後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

宗教的な「おわら風の盆」の踊りと娯楽的な阿波踊り

2018年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム
地方には優れて独自な文化があります。夏になると青森の「ねぶた祭」や仙台の七夕祭りがあります。そして夏のお盆には富山の「風の盆」の踊りや四国の阿波踊りがあります。岐阜には郡上八幡の盆踊りもあります。
今日はそれらの中から「おわら風の盆」の踊りと阿波踊りを、写真を中心にしてご紹介したいと思います。
「おわら風の盆」は10年ほど前に見に行きましたが、その美しさと深い宗教性に感動しました。
阿波踊りは、陽気で楽しい娯楽性の故に全国の各地で踊られています。今日ご紹介するのは私の住んでいる東京の小金井市の40年も続いている恒例の阿波踊りです。
盆踊りは元来、帰ってきた先祖の霊魂を慰めるために始まったといいます。
富山県富山市八尾町の「風の盆」は非常に静かで優雅です。哀調さえ感じさせます。
帰ってきた先祖の霊魂を慰めようとする踊り手の気持ちが心に伝わります。
「風の盆」には深い宗教性があるのです。しかし踊りですから娯楽性もあります。踊り手は練習を重ね、その結果を見物の人々に披露するのです。踊り手も楽しく、見物の人々も楽しむ娯楽性もあるのです。
それでは、「おわら風の盆」から先に5枚の写真で示しましょう。
写真の出典は「富山市の観光ホームページ」(http://visit-toyama.com/jp/entry.php?nid=20001 )からです。









「おわら風の盆」の踊りの所作はあくまでも上品です。ゆっくりした音曲が八尾の町並を流れます。
胡弓は寂しげな音色でかなでます。
女の踊り手は笠を深くかぶり決して顔を見せないのです。皆、細身の姿勢が揃っていて、その姿が楚々として美しいのです。
一方、男衆の踊りはあくまでもキビキビとしていさぎよいのです。
町の家々は軒の低い昔風の造りで、人々は明かりを消して家の奥へ引きこんでいます。
観光客だけが踊りの列を囲んでいますが、誰も声を上げないので町中が静かです。
嗚呼、盆踊りとは元来、仏教の行事だっだと理解しながら楽しい時間を過ごしました。
車の駐車場は町の下の川沿いにあります。観光客はその駐車場から高台にある八尾の町へ歩いて登って行きます。夏の夕風にゆれる提灯のような灯の列の下をゆっくりと登るのです。風の盆を以前に見た人々が混じっているのでしょうか、人々の歩き方も優雅になっています。帰りにこの坂を下る人々は一層静かに歩いていました。
おわら風の盆の詳細は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%8F%E3%82%89%E9%A2%A8%E3%81%AE%E7%9B%86 に御座います。そこには次のようなことが書いてありましす。
・・・おわらの起源は、江戸時代の元禄期にさかのぼると伝えられています。
『越中婦負郡志』によると、町外に流出していた「町建御墨付文書」を町衆が取り戻したことを喜び、三日三晩踊り明かしたことに由来するのだといいます。
「風の盆」の名称の由来については、風鎮祭からともお盆行事からともいわれるが、はっきりとしたことはわからないそうです。・・・

さて話は東京の小金井市の阿波踊りに変わります。
毎年7月末の土曜日と日曜日に小金井では市を挙げて阿波踊りを踊るのです。
徳島の阿波踊りを忠実に導入しているのです。徳島県の地方文化を導入し、40年もの間続けているのです。
今年も7月28日(土)と29日(日)に行います。
以前自分で撮った写真を混えて「小金井の阿波踊り」を5枚の写真で示します。









