後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本人の考える正義と中国人の本音

2015年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム
国際問題で正義を論ずると感情問題になり不愉快な気分になるだけです。
日本の正義によると北方四島は日本の固有の領土でロシアが不当に占領しているという主張になりまます。一方、ロシアは北方四島は終戦前に日本を武力攻撃したら千島列島をロシアが領土としても良いという英米の約束に従っただけなのでロシアの固有の領土だと主張します。ロシアにも正義があるのです。ですから北方四島は絶対に日本へ返す理由がないのです。
尖閣諸島に関しても日本の正義と中国の正義が全く違います。
このように「正義」という概念は国ごとに違うことが多いのです。
それにいらいらして平穏な気持ちを失ったとしたら、それほど愚かなことはありません。
そのような問題は棚上げにして、中國の人やロシア人と個人的に親しくなるのが得策です。金銭上の得策ではなく平穏な気持ちで老境を楽しく過ごせるので得策なのです。
それでは私はどのような中国人とお付き合いしたのでしょうか?そんな個人的な体験を書いてみたいと思います。
私の中国観の形成過程で一番重要だったのは、1969年と70年、ドイツのストッツガルト市にあるマックスプランク研究所で、研究をしていた時に得たある一つの体験でした。
   @独研究者の言葉
1969年以前は2年間のアメリカ在住の影響もあり、共産党の中国は嫌いでした。また、第二次大戦中の中国を「支那」と蔑視する文化の中で育ちましたので、中国に対しては内心深く軽蔑していました。しかし、研究所で「固体電解質の物理」という専門書の一つの章を共同執筆した研究者、プルシュケル氏の言葉が私の考えを根底から変えました。
「日本人は中国人を軽蔑しているが、欧州人は中国を軽蔑している日本人を信用も尊敬もしないよ。もっと東洋と西洋の文化と相互交流の歴史を考えて、東洋の利益を考えるべきでは」「西洋の近代植民地主義に便乗するのではなく、東洋の利益、日本の利益を基本的に考えて西洋諸国と交流するのがよいと思う」と言うのです。
プルシュケル氏は東ドイツにある村に同姓の村人数百人と一緒に住んでいました。ロシア軍が侵入した時に同族は皆殺しに遭い、1人だけ生き延びて西ドイツに逃げ、研究所の主任研究員になった人です。彼は後に大学教授になりました。
ロシア人を憎んでいないのかとの質問に、「ドイツが電撃作戦でロシアに侵入した時、若いロシア人を2000万人も殺した。ロシア側は当然のことをしたので特に憎む気持ちはない」と答えました。このような男が「日本人は中国人と信頼関係を維持したほうがよい」と言うので、深く考え直すキッカケになりました。
      @周栄章教授のこと
1979年、ベルサイユ宮殿前の国際会議場で北京鉄鋼学院の周栄章教授に会った時、この話をしました。周氏は共産軍とともに天津市を占領し、天津市の行政に参加した人でした。
この周氏との出会いが後に中国へ行くキッカケになりました。
周氏は日本軍が真珠湾で米太平洋艦隊を攻撃した時、ものすごくうれしかったそうです。日本は太平洋へ軍事作戦を拡大するので、中国本土の戦争は中国にとって楽になると考えたからです。実はこれだけではないようでした。西洋植民地主義で清朝以来痛めつけられた中国人にとって、兄弟分の日本が西洋人に痛撃を与えたからです。
海外在住の中国人も含め、全中国人が日本軍の真珠湾攻撃によって内心溜飲を下げなかったと言えば嘘になると思います。周栄章教授は2004年に亡くなりました。
       ◎地下室で見た中国人の本音
中国の総理、周恩来が1976年に死んだ後、中央政府は公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止しました。そして死後数年間、一切の追悼行事を禁止したのです。
周恩来総理は毛沢東に仕えながらその暴政にいろいろな方法で歯止めをしたのです。毛沢東一派はそれを憎んでいました。
1981年に北京にいた私に、周栄章教授が声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言いました。
 暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ大學の地下室でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていました。周氏は「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったって、やることはちゃんとやるよ。それが中国人の根性なのです」と言い切りました。
外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用できたのでしょうか。このような体験で、中國人は個人を一旦信用すると最後まで信用する性格を持っていると思い、とても感動しました。、
そして中国は権力者と一般の人々との考えが違うことを教えてくれました。
中国東北部の瀋陽に行った時、東北工科大學の陸学長がニコニコして「私は日本人の作った旅順工大の卒業です」ときれいな日本語で言いました。そこで、東北大学金属工学科で電気冶金学を習った森岡先生が旅順工大にいたことを話しましたら、「悪い先生もいましたが、大変お世話になった素晴らしい日本の先生もいました。ご恩は忘れません」と懐かしそうでした。中国人は個人の付き合いと国家同士の論争とは分離して考えているようです。
それ以来、中国政府が日本を非難しても怒りを感じなくなりました。
南京虐殺を大げさに宣伝したり世界遺産の登録しても何も感じないのです。
共産党独裁を守るためにしているのです。
中國人は共産党の言うことをオウム返しに叫んでいるだけです。それをないと生けて行けない国なのです。本音は別です。
そのように理解するようになって35年が経過しました。その間の日中間ではいろいろな事件がありました。しかしどんな時でも、1981年のある時、周栄章教授が声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言った時の顔を忘れません。
これからも中国共産党政府はいろいろと言語道断な政策をとるでしょう。しかし私は驚きません。
中國人の個人、個人が、少しでも幸多かれと静かに祈るだけです。
今日の挿絵の写真は数日前に撮った静岡県富士宮市の白糸の滝です。最後の写真はその傍の音止滝です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









孫子の兵法、そして韓国の反日外交の原因としての韓国憲法

2015年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様こんにちは。少しだけ日韓友好について書きたいと思います。
しかし日韓友好に反対の方々の為に、一昨日撮ってきた富士山五合目付近の紅葉の写真をお送りいたします。写真だけでもお楽しみ下さい。
さて、ある国と戦争をする場合に孫武は2500年も前に教訓を残しています。
この有名な孫子の兵法は戦争の場合だけでなく現在の外交交渉でもよく使われています。それだけではありません。経営者やビジネスマンに愛用されているのです。その兵法の一部だけを示します。
彼を知りて己を知れば、百戦して殆(あや)うからず。
  彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。
  彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし。

