後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本歯科大学口腔リハビリステーション多摩クリニックと菊谷武教授を讃える

2017年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
高齢になるといろいろな病気と仲良くなります。多くの高齢者は意外にかなり健康です。毎日爽快なので幸せに暮らしています。しかし見かけによらず、幾つもの病気と共存共栄をしています。
自慢ではありませんが、私も幾つかの病気とお付き合いを楽しんでいます。
その一つに小脳脊髄変性症という難病があります。もう十年以上まえからのお付き合いです。
筋肉の動きをコントロールする小脳が委縮して行く一種の病気です。歩くとフラフラします。転びやすくなります。ろれつが回らず言葉が不明瞭になります。治療法が無いので難病の指定されています。従って介護保険の適用を受けています。
先月、市役所の福祉課から口腔リハビリを9回だけ無料で受けてみませんかという話がありました。
毎日暇なので断る理由もありません。行ってみるとそれはJR東小金井の駅前にある立派な建物です。
駐車場があるというので毎週一回、車の運転を楽しみながらもう4回も行きました。
そこの名前は、長くて恐縮ですが、「日本歯科大学口腔リハビリステーション多摩クリニック」と言います。
初めて行った時いろいろ検査をしてくれたのが院長の菊谷 武教授でした。
菊谷先生は情熱的です。眼光鋭く独創的な考えの持主であることがすぐに分かりました。
歯学の新しい分野の口腔機能の研究分野を切り開き日本の歯学学会をグイグイ引っ張っているタイプの先生のようでした。
私は昔大学で働いていたので数多くの学者に会ったことがあります。ですからお会いしただけでどのようなタイプの学者なのかがある程度分かるのです。
帰宅してから菊谷先生のことをいろいろ調べました。私の想像は正しかったのです。
高齢者の口腔機能を向上するリハビリの分野で有名な先生でした。日本歯科大学で口腔機能の新しい教育コースの推進に努力し、多摩クリニックの創設をし、その院長をしているようです。口腔機能の改善に関する分かり易い本も多数出版なさっている有名な方です。
ブログに記事として多摩クリニックを紹介したいのですがと相談しましたところ快く許して下さいました。
そうして、2017年2月23日の週刊文春の「舌を鍛えて『寝たきり』予防!」と題する記事が掲載されていると教えてくれました。
そこには菊谷先生の口腔リハリビの平易な説明があったのです。
さて何故このような記事を書く気になった理由を書かせて下さい。
その理由は毎回、実際にリハリビの指導をいてくれた若い歯科医の岩渕 信先生の人柄に感動したからです。指導が懇切丁寧な上に足もとの危ない私の手を取ったり支えたりしてくれるのです。一般に若者は汚く老いた高齢者に触りたがらないものです。しかし岩渕さんは違います。私の優しい孫と同じです。
ですから全てを岩渕さんの言う通りにすることにしたのです。
そうしたた宿題をくれたのです。毎日3回、決まった舌の運動と発音演習を行うのです。それは2017年2月23日号の週刊文春の「舌を鍛えて『寝たきり』予防!」の39ページに掲載されています。
週刊文春の記事を見て、ウンこれは簡単だ!と始める人は多いと思います。しかしそれを1年以上継続する人は果たして何人いるでしょうか?私は1年間くらいは継続することにしました。岩渕先生のお顔を思い出すとしたくなるのです。不思議です。
実は舌の運動でロレツが回るようになるとは信じていません。小脳脊髄変性症という不治の病気が舌の運動で治る筈などありません。
しかし舌の運動を毎日3週間して驚くべき効果があったのです。
舌で上顎や歯茎を押し上げる運動をしていると唾が多量に出て口腔内を洗浄してくれます。それが歯痛の予防になったようです。
老人性の歯痛が一切なくなったので残ったすべての歯で食物を噛むようになったのです。固い肉でもドンドン食べられるようになったのです。食事が楽しくなったのです。
意外や意外。口腔リハビリなんて軽く考えてはいけなかったのです。
そのことに気付かせてくれたのが岩渕先生なのです。その岩渕先生の師匠が菊谷 武教授なのです。
ですからここに「日本歯科大学口腔リハビリステーション多摩クリニックと菊谷 武教授を讃える」という記事を掲載したのです。

それはそれとして、毎日3回、決まった舌の運動と発音演習を行ってみませんか?必ずや現在以上に気分爽快になります。

1番目の写真は「日本歯科大学口腔リハビリステーション多摩クリニック」の建物です。

2番目の写真は韓国からの研修医の囲まれた菊谷 武教授です。

3番目の写真は担当してくれている歯科医の岩渕 信先生です。
===参考資料==========================
日本歯科大学口腔リはビリステーション多摩クリニック
http://dent-hosp.ndu.ac.jp/nduhosp/tama-clinic/index.html

多摩クリニック院長、菊谷 武教授について;

昭和38年11月26日 生 東京都出身

日本歯科大学大学院生命歯学研究科臨床口腔機能学 教授 、歯学博士
附属病院 口腔介護・リハビリテーションセンター センター長

日本歯科大学大学院生命歯学研究科 臨床口腔機能学 教授 
日本歯科大学附属病院 口腔介護・リハビリテーションセンター センター長を務める。

平成元年 歯学部附属病院高齢者歯科診療科入局
平成13年10月より 附属病院 口腔介護・リハビリテーションセンター センター長 
平成17年4月より助教授
平成19年4月より准教授
平成22年3月 東京医科大学兼任准教授
平成22年4月 教授
平成22年6月 大学院生命歯学研究科臨床口腔機能学 教授
平成24年10月 口腔リハビリテーション多摩クリニック 院長

日本老年歯科医学会 指導医、認定医
日本障害者歯科学会 指導医、認定医
日本摂食・嚥下リハビリテーション学会 認定士


所属学会
日本老年歯科医学会 理事、評議員
日本摂食・嚥下リハビリテーション学会 理事、評議員
日本障害者歯科学会 評議員

著書 
『口腔機能評価NAVI』医歯薬出版
『在宅医療の技とこころ“口から食べる”を支える ”- 在宅でみる摂食・嚥下障害,口腔ケア-』南山堂
『図解 介護のための口腔ケア』講談社
その他、多数。

「パリの寸描、その哀歓(12)規則に反して給食を申し込む」

2017年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。
第12回は小学生の息子の給食を申し込んだ時の話です。
共働きでないので規則では給食は許されません。しかしその時の校長と市役所の担当者の対応が面白いのです。
何というか、いかにもフランスらしい融通無碍なやり方で給食が許可になりました。子供が喜んで給食を食べられるようになりました。
これが、規則を厳守するドイツではこうは行かなかったと思います。フランス文化がドイツや他の国の文化と非常に違うことを暗示している興味深い随筆です。
挿し絵のポール・ゴーギャンの油彩と共にフランス文化の一端をお楽しみ下さい。
===「パリの寸描、その哀歓(12)給食を申し込む」Esu Kei著======
 長男は1年生から3年生に進級した時に、学校で給食を食べられるようにと考えた。それは一年生の担任だったアリワット先生の言葉がきっかけだった。「外国語が母国の場合、高学年になるにつれてフランス語のハンディは大きくなります。」という言葉だった。長男が家で昼食を食べなくても、幼稚園に行っている次男も夫も家で昼食をとるので、主婦としての手間は同じことなのだ。ただ、勉強のレベルがだんだん上がってくると、フランス語の語彙の貧しさは勉強のハンディになる。子どもの頭には日本語が第一の言葉として刷り込まれている。家では家族で日本語で話している。読む本はほとんど日本語である。私たちは敢えて日本語を重視してきた。日本人として、子ども達の文化の源に日本語が揺るぎなく入ることが大事だと思われた。それでも、3年生になって、もう日本語がしっかり入っているということ、しばらくはフランスの学校でやっていかなければならないということから考えてフランス語の理解をと思ったのだ。勉強のできる子である必要はないが、勉強についていけなければ子どももつらいだろう。
私が働いていないので、給食は食べられないのかどうか、もう一度確認しようと校長先生に面会を申し込んだ。昼食に帰って日本語の時間が割り込むことで、フランス語の進歩が阻害されると思うという私の考えに、校長先生も同感だと言われた。「私が許すことはできないので、市の教育課に行って相談してごらんなさい。校長の考えも同じだと言っていいですよ。」と言ってくださった。早速市役所に行って相談した。女性職員の「そういうことなら、給食を食べられるようにしましょう。」の一言であっさり許可になった、と思ったらそのあとの画策があった。「給食は両親共働きの家庭の子どものためのものと決められているのです。あなたがご主人の会社で働いていることにしてはどうでしょう。それが一番簡単で早いやり方です。」「私は労働許可証を持っていないけれど、そういう届けを出して大丈夫でしょうか?夫にも影響したりしませんか?」「これは教育課だけの問題ですから、ほかに漏れる心配はありません。子どもの教育を真面目に考えてすることです。それに実際悪いことをするわけでもないし、フランス人の労働市場を奪う訳でもないのですから心配は無用です。」ということで、私が夫の会社で通訳として働き、2000フランの給料を稼いでいるという筋書きを彼女は提案し、私がそれでいいと言うと書類に書き入れてくれた。給食費は家庭の収入によって7段階に分かれているが、日本人は満額払うので、税金に負担をかけることもない。これで解決。夫に話すと「フランスらしくいい加減だなぁ。日仏の通訳なら、日本人にしかできないからということで闇労働にはならないよ。英仏の通訳なんかはバレるとまずい」と笑っている。「私が英語のえの字もできないの知ってるでしょ」それにしてもイイ加減はいい(良い)加減だなぁと思う。
ただ、ずっと後になってちょっと気になることもあった。たとえば我が家の収入が最低の給食費しか(最低とは無償と言うことだろうか)払えなかったら同じ解決方法を提案されただろうかとちょっと疑問が残る。というのは4年生で同級だったカルロス君は昼に両親も誰もいない家に一人で帰ってパンを食べて戻ってくるという。昼の送り迎えもないようだ。おそらくはお母さんが働いているという証明を提出できない事情があるのだろう。こういう子どもにこそ給食が出されなければいけないと思うのだが…(続く)