JR中央線の小金井駅前の南と北の広場と付近の通りを7月の最後の週末の2日間、夕方から交通を遮断して数百人の踊り子が阿波踊りを繰り広げるのです。
近所の仲間や職場の仲間でグループをつくり、「さくら連」とか「むさしの連」と染め抜いた揃いの浴衣で踊るのです。
よく見ると阿佐ヶ谷をはじめ東京のあちこちからも「連」が友情参加しています。それを見ると東京のいろいろな町でそれぞれ阿波踊りをしているのが分かります。
阿波踊りの楽しいところは老若男女が一緒に踊っていることです。その光景を見ているのも楽しいのです。踊らない自分も幸せな気分になるのです。音曲も振りも派手で賑やかです。
阿波踊りには宗教性があまり感じられません。むしろ娯楽性が強いのです。
盆踊りの季節になると毎年、小金井市に住んでいながら徳島県の阿波踊りを楽しんでいます。

「おわら風の盆」の踊りと阿波踊りはどちらも日本が世界に誇れる地方文化だと私は信じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




夏が来ると思い出す太平洋戦争(2)焦土となった日本の都市

2018年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム
太平洋戦争は日本民族の歴史において空前絶後の大事件でした。日本人が310万人も死に、中国人は1000万人、アメリカ人も40万人も死んだのです。
朝鮮の人は軍人が22万人、一般人が2万人死亡しました。台湾人は軍人が18万人、一般人が3万人死亡しました。

今日は日本の200の都市が焦土になった写真を示します。そしてB29で何度も空襲に来たアメリカ空軍の大佐と戦後に親友になった話を書きます。
戦争の虚しさと不条理を考えさせます。あれから73年経過しましたが戦争の悲劇の大きさにますます心が痛みます。
米国空軍のB29爆撃機による無差別絨毯爆撃はすさまじいものでした。
1945年7月10日の仙台市の29による焼夷弾攻撃で市街地は一夜にして焼野原になってしまったのです。
当時はまだ少年だった私は家のあった向山の高台から一面の紅蓮の炎を見下ろしていました。
空には銀色の機体のB29が編隊を組んで縦横無尽に飛びながら束になった焼夷弾をばらまいていました。100機ほどのB29が来襲したそうです。
夜が明けてから市街地の焼け跡を見におりて行きました。まだ煙が立っていて異臭が鼻を突きます。見回すとあちこちに焼けた死体がころがっています。
その日は一日中、崖下の広瀬川の川原で死体を焼く焚火が絶えませんでした。
幸い私の家の周囲の野山には焼夷弾が数本落ちましたが家を直撃しなかったので焼け残りました。

1番目の写真は焼野原になった仙台市の街の様子です。1945年7月10日の仙台大空襲の後、仙台駅から南町通りの向こうの西公園方面の光景です。
このように焼き尽くされたのは仙台市だけでなく全国の都市が徹底的にやられたのです。
空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国(内地)で200以上の都市が被災し、死者は33万人、負傷者は43万人、被災人口は970万人に及んだのです。
東京の空襲後の光景は石川光陽氏によって克明に撮影されています。
その一部は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2 と http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E9%99%BD に掲載されています。

2番目の写真は空襲の直後の街の風景です。まだあちこちから煙が立っています。生き残った人々が歩いている様子が痛々しいです。

3番目の写真は空襲後、何日かたってからの街の様子です。自分の家が焼け落ちているのを見た人が落胆して座り込んでいるのでしょうか?そんなことを想像させる写真です。

4番目の写真は空襲後、しばらくしての写真でしょうか。焼け残った電車が駅に停まっています。気持ちを取り戻した人々が駅に出入りしています。

5番目の写真は一面に焼け野原になった下町の風景です。右手に隅田川が写っています。

6番目の写真は焼けた乗用車です。トランクに一酸化炭素を発生させる木炭釜が積んであります。この釜で木炭を燃やして一酸化炭素ガスを作り、エンジンへ送り走っていたのです。私も戦争中にバスの後ろに大きな木炭釜を積んだバスに何度も乗りました。
登り坂に来ると乗客が下りて、バスの後ろを押すのです。