実に明快ですね。日本が真珠湾攻撃をし、その後アメリカに敗れたのは、「彼を知らず己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし。」の通りだったのです。
さて日韓友好や、あるいは外交交渉で韓国に勝つためには日本人は韓国の実態を徹底的に知ることが必要です。
それこそが「 彼を知りて己を知れば、百戦して殆(あや)うからず。」なのです。
ところで日韓関係の障害の一つに韓国併合があります。1910年(明治43年)8月29日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実です。この後、日本による統治は1945年(昭和20年)9月9日の朝鮮総督府の降伏まで、35年間続いたのです。これはまぎれも無い明白な事実です。
それを受けて現在の韓国の憲法が出来上がっているのです。
その前文の抜粋を見てみましょう。
「悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と、民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に即して、国内では国民生活の均等な向上を期し、外交では恒久的な世界平和と人類共栄に貢献することで我々と我々の子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを確認しつつ、1948年7月12日に制定された」
この前文の冒頭にある「大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統」という部分を日本人の多くは知りません。当然、無視しています。
三・一運動(さんいちうんどう)とは、1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった日本からの独立運動です。ですから現在、韓国では3月1日を三一節として祝日に指定しています。
以上のように韓国の憲法に書いてあることはまぎれもない事実です。
このように書くと1919年に上海で成立した「大韓民国臨時政府」は架空のもので、その首班の李承晩はハワイに居たという感情的な反対をする人がいます。何度も書きますが感情的になればなるほど日本の利益が守れないのです。
たとえ脆弱な臨時政府だったとしても韓国の憲法に「現在の韓国政府は1919年の臨時政府から始まる」と明記してあるのは事実なのです。
日韓関係が良くない原因はいろいろありますが。その根本はこの憲法の前文にあると私は考えています。
さて先日、下のような目立たない小さな記事がありました。
「韓国大統領:上海の改装式典に出席ー臨時政府旧庁舎」
毎日新聞 2015年09月04日 21時12分
 【上海・大貫智子】中国の抗日戦争勝利記念行事出席のため訪中している韓国の朴槿恵大統領は4日、日本の植民地時代に独立運動の拠点となった上海の「大韓民国臨時政府」旧庁舎改装オープン式典に出席した。韓国は、中国が韓国の独立運動を評価したことを歓迎しているが、日韓関係の改善を目指す朴大統領は式典での激しい対日批判は避けた。(以下省略)
また嫌がらせをしていると顔をしかめる人も多いと思います。
しかしこの小さなニュースこそ日韓関係史の中で重要なある出来事を明確に示しているのです。日韓関係を少しでも改善すべきとお考えの方は以下もお読みください。
上海に亡命した人々が大韓民国臨時政府を組織したのです。その代表に選ばれたのが李承晩でした。
しかし世界情勢は韓国にとって不利でした。第一次世界大戦で戦勝国になった日本を尊重し、欧米各国はこの上海の臨時政府を承認しませんでした。
時が流れ、第二次大戦が終了すると韓国は独立します。そしてこの臨時政府代表だった李承晩が初代大統領になったのです。当然ながら李承晩大統領は反日的な政策を次々と実行します。
そして出来上がった韓国の憲法の前文には独立運動の1919年の三・一運動が明記されたのです。
この憲法に忠実に従って槿恵大統領は北京から遠い上海まで行ったのです。
韓国の独立運動の拠点となった「大韓民国臨時政府」が使っていた旧庁舎を改装しオープン式典が行われたのです。
一方、伊藤博文を暗殺したトマス安重根の記念室をハルピン駅に整備したのも中国政府でした。
これらの記念室や臨時政府庁舎の整備は本来韓国の費用でするべきであるのは当然ですが全て中国政府が出したのです。
皆様は上海に1919年、韓国の臨時政府が出来、李承晩がその代表だったことはご存知でしたでしょうか?私は知りませんでした。
今更、日本人が朝鮮の併合を卑屈に謝る必要はありません。
しかし上海に1919年から韓国の臨時政府が存在し、現在の韓国政府はその臨時政府の延長にあると憲法の前文に明記してあることだけは知っておく方が良いのではないでしょうか?これこそが孫子の兵法の「敵を知れば百戦あやふからず」です。
ついでに韓国における反日教育についてのあるネット記事をご紹介します。
以下は、http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1212123017からの抜粋です。
「私は日本に住んでいる20代の韓国の男です。
恥ずかしい話なんですが質問の通り韓国の小学生時代、学校の先生にそういう反日教育を受けまてました。
当時の私の年齢だとごく一部のことじゃなく全学生がそういう教育を受けてると言っても間違いない位です。
"日本は悪い国""日本製の品物は買っちゃダメ""日常生活で気づかなく使われてる日本語使用禁止""日本語書き込むことなど一切禁止"などです。(韓国の法律には昔も今も絶対こういう法律がないので誤解しないで下さい)
別に韓国の法律に明示されてはないですが、国民の9割以上はこういう傾向がありました。
それが当たり前のことだと思いますし、そういう教育で洗脳されてた私の場合は、たまにどこかに書いてある日本語の文字が目に当たるとすごく嫌な気持ちになってなんか悪いことでもしたようないやらしい気持ちになってたりしました。今はそんなことないですが当時には日本語の文字ってすごく不良な形って感じでした。(今思ったら笑っちゃいます)」以下省略。

さてここで私の書きたいことを書きます。
まず日韓両国民は現在の日韓関係とある距離を置いて少し客観的に考えることが重要なのです。そして韓国人が日本のことを悪く思い、憎むのは韓国人自身の人格を傷つけ、自分が不幸になっていることに気づくべきです。それは韓国人の問題で外国の人にはどうすることも出来ないのです。
同じように日本人が韓国人をさげすみ悪く言うのは、自分自身の人格を傷つけ、自分が不幸になっていることに気づくべきです。それは日本人自身の問題であり韓国人とは関係の無いことです。
日韓両国民はかなりの距離を置いてお互いに他人同士として尊敬しあい、建設的な態度をとるべきだとと私は思います。
それが迂遠ではありますが、日韓友好への道になると信じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









「富士山五合目への道の今年の紅葉をお楽しみください」

2015年10月15日 | 写真
昨日、富士山の五合目に登る山梨県のスバルラインと静岡県のスカイラインの両方を車で行くという人に乗せてもらいました。
スバルラインとは河口湖から入り、富士山吉田口の五合目の標高2500mまで登っている有料自動車道路です。一方、スカイラインは静岡県の富士宮市から入り、富士山の標高2500mまで登る無料の自動車道路です。両方とも富士登山者がよく使いますが、五合目までだけの観光客が多数上がって来ます。スバルラインの五合目には広大な無料駐車場がありレストランやお土産やがあり、いつも観光客で賑わっています。そこから六合目の方へ歩いて行くと青い山中湖が見下ろせて絶景です。
昨日のスバルラインは晴れていましたので今年初めての本格的な紅葉の写真が撮れました。
しかし富士宮口の五合目に上がる自動車道路のスカイラインは濃い霧に包まれていて写真は撮れませんでした。
下にスバルラインの五合目から見えた富士山の頂上の写真を示します。それに続く写真は五合目から次第に下りて来た途中で撮った写真です。
山梨県側のスバルラインの今年の紅葉の風景をお楽しみください。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)



