今日の挿し絵代わりの写真はポール・ゴーギャンの油彩です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン( Eugène Henri Paul Gauguin 1848年 - 1903年)は、フランスのポスト印象派の画家。
1888年、ゴーギャンは、南仏アルルに移っていたゴッホの「黄色い家」で、9週間にわたる共同生活を送った。しかし、2人の関係は次第に悪化し、ゴーギャンはここを去ることとした。
12月23日の夜、ゴッホが耳を切る事件が発生した。ゴーギャンの後年の回想によると、ゴッホがゴーギャンに対しカミソリを持って向かってくるという出来事があり、翌日、ゴッホはアルルの病院に送られ、ゴーギャンはアルルを去った。
2人はその後二度と会うことはなかったが、手紙のやり取りは続け、ゴーギャンは、1890年、アントウェルペンにアトリエを設けようという提案までしている。
1890年までには、ゴーギャンは、次の旅行先としてタヒチを思い描いていた。1891年2月にパリのオテル・ドゥルオーで行った売立てが成功し、旅行資金ができた。
コペンハーゲンの妻と子どもたちのもとを訪れてから(これが最後に会う機会となった)、その年の4月1日、出航した。
その目的は、ヨーロッパ文明と「人工的・因習的な何もかも」からの脱出であった。とはいえ、彼は、これまで集めた写真や素描や版画を携えることは忘れなかった。
タヒチでの最初の3週間は、植民地の首都で西欧化の進んだパペーテで過ごした。パペーテでレジャーを楽しむ金もなかったので、およそ45キロメートル離れたパプアーリにアトリエを構えることにして、自分で竹の小屋を建てた。ここで、タヒチ時代で最も評価の高い作品を描いている。
ゴーギャンは、タヒチの古い習俗に関する本を読み、アリオイという独自の共同体やオロ (神)についての解説に惹きつけられた。そして、想像に基づいて、絵や木彫りの彫刻を制作した。・・・・
以下は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%B3 にあります。

協調主義を強要する教育の弊害(2)人権意識の無い人間の群れ

2017年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人には人権意識があまり無いように私は感じています。戦後、マッカーサーのくれた憲法には「基本的人権の尊重」が格調高く謳われていいましたが生きることに必死だった当時の日本人にとっては馬耳東風でした。そして豊かになった現在でも日本では人権が軽ろんじられています。
その原因の一つに日本の学校教育があると考えられます。その理由で「協調主義を強要する教育の弊害」という連載を書き進めています。
第2回の今日は昨日の記事に対する3つのコメントをご紹介いたします。

まずFace Book で加治 敏男さんから頂いたコメントです。
(1) 後藤さんの日本の学校教育への問題提起は大変興味深いものです。 
運動会、学芸会、遠足などの授業(行事)は協調することを学ぶととされますが、どう見ても協調を強制している様子です。
このような教育では協調性のない子供は、発達障害でなくても差別されます。いじめの対象にもなりがちです。
このような教育で成人した人は、他人の苦しみや悲しみが分らない人になります。職場でも、いじめや差別をする人になってしまいます。この協調性の問題は職場だけでなく、退職した高齢者になってもついて回ります。老境が幸せでなくなる可能性さえあるのです。

次はフランス人と結婚し、子供さんやお孫さんの学校教育をフランスで体験したMotoko Boutdumonde さんという日本女性の方からのコメントです。
(2)フランスの学校制度の小学校では、多くの場合、担当の先生のスキルに依存しているところがあります。
担当の先生が音楽が出来れば音楽も授業になりますし、スポーツ嫌いの先生のクラスだと体操の時間はありません。
しかし、私の住んでいる町の小学校では、1、2年生はプールで水泳を習い、そのあとはオプティミストという小さなヨットを海で操るようなことはやっていましたよ。
図工のようなものは、父の日、母の日のプレゼントのを作るためにはやっています。
そもそも小学校には特に日本のように時間割がないのです。時間割が初めて出て来るのは中学校になってからです。小学校は5年制なので、中学は4年あります。
学校以外でのスポーツや芸術は、小さな町のクラブなので、結局は同級生や同じ学校の生徒に会うことは多いですね。パリの様な大きな町だったらどこで何をするかのチョイスは多いですから小さな町の事情とはちょっと違います。
何歳で、例えばスポーツを始めるかによって同じ年、同じ学年でもレベルが違うので、上級生も同級生も下級生も皆友達になるので、先輩・後輩という観念は少ないです。
私の子供達や孫たちの学校では、小学校時代は学年末、つまり6月に学園会みたいなのがありました。
つまり、小学校では学校や担任の先生によって大きな違いがあるというわけです。しかしフランス語や算数のような主要科目はしっかり教えています。
中学以降は「課外活動」というのが無いくらいで、後はそれほど日本とは変わりません。でも、科目によって教室が変わるので、やたらに重いカバンを持ってその度に移動します。国が違うと学校のシステムも変わりますね。

3番目のコメントはイギリスの学校で子供さんを育てたMionFさんという女性の方から頂いたコメントです。
(3)学校と言うのは不思議な場所です。不登校や引きこもりをする子はもちろん少数ですから、そんな子達こそ異常だ、何か問題がある、と言う見方もありますが、そもそも毎日ハッピーに問題なく学校に通う子供の方がおかしいんじゃない?と言う考え方もできませんか? 発達障害があってもなくても学校と言う集団生活にうまくはまれない子達の方が、感情面では成長が早くてて大人だったりすることもあります。知能指数(IQ)が高い場合もありますよね。
そんな事実があるにもかかわらず、日本の学校の集団教育にはまらない子ども達は恐ろしく不幸で混迷した学校生活を送ることになります。
日本にいる姪っ子は中学で不登校になりましたが、その子を見てそう思いました。私から見れば、それはひとえに発達障害を持つ子どもの人権が確立されていないからなのです。
しかし日本から出たことのない妹にはそれがわかりません。その打開策を求めて大変な苦しみを味わう事になったのです。本当は妹よりも日本の社会に原因があるのです。その日本の学校の集団教育を正せば、問題は霧消すると思います。
一言で申しますと、日本で発達障害のある子どもは不運で、イギリスのそういう子達は大変幸運だと言うことです。第一ひとクラスに30人もぶちこんで、補助の先生もつけずに、いつも忙しいと言って余裕のない日本の学校の先生の元で、そんな子が伸びていくなんて最初から無理です。
イギリスでは、日本みたいに公立の小中学校ならどれを選んでも大差なし、と言うわけではありません。この学校はどうかな、と思ったら親は校長先生に面会を申し込みます。校長は必ず会います。校長の理念で学校のカラーが全く違ってくるのです。
カリキュラム的には大差なくても、全人格教育のありようがBehavioral problemsやLearning difficultyを持った子には大きな違いをもたらします。
校長と面と向かって話をし、「この校長ダメだな」と思ったらどれほど設備が整っていても、進学校でも、まず親は入れません。自分の子は、他の子とは違うのです。自分の子に最適の学校を選ぶことは親の最大の責任です。集団になじめないような子であればなおさらです。ただ親が好きなだけリサーチしてこれと言う小中学校を選ぶ、そういう土壌が日本にあるのか疑問です。
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私にはつけ加えることは一言もありません。皆無です。

しかし海外に駐在している日本人には2種類があることだけは是非指摘させて下さい。
欧米の学校は日本の大学受験に必要な教育をしないので文科省の管理運営している日本人学校に通学させる人と、欧米の現地の学校に通学させる人の2種類がいる事実です。
どちらでも良いことですが私は現地の学校に通学させる人の方を尊敬します。それは心豊かな人なのです。

今日の挿し絵代わりの写真は最近撮った梅の花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「今日の日記、梅欅庵に抹茶を楽しみに行きました」

2017年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は府中の郷土の森公園の梅祭りです。公園内の茶室、梅欅庵へ抹茶を頂きに行きました。家内が白梅の柄の和服を着て久しぶりに茶室に座って楽しそうでした。
1番目の写真は梅欅庵の庭の白梅です。
2番目の写真は梅欅庵への入り口です。                    
3番目の写真は梅欅庵への入り口で家内の紺地に白梅の柄の和服が写っています。
4番目の写真は梅欅庵の庭です。背広を着た小生が杖をついて歩いています。
5番目の写真は公園内の満開の梅の写真です。
公園は「梅祭り」なので混んでいましたが、みんなが楽しそうに梅を眺めていました。のんびりとした温かい午後でした。









協調主義を強要する教育の弊害(1)運動会の廃止を!