さて空襲で焦土と化した都市は200におよびました。
昭和21年10月9日に内閣総理大臣の吉田茂は次のような都市が焼け野原になったと発表します。
根室市、釧路市、函館市、本別町、青森市、釜石市,宮古市,盛岡市,花巻市、仙台市,塩竈市 、郡山市,平市 、東京都の区の存ずる区域,八王子市 、横浜市,川崎市,平塚市,小田原市、千葉市,銚子市 、熊谷市 、水戸市,日立市,高萩町,多賀町,豊浦町 、宇都宮市,鹿沼町、前橋市,高崎市,伊勢崎市、長岡市、甲府市。
名古屋市,豊橋市,岡崎市,一宮市 、静岡市,浜松市,清水市,沼津市、岐阜市,大垣市、津市,四日市市,桑名市,宇治山田市 、富山市、大阪市,堺市,布施市 、神戸市,西宮市,姫路市,明石市,尼崎市,魚崎町,鳴尾村,本山村,住吉村,本庄村、和歌山市,海南市,田辺市,新宮市,勝浦町、福井市,敦賀市 、広島市,呉市,福山市 、岡山市、下関市,宇根氏,徳山市,岩国市、堺町、高松市 、
徳島市 、松山市,宇和島市,宇治市 、高知市、福岡市,門司市,八幡市,大牟田市,久留米市、長崎市,佐世保市 、熊本市,荒尾市,水俣町,宇土町 、大分市 、宮崎市,延岡市,都城市,高鍋町,油津町 、鹿児島市,川内市,串木野町,阿久根町,加治木町,枕崎町,山川町,垂水町,東市来町,西ノ表町 (沖縄は当時、アメリカ領)

この徹底的な空襲と2度の原爆投下の後やっと日本は降伏しました。沖縄戦の終わった6月に日本が降伏していたら原爆投下も無かったのです。全国の数多くの都市が焦土に化すことも無かったのです。徹底抗戦を主張した陸軍幹部の大きな過ちでした。

終戦後15年経過してから私はアメリカのオハイオ州立大学へ留学します。
その時、クラスメイトに14歳年上のオートンさんという空軍大佐が居ました。
オートンさんはB29爆撃機を操縦して日本へ何度も飛んできて焼夷弾を落とした男です。
どういう訳かオートンさんとは親友になり彼が死ぬまで交友が続きました。
大きな体、坊主頭、赤ら顔のカウボーイのような男でした。面倒見のよい人で、英語のできない私にノートを見せてくれ、何度も家に招待してくれました。当時、彼は空軍大佐でしたが、引退後は大学の先生になろうと博士課程に進んでいました。
なぜ日本人の私の面倒をそんなに本気でみるのか、かなり親しくなってから聞いたことがあります。「俺は東京へB29で何十回も空襲に行ったよ。それでなんとなく日本人に親近感ができてしまったのかも…」と言葉を濁します。そしてその後、彼はその話を二度としませんでした。
1988年、私はオランダの出版社から初めて英語で専門書を出版することになりました。その時、原稿を逐一訂正してくれたのがオートンさんです。
オートン氏のことを思い出すと、1945年7月、少年であった私の目の前で一面火の海になった仙台の町々と、空襲の大火に映しだされるB29の白い機体のゆっくりした動きを思い出します。憎しみも悲しみもない走馬灯のように。
オートン氏は2006年の末に亡くなりました。花束をを贈り、遠くから冥福を祈るだけです。オートンさんの終生変わらなかった友情を思い出すたびに戦争の不条理が身に沁みます。戦争は人間を悪魔にするのです。アメリカ人も日本人も同じく悪魔にするのです。
それをオートンさんは知っていたのでしょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