文化大革命の凄惨な実態を知らないと中国の習近平の政治が理解出来ない

2015年10月14日 | 日記・エッセイ・コラム
毛沢東が死に、4人組みが逮捕され文化大革命が終了したのは1976年です。その5年後の1981年に訪問した北京の殺伐とした雰囲気に胸がつぶれました。街路や公衆便所の汚さは人々の心の荒廃を示していて身の毛がよだちます。
招待してくれた周栄章教授は1968年に突然大学の研究室から農村へ下放されました。貧しい農村へ追いやられたそうです。それから7年間、毎日、毎日ブタへ餌をやり糞の掃除をして暮らしたそうです。食料は極端に乏しく、飢えで死ぬ人も居たそうです。その間、家族はバラバラに下放され、何処に居るのか、生死さえ分からなかったそうです。
毛沢東がもう一度権力を握るために全国で紅衛兵を動員して知識人や政治家などを抹殺しようとした内戦でした。全国を凄惨な戦争に巻き込んだ残酷な毛沢東の権力奪取闘争でした。その指導をしたのが毛沢東の妻の江青などの4人組でした。
数年間、この4人が中国大陸の頂点に立って惨劇を続けたのです。
この文化大革命の間、毛沢東に従いながらも国民の苦しみを少しでも少なくしようと粉骨砕身の活躍をしたのがこの写真にある周恩来総理でした。彼は失望にうち砕かれた全ての人々へ生きる希望を与えたのです。暗夜の灯として、いまだに全中国人の心の中に生きています。彼は1976年1月に死にました。そして間もなく毛沢東もこの世を去ったのです。
小平が権力を握り、やっと平穏な日々が続くようになったのは1980年くらいからです。この文化大革命の凄惨な体験から中国人は2つのことを心の底に強く抱くようになったのです。(1)国の分裂と内戦は絶対に避ける、そして(2)充分な食糧生産と経済発展の為には全てを犠牲にする、という2つの強い信念です。
民主主義や多数の政党による議会制の導入は、もう一度、人々を内戦のるつぼへ投げ入れる可能性を持っています。これは死んでも避けるべきです。一党独裁が最善の方法なのです。大部分の中国人がそのよいうに思うのは自然な成り行きでした。
ここで我々は中国の政治グループの背後には軍隊が密着していることを知るべきです。
小平が権力を握ることが出来た理由は彼の軍部操縦術が抜群だったのです。政治闘争は必ず軍隊同士の内戦へ繋がるのです。
それが中国なのです。従って、小平は1989年の天安門広場での民主化デモを戦車を出動して鎮圧したのです。彼の決断は中国国内から見ると正しかったのです。学生以外の大多数の社会人が小平の決断を支持しました。
充分な食料生産と経済発展の為に彼は共産主義体制の計画生産体制を廃止して、市場経済原理にもとづく自由競争生産へ切り替えたのです。それは大成功でした。その結果、中国のGDPはアメリカについで世界2位になったのです。
中国の外交政策は文化大革命の負の遺産に忠実に従っているのです。共産党一党独裁は至上命令です。
現在の国家主席の習近平も7年間、下放され貧しい農村で辛酸を舐めたのです。彼は国内の対立と内戦を憎んでいます。絶対に共産党一党独裁を守ります。
しかし中国の内陸部はいまだに貧困だと言われています。海岸部との経済格差を恨みに思っているとしたらそれも自然なことです。そこで北京政府へ抗議する代わりに、また反日デモを起こすかも知れません。尖閣諸島の問題は中国の国内問題でもあるのです。そのうち中国の過激分子が尖閣諸島に上陸して、占拠するか分かりません。それも自然の成り行きです。中国の社会には文化大革命時代の残酷な雰囲気をいまだに抱えているのです。それは習近平による粛清劇を見れば明らかです。
大東島には北大東島、南大東島、そして沖の大東島がありますが、日本はそれらを中国から守りきれるでしょうか?北方4島がロシアに実効支配されているように沖の大東島が中国に取られないようにするのも重要な外交政策と思います。
尖閣諸島問題が起きるとマスコミは感情的な怒りを煽りたてるだけです。何故中国はそのような問題を起こすのか考えません。
離れ島は尖閣諸島だけではありません。3つの大東島は安全なのでしょうか?
安倍総理の積極的平和主義や日米安保条約は日中問題にどのような影響があるのでしょうか?そのように総合的に考えた記事が新聞には少なすぎます。
中国の近代の歴史も考えた総合的な戦略を深めれば、対中外交において日本側が主導権を握れると信じています。皆さんのご意見を頂ければ嬉しく思います。
余談ながらこの文章は中国人にも是非、読んで貰いたいと思います。そして私の間違いをご指摘頂ければ大変嬉しく思います。(終り)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

川越藩の三富新田と薩摩芋で建てた江戸時代の大きな農家

2015年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム
農村風景は心を和ませてくれます。稲穂の香り、何処からとも流れてくる焚火の香りにはいつも懐かしい思いをします。それは美しい日本の原風景です。
農業をしたことの無い私はただ眺めるだけですが、何時もある疑問を考えています。
この美しい農村風景は何時、誰が、どのような努力をして作ったのでしょうか。
この疑問に明快に答えてくれる場所があります。それは昨日も行ってきた埼玉県の三芳町です。
埼玉県の指定旧跡になっている「三富新田」が現在は三芳町という名前になっているのです。その町の中心の通りを車で走っていると「さつま芋販売中」とか「本物の川越芋を味わって下さい」とかいう看板が幾つも出ています。そうですこの辺一体は薩摩芋の名産地なのです。
江戸時代の開発当初は水田が出来ないので苦労しました。しかし薩摩芋の導入によって成功した農村です。
その三芳町の中心部分に薩摩芋で財をなした江戸時代の農家が展示してあります。大きくで裕福そうな島田家です。
昨日撮って来た写真を示します。