2017年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム
今日から「協調主義を強要する教育の弊害」と題する連載をいたします。
日本の教育が少しでも改善されるような問題提起です。
問題提起なので賛否両論があるのが自然です。コメントを歓迎いたします。

今日の趣旨は学校では国語、算数、理科、歴史、地理以外の科目は教えない方が良いという提案です。
そして学芸会や修学旅行や運動会などといった学校行事は一切止めるべきだという問題提起なのです。
日本の学校は協調主義を強要するあまり発達障害を持つ子供の人権を踏みにじっている恐れがあるのです。発達障害を持つ子供だけではありません。いろいろな意味でのマイノリティの人権が軽視されているのです。学校が地獄になっているのです。
この書き方に反発される方は以下のフランスの小学校の実態を書いた小文を読んでください。。

「パリの寸描、その哀歓(10)パリの小学生の生活」(2月9日掲載記事の抜粋)
・・・「学校行事」
 一年が経過し、先生と話したり、子どもの友達を通じてお母さんたちともそこそこ付き合ううちに、いろいろなことが分かってきた。日本の学校では当たり前だと思っていることが、なんとも不思議なことが沢山あるのです。例えば学校行事が少ないことだ。公立の小学校ではどこも同じなのかどうかもわからない。各学校で自由なやりかたをゆるされているところもあるような気がする。少なくとも息子の入った小学校では、遠足や運動会、学芸会と言ったものはなく、親の参観日もなかった。息子のクラスでは一度動物園に行ったが、遠足のようにお弁当やお菓子持って行くわけではなく、バスで午後の半日を動物園見学に行くのだ。前以て親に知らされることもなく、息子から「来週動物園に行くことになったよ」と聞かされただけである。それでも普段と違うイベントを子どもたちは楽しんだことだろう。ルーブルや近代美術館では、時々学校からの見学の子ども達に出会うことがあったから、校外行事が全くないわけではないのだろうが、小学一年生ではまだ早い。学年が進んだら何かあるのかもしれない。行事ばかりではない。そもそも、体育とか、音楽、図工、家庭科と言った授業はない。第一設備もない。スポーツ、芸術などは、フランスでは各家庭で楽しむことで、学校の集団教育の中で教えることではないらしい。教室以外の設備は、給食室と台所があるらしい。給食は給食業者が各学校に昼前に車で配っているのを見かける。パンを切ったり、配膳したりするのは学校でするらしい。朝9時ごろに授業は始まり、昼休みを挟んで学校が終わるのは5時…何をそんなに勉強しているのだろう。
もっとも水曜日には各地区の学校とは別の施設で、“スポーツ & レジャー”という自由な活動があり、スポーツ(サッカー、バスケットボール、体操、フェンシング、そのほか)や図工(絵画、焼き物、工作、手芸)そのほか好きなものを選んで、指導者もついて、楽しんだり、技術を磨いたりする。僅かな1回分の給食費を払って午後5時まで思い思いに過ごすことができる。参加は全く自由だが、学校ではできない体育、図工の経験がここで補えるし、共働きの家庭にとっては、子どもを預かってくれる場としてなくてはならないシステムなのだ。我が家では日本語学級が水曜日だったので、この活動には参加せず、水曜日の午後は日本語の後で、同じ建物の中にあった柔道のクラブに通っていた。

学校行事は少ないが、それでも時々大きな行事や、印象に残るイベントらしきものがある。3年生の時には一度スポーツの時間があり、息子に言わせると「今日、バーズボール(英語読みをすればベースボール)という野球にとても似ている試合をやった」ということだった。また2月の謝肉祭のお祭りの時には仮装大会があり、子どもたちは思い思いに変身を楽しむ。女の子は一日お姫様やバレリーナになり、男の子はナポレオンになったり、海賊になったり、ターザンに変身する。仮装大会は子ども達には大人気のイベントである。
3年生の終わりに「今年は林間学校(classe verte =緑のクラス)に行けるかもしれないと」先生が言われたが、結局沙汰止みになった。
4年生の時にはclasse de neige = 雪のクラスと呼ばれるスキー学校があると冬休み前に発表があったが、クリスマス休暇が明けるとやはり中止になってしまった。市の予算が出ないのだという。残念。そういうときにあっさりと取り止めにするというのが分からない。学年によって行けたり、行けなかったりということが不公平だということにはならないらしい。親から費用を集めるということもしない。クレームをつける親もいない。「おやおや」と、どうでもよくなってしまうところがフランスらしいところなのだろう。・・・以下省略・・・

以上で重要なことは下の3点ではないでしょうか。
(1)小学校では、遠足や運動会、学芸会と言ったものはなく、親の参観日もなかった。

(2)そもそも、体育とか、音楽、図工、家庭科と言った授業はない。第一設備もない。スポーツ、芸術などは、フランスでは各家庭で楽しむことで、学校の集団教育の中で教えることではないらしい。

(3)水曜日には各地区の学校とは別の施設で、“スポーツ & レジャー”という自由な活動があり、スポーツや絵画、焼き物、工作、手芸などの図工から好きなものを選んで、指導者もついて、楽しんだり、技術を磨いたりする。参加は全く自由だが、学校ではできない体育、図工の経験がここで補える。

フランスの公的な小学校では余計な学校行事はしないが結構、自由で楽しそうです。日本のように全体主義的な雰囲気がありません。個人の人権を大切にしているようです。
さて今日は長くなるので協調主義を強く教え過ぎると生まれつき協調性の無い発達障害の子供にとって学校が何故地獄になるかという問題には触れません。触れませんがそういう子供にとってフランスの小学校の方が良いと想像できます。

今日の挿し絵代わりの写真は川合玉堂の日本画3点です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「今日の日記、午後から2つの公園に行きました」

2017年02月15日 | 写真
小金井市は北に都立小金井公園、南に都立武蔵野公園があります。
今日の午後は武蔵野公園に行き広々とした冬の公園の様子を写真に撮りました。その公園の中の細い道を大通りの東八道路に抜け、
東に走り、「三鷹花と緑の広場」に行きました。
少しだけ公園の中を歩いて気分爽快でした。
1番目と2番目の写真は武蔵野公園で撮った写真です。霜に耐えて小さな花が咲いていました。
3番目、4番目と5番目の写真は三鷹花と緑の広場で撮った写真です。









「パリの寸描、その哀歓(11)フランスのエリート教育の光と影」

2017年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき;
フランスの小学校には「飛び級」と「落第」があります。
明治維新以来、西洋の教育を導入して来た日本にはどうしても根づかない「飛び級」と「落第」は現在もフランスの学校では厳然として実行されています。
それはフランス社会の指導者階級を支えるエリート教育の重要な部分です。
飛び級はまだしも、小学校の落第は悲惨です。残酷な制度です。
しかしこの制度が重要だと考えられているのがフランスだけではありません。ヨーロッパの小学校は同じような考え方で教育されています。
日本の初等教育の風景とはあまりにも違います。
教育という問題の奥深さを考えざるをえません。
今日はこの問題を取り上げているEsu Keiさんの第11回目の連載記事です。

===「パリの寸描、その哀歓(11)進級、落第、飛び級」Esu Kei著======
 長い夏休みが終わると、新学期である。子どもたちは普通1学年進級する。
日本では考えられないことだが、フランスの小中高等学校には飛び級と落第がある。飛び級は2年まで許されることもある。小学校ですでに落第があるというのは私には理解できない。もちろん病気やケガなら仕方ないかもしれないが… よくあることだから重大視しないという人もいる。私ははじめ分からなかったらやり直すという意味で有意義な制度なのかと思った。しかし実情を知ってみると、ただ同じ学年を繰り返すというだけで、補習授業があるわけでもないし、家でフォローするのが難しい状況の子もいる。ヨーロッパでは移民の家庭も多い。落第した子どもは、同じ学年に二回いたからより理解が進むということでもなさそうだ。やはり子どもは傷つくのではないか。なかには小学校の間に2回も落第する子もいる。小学校で2年も3年も年齢の違う子どもが同じクラスにいるのである。先生はひたすら勉強せよというが、理解できないことを子どもが自発的に勉強するとは思えないし、将来に明るい希望を持てなくなっては可哀想だ。
長男が4年生になった時、クラスに大人の生徒が入ってきたという。ポルトガル人のその子は、落第を重ねたのか、12歳くらいには見える少年で、体も大きく、声変わりをしているから息子から見ると大人と映ったのだろう。うちでは学校の帰りに友達が遊びに来ると、一緒に宿題をすることが時々あった。3年生くらいから宿題が出ることが時々あったので、宿題を済ませてから遊ぶようにどの子も家でしつけられているのだ。カルロスと言う名のその少年は宿題をする習慣がないらしい。文法というものを全く理解していないようで、宿題をしようにも分からないのかもしれない。ちょっと教えてあげると、いい笑顔を見せて「明日は先生に怒られないで済む」と言った。可哀想に苦労しているのだ。ポルトガルや、スペインからの移民は多く、同じ文化圏のことで、私達よりフランスによく馴染んでいるように見える。しかし、フランス語を話せても書けない親世代も多く、そういう家庭で育った子供が最初の1年だけ外国人学級にいても普通学級に入るとついていけなくなることはよくあることだ。特に高学年でフランスの学校に入った子どもにはハードルが高くなる。息子に言わせると彼は教室ではいつも寝ているという。小学生にしてすでに諦めているらしい様子に胸が痛む。
 もちろん外国人でなくても、必要なレベルに達していないとみなされた生徒は落第する。それを決めるのは担任の教師ではない。市には視学官という役職の人がいて、学年度の終わりに学力テストをし、遅れている子どもの落第、進んでいる子どもの飛び級を判定するのである。親は落第の判定に異議を唱えることもできるし、また、自分の子どもは非常に優秀だと信じている親は教師がそう思わなくても、申し出て飛び級の判定をしてもらうこともできる。実際、夏休み中に猛勉強して、新学期前に再試験を受けて落第を免れた子ども、親の期待にかなわず飛び級のかなわなかった子どももいるのだ。
 私の考えでは、少なくとも小学校での落第は良くないと思う。人生の早い段階で子どもが自信を無くすから。補習をなんとかして同じ学年で学べるようにするべきだろうと思う。一律教育が特別にいいとは思えないけれど、落第は可哀想だ。私の友達で小学校の教師をしていた人が言っていた。「勉強の苦手な子、嫌いな子がいるととても申し訳ないと思うの。私の力不足ですもの。」教師の鑑だ。
飛び級はもしかしたら意味があるかもしれないと思った。自分のレベルより低いことしか勉強しないのでは、知識欲が刺激されずに退屈するかもしれないと思う。勉強以外にもやることはたくさんあるが…それよりも教科ごとに自分に合ったレベルを選べることが理想かもしれない。実際フランスには私立の学校で、得意科目と、苦手科目を個人授業にしているという学校があるという話を聞いたことがある。実際に調べたことではないから詳しいことは分からない。善し悪しは別として、この国では、特別に恵まれたしかし厳しいエリート教育を受けて世の中に出て、国をリードしていく人たちも確かにいる。フランスはある意味で階級のはっきりした社会(現代では絶対的なものではないが…)でもある。(続く)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


