文の随筆を添付してメールが返ってきました。抜粋をブログへ掲載する許可も頂きました。

読みやすくするために小見出しをつけ、目次も作りました。文章には手を入れていませんが、長くなりすぎるので一部省略してあります。

目次に従って何処からでも読めます。でも盛田常夫さんの香高い文章のとりこになり全部読むことになるかも知れません。

目次:

 1、厳寒のハンガリー空港へ独り降り立つ

 2、でも以前にハンガリーに来ていた

 3、東京にある高岡市の学生寮での思い出

 4、2年間のハンガリー留学

 5、最初のハンガリー漂着から10年後、再びハンガリーに住み着いてしまう

 6、大使館で親しかったある外交官の死

 7、遥かにハンガリーで知った草柳文恵さんの自殺

 8、草柳文恵さんのハンガリーでの思い出

 9、逝く人々への思い

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 1、厳寒のハンガリー空港へ独り降り立つ

初めてフェリヘジ空港へ降りたのがちょうど30年前の19781219日。まだ31歳だった。ハンガリーのことなど何ひとつ知らずに、大学の喧噪から逃れようと、文部省の交換給費生の資格をとって留学した先が、たまたまハンガリーだった。本当のところ、どこでも良かった。赴任した法政大学の無法状態とも言える騒乱から身を引き、静かな場所で読書三昧したいというのが本音だった。ほとんど人気のない、寂れた田舎の空港に足を入れ、どこか間違った世界に降り立ったのではないかという錯覚に襲われたのを覚えている。

 2、でも以前にハンガリーに来ていた

今から振り返えると、この地域に縁があったようだ。これに遡ること10年。1968年、大学3年時の夏、21歳になる直前に300名を超す日本の大きな代表団の英語の通訳として、ソ連とブルガリア、ルーマニアに旅行した。1カ月ほどの旅行を終え、新潟沖に戻ったところで、ソ連軍(ワルシャワ条約軍)のプラハ侵攻のニュースがラジオから流れた。その当時はまさか将来、この地域に関係して仕事をすることになるとは想像もしなかった。この年の初めからヨーロッパでは学生運動が盛り上がっていたが、日本でも秋から大きな喧噪・騒擾状態に入った。1968年はプラハ侵入やヴェトナム戦争激化で反戦運動が高まっただけでなく、世界各地で大学生が大学や街頭で大騒動を起こし始めた年として知られる。19691月初めの東大紛争の終結からこの年一杯まで、日本の多くの大学で休校状態が続いた。このあおりで東大入試が中止となる異常事態も生じた。

 3、東京にある高岡市の学生寮での思い出

当時、私は郷里の富山県高岡市が設立した学生寮に住んでいた。国際基督教大学のゴルフ場に隣接する土地に、富山の田舎町が学生寮を所有していた。毎朝、ゴルフ場を小走りに横切りながら授業を受けに行くのだが、いつも遅刻して、アメリカ人教師にもう1回遅刻すればE(落第)だと脅されたものだ。

この学生寮は1学年10名程度の所帯で、住人のほとんどが高岡高校出身者だった。多摩地区の大学だけでなく、都内のいろいろな大学に通っていた。だから、大学の情報はいろいろ集まってきた。

国際基督教大学は2度の長期休校で、4年の在学期間中、実質3年しか大学に通っていない。大学卒業が19705月で、一橋大学大学院入学が19704月という履歴になっている。紛争当時は東大駒場キャンパスに通い、名物教授の授業を聞いて歩いた。りに旧交を温めた。

 4、2年間のハンガリー留学

話は197812月に戻るが、冬のハンガリーは暗かった。到着してすぐにクリスマスになったが、すべての店が閉まってしまったのに驚いた。とにかく物がない時代である。ようやく探したレストランで「ステーキ」という文字を見つけたので注文したら、生のひき肉が出てきたので困ってしまったのを覚えている。しかし、春がきて明るい日差しを受けるようになると、それまでの暗い印象が一変した。英語と日本語の専門書を50冊も持参して、それを片っ端から読むつもりだったが、それでは面白くないと思い始め、辞書を片手にハンガリー語の専門書を訳し始めた。ハンガリーには国際的に知られる数理経済学者が何人かおり、そのうちの一人がコルナイ・ヤーノシュだった。留学当時、コルナイに関心はなかったが、留学が終わる頃に、後にセンセーションを巻き起こす「不足の経済学」(Economics of Shortage)が出版された。

 5、最初のハンガリー漂着から10年後、再びハンガリーに住み着いてしまう

1980年に留学を終えて大学にもどったが、最初のハンガリー漂着から10年経た19888月に、再び長期滞在することになった。カーダールが引退し、ハンガリー共産党(社会主義労働者党)に大きな変化の兆しが見られるというので、在ハンガリー大使館で最初の専門調査員として赴任することになった。当時のM大使は変わり者で、「俺が頼んできてもらったわけではない。本省が勝手に送り込んだ人材だ。大学の先生など、大使館には要らないから、俺は知らない」という態度で、無視を決め込んでいた。もっとも、無視された方が気楽で、直属の部下にあたる公使初め、館員全員の方は繰り返される大使の横暴に困っていた。

 6、大使館で親しかったある外交官の死

その後、渡辺伸さんはアルジェリア大使時代にすい臓がんが見つかり、若くしてお亡くなりになった。学究肌で真面目な渡辺公使のことは今でも忘れられない。渡辺さんの方が私よりもはるかに学者らしかった。

 7、遥かにハンガリーで知った草柳文恵さんの自殺

20089月初め、インターネットのニュースを見て仰天した。草柳文恵さんが自殺したという。それも高層マンションのベランダから首を吊ったというのである。そういえば最近はメディアに出ていないとは思っていたが。乳癌で苦しんでいたというが、発作的な自殺は薬の所為ではないだろうか。

 8、草柳文恵さんのハンガリーでの思い出

北海道テレビの東欧取材で文恵さんがハンガリーを訪れたのは198910月。もう記憶が確かではないが、何かの伝で日本の制作会社から私に電話がかかってきて、取材のアテンドを頼むということだった。文恵さんは故草柳大蔵氏の長女で、青山学院の学生時代にミス東京に選ばれた才媛である。どれほどの才女なのか興味があった。ところが、ハンガリーに到着した翌日、彼女は腰痛で動けなくなった。痛風発作の症状によく似ていたが、とりあえずテレビクルーは街の取材に出掛け、私は彼女をレザー光線によるハリ治療に連れて行くことになった。

 数日の短い時間だったが、楽しい時間を過ごさせてもらった。快活ではっきりした口調の物言いは今でも耳に残っている。その後、何度か電話で話をしたり、手紙をいただいたりした。まことに見事な達筆であった。私は専門調査員の仕事を終えた後、しばらくして大学を辞職し、ハンガリーに舞い戻ったので、連絡が途絶えてしまった。私が知っているあの文恵さんが自殺なんかするわけはないと思う。骨太で大柄な彼女の体が、骨と皮だけになっていたという記事も読んだ。闘病生活が苦しかったのか、人生が終わったと考えたのか。それにしても、あのような発作的な行為は薬の所為ではなのか。年老いて娘に先立たれた母上の心情を察すると、言葉もない。

 9、逝く人々への思い

父母や年長の友人が次々に世を去っていくだけでなく、私よりも若い才女たちも急ぐように去っていく。これから追悼のことばを認める機会が増えていくことだけは間違いない。合掌。