上の写真のように非常に大きな農家です。

上の写真のように軒先が深くいろいろな道具が置いてあります。

上の写真は側面の様子です。

上の写真は現在の三富新田です。畑には里芋が生えていました。薩摩芋は収穫が終わって荒れた畑だけが広がっていました。

この花の写真は三芳町へ行く途中の道端で撮りました。
さてこの三芳町はどのように開拓され出来上がった町なのでしょうか?
元禄7年(1694年)に、この土地は、幕府評定所の判断で川越藩の領地になりました。
これにより当時の川越藩主柳沢吉保は新田開発を推進し、開発が行われたのです。
開発が始まってから2年後の元禄9年(1696年)に検地が行われ、上富91屋敷、中富40屋敷、下富49屋敷の合計180屋敷の新しい村々が人工的に出来上がったのです。これが三富新田です。「富」の由来は「豊かな村になるように」との古代中国の孔子の教えに基づくものと言われています。
余談になりますが柳沢吉保は私の山小屋のある山梨県北杜市柳沢の出身で江戸幕府で老中になった人です。
三富の地割は、水に乏しく栄養が少ないという厳しい自然条件を克服するためのいろいろな知恵が詰まっています。
例えば、屋敷の周りには、竹・カシ・ケヤキなどが植えられました。竹は農具や生活に使うものを作る竹細工の材料になります。カシは農具の柄になり、その実は飢餓のときの非常食になります。ケヤキは建材として大切に育てられました。これら屋敷林を育てたことにより、保水力が上がったと考えられています。
現在、三芳町に行くと江戸時代の欅が亭々と聳え、樹木の実に美しい町なのです。その樹木の景観に魅かれ何度も行っているうちに島田家の展示も見つけたのです。
この旧島田家住宅は江戸時代文化・文政期(1804~1829)に建築されたと考えられる茅葺屋根の民家住宅です。三富の開拓が、さつまいもの導入により豊かになったことを証明してくれる大型の家屋です。近郷農民の子弟を集めて寺子屋を開設していた時期もあるそうです。
場所は埼玉県入間郡三芳町上富1279-3(電話:049-258-0220)です。
アクセスは「三芳町旧島田家」を検索すると出ています。
考えてみると江戸時代は各藩が新田開発を盛んにした時代だったので全国各地に三芳町のような新しい農村が沢山あると思います。
皆様のお住まいの地方にはどのような新田開発の歴史があるでしょうか?
お知らせ頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)




この料理店を見るたびに賢治の「注文の多い料理店」を思い出す

2015年10月12日 | 日記・エッセイ・コラム
田圃の上の山林の境にこの料理店が建っています。もう随分前に都会から引っ越してきた夫婦がしている西洋料理の店です。

この料理店は私の山小屋の近所にあります。秋になるとその周囲で、ススキの穂が白くなり、コスモスやシオンが咲いています。ですから毎年、秋になると必ず写真を撮りに行きます。

上のような写真を撮りながら何故か、宮沢賢治の「注文の多い料理店」を思い出します。童話の料理店はもっと深い山の中にあるのですが。
「風の又三郎」や「銀河鉄道の夜」も思い出します。
このテラスという西洋料理店は「西洋料理店 山猫軒」とは違います。お客にいろいろ注文を出しません。
しかし何時もお客があまりいないので淋しいのです。つい賢治の作品を思い出します。
「注文の多い料理店」のあらすじは下のようなものです。
イギリス風の身なりで猟銃を構えた2人の青年紳士が山奥に狩猟にやってきたが、獲物を一つも得られないでいた。やがて山の空気はおどろおどろしさを増し、山の案内人が途中で姿を消し、連れていた猟犬が2匹とも恐ろしさに泡を吹いて死んでしまっても、彼らは「2千4百円の損害だ」、「2千8百円の損害だ」と、表向き金銭的な損失だけを気にする。しかし、山の異様な雰囲気には気付いたらしく、宿へ戻ろうとするが、山には一層強い風が吹き、木々がざわめいて、帰り道を見つけることができない。途方に暮れたとき、青年たちは西洋風の一軒家を発見する。そこには「西洋料理店 山猫軒」と記されており、2人は安堵して店内へと入っていく。 入ってみると、「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはごしょうちください。」という注意書きがあるのに気付く。これを2人は「はやっている料理店で、注文が多いために支度が手間取る」という風に解釈して扉を開けると、そこには「髪をとかして、履き物の泥を落とすこと」という旨の注意書きがあるだけだった。以後、扉を開けるごとに2人の前には注意書きが現れる。中には「金属製のものを全て外すこと」といった少し首をかしげる注意書きもあったが、「料理の中に電気を使用するものがあって危ないからだ」というように、2人はことごとく好意的に解釈して注意書きに従い、次々と扉を開けていく。
しかし、扉と注意書きの多さを2人がいぶかしんだ頃、
いろいろ注文が多くてうるさかつたでせう。お気の毒でした。
もうこれだけです。どうかからだ中に、壷の中の塩をたくさん
よくもみ込んでください。

という注意書きが現れ、二人は顔を見合わせ、これまでの注意書きの意図を察する。
以下省略。続きは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A8%E6%96%87%E3%81%AE%E5%A4%9A%E3%81%84%E6%96%99%E7%90%86%E5%BA%97にあります。
そしてこの山郷の風景を見ながら「風の又三郎」を思い出します。又三郎もこのような田舎に転校して来た不思議な少年でした。
夜になり星空の輝きを見ると「銀河鉄道の夜」を思い出します。その物語は水死した親友を探しにいくカンパネルラの幻想的な鉄道の旅です。不思議な乗客が次々現れては消えていきます。淋しい悲しい、そして美しい物語です。
毎年、秋になり山小屋に行くとこの風景を見て宮沢賢治のことをあれこれ想うのです。
私の年中行事の一つです。
皆様は宮沢賢治の作品がお好きでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====つい参考資料を追加したくなります=============
短編集『注文の多い料理店』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A8%E6%96%87%E3%81%AE%E5%A4%9A%E3%81%84%E6%96%99%E7%90%86%E5%BA%97より。
短編集としての『注文の多い料理店』は、1924年に、盛岡市の杜陵出版部と東京光原社を発売元として1000部が自費出版同様に出版された。発行人は、盛岡高等農林学校の1年後輩にあたる近森善一となっている。書名には「イーハトヴ童話」という副題がついている。岩手在住の図画教師だった菊池武雄が描いた挿絵が付された。定価が1円60銭と比較的高価だったためもあり、ほとんどが売れ残った(当時の映画入場料は30銭ほど)という。
収録作品は下記の9作品である。
『どんぐりと山猫』
『狼森と笊森、盗森(おいのもりとざるもり、ぬすともり)』
『注文の多い料理店』
『烏の北斗七星』
『水仙月の四日』
『山男の四月』
『かしわばやしの夜』
『月夜のでんしんばしら』
『鹿踊りのはじまり』
これに、自らの創作姿勢と生き方について言及したと見られる『序』が添えられている。いずれも、末尾に年月日が付されており、それによるとこれらの作品は1921年から翌年の前半にかけて完成している。思うように売れなかったことに加えて、作品の評判も芳しくなかったため、賢治はその後に構想を立てていた一連のイーハトヴ童話集の出版を取りやめてしまった。このため、賢治の生前に出版された彼の単行本は詩集『春と修羅』と本作品集の2冊のみである。以下省略。





曇り日の河口湖、西湖、精進湖に深まりゆく秋を訪ねて

2015年10月11日 | 写真
昨日は一日暗い曇り日でした。秋の気配が一段と濃くなったようです。
そこで思い立って富士五湖周辺の秋の風情を撮りに行くことにしました。
雲が富士山の遥か上空に広がっていて、一日中、黒い富士山が見えていました.