今日の挿し絵代わりの写真はアンリ・マティス(1869年 - 1954年)の絵画です。
彼はフランスの画家で、フォービズム派のリーダ-的存在であり、フランスを代表する芸術家の一人でした。1869年、フランス・ノール県のル・カトー=カンブレジ に、豊かな穀物商人の長男として生まれる。パリに出た青年期に画家に転向する決意をする。その後の詳細は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9 にあります。









「性的マイノリティと基本的人権の問題(3)この連載を中断します」

2017年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム
この連載はある外国で同性婚をしていた私の友人のために書き始めました。
第1回目と第2回目の記事の概要は以下のようなものでした。

「性的マイノリティと基本的人権の問題(1)私が体験した深い感動」
・・・それはインターネットで知り合った方のことです。何度も私の記事に好意的なコメントを下さるうちに親しくなりました。
礼儀正しく知性にあふれた紳士です。長らくある外国に住んでいます。
昨年の秋に日本に行くのでお会いしたいと言います。人間的に信頼していたので東京でお会いすることにしました。
そうしたら「私は同性婚をしています。それでもお会いして下さいますか」という告白を受けたのです。
私は嬉しさのあまり血が逆流するような感動を憶えました。81歳にもなって枯れてしまい感動など感じない日々が流れていました。
それが、まだ一度も会ったことの無い人に告白を受けたのです。私を信頼してくれたのです。
私はインターネットにいろいろな文章を掲載して来ました。
その私の文章を見て、この人は寛大な性格だ、そして基本的人権を尊重する人だと信じてくれたのです。
勿論、告白を受けて衝撃が無かったと言えば嘘になります。
しかし他人から信頼されたという感動のほうが何倍も大きかったのです。喜びです。歓喜です。・・・

「性的マイノリティと基本的人権の問題(2)性的マイノリティは胎児期の遺伝子とホルモンの作用で生まれる」
・・・欧米諸国では生まれつきの障碍者は「マイノリティ(少数者)」として保護すべしという思想が定着しているのです。
そして遺伝子的原因による生まれつきの精神障碍者も大切にしているのです。
しかし現在の日本ではこのような考えが定着しているとは言えません。
特に同性婚をしている性的マイノリティの人に対しては厳しく差別し、法律的にも保護されていません。不道徳なことをしているのだから差別するのが当然だと公言する人が多いのです。これは自分の無知を宣伝しているのです。大変間違った考え方なのです。
性的マイノリティの人は実は胎児期の遺伝子とホルモンの作用で生まれるのです。
欧米では医学生理学的にその科学的原因が解明され、人々は差別しなくなったのです。
迷信と因習の闇の世界にある日本では欧米で一般的に信じられている性的マイノリティの科学的理由を信じようとする人があまりにも少ないのです。
健全な夫婦と同じように同性婚をしている人々が欧米では立派な職業について大きな社会的貢献をしています。そのような人々を差別し人権を無視することは非常に間違っているのです。・・・

これらの記事に対して以下のような好意的なコメントを頂きました。

(1)おやじさん 2017年02月08日
藤山さんの事を信頼できる方だと思えたから素直に打ち明けられたのだと思います
メールのやり取りでお互いの気心が知れた証拠でもあると思います
メールのやり取りをしていればその内容から人となりが知れます
幾ら上手を言っていてもやり取りのうちには人となりが知れるものだと思います
今の私には同性婚は認められません(実際にその人にお会いして話さないと解りませんが)全く自信はありません
他人から信頼されるような人物にはなって見たいです。

(2)グッキーさん 2017年02月07日
人格を信頼されての告白は嬉しいですね。
これも藤山さんが自身の言葉でいろんな情報を発信し続けていたからこその賜物。
本当に良い出会いになったみたいで私まで嬉しくなります。
自分自身まだそのような方とお知り合いになったことはありません。
私自身LGBTの方をそれだけで嫌悪するようなことは無いと思っていますが、
実際に出会ってみないと判らないです。
「人間味があり素晴らしい人」
良い出会いがあって本当に良かったです。

(3)ペガサスさん 2017年02月07日
大変重いテーマを連載されるのですね。
続きを是非拝読させて頂きたいと存じますのでお気に入りにさせて頂きます。
宜しくお願い申し上げます。

(4)夢想人さん 2017年02月09日
深いご高察、有難うございます。
大変、勉強に成りました。
今の日本は、テレビ番組でも、お笑い芸でも、何かの折に、加齢や容貌や性的マイノリティーの方への人権無視の表現があって、それが、子どもたちなどの人権意識に影響していることがありますね。

(5)wenさん 2017年02月09日
最近「弟の夫」という漫画を読んでいるのですが、藤山さんにもお勧めしておきます。
弟が亡くなって、その弟が同性婚をしていた相手が訪ねてくる、というストーリーなのですが、
差別しているつもりはないけれども自分の中での意識の変化に気付いて、という細やかな心情が描かれていて大変良いです。

(6)Motoko Boutdumonde お考えに全く賛成です。私にも昔から多くの「おホモだち」がいて、一度も不自然だと思ったことはありません。同性を異性より愛することは特異だと思われないのです。プラトンは「饗宴」の中で同性愛と異性愛について話していますね。大昔、人間はカップルが一つの個体であって、それには男女、男性同士、女性同士という三種類の人間がいました。しかし、だんだんと勢力を増して神々に戦いを挑むに至ったので、神々は怒ってその個体を全て半分に引き離しました。それ以来人間はもとカップルだった相手を求めてやまない、というのでした。これはもう、高校生ぐらいの時に読んで、後は数十年前に読み返しただけですのでうろ覚えですが、そういう話だったと思います。自然の摂理なのではないでしょうか。

この連載とコメンントの全ては同性婚をしていた友人も読んでいます。
その方とは毎週1回くらい電話で話をしています。
そしてネット上で自分の実名を公開したいと言い出しました。私は止めました。

彼はつつしみ深い方すからはっきりは言いませんが、どうもこの連載はあまり好きでは無いようです。
コメントは当然ながら賛否両論です。その上感情むき出しで同性婚を非難する人もいるのです。
私の友人は傷ついたのです。
もうこれ以上、連載を続行すれは私の友人を傷つけるのです。
いろいろ思案の末、この連載を中断することにしました。
紙面の都合上、上でご紹介しなかった好意的なコメントを下さった方々へ感謝申しあげます。
真摯にお読み頂いた方々へ感謝しています。  有難う御座いました。

今日の挿し絵代わりの写真はゴッホの星月夜とアルルの跳ね橋と夜のカフェです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





爽やかな秋風がそっと頬をなでていくようなエピソード、ある友人の思い出

2017年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム
それは心地よい秋風がそっと頬をなでていくような人生のエピソードでした。有難い思い出になりました。
50年以上前の大学時代に淡い交わりをした旧友と3年程前のある秋の日に一緒にビールを飲んだのです。茫々50数年、一別以来会ったことがありませんでした。彼は竹内義信君といいます。そのビールを飲む会は私の同級生の卿農雅之君がセットしてくれた一席でした。

竹内義信君は情熱的で、それでいて何事にもこだわらないさっぱりした男でした。雪深い新潟県の小千谷の出身です。大学の1、2年生の間、同じ教室で学んでいたので時々話をしました。
当時、彼が熱心に私に語っていたことは雪国、小千谷の冬の生活でした。雪が降ると家の2階から出入りするという話に吃驚したものです。2階にも出入り口が作ってあるのです。
そして暗い夜には雪が明るく見えて、それを「雪明り」と言うと教わりました。
町の通りの両側の歩道の上には雪よけの屋根が続いていて、それをガンギと呼ぶそうです。
そのガンギの下の歩道は昼でも薄暗く、雪の壁を通ってきた太陽の光が行燈の明かりのように足もとを照らしているそうです。
雪国の話は何かとてもロマンチックで幻想的です。忘れられませんでした。
その影響もあって、私は中年になってから鈴木牧之が江戸時代に書いた「北越雪譜」という本を読みました。今でも時々読み返しています。雪国の生活を描いた名著です。小千谷のそばの塩沢にある鈴木牧之記念館も数年前に見ました。
その大学時代の旧友が何故そんなに情熱的に雪深い小千谷のことを私に話してくれたのでしょうか。