夏が来ると思い出す太平洋戦争(1)戦没画学生の無言館

2018年07月17日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前の昭和11年に生まれた私は毎年、夏が来ると太平洋戦争のことをいろいろと思い出します。8月15日の昭和天皇の終戦の言葉を疎開先の農村の国民学校の校庭に聞きました。暑い夏の陽が射していました。
太平洋戦争は日本民族の歴史において空前絶後の大事件でした。日本人が310万人も死に、中国人は1000万人、アメリカ人が以下のように40万人も死んだのです。
朝鮮人は軍人が22万人、一般人が2万人死亡しました。
台湾人は軍人が18万人、一般人が3万人死亡しました。
中国1000万人
インド350万人
ベトナム200万人
インドネシア400万人
フィリピン111万1938人
ビルマ5万人
シンガポール5千人
モルジブ3千人
ニュージーランド1万人
アメリカ人40万5399人
オーストラリア2万3365人
この膨大な死者の一人一人には家族の悲しみがあったのです。
そしていろいろ悲劇が無数におきました。

今日は戦没画学生の遺作を展示してある無言観と4枚の絵画をご紹介致します。
東京駅の丸の内中央改札口を出て右手にステーション・ギャラャリーが出来ました。時々、絵画の企画展をするようになりました。あれは20世紀が終わり、21世紀が始まった頃だったような気がします。
「戦没画学生の遺作展」があったのです。ポスターには母のような女性が描いてあります。出征する前に精魂込めて描いた絵です。企画展では数十枚の油絵が展示してありました。戦争で死んだ画学生の作品です。
征く前に寸暇を惜しんで描いています。時間が無くなり、未完成のものもあります。
パンフレットに遺作画を常時展示している、「無言舘」のことが紹介してありました。すぐに泊りがけで訪ねました。
無言舘は、長野県上田市、別所温泉近くの山中にあります。車で、山の中を探しあぐねた末にやっと辿り着ました。
鎮魂という言葉を連想させる、修道院のようなコンクリート製の建物でした。
戦没画学生の作品を常設展示しています。館長が遺族を訪問し、一枚一枚集めた絵画です。

1番目の写真は無言館です。
戦没画学生の多数の遺作絵画は、NHKきんきメディアプラン発行、「無言館 遺された絵画」2005年版、に掲載されています。
その中から4枚の油彩画をご紹介します。

2番目の写真は神戸のトーア・ロードの風景を描いた杉原基司さんの作品です。
杉原基司さんは神戸生まれ、東京美術学校を卒業し、戦闘機に乗りました。昭和20年2月16日、厚木飛行場の上空で来襲して来た米軍機と空中戦をし、激墜され戦死しました。享年23歳でした。
・・・・・・戦死した後で妹が書いています。・・・・・・
水泳部で派手に水しぶきをあげていた兄。
ガラスの窓にドクロの絵を描いて妹の私を泣かせた兄。
クラシックと讃美歌しかなかったわが家でジャズやクンパルシータを初めて聞かせてくれた兄。
そんな兄が、美校を卒業して海軍予備学生となり、沢山の兵隊さんが死ぬゼロ戦を志願したのは、やっぱり持ち前の好奇心”飛行機に乗りたい”と思ったからでしょうか?
昭和20年2月16日、、、、厚木上空に初めて米軍戦闘機が来襲したとき兄は23歳の生命をちらしました。・・・・・・・・・・・

3番目の写真は興梠 武さんの「編物をする婦人」です。
興梠 武さんは東京美術学校卒。昭和20年8月8日ルソン島、ルソド山にて戦死。享年28歳。
この絵は一番下の妹の絵。絵を描いて出征し、妹は間もなく病気で死にます。その報告を戦場で受け取った興梠 武さんは半狂乱になったそうです。
間もなく天国で二人は会って、静かに見つめあって暮らしていると信じています。ご冥福をお祈りいたします。