この写真は河口湖の西の岸辺から撮った富士山です。

この写真は河口湖の西岸にもう40年以上も静かに係留されているヨットです。メイン・セイルに新しいブルーのカバーがかけてあるので現在でも帆走しているようです。

この写真は西湖の東岸で車を岸辺まで入れることが出来るのでよく行く場所です。何時行っても人が少なく実に静かな場所です。岸に近づいて水の中を覗くと底まで見える透明な水が広がっています。

上の写真は精進湖から見た富士山です。ここも車を岸辺まで入れることが出来るのでよく行く場所です。

上は河口湖の湖畔にある黄葉したイチョウです。富士五湖の紅葉はまだ始まっていませんでした。このイチョウだけが黄葉していました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

江戸時代の農家(1)八王子千人同心の組頭の家の風景

2015年10月09日 | 写真
小金井公園の中にある「江戸東京たてもの園」には江戸時代の農家が3軒復元・展示してあります。
先ほど撮ってきた八王子千人同心の組頭の家の風景をまずご紹介いたします。なお組頭とは100人の郷士の頭です。
この千人同心は武士階級の一番下層の郷士です。武士であるので名字帯刀を許され、八王子に領地をもらい受け農業をしています。ですから住んでいる家は農家作りです。
この八王子同心は武田信玄の家臣たちを家康がかかえて甲州への防御と、後には日光東照宮の整備清掃、そして東照宮への参拝行列の足軽として奉仕する役目を果たします。
非常に面白い存在形態ですのでご興味のある方は末尾の参考資料をご覧下さい。
それでは八王子市追分町にあった江戸後期の組頭の家の写真をしめします。

写真が示すように少し豊かな農家と同じような家です。



格式が農民より高いので奥座敷には立派な床の間と違い戸棚があり、畳も敷いてあります。

炊事には囲炉裏を使わないで二連竈でしています。

竈のある台所から見ると左右に板敷の大きな部屋があり、その奥の左右に畳敷きの立派な部屋が三つあります。当時としてはかなり裕福な農家の作りになっています。
組頭は10人居て、その配下にはそれぞれ100人の郷士が居たのです。
組頭も1000人の郷士も平時は農業にいそしんでいたのです。
あまり学校では教えない江戸時代の歴史の一部なので少し詳しくご紹介いたしました。
===参考資料==============
(1)八王子千人同心とは?
八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)は、江戸幕府の職制のひとつで、武蔵国多摩郡八王子(現・東京都八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団のことである。その任務は甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持であった。 寛政12年集団で北海道・胆振の勇払などに移住し、苫小牧市、白糠町の基礎を作った。
徳川家康の江戸入府に伴い、1600年(慶長5年)に発足した。当初は代官頭大久保長安が統括した。 発足当時の状況について、徳川幕府の正史『徳川実紀』にはこう書かれている。 「(家康公は)江戸で長柄の槍を持つ中間を武州八王子で新規に五百人ばかり採用され、甲州の下級武士を首領とした。その理由は、八王子は武蔵と甲斐の境界なので、有事の際には小仏峠方面を守備させようとお考えになったからである。 同心どもは常々甲斐国の郡内へ往復して、絹や綿の類を始めとして甲斐の産物の行商を行い、江戸で売り歩くことを平常時の仕事にするようになされたのだ。」(現代語訳)

すなわち、千人同心は、甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などで組織された。甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは、武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためである。甲斐が天領に編入され、太平が続いて国境警備としての役割が薄れると、1652年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となった。江戸幕府では槍奉行配下の軍隊を持った。江戸中期以降は文武に励むものが多く、荻原重秀のような優秀な経済官僚や、昌平坂学問所で新編武蔵風土記稿の執筆に携わった人々、天然理心流の剣士などを輩出した。天然理心流は家元の近藤家が千人同心だったこともあり、組織内にある程度習うものもいた。

千人同心の配置された多摩郡はとかく徳川の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったとされる。この事から、千人同心の中から後の新選組に参加するものが複数名現れるに至った。
十組・各百人で編成され、各組には千人同心組頭が置かれ、旗本身分の八王子千人頭によって統率され、槍奉行の支配を受けた。千人頭は200~500石取りの旗本として遇され、組頭は御家人として遇され、禄高は10俵1人扶持~30俵1人扶持である。 笠間良彦著の江戸幕府役職集成によると五万石の大名が負担すべき軍役は非戦闘員である小荷駄隊なども含めて千四名であり、千名が所属する八王子千人同心は有力な戦闘力を有する部隊であった。 千人同心は警備を主任務とする軍事組織であり、同心たちは徳川将軍家直参の武士として禄を受け取ったが、その一方で平時は農耕に従事し、年貢も納める半士半農といった立場であった。この事から、無為徒食の普通の武士に比べて生業を持っているということで、太宰春台等の儒者からは武士の理想像として賞賛の対象となった。

八王子の甲州街道と陣馬街道の分岐点に広大な敷地が与えられた。現在の八王子市千人町に、千人頭の屋敷と千人同心の組屋敷があったといわれる。
以下省略しますが、詳細は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%8D%83%E4%BA%BA%E5%90%8C%E5%BF%83 にあります。
(2)郷士とは?人々の立場が流動的であった戦国時代が終わり、徳川幕府下で新しい階級制度(武士・百姓・町人、いわゆる士農工商)が形成される中、武士と農家の中間層に分類される層(地侍・土豪など)が在郷(城下でなく農村地帯に居住すること)する武士として扱われたもの。武士身分と同じく藩・幕府に士分として登録され、苗字帯刀の特権も与えられている。しばしば混同されるが、苗字帯刀を許されている層には郷士以外の階級(豪商・豪農・学者など)も含まれているため、「名字帯刀=郷士」という認識は誤りではないが正確でもない。

郷士は「(武士階級である以上、その特権として)苗字帯刀を許されている」いるのに対し、郷士以外は「(武士階級ではないが、特に働きがあったため)苗字帯刀を許されている」のである。名字帯刀が基本的に武士の特権であること、それが与えられることは名誉に違いはないが、武士身分と一緒になっている訳ではない。論者の中には名字帯刀に加えて知行を持つ事を郷士の条件として、「地頭帯刀」という用語を用いる場合もある。
郷士の例
1 十津川郷士
2 八王子千人同心
3 水戸郷士(水戸藩)
4 原方衆(米沢藩)
5 阿波郷士(徳島藩)
6 土佐郷士(土佐藩)
7 肥後郷士(熊本藩)
8 薩摩郷士(薩摩藩)

尚、詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E5%A3%ABに出ています。

東京都薬用植物園の花々の季節も間もなく終わります

2015年10月08日 | 写真
午後に青空に誘われて植物園に行きました車で25分です。
広い植物園にあんなに咲き乱れていた花々すっかり消えてしまっています。
花の季節も終わりに近づいてきました。
寂しい思いしながら咲き残った花の写真を惜しむように丁寧に撮ってきました。

上の写真はフジマメです。

上はサフランです。

上のの写真は八重のチョウセンアサガオです。

上はセージです。

上の写真はホトトギスです。
これらの花が散ると今年の花の季節も終わりなります。
植物園には爽快な秋風が寒いくらいに吹いていました。

鎌倉、円覚寺に遊び、江の島ヨットハーバーに寄ってきました

2015年10月07日 | 写真
今日は爽快な秋風が吹き素晴らしい晴天です。朝、9時に家内と家を出て中央道、圏央道を経て1時間30分で茅ヶ崎漁港脇の広い駐車場に着きました。