彼は私とは違う学科の「応用化学科」に進みました。大学院を修了し、大きな化学会社の帝人の研究所に就職しました。その研究所が彼の生涯の仕事場になったのです。
その研究所からアメリカの大学へ留学し、博士号をとります。そして帰国後数年してから、今度はヨーロッパに派遣され数年間在住し、彼の地の文化を楽しむことが出来たそうです。
順風満帆のように見える彼の人生は結構、波乱万丈だったようです。

3年前にビールを飲んでいたテーブルの上に彼が中国の大きな地図を広げたのです。満州国が出来る以前の中国の東北部の地図です。
そして幼少のころはその内蒙古自治区のホロンバイルに住んでいたと言いだしたのです。夏は暑くて、冬は雪の無い厳寒の草原です。
彼はその草原の広さと魅力を情熱的に話していました。
そして定年後、そのホロンバイルを何度も訪問し、植林事業のボランティア活動をしてきたと言います。
引き揚げの時の苦難は忘れたように一切話しませんでした。彼のものごとに拘らない良い性格です。
私は帰宅後、ホロンバイルとはどんな所かいろいろ調べて見ました。

冬は雪が降りますが風に飛ばされて積もらないそうです。ですから引き揚げて来た小地谷の生活は驚きでした。彼にとって雪が家の2階まで積もる光景は驚天動地の光景だったに違いありません。
その光景は少年の心に焼き付いて、その興奮は大学生になってもさめなかったのです。その感動を私に話してくれたに違いありません。

彼がホロンバイルのハイラルで通っていた小学校の思い出は2月10日の記事、「遥かなるモンゴルの地、ハイラルにあった日本人学校への感傷」でご紹介しました。

そこで今日は彼が長期間駐在したミラノを中心とした北イタリアの記事をご紹介いたします。
彼に書いてもらった「イタリアの魅力とその混沌」という連載(2013年ー10月7日)に掲載した最終回の記事です。

私どもの知らないイタリア文化の特徴が書いてありますので面白いと思います。

===竹内義信著、「イタリアの魅力とその混沌」第5回========
一頃、北部同盟(Lega Nord)という政党がありました。北イタリアの人達はなんで北の俺達が稼いだものをドブ(溝)に捨てるように南に使うのは馬鹿げている。北で稼いだものは北で使わせて貰おうというのがこのLega Nordです。2006年の9月15日にLega NordはヴェニスでおごそかにPadagna共和国の独立を宣言しました。Padagna(パダニア)というのはPo河流域という意味です。
Po河流域は映画「苦い米」で有名になった豊かな米作地帯であり、私どもの会社のTMI(帝人マンテロ工業;ポリエステル繊維後加工会社)のあったVercelli工場は田んぼの真っ只中にありました。米ばかりでなく小麦などの穀倉地帯でもあり、酪農も盛んです。
また北イタリアは各種の製造業が栄えています。FIATやOlivettiで有名なトリノ、ミラノ、ボローニアの工業地帯,良港をもつジェノヴァの工業、またヴェネチアの近くの石油化学コンビナートのメストレなどがあり、もし北イタリアが独立したら、ドイツやスイスより一人当たりの国民所得の高い国が出現し、英国やフランスに取っては脅威になります。
帝人が技術援助したモンテフィブレのAcerra工場はナポリの郊外ですから、ミラノに住んでいた私にはAcerra付近の貧しさを目の当たりにして、南北格差というものを身をもって実感しました。Acerra工場がニンニク畑と羊の放牧地の跡であることはモンテプロジェクトのところで説明済みです。
ドイツも東西が統一されて西が東を今でも担がなければならないように、イタリアは宿命的に北が南の面倒を見続けなければなりません。前述のように、イタリアは都市国家の寄せ集めなのですから、どうしても地域主義になります。イタリア人は自分の出身地を誇りに思い大切にしています。イタリア人である前に、シチリア人であり、ヴェネチア人であり、またボローニア人なのです。北部同盟は政党レベルが堂々と行った独立運動ですが、シチリアの独立運動とか、Friuli(ヴェネチアの北部)の独立運動とかが有名です。
ここではFriuliの独立運動について説明します。第二次世界大戦後、オーストリアがナチスドイツから分離独立した時、Friuliではオーストリアへの復帰運動がありました。この地域はオーストリアと接しており、ハプスブルグ家の領地だったのですが第一次世界大戦の後、イタリアがオーストリアから分捕った地域なのです。従って、ここの住人はオーストリア人で、背が高く、勤勉で生活水準も高いのです。しかし、イタリアでは南部振興のために北部でも税金が高いので不満がある訳です。第二次世界大戦後、何年かゴチャゴチャやっているうちに、Friuliの人達はオーストリア復帰運動を止めてしまいました。何故でしょう、イタリアでは彼等は高所得層に属するのです。しかし、オーストリアに帰って下手をすると低所得層に落ちるかも知れないから、それならイタリアで威張っていた方がいいということになりました。
もう一つ別の例では、ピサの20Kmほど南にあるLivornoという港町の話です。中世時代ピサは四大海運都市国家(他の三つは、ヴェネチア、ジェノヴァとAmalfi)の一つでした。直線距離で50Kmのフィレンツェとは頻繁に戦争をしていました。フィレンツェのメデイチ家は各地と貿易をやっていましたから港が欲しいのですが、一番近くの海岸にあるピサは使えませんから、ピサの領土を避けて、廊下のような道をLivornoまで作って、Livorno港から交易をやっていました。でも、ピサの目と鼻の先では宿敵のフィレンツェのメデイチ家がお金儲けをやっているのを黙って見逃す筈がありません。当然ピサはLivornoを襲撃します。そのためメデイチ家ではLivornoには前科者やならず者を住まわせました。現在でも、ピサとリヴォルノは仲が悪く、リヴォルノの人達は背筋をピンと伸ばしている人が多いと思います。西部開拓時代のフロンテイアの人達を思わせるものがあります。
もう一つ地域主義の典型的な実例を挙げましょう。ミラノ駐在員も2年くらい経った頃、モンテフィブレと帝人の会議の席でモンテ側が私に花を持たせようと、「竹内さん、ミラノの生活も2年になればイタリア料理の素晴らしさは分かるでしょう。」と水を向けてくれました。そこで私は胸を張って「イタリアの国境の外ではイタリア料理は食べないことにしています。」と答えました。モンテフィブレの人達はそうだ竹内もイタリア料理の良さ分かって来たなと皆で拍手をしてくれました。ところがです私の向かいの席に座っていたのが法規部長のRighiさんでポツリとしかも聞こえよがしに言いました「ボローニア以外ではイタリア料理は食べません。」と。彼のお祖父さんがボローニア大学の物理学の教授で、なんと無線通信のマルコーニを教えたという生粋のボローニアっ子です。ボローニアっ子の彼にとってイタリア料理はボローニア料理だけなのです。(終り)

下に北イタリアの風景写真をお送りいたします。この3枚のイタリア北部のガルダ湖の写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%80%E6%B9%96 です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







『沈黙 -サイレンス-』に強調されている愛の世界は仏教には無い

2017年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム
キリスト教は愛の宗教といいます。お釈迦さまには慈悲があります。
しかしこの愛と慈悲は全く違うものです。
理屈を展開するよりも映画、「沈黙ーサイレンスー」の場面を見てキリスト教の愛の世界を説明いたします。

1番目の写真はキリシタン弾圧の激しい長崎の近くに秘かに潜入して来たロドリゴ神父と彼を取り囲む信者たちの写真です。
皆汚い着物を着ていますがロドリゴの顔や村人の顔が美しく輝いています。ロドリゴと信者たちが愛の絆で結ばれているのです。イエスさまの愛にも結ばれています。
如何でしょうか。お寺の住職さんと信者の間にはこのような関係があるでしょうか?
お釈迦さまと信者は愛の絆で結ばれていません。ですから住職さまと檀徒が一緒に写真を撮ってもこのような写真は撮れません。

2番目の写真はキチジローがまだロドリゴを官憲に売り渡す前の写真です。
キチジローはロドリゴに告解を聴いて罪を許してくれと頼んでいる場面です。
ロドリゴはもう何度も告解を聴いているのでいささか辟易しています。
しかしキリスト教は愛の宗教です。
ロドリゴは何度も裏切られながらもキチジローを愛しています。イエス様が使徒たちを最後の最後まで愛したようにロドリゴが最後までキチジローを愛したのです。
如何でしょうか。お寺の住職さんが檀家の放蕩息子を最後まで愛してくれるでしょうか?
答は否です。当然です。
仏教にははじめ積極的な慈悲の教えを持っていなかったと言います。(http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/bukkyokirisuto09.htm )
 仏教徒は、「慈悲」とは"苦を抜き楽を与えること"である、と説明しています。慈悲とは、他の人の不幸を抜き去り、それに替えて幸福を与えることです。
この慈悲の教えは、はじめは仏教の中心的な教えではなかったようです。
「慈悲」が盛んに言われだしたのは、大乗仏教の時代になってからだそうです。シャカの説いた原始仏教においては、「慈悲」は中心的な教えではありませんでした。
それどころか、「慈悲」が実際に説かれることは、きわめてまれでした。
シャカの原始仏教、および上座仏教は、「出家」主義の仏教です。それは出家した者だけが救われる、という教えです。
出家主義の仏教では、出家していない他の人々との関わり合いは、重視されません。ですからそこに「慈悲」という考えが入り込む余地はありませんでした。
 