4番目の写真は戦没画学生、金子孝信さんの「子供たち」です。
金子孝信さんは大正4年、新潟県生まれ。昭和15年、東京美術学校卒業。同じ年に入隊し、仙台の予備士官学校を出て、昭和17年5月27日に中国の華中の宣昌にて戦死。享年26歳。出征の朝までアトリエで天の岩戸を題材にした大作を描きつづけていました。見送りに来た友人に「これは自分の最後の作品。天地発祥のもとである天の岩戸に自分は帰っていくんだよ」と言って出征していきました。そしてそのとうりになったのです。姉を描いた美しい日本画もありますが、ここでは「子供たち」という題の日本画を掲載します。彼の家は代々、由緒正しい神社の宮司だったのです。

5番目の写真は戦没画学生の片桐 彰さんの「街」です。
片桐 彰さんは大正11年、長野県生まれ、昭和17年に京都高等工芸学校卒業後すぐに入隊。昭和19年7月28日、マリアナ諸島にて戦死。享年21歳。
残された妹の思い出です。「私をよく映画に連れていってくれました。戦地へゆく直前、{オーケストラの少女}という映画を見に行ったことがありました。映画の筋書きはとうに忘れてしまったけれど、戦争のことを考えながら二人で歩いた夜のまっすぐな兄さんの背中が忘れられません。」
戦没画学生の絵画はもっと多数ありますが、悲しくなるので4枚だけで止めます。

しかし最後に声を大にして言いたいことがあります。
戦没画学生は戦死した40万人のアメリカ兵の中にもいた筈です。戦死した1000万人の中国人の中にもいた筈です。
戦死した350万人のインド人の中にもいた筈です。戦死した400万人のインドネシア人の中にもいた筈です。
そして戦死した111万人のフィリピン人の中にもいた筈です。戦没画学生は日本だけではないのです。
全ての戦没画学生の無念さを想うと粛然とせざるを得ません。
そして志なかばで戦死したのは戦没画学生だけではなかったのです。あらゆる分野で若い人々が戦死したのです。
戦争の悲劇は筆舌には尽くせないのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

江戸の朝顔市ものがたり

2018年07月16日 | 日記・エッセイ・コラム
東京の下町の夏の風物詩、朝顔市は江戸時代に始まりました。
その歴史を調べてみました。
すると、https://japan-web-magazine.com/japanese/matsuri/asagaoichi/index.html
に次のように書かれていました。
朝顔市の歴史は江戸末期の文化・文政の頃(1804年~1829年)に始まりました。
元々、朝顔は、奈良時代末期~平安時代頃に遣唐使によってその種子が薬として持ち込まれたのです。
以後、長い間、朝顔は薬用植物として育てられていましたが、花の可憐さが愛され、いつしか鑑賞植物として栽培されるようになったのです。
特に江戸時代に入ると品種改良が進み、様々な色と形の朝顔が現れます。八重咲きや花弁が細く切れたりしたものなど、通常の朝顔とは異なる珍しい形をしたものは殊に珍重され、江戸や上方を中心に庶民の間で爆発的なブームとなり、木版の図譜類も多数出版されました。
最盛期には実に1000種類に及ぶ朝顔があったと言われています。

天明期(1781年~1789年)を代表する文人・狂歌師、大田 南畝の狂歌「恐れ入りやの鬼子母神」で知られる入谷鬼子母神(法華宗本門流の寺院・真源寺)とその周辺で、毎年七夕の前後3日間(7月6日、7日、8日)に行われるのが、入谷の朝顔市です。
鬼子母神とその門前に120軒の朝顔業者と100軒の露店が並び、色とりどりの朝顔をやり取りする光景が繰り広げられます。
江戸の風情あふれる情緒的な下町の夏の風物詩として知られています。
現在でも毎年、7月6,7,8日に入谷鬼子母神で開催されていま。

江戸時代の伝統的な色合いの朝顔の写真をお送りします。
写真の出典は、https://ameblo.jp/hari9madam/entry-12284758946.html です。