上の写真はその海岸から西の空に見えた富士山です。

上の写真は茅ケ崎海岸でサーフボードに立ち上がっている若者です。
久しぶりに広い海を眺め、しばし波の砕ける音に身を任せました。
その後は海を右に見ながら湘南海岸道路を走りました。
鎌倉を数か月前に訪れた時は建長寺に行きましたので今日は北鎌倉の円覚寺に遊びました。
その前に駅前の蕎麦屋「やま本」でザルとタヌキの昼食を摂りました。その駅前には昔からある稲荷寿司専門「光泉」があり、美味なので2折を注文してから円覚寺に遊びました。

上の写真は円覚寺の山門です。

上は境内にある茅葺きの庵です。

上の写真は境内にある古風な作りの塔頭です。
このように円覚寺には昔を偲ばせる古風で質素な庵があちこちにあるので心が落ち着きます。

上の写真は本堂の写真です。
1時間ほど円覚寺で遊んでからは鎌倉の中を回りました。
家内が鎌倉生まれで小学校まで通っていました。そこで六地蔵の傍にあった聖母幼稚園を探したり通っていた御成小学校の写真を撮りました。昔住んでいた家の近所も回りました。
その後は私が30年前に江の島のヨットスクールで訓練を受けいた場所に寄りました。

上の写真は江の島の遠景です。

上は江の島ヨットハーバーに係留したあるヨットの写真です。

上もその係留桟橋の並んでいるヨットの写真です。

そして上は陸置のヨットの写真です。30年前にここに通ってヨットの訓練を受けていた頃を思い出します。そしてヨットを一切止めてから丸4年になりますがヨットの姿を見ると血が騒ぎます。
帰りにもう一度茅ヶ崎海岸に下りて海とのお別れをしました。帰宅は2時50分でした。
心地よい秋風に誘われて円覚寺で遊び海とヨットの姿を見て、今日も一日が静かに暮れようとしています。明日も晴れますように祈りつつ。

ノーベル賞の大村博士が作った韮崎大村美術館に行ったこと

2015年10月07日 | 日記・エッセイ・コラム
今年の1月9日に大村智博士が韮崎市に2007年に寄贈した美術館に行ってきました。
1月12日まで開催中の森田元子絵画展を見に行ったのです。
その時、大村智博士の薬学における世界的な業績を説明した展示があり、その独創的な研究に感動しました。世界的な研究ですが、まさかノーベル賞を受賞するとは思いませんでした。
日本には実業家が作った美術館は沢山ありますが、学者が特許料で作った美術館は私は知りません。
大村さんは、韮崎の農家に生まれ、山梨大学を卒業した生粋の甲州育ちの方です。
山梨大学には昔、友人もいて何度も訪問した大学でした。その山梨大学からノーベル賞受賞者が出たのですから素晴らしいことです。地元の韮崎市の方々や山梨大学の方々の喜びが目に見えるようです。
本当におめでとう御座います。
私どもは韮崎市の隣の北杜市に山の小屋を40年間持っていて韮崎には何度も行きました。先週もカトリック韮崎教会のミサにあずかったばかりです。
その韮崎へ大村博士は数億円の私費を投じて作った美術館と温泉施設を寄贈したのです。
1月9日に森田元子絵画展を見に行った時、薬学者の大村さんが美術に深い造詣があることを知り、その幅広い才能に驚嘆したものでした。2階には鈴木信太郎の絵画も数多くあります。やはり穏やかな具象のものばかりです。この二人の画伯は家内が大好きなのでとてもうれしそうに観ていました。

それでは韮崎大村美術館について説明をいたします。

上の写真は八ヶ岳や甲斐駒岳や鳳凰三山の見渡せる眺望の良い場所に建っている美術館です。
大村さんは30代の頃、日本画家の野田九浦(きゅうほ)の掛け軸「芭蕉」に一目ぼれして購入したことをきっかけに美術に傾倒。美術館には自身で集めた絵画や陶芸品など約2000点が収蔵されているそうです。
天然有機化学者でありながら、その一方で大村さんは女子美術大学の理事長も務めています。
美術館の一階は常設展示として上村松園、三岸節子、片岡球子、堀文子ら女流作家の作品が展示されており、季節ごとに企画展が開催されます。二階は鈴木信太郎を中心とした男性作家の作品が展示されています。
二階に上がると、また島岡達三や浜田庄司らの陶器が展示されている展望の良い部屋があります。この2階のもう一つの部屋には大村さんが好きな鈴木信太郎の絵画24点や男性画家の作品が展示されています。

上の写真は二階の部屋から1月9に撮った八ヶ岳の眺望です。
この部屋からは更に茅ヶ岳、そして富士山のパノラマを望むことができます。
この美術館で1月12日まで開催中の森田元子絵画展を見に行ってきたのです。
森田元子の優しいタッチの油彩45点が並んでいました。性格の良さを感じさせる素直な絵画です。殆どが婦人像で、赤や緑などの明るい色彩は、見ていて楽しくなります。
森田元子は家内が好きな画家なのです。45枚の絵画を丁寧に見ていくと、その優しい色彩感覚に魅了されていきます。絵画では色彩も非常に重要なのだとあらためて理解したのです。

上の写真がこの展示会のポスターです。

上の写真は会場内の写真です。 出典は、http://tcstudio10.exblog.jp/iv/detail/index.asp… です。

上の写真は森田元子さんの絵画です。 出典は、http://www.art.pref.tochigi.lg.jp/…/backnum…/011021-j.htmlです。
最後にこの美術館を作った大村さんの文章の写真を下に示します。

読みずらい部分もありますが写真を拡大してお読みください。大村さんの人生にとって美術が如何に重要な役割を果たしたかがお分かりになると存じます。
この美術館は現在ノーベル賞受賞を祝って10月12日まで入場無料となっています。
場所は韮崎大村美術館を検索すると出てきます。広い無料駐車場もあります。
なお美術館の隣には天然掛け流しの湯「白山温泉」もあり日帰り入浴を楽しむこともできます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===================
(1)大村 智(おおむら さとし、1935年7月12日[1] - )は、日本の有機化学者。北里大学特別栄誉教授。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E6%99%BA
45年余に亘り独創的な探索系を構築し、微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を続け、これまでに類のない450種を超える新規化合物を発見した。

一方、それらに関する基礎から応用にわたる幅広い分野の研究を推進した。遺伝子操作による初めての新規化合物の創製、マクロライドを中心とした一連の生物有機化学的研究と有用化合物の創製、工業的にも重要な抗寄生虫抗生物質イベルメクチン生産菌の遺伝子解析など、いずれも世界に先駆けた研究であり、新しい研究領域を切り開いてきた。

発見した化合物のうち25種が医薬、動物薬、農薬、生命現象を解明するための研究用試薬として世界中で使われており、人類の健康と福祉の向上に寄与している。加えて100を超える化合物が有機合成化学のターゲットとなり、医学、生物学、化学をはじめ生命科学の広い分野の発展に多大な貢献をしている。