さてロドリゴ神父とガルペ神父はかつて2人の指導者だったフェレイラ神父を探すためにキリシタン弾圧下の九州に秘かに上陸して来たのです。
潜入したロドリゴ神父とガルペ神父は信者に愛され、かくまわれながらフェレイラ神父を探しまわります。
しかしそれも時間の問題でした。間も無く2人とも捕まってしまい棄教を迫られます。
ガぺラ神父は海に落とされた信者を助けようとして飛び込み、自分も役人に海に沈められて絶命します。ガルペ神父は自分の信者を死を賭して愛したのです。簀巻きにされ海に投げ入れられる信者を座して見ているわけにはいかなかったのです。

一方、ロドリゴ神父は紆余曲折の末にフェレイラ神父についに会うことが出来ました。
しかしかつて尊敬していた恩師、フェレイラ神父はあまりにも変わり果てていました。
沢野忠庵と言う日本人になっていました。
そしてロドリゴ神父に棄教を迫ります。苦悩の末にロドリゴ神父も信者達を穴吊りの拷問から解放するために踏み絵を踏みます。
それもロドリゴと信者たちの愛の絆の故です。踏み絵の中のイエス様が「踏みなさい。それで良い」というのです。

棄教し岡田三右衛門という日本人になってしまったロドリゴは江戸のキリシタン屋敷にあてがわれた妻と余生を暮らします。
その折に下男のように世話をし続けたのがキチジローでした。
誰もがロドリゴを岡田三右衛門と呼び彼がパードレだったことをおくびにも出しません。
しかしキチジローだけは2人だけの時はパードレと呼ぶのです。ロドリゴはよせと言いますが、心の奥では嬉しかったに違いありません。
棄教してしまったロドリゴとキチジローの絆はなんでしょうか?それは埋れ火のように残った愛の絆だったのです。
しかしキチジローも終いにはキリシタンと疑われてロドリゴから引き離されます。彼等はその後二度と会うことはありませんでした。

感動的な人間同士の愛の絆がこの映画の主題なのです。そこには夫婦愛や親子の愛とは違うもう一つの愛が美しく描きだされているのです。

さて一方仏教にも僧侶と信者の愛の絆が無いわけではありません。
一つの例は弘法大師の同行二人という考え方です。そして弘法大師は諸国を巡って灌漑用のため池を沢山作ったと言います。あちこちに温泉も作りました。
その故に現在でも弘法大師は民衆の人気を集めています。
しかし弘法大師は数少ない例です。
現在お寺の住職さんが生活苦の檀家の人へ食べ物を秘かに届けているでしょうか?檀家の中の放蕩息子の面倒を一生みているでしょうか?
無縁になってしまったお墓にお経をあげて大切にしているでしょうか?

仏教でキリスト教の愛に似て非なるものに観音菩薩信仰があります。

3番目の写真は山梨県の韮崎市に立っている観音菩薩様です。
お寺の住職さんは観音菩薩さまの慈悲の心のお話をしてくれるでしょうか?私は聞いたことがありません。

このように映画、「沈黙ーサイレンスー」はイエス・キリスト教の愛の絆を明快に説明しているのです。
ですからこそカトリック信者が見ると感動します。幸せな気分になるのです。その理由で私はこの映画を2度見に行きました。
映画、「沈黙ーサイレンスー」は疑いながらも信じようとしているカトリック信者を幸せにする映画なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


美しくもせつないモンゴル人、ソヨルジャブと日本人との絆

2017年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム
今日のお話は美しく、でもせつない一人のモンゴル人の日本人への絆の話です。
嗚呼、何故モンゴル人はこんなにも純粋なのでしょう?一度日本人を信頼してしまったソヨルジャブは一生変節しないでせつないまでに日本人へ忠誠をつくします。
何故、ソヨルジョブさんはそんなに日本人との絆を大切にしたのでしょうか?
その絆には国境も政治も宗教も介在しません。純粋で一途な美しい絆です。ソヨルジャブさんが日本人との絆を生涯守ったのは何故でしょうか。深い感慨にとらわれます。

それは大学時代の友人の竹内義信さんにお教えて頂いた一冊の本に書いてあったことです。それは細川呉港氏の書いた『草原のラーゲリ』」(文藝春秋社、2600円)という本です。
細川呉港氏が熊本日日新聞にこの本の内容を紹介しています。彼はは1944年広島県生まれ。集英社勤務を経てフリーになった人です。

この本によるとモンゴル人、ソヨルジャブは1925年、満州西部のハイラル(海拉爾)近傍の村に生まれました。優秀だった彼はハルピン学院を卒業し、満州国の官吏になり、ハイラル県公署(県庁)のエリート青年職員として働いていました。
昭和20年(1945年)8月9日未明、突如飛来したソ連軍機の空襲があります。
数日もすれば、ソ満国境を突破して怒涛のようにソ連戦車が押し寄せてくるに違いない。彼は南の草原に逃れて難を避けたが、それは苦難の始まりに過ぎなかった。

ソ連支配の外モンゴルと中国支配の内モンゴルの間で、興安四省のモンゴル人は右往左往する。結局、ヤルタ会談の密約があって独立できず、外モンゴル統合もかなわず、中国領内にとめおかれる。ソヨルジャブは社会主義を学ぼうとウランバートルに留学します。

だが、スターリニズムは決してユートピアでないことに気づく。そこから運命は暗転したのです。留学を終えた1947年、公安に逮捕された。日本の対ソ要員育成施設だったハルピン学院で学んだ経歴が、スパイと疑われたのだ。懲役25年。首都の南にあるラーゲリに放りこまれる。囚人の中には、ドイツ帰りの知識人や詩人もいたという。
彼はそこに7年いて突然、中国への引き渡しが言い渡された。やっと帰郷できるかと思いきや、国境を越えると「反革命」「反中国」の烙印を押され、内モンゴルのフフホトの監獄に入れられる。一難去ってまた一難。ラーゲリのたらい回しである。

ソヨルジャブは56年、青海省の西寧労働改造所へ移送された。モンゴル人囚人のなかで彼だけ、北京から1800キロ、チベットの裾にある高原地帯に送られたのだ。郷里はいよいよ遠い。そこへは9年半後、65年にやっと仮釈放が実現した。ラーゲリ暮らしは合わせて17年である。ところが、文化大革命が始まろうとしていた。流浪はまだ終わらない。

国家の崩壊を目のあたりにするのは一生に一度あるかないかだが、日本撤退後の中ソの谷間で翻弄されたこんな人生もあったのか、と驚かされる。満蒙開拓団の悲劇は語り伝えられても、日本の傀儡国家に忠誠を誓い協力した多くの人々の運命は知られていない。

ソヨルジャブが正式に帰郷できたのは、ハイラルを離れてから36年後である。気が遠くなるような歳月だ。
文革大革命も終り名誉回復したソヨルジャブはフフホトで日本語塾を開き、のち民主化されたモンゴルでも日本語学校(展望大学)を開校しました。
そしてその後、中国領のフフホトで暮らし、日本へ何度も来たうえ、モンゴル人の研修生を日本に多数送ったのです。

彼は偶然にも満州国の官吏になったお陰で苦難の人生を歩むことになったのです。
しかし強制収容所の生活を17年もしても日本人を裏切らなかったのです。
このような人は数多く居たに違いありません。

何故、ソヨルジョブさんはそんなに日本人との絆を大切にしたのでしょうか?
その絆には国境も政治も宗教も介在しません。純粋で一途な美しい絆です。ソヨルジャブさんが日本人との絆を生涯守ったのは何故でしょうか?その理由は謎です。
しかし人としての絆を守り抜く人の人生は燦然として輝いています。彼にとっては美しい人生とはそんなものでした。
彼は2011年に86歳で人生を終わります。その後、日本で開催された「ソヨルジャブさんを偲ぶ会」には奥さんが出席しました。

今日の挿し絵代わりの写真は彼の生まれ故郷の満州西部のハイラル(海拉爾)近傍の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





遥かなるモンゴルの地、ハイラルにあった日本人学校への感傷

2017年02月10日 | 日記・エッセイ・コラム
竹内義信君は大学時代の旧友でした。2年ほど前に何度か会い、彼の通っていた遥かなるハイラルにあった日本人学校の思い出話を聞きました。
その楽しかった小学校が終戦とともに忽然と消えてしまったのです。苦しい引き揚げの末、日本に帰ってきた竹内君は新潟県の小千谷市の中学、高校を終えて仙台にある東北大学に進学して来たのです。
母校の小学校が消滅したことを酷く悲しんでいました。
しかし2年前に何度かお会いし、話を聞くとその後、その小学校を訪問し心が癒されたそうでず。
それは鄧小平の日中友好の時代の心温まる出来事でした。美しい日中友好のエピソードです。
以下は竹内君から聞いた話です。

まず現在、中国の東北にあるフルンバイル平原の風景の3枚の写真をご覧ください。すぐ西にはロシアの国境が近い所です。蒙古族の住んで居るので中国領の内蒙古自治区の一部になっています。(写真の出典は、http://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1016966-d1718080-Reviews-Hulunbuir_Old_Town-Hulunbuir_Inner_Mongolia.html です。)





この平原に昔、ハイラルという町があり日本人が沢山住んでいました。
1945年に日本が敗戦になるまで海外の領土や占領地に数多くの日本の学校がありました。みんな文部省が管理し日本の教育をしていたのです。その全てが敗戦とともに、うたかたのように消えてしまったのです。母校喪失です。この悲しみの記憶を背負った日本人は戦後たくさん居たのです。
他国を武力で占領して日本人が住み、日本の学校を勝手に作った歴史がアジアのあちこちにあったのです。それは現在になってみると日本の負の遺産として残るのです。

旧友、竹内君から聞いた話を続けてご紹介します。
かつての満州にあったハイラル小学校とその同窓会の会報復刻版、「草原明珠」について、ご報告します。この「草原明珠」という本は2001年に発刊された720ページの本です。昔存在した日本の小学校のハイラル小学校の同窓会報を復刻し合本、装丁したものです。国会図書館にも納められています。
この本の内容は以下の通りです。
(1) 満州帝国のハイラルと日本の国益
(2) ハイラル小学校(国民学校)の開校と消滅
(3) 同窓会の発足とその解散
(4) 海外の日本の学校の運命と歴史的記録の重要性
(5) 学校の消滅と同窓生の感傷と運命
上記のうち今日は(4)と(5)について少し詳しく説明します。

(4) 海外の日本の学校の運命と歴史的記録の重要性
武力占領した外国に日本の学校を作ることは現地の人々を差別すると誤解されがちなことです。ですから私はその学校が日本人だけを入学させ、現地人を入学させなかったかを問題にしたいのです。
満州には旅順工業大学という学校があり教授陣は日本の帝国大学から派遣されましたが、学生の大部分は現地人でした。その一人に瀋陽の東北工科大学の学長だった陸先生がいました。1981年に瀋陽に行ったとき陸先生は懐かしそうに、「旅順工大はとても良い大学でした」と言います。聞くと差別も無く教授が皆親切に指導してくれたと感謝しているのです。
詳しい話は省略しますが、海外にあった日本の学校が一瞬にして消えてしまった悲しい運命を調べ、その学校の運営の実情を調べることは重要なことだと思います。負の遺産を正の遺産へ変える知恵が生まれて来ると信じています。

(5) 学校の消滅と同窓生の感傷と運命
日本人にとって母校の消滅は悲しい衝撃的な出来事です。「母校」という言葉が示すように卒業した学校は母のような存在のです。
ですから同窓会誌の合本の「草原明珠」には曾て在校していた数百人の悲しいい思い出がビッシリと詰っています。「嗚呼、ハイラル思い出集」という特集号が何巻も合本されています。
この本は数百人の悲しい涙と感傷の缶詰なのです。

しかし喜ばしいことも書いてあります。
この同窓会は現在のハイラルにある中国の「文化街小学校」への友好訪問を、正式には5回、非公式に同窓会解散後にも第6回の母校訪問団を出したそうです。
それは鄧小平の日中友好の時代の1980年代から1990年代にかけてでした。
第一回は1988年で48名が参加しました。その感想文は190ページから198ページに掲載されています。感傷的な感想文が主なものですが、その中には中国人の歓迎ぶりに感動したという内容のものが多かったのです。
昔のハイラル小学校の場所にある文化街小学校の先生や児童が情熱的に歓迎してくれたのです。
日本側は心のこもったお土産を持って行きました。同窓生のなかには現金を寄付した人もいました。それは中国人にとっても素晴らしい体験だったに違いありません。この「草原明珠」の発刊を祝して文化街小学校の校長の王 紅果先生が暖かい文章を寄せ、旧校舎の改装や校庭の緑化に日本側が協力してくれたことに感謝しています。そして「日中友情の木が永遠に緑でありますように!」という文章で終わっています。

日本側がハイラルの為にしたことはそれだけではありません。その周辺の草原に十年間にわたる植林事業をしたのです。その経過はすでに2015年2月20日掲載の以下の記事にあります。
「竹内義信著、「樟子松」…ホロンバイル草原への植林事業」をご覧頂けたら幸いです。

上記のハイラル小学校の同窓生が感傷だけに溺れないで中国人と友情を育んだのは実に良いことでした。
特に江沢民主席と小渕総理の合意にもとづいた小渕基金で40カ所以上の中国の場所で植林事業したのです。このハイラルの例はその中の一例に過ぎないのです。

鄧小平が亡くなり江沢民の時代になると日中関係は暗転したのです。
しかし我々日本人も中国人も日中熱烈友好の時代が存在していた歴史を忘れるべきではないと思います。嗚呼、それにしても最近の日中関係の悪化はどうしたことでしょうか?

最後に「草原明珠」(草原のなかの美しい真珠のようなハイラル)の写真をお送り致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「パリの寸描、その哀歓(10)パリの小学生の生活」

2017年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。
少しお休みしましたがまた連載を続けます。
連載の第10回目は、「パリの小学生の生活」です。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

===「パリの寸描、その哀歓(10)パリの小学生の生活」Esu Kei著======
「小学校へ入学」
長男が公立の小学校に通うようになったのは6歳半を過ぎた頃である。フランスで暮らすようになって2年目のことである。その前にベルギー、日本、フランスで幼稚園の経験が3年あったので、あまり心配しないで近所の公立学校に入れた。アポイントを取って校長先生に会いに行くと、両親とも日本人であるという理由で普通の一年生のクラスでなく、外国人クラスに入ることになり、担任のアリワット先生が13人の外国人新入生を、翌年から普通学級に適応できるように指導してくださるのだと分かった。日本のような入学式や始業式はなく、最初の日に学校に連れていけば、普通の日のように、午後まで授業(?)がある。仕方がないので初登校の記念の写真(素人写真)を撮ってから学校に送って行った。 
コンシエルジュのおばさんと校長先生が入り口で生徒を迎え入れて、各クラスに連れていかれるらしいが、親は入り口までだから、中の様子は分からない。幼稚園もそうだったが、日本のようにいかにも学校らしい校舎と、校庭があるわけではなく、3階建ての、会社か何かの古いビルのような地味な建物で、入り口の扉が閉まったら、学校だということに気付かないくらいだ。中庭はあるものの、運動場と言えるほどの大きな校庭はなく、休憩時間や体操の授業はどうするのかしらと思ってしまう。
学校は親やその前の世代が通ったところが引き続き使われているところや、新しく建て替えられているところがあるが、息子の学校は明らかに前者である。私達は市役所に手続きに行ったときに、ほんの5分ほど遠くはなるが、新しく、校舎も校庭も近代的で、開放的なユイッシエ通りの学校を希望したが、地区が違うと言われ、ポアソニエ通りの小学校にと言われた。
 学校は朝8時半に始まり、夕方は5時に退ける。両親共働きの家庭が多いのでそうなっているらしい。給食はあるが、食べられるのは共働きの家庭の子どもだけ。片方の親が働いていない場合、お弁当を持っていくのではなく、1時間余りの昼休みに家に帰って食べ、また学校に戻るのだ。しかも、小学生の間は原則として、親が送り迎えをすることになっている。さすがに11歳くらいを過ぎると、来ない親もいるが…朝、昼食前、昼食後、そして下校時と、近いとはいえ、学校と家の間を子どもは2往復、親は4往復することになる。我が家では夫も昼ごはんを会社から戻って家で摂っていたから、のろまな私がそのサイクルに合わせるのは大変だった。幼稚園も同じなのだが、幸い家の隣が幼稚園だったのだ。学校で給食を食べる子どもも、朝と夕方の送り迎えは義務付けられている。学校を一歩出たら、子どもの安全の責任は親にあるのだ。
学校を離れて外出する時も、10歳以下の子どもは親が付き添うことが求められている。我が家では長男が7歳の時に2回も迷子になって、警察に探してもらったことがあるが、2回目の時に、親の責任が追及されるケースになりますよと叱られてしまった。子どもの放任と言う罪に問われる可能性はあるのだ。幸いバスの運転手さんや、通りがかりの大人たちに救われたが… 通学の時は朝学校に着いたらコンシエルジュのおばさんが親子の顔をそれとなく確認し、学校を出るときは親の顔を見るまで低学年の子供が外に出ないように見張って(?)くれている。
 学校は週5日制で、休みは日曜日と水曜日、土曜日は半日である。水曜日には各地区の学校とは別の施設で、“スポーツ & レジャー”という自由な活動があり、スポーツ(サッカー、バスケットボール、体操、フェンシング、そのほか)や図工(絵画、焼き物、工作、手芸)そのほか好きなものを選んで、指導者もついて、楽しんだり、技術を磨いたりする。僅かな1回分の給食費を払って午後5時まで思い思いに過ごすことができる。参加は全く自由だが、学校ではできない体育、図工の経験がここで補えるし、共働きの家庭にとっては、子どもを預かってくれる場としてなくてはならないシステムなのだ。我が家では日本語学級が水曜日だったので、この活動には参加せず、水曜日の午後は日本語の後で、同じ建物の中にあった柔道のクラブに通っていた。
一年の学期の区切りは、9月に始まり、クリスマス休みまでが1学期、復活祭休みまでが2学期、そして夏休み前までが3学期となる。フランスでも勿論公立の学校は宗教から分離しているが、伝統的にも、人口に占める人数からもカトリック色の強い国であり、夏休み以外の休暇は、カトリックの宗教行事に因んだ休暇なのである。クリスマスと復活祭以外にも、秋の諸聖人の日、2月の謝肉祭、5月の聖霊降臨祭のときには数日の休みがある。夏休みは2カ月である。
とにかくこうして息子の小学校生活は第一歩を踏み出した。