その中の抗寄生虫薬イベルメクチンは、熱帯地方の風土病オンコセルカ症(英語版)(河川盲目症)およびリンパ系フィラリア症に極めて優れた効果を示し、中南米・アフリカにおいて毎年約2億人余りの人々に投与され、これら感染症の撲滅に貢献している。さらにイベルメクチンは、世界中で年間3億人以上の人々が感染しながらそれまで治療薬のなかった疥癬症や沖縄地方や東南アジアの風土病である糞線虫症(英語版)の治療薬としても威力を発揮している。
(以下省略)
(2)森田元子 もりた-もとこ
https://kotobank.jp/…/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E5%85%83%E5%AD%90より。
1903-1969 昭和時代の洋画家。
明治36年2月11日生まれ。岡田三郎助に師事し,フランスに留学。昭和12年「聴音」,13年「麗日」で新文展に連続特選,35年「女」で日展文部大臣賞。新聞小説の挿絵もおおい。女子美大教授,日展審査員,光風会理事。昭和44年8月12日死去。66歳。東京出身。女子美専(現女子美大)卒。

 秋は喨々と空に鳴り・・・高村光太郎の世界

2015年10月06日 | 写真
秋の祈り          高村光太郎

 秋は喨喨と空に鳴り
空は水色、鳥が飛び
魂いななき
清浄の水こころに流れ
こころ眼をあけ
童子となる

多端粉雑の過去は眼の前に横はり
血脈をわれに送る
秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
地中の営みをみづから祝福し
わが一生の道程を胸せまつて思ひながめ
奮然としていのる
いのる言葉を知らず
涙いでて
光にうたれ
木の葉の散りしくを見
獣のキキとして奔るを見
飛ぶ雲と風に吹かれるを庭前の草とを見
かくの如き因果歴歴の律を見て
こころは強い恩愛を感じ
又止みがたい責めを思ひ
堪へがたく
よろこびとさびしさとおそろしさとに跪く
いのる言葉を知らず
ただわれは空を仰いでいのる
空は水色
秋は喨喨と空に鳴る
 
添付の写真は10月4日(日曜日)山梨県甲斐駒岳の空を撮ったものです。





上の写真の背景は八ヶ岳です。



秋が深まりゆく山郷の風景の写真を撮ってきました

2015年10月05日 | 写真
昨日、午後に家を出て甲斐駒の山麓の小屋に泊まってきました。
山小屋は冷え込み、薪ストーブが楽しかったです。

今朝は清春美術館近辺に遊び、「八ヶ岳の風」というレストランで昼食をとりました。

秋が深まりゆく山郷の風景の写真をお送りいたします。一部の写真は家内が撮りました。 写真をお楽しみいただけたら嬉しく思います





















横山美知彦著、「ある幼な友達との惜別」

2015年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム
 終戦の前後に家内は群馬県の山里の下仁田町に疎開していました。その縁で私も何度か下仁田を訪ねたことがあります。
上毛三山の妙義山の南麓にある本当に静かな所です。現在の下仁田町は昔の日本そのままのようなたたずまいです。
横山美知彦さんは家内が疎開した時の小学校で同級生でした。
その横山さんがときどき山里に暮らす四季折々の随筆や写真を送って下さいます。 今日は先週の末に、横山さんから送って頂いた文章をご紹介いたします。
写真は下仁田町です。
====横山美知彦著、「ある幼な友達との惜別」=======
平成27年7月、例年より早目に梅雨が明けて、夏の日差しが照りつける季節に入った24日、掛川正弘君が亡くなった。享年78歳、数年の闘病生活の末だった。彼とは小学校に入る以前からの友だった。
昭和18年秋、東京板橋に家族五人で住んでいた私は太平洋戦争が増々激しくなり、既に東京上空に米軍の爆撃機が襲来を始めていた様相を父が察知して、早めに田舎への引き揚げを考え、下仁田仲町内に家を確保し、引っ越しして来たのだが、都会の建物と違い家が広すぎた。  
数か月後、小学校裏に手ごろの家を見つけ、二軒長屋の東側の八畳に六畳、三畳ほどの板の間に台所の付いた家を借り、生活が始まった。その後二人の弟、妹が生まれ家族は七人となった。
 そこは西牧川が目の前を流れており、北側の前方に妙義山を眺める事の出来る絶景な場所だった。私は高校を卒業して都会に出るまでの約12年間を過ごした。

掛川正弘君(私はマーちゃんと呼んでいた)は、兄弟の多かった(8人兄弟)中の末子で、下仁田町内では珍しい農家であり、母親は「蚕」を飼育し、その繭から糸を紡いで「機(はた)」を操り立派な絹の反物を完成させていた。
マーちゃんの家は、正確には家畜小屋を除いて三棟の建物があり、農家本来の役をそれぞれ果たしていた。
一番古い昭和の初めからの建物は、入り口が東向きで、広い庭を隔てて新しい母屋が有り、入り口は古い建物から見ると北側で、建物の左側やや奥まった先に「蚕家(かいこや)」があり、二階は「蚕」を飼育する本来の「蚕家」で、一階は入った所に「機織り機」が据え付けてあった。

古い建物は、私の記憶では入り口を入るとやや広い土間があり、上がり框(かまち)の先の「囲炉裏(いろり)」が日夜(にちや)火を絶やすことなくゆっくり燃えており、鉄瓶が「じざい鍵」に吊るされ湯を滾(たぎ)らせており、常に家人の口をうるおすお茶の準備が備わっていた、そんな記憶がある。
「囲炉裏」の右先は厨房と云うか昔風の流し場と泥に稲わらを加えて練りあげて家人が作った竈(かまど)があった。

家族の多かった掛川家の日常の食事の世話を一手に引き受けていたのは、二番目の姉(残念ながら名前を忘れてしまった)で私が遊びに行くと必ず作り置きの何かを手に握らせてくれた。
特に印象にあるのは自家製の「味噌」を加え、小麦粉に重曹を入れて「囲炉裏」に焙烙(ほうろく)を乗せ、その上で焼いた「焼きもち」だった。これは旨かった。
 私にとって戦後の物のない時分のこの食べ物は一生記憶から遠ざかることのない最たるものだった。
掛川家の庭の周辺には、「梅」「ぐみ」「柿」の木があり、他に「こんめ」(小梅ではなく、「さくらんぼ」より小ぶりの甘い赤い実をつける木)の木があり、出来秋には、その木によじ登って赤く熟した実を口に頬張るのが楽しみだった。「ぐみ」の実はやや渋みがあったが、これも子供にとっては楽しみの木の味だった。
  