「学校行事」
 一年が経過し、先生と話したり、子どもの友達を通じてお母さんたちともそこそこ付き合ううちに、いろいろなことが分かってきた。日本の学校が当たり前だと思っていると、なんとも不思議なのが、学校行事が少ないことだ。公立の小学校ではどこも同じなのかどうかもわからない。各学校で自由なやりかたをゆるされているところもあるような気がする。少なくとも息子の入った小学校では、遠足や運動会、学芸会と言ったものはなく、親の参観日もなかった。息子のクラスでは一度動物園に行ったが、遠足のようにお弁当やお菓子持って行くわけではなく、バスで午後の半日を動物園見学に行くのだ。前以て親に知らされることもなく、息子から「来週動物園に行くことになったよ」と聞かされただけである。それでも普段と違うイベントを子どもたちは楽しんだことだろう。ルーブルや近代美術館では、時々学校からの見学の子ども達に出会うことがあったから、校外行事が全くないわけではないのだろうが、小学一年生ではまだ早い。学年が進んだら何かあるのかもしれない。行事ばかりではない。そもそも、体育とか、音楽、図工、家庭科と言った授業はない。第一設備もない。スポーツ、芸術などは、フランスでは各家庭で楽しむことで、学校の集団教育の中で教えることではないらしい。教室以外の設備は、給食室と台所があるらしい。給食は給食業者が各学校に昼前に車で配っているのを見かける。パンを切ったり、配膳したりするのは学校でするらしい。朝9時ごろに授業は始まり、昼休みを挟んで学校が終わるのは5時…何をそんなに勉強しているのだろう。

学校行事は少ないが、それでも時々大きな行事や、印象に残るイベントらしきものがある。3年生の時には一度スポーツの時間があり、息子に言わせると「今日、バーズボール(英語読みをすればベースボール)という野球にとても似ている試合をやった」ということだった。狭い中庭でボールをバットで打って、ガラスは割れなかったのかしらと思う。息子は学校であったことを家で自分から話すことは殆どなかったから、よほど楽しかったのだろう。
また2月の謝肉祭のお祭りの時には仮装大会があり、子どもたちは思い思いに変身を楽しむ。女の子は一日お姫様やバレリーナになり、男の子はナポレオンになったり、海賊になったり、ターザンに変身する。仮装大会は子ども達には大人気のイベントである。
3年生の終わりに「今年は林間学校(classe verte =緑のクラス)に行けるかもしれないと」先生が言われたが、結局沙汰止みになった。こういうことはすべて市の裁量で決まることで、年度の予算に余裕があるかどうかで決まるらしい。親が費用を払うということではない。4年生の時にはclasse de neige = 雪のクラスと呼ばれるスキー学校があると冬休み前に発表があったが、クリスマス休暇が明けるとやはり中止になってしまった。先生の説明では、4年生は60人以上の生徒がおり、標準のひとクラス大体25人(学年では約50人)の標準からするとかなり多いため、市の予算が出ないのだという。残念。そういうときにあっさりと取り止めにするというのが分からない。学年によって行けたり、行けなかったりということが不公平だということにはならないらしい。親から費用を集めるということもしない。クレームをつける親もいない。「おやおや」と、どうでもよくなってしまうところがフランスらしいところなのだろう。(続く)


挿し絵代わりの写真はエドガー・ドガ(1834年7月19日 - 1917年9月27日)の絵画です。
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%AC からの抜粋です。
ドガは1834年、パリに銀行家の息子として生まれた。「ドガ」(de Gas)という貴族風の苗字を持つが、ドガ家はフランス革命後に勢力を伸ばした新興ブルジョワで、エドガー・ドガの生まれた頃にはさほど裕福ではなかったらしい。ドガは1855年、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)でアングル派の画家ルイ・ラモート(fr)に師事した。1856年、1858年にはイタリアを訪れ、古典美術を研究している。
ドガは通常印象派の画家の一員とみなされている。確かにドガは1874年以来、印象派展にたびたび出品し(全8回の印象派展のうち、第7回展以外のすべてに参加)、1862年にマネと知り合ってからは「カフェ・ゲルボワ」の画家グループにも参加していた。しかし、光と影の変化をキャンバスに写し取ろうとしたモネのような典型的な印象派の画家たちと異なり、ドガの制作の基盤はあくまでもルネサンスの巨匠や、熱烈に信奉したアングルの画風にあった。古典的手法で現代の都会生活を描き出すことから、ドガは「現代生活の古典画家」と自らを位置付けた。ただし、ドガも他の印象派の画家たちと同様、浮世絵、特に葛飾北斎の影響を強く受けていることが小林太市郎によって指摘され、日本におけるジャポニスム研究の発端となった。









「性的マイノリティと基本的人権の問題(2)性的マイノリティは胎児期の遺伝子とホルモンの作用で生まれる」

2017年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム
欧米諸国では生まれつきの障碍者は「マイノリティ(少数者)」として保護すべしという思想が定着しているのです。
そして遺伝子的原因による生まれつきの精神障碍者も大切にしているのです。
しかし現在の日本ではこのような考えが定着しているとは言えません。
特に同性婚をしている性的マイノリティの人に対しては厳しく差別し、法律的にも保護されていません。不道徳なことをしているのだから差別するのが当然だと公言する人が多いのです。これは自分の無知を宣伝しているのです。大変間違った考え方なのです。
性的マイノリティの人は実は胎児期の遺伝子とホルモンの作用で生まれるのです。
欧米では医学生理学的にその科学的原因が解明され、人々は差別しなくなったのです。
迷信と因習の闇の世界にある日本では欧米で一般的に信じられている性的マイノリティの科学的理由を信じようとする人があまりにも少ないのです。
健全な夫婦と同じように同性婚をしている人々が欧米では立派な職業について大きな社会的貢献をしています。そのような人々を差別し人権を無視することは非常に間違っているのです。近頃日本でも欧米の考え方をする風潮が見えて来ました。
同性婚をしている私の友人は倫理的に正しい人です。約束は守る。言ったことは実行する。見かけは男性ですが脳が女性なのです。ですから男性としか一緒に暮らせないのです。ある欧米の国に住んでいて普通の結婚と全く同様の法律的保護を受けています。差別されないので幸せに暮らしています。

さて性的マイノリティは何故生まれるのでしょうか?
一番分かり易い例は不妊症の女性が生まれる「ロキタンスキー症候群」について簡略に説明します。
赤子が母の胎内で受胎後に遺伝子とホルモンの作用で性別がはっきりして行きます。女性としての性差が次第に育って行く過程で、異常が発生し子宮がないまま女性として生まれる場合があります。これを「ロキタンスキー症候群」というそうです。
生まれつきの障害者なので、保護して、条件が良ければ母親などの他の女性から子宮を移植するのが当然です。
このようなことは幸せな結婚をしてから分かるのです。
貴女は子宮の無い女性を差別しますか? 虐めますか?
美しい女性で健全な夫婦関係にあるのです。その女性は職場でも尊敬されています。
欧米では母親から子宮を移植するのが普通だそうです。
しかるに日本ではこれから子宮移植の倫理的な議論を始めるというのですからこれも随分と遅れているのです。子宮を移植するのに何故論理的な問題があるのでしょうか? 私は怒りしか感じません。
やっぱり日本は古い因習にとらわれた闇の世界なのです。
子宮の無い女性が生まれる原因は科学的に解明されています。差別すべきでないと誰でも考えています。

さて同性婚をしている私の友人は男性の体に女性の脳を持っている人です。
女性の優しさ、細やかさなどの女性の良さを持っているのです。女性なので国際政治や政治的な問題には一切興味を示しません。
そのような見かけは男で心は女性という人はどのようにして生まれて来るのでしょうか?

欧米では同性婚の場合の税金の控除や遺産相続の権利は正常な男女の結婚と全く同じ法律が適用されているのです。
日本では考えられないことです。
男の体に女性の精神構造が乗る現象は胎児期の遺伝子とホルモンの作用でできる厳粛な自然現象なのです。
性分化の臨界期である胎生期に、分化した脳に男性ホルモンが作用しなかったことによって、脳の思索機能を持っ部位に異常が起き女性型になったという説明が欧米では信じられています。

一般に男女の違いは、精神病の問題ではなく上記のように医学生理学上の差異であって、生命の緻密で微妙な作用の結果なのです。
私には到底この分野の研究の詳細を完全には理解出来ません。しかし科学的に解明されていることは信じています。
専門的な研究論文にご興味のある方は、「脳の性分化」の研究、
http://endocrine.seitai.saitama-u.ac.jp/research_tsukahara1.html もご覧ください。

「おとこおんな」や「おんなおとこ」が生まれつきの少数マイノリティである以上、差別すべきではないと言うのが欧米の社会に定着している考え方なのです。

身体障碍者や性的マイノリティに対する差別は欧米人と日本の意識には大きな相違があるのは事実です。
欧米の宗教的な人は全てのマイノリティは神の創造したものだから大切にしなければならないと考えています。

日本では人権への侵害に対する罪悪感が無いのです。同和問題もその一例です。この種の問題には、国民全体が見て見ぬふりをする日本特有の風土があるのです。つまりまだ村社会が色濃く残っているということでしょう。
確かに、事なかれ主義は官僚機構の特徴でしょう。

このように欧米の良い点を強調して書くと必ず反論があります。「貴方は日本を愛していないのですか? 書き方が自虐的過ぎます」と攻撃し、果ては欧米人の南米植民地の残虐ぶりを書いてくるのです。笑止千万です。日本を愛すからこそ書いているのです。
そして私は怒っているのです。私の友人が日本で受けた残酷な仕打ちに怒っているのです。
この国はマイノリティにとって残酷過ぎる国なのです。

今日の挿し絵代わりの写真は4年前の3月に千葉の白浜に泊まった時、南房総っで撮った花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






「今日の小金井市から撮った富士山」

2017年02月08日 | 写真
1975年位までは自宅の2階から富士山が見えていました。
でも周囲に2階建ての家々が出来、富士山は見えなくなりました。
今日は駅前のイトーヨーカ堂の7階の駐車場から富士山の写真を撮って来ました。
1番目と2番目の写真が富士山で、3番目の写真は丹沢山系の大山が左端に写っている写真です。