春、秋には蚕を育て、桑の葉を「蚕家(かいこや)」に運ぶ手伝いを上の兄達がしていた。蚕(下仁田地区では親しみをこめて<おこさん>と呼んでいた。)は卵から蛾(が)、蛹(さなぎ)、幼虫となり、その幼虫が桑の葉を思う存分た食べ、あんなに小さな生き物から、あの繭が出来るのかと不思議に思ったのが蚕を最初に見た時の印象である。蚕は「蚕(かいこ)籠(かご)」(畳一畳ほどの竹で編まれた籠を何枚も使う)にいっぱいに撒かれた桑の葉をそれは感心するほどよく食べる。静かに耳を立てると他では絶対に経験出来ない、神秘的な音を立てながら昼夜関係なく彼らは桑の葉を食べる。「もぞもぞ」か「さくさく」か他に例えを探せない音が聞こえるのだ。70歳を過ぎた現在でも私の耳の奥に残っている。
 桑の葉を大量に食べた蚕は、やがて身体の色が白色から透明に近い色(?)に変わる。触ると「マシュマロ」の様な感触だ。此の頃になると口から糸を出す様になり、繭になる時期も近い状態なのだ。
 家人はそれを経験から悟り、彼らが糸を吐き出し繭にしやすくさせるべく「まぶし」(蚕の家=何度も使える段ボール等で作ったもの)を設置する。
 「まぶし」に家人が手で蚕を適当に静かに置いてやると、不思議にそれぞれが我が家を見つけ、糸を吐き出し繭を作る。卵が生えてから25日前後で蚕は自分の吐き出した糸の中に埋もれてしまう。
 私も毎日見ていたわけではないので、詳しくは知る由もないが、完成された様子を家人が確認して、ひとつひとつ丁寧に「まぶし」から取り外し一か所に集める。きれいな光沢のある繭が山の如く積まれる。
機械での作業と違い各農家での手作業であり、出来上がった時の喜びは格別であったに違いない。昔は多かれ少なかれこの様な作業で繭を作り出荷したり絹織物を家で作っていたのだ。
 明治5年、富岡製糸場の様な近代的な大量生産の可能な工場によって生産されて行くのだが、その元は各農家の弛まぬ努力によって受け継がれて来たこと、貴重なものである。終戦後も農家では蚕を飼い、絹織物の製作や、国策の一端の外貨獲得に尽力して来た。これは70年前の記憶を辿ってまとめたもので、違いや誤りがあるかと思うが容赦願いたい。
そんなわけで「マーちゃん」も家族の日常の行動を目にして手伝いをして来たが、中学卒業後直ぐに上京し、田舎の親戚の伝手(つて)で池上本門寺の近くの「こんにゃく」の製造、通称「こんにゃくのねり屋」に就職した。彼にとってこれが都会での生活の一歩だった。その後は盆、暮れ位に帰郷した時に顔を合わす程度で日常は同じ都会に居ても会う機会は殆どなかった。
彼は辛抱強く「こんにゃくのねり屋」の仕事に精を出し、その後座間市内に土地を買い自営を始める。真面目な性格であったこと、田舎から嫁を貰い、順調に上がって行き、神奈川県の蒟蒻組合の役員になるまでに成功した。 
平成に入り50歳を過ぎた頃から体に異常をきたし幾つかの「癌」の手術をして何とか頑張って来た。息子が二人居たが「ねり屋」は継がず、仕事は一代で終わると同時に、息子の商売の「バイク」関係の店に自宅を鞍替えした様だ。
二年前に自動車の免許も返上し、帰郷はバス、電車を乗り継いで奥さんと一緒に楽しそうに帰って来た。そして今年5月に夫婦で来たのが最後となってしまった。
 15歳で田舎を出て、63年間の都会生活を満喫し、7月24日神奈川県内の掛りつけの病院で78年の生涯を終わった。
不思議と人間は、特に地方出身者は、場所が代わっても自然に近くに居を構える様だ。近くに数人同窓生が居り、すぐに田舎の同窓生に連絡があった。
数年前まで大和市に居て現在富岡市に転居しているA君からの電話で、告別式の行われる葬儀場(大和市)に同行し焼香させてもらった。
棺に収まった彼はきれいな顔をしていた。自然に「マーちゃん!」と声が出た。
昔、川原で遊んだ幼い頃を思い出しながらのことでもあり、それ以外は声にならない永遠の別れの瞬間でもあった。(平成27年7月28日)



仏教とキリスト教の違う部分の一例

2015年10月04日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日です。朝の10時からのミサに行きます。先週の日曜日は旅先でカトリック韮崎教会の9時30分からのミサにあずかりました。そんなことを思い出しています。
さて日曜日の朝は宗教に関する短い記事を掲載することにしていますので今日も一つだけ出します。短いでのご笑覧頂けたら幸いです。
お祈りというものについて仏教の場合とキリスト教の場合を比較してみようと思います。
お祈りは個人の心でするものなのでその内容は知ることが出来ません。
従って神社仏閣での祈りと教会での祈りの比較は非常に難しいテーマです。
しかし、それをあえて比較してみることは仏教とキリスト教への理解の助けになるのではないでしょうか?
神社に行った時、あなたは何を祈るでしょうか?きっと自分と家族の無病息災と平穏な暮らしを願って祈るでしょう。
お寺で法事があって僧侶がお経を唱えている間、多くの人は無病息災とご先祖様への感謝を祈っています。ご先祖さまの冥福をお釈迦さまへお願いして祈っています。
一方キリスト教の教会では多くの日本人は自分と家族の無病息災と平和をお祈りしています。そして私はさらにご先祖さまの天国での幸を祈っています。
ここまでは教会での祈りと神社やお寺でのお祈りと同じです。
非常に違う点はキリスト教では神やイエス様の愛が自分で体験出来るように祈っています。神父様や牧師さまへ神の愛が豊かにありますようにと祈っています。
お寺で私はお釈迦様の慈悲が僧侶たちへ豊かにありますようにとは祈りません。
この違いはイエス様の教えとお釈迦様の教えの違いを理解する一つの鍵になると思います。
イエス様は私の教えを守り、私について来なさいといいました。そうすれば人は幸せになるのです。
お釈迦様は全てのことは空(くう)ですと教えました。空(くう)こそ此の世の全てものの本質なのですと教えました。それを自分の力で悟れと教えました。そうすれば人は幸せになるのです。お釈迦さまは自分について来なさいとは言いません。
この二つの宗教の教義の違いについてこんなに簡単に書いたら間違いになるでしょう。しかしこれは違いの一部を示していると考えています。全てではありません。
このように人々の神社仏閣での祈りと教会での祈りは非常に似ていますが、教義が違うので非常に違う部分もあるのです。
今日はここで止めて写真を3枚お送りします。一番目の写真は福井県にある曹洞宗の本山の永平寺です。二番目の写真はその本堂へ導いている長い階段の写真です。多くの人がこの階段で宗教的感動を覚えます。ですから多く人々がこの階段の写真をネットに発表しています。三番目の写真は横浜のカトリック元町教会です。幕末にフランス人神父の建てた教会をその後改築したものです。函館のカトリック元町教会とともに東日本では最も古い教会です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)