夏の季節の花10種の写真、花名の由来、花言葉

2018年07月16日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日、暑い日が続きます。
野山や花園にはいろいろな季節の花々が咲いています。
しかし陽射しが強すぎて花々を見に行くのも大変です。
そこで今日は家の中に座って夏の花の写真を見られるようにしました。
私が何度も写真に撮った馴染み深い花を10種選びました。ついでに花の名前の由来と花言葉をお送りします。
花言葉で自分の気持ちを相手に送ることはロマンチックですが、お互いに意味を知らないと役に立ちません。
しかし花言葉を一つ一つ見て行くと、それを始めて見た人間の感じ方が偲ばれて面白いものです。
一方、花の名前の由来は花の形や色に由来するものと学名に由来するものがあります。花の咲き方や他のことが由来になっているものもあります。丁寧に見て行くとその花と人間のかかわりが分かり、興味が尽きません。
お時間のある方はゆっくりお楽しみ下さい。
写真と花名の由来や花言葉の出典は、http://hananokotoba.com/natsu/ です。

1番の写真はアガパンパスです。
花名の由来、
属名の学名「Agapanthus(アガパンサス)」は、ギリシア語の「agape(愛)」と「anthos(花)」が語源となり、「愛の花」という意味があります。
別名は紫君子蘭(ムラサキクンシラン)、英語ではアフリカンリリー(African lily)とも呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉も「愛の花」という意味をもつアガパンサスの名前にちなんだものとなり、「恋の訪れ」「ラブレター」の花言葉がつけられました。「知的な装い」の花言葉は、淡青紫色の涼しげで繊細な花姿に由来するといわれます。

2番の写真はアサガオです。
花名の由来、
花名のアサガオ(朝顔)は、朝に花を咲かせ、昼にしぼんでしまう様子を「朝の美人の顔」に例えた「朝の容花(あさのかおばな)」の意味であるといわれています。
花言葉の由来、
花言葉の「はかない恋」は、朝咲いて午後にはしぼんでしまう短い命の花であることに由来します。また、「固い絆」の花言葉は支柱にしっかりとツルを絡ませることにちなみます。

3番の写真はアリウムです。
花名の由来、
属名の学名「Allium(アリウム)」は、「におい」という意味の言葉が語源となり、この属の植物の多くが強いにおいを放つことにちなむといわれます。ラテン語で「allium」はニンニクを意味します。
花言葉の由来、
花言葉の「深い悲しみ」は、アリウムの花姿が悲しみたたずむ人間を連想させることに由来するともいわれます。

4番の写真はオジギソウです。花名・花言葉の由来
花名の由来、
オジギソウ属の学名「Mimosa(ミモザ)」は、ギリシア語の「mimos(身振り、まね)」が語源で、この植物がおじぎのまねをすることに由来します。
このようにミモザは本来オジギソウ属を指す植物名ですが、フサアカシア(アカシア属)の葉がオジギソウのものに似ていることから、誤ってフサアカシアをミモザと呼ぶようになりました。
英語では「敏感な草(Sensitive plant)」、漢名では「含羞草(恥ずかしがる草)」と呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉の「繊細な感情」「感受性」「敏感」は、オジギソウの葉に軽く触れるだけで、葉が閉じ垂れ下がってしまうことにちなみます。

5番の写真はカラスウリです。
花名の由来、
属名の学名「Trichosanthes(トリコサンセス)」は、ギリシア語の「thrix(毛)」と「anthos(花)」が語源となり、花びらの縁部が細裂して糸状になることに由来します。
和名の烏瓜(カラスウリ)は、熟した赤い実をカラスが好んで食べることにちなむともいわれます。しかし、特にカラスの好物という観察例はほとんどないようです。
英語では「Japanese snake gourd(日本のヘビウリ)」とも呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉の「よき便り」は、実のなかの黒褐色のタネの形状が結び文に似ていることに由来するといわれます。特異なタネの形状はカマキリの頭部や打ち出の小槌にたとえられることもあります。
「男ぎらい」の花言葉は、この花が日没後にレースのような純白の花を咲かせ、日の出前にはしぼんでしまうことにちなむといわれます。

6番の写真はキョウチクトウです。
花名の由来、
花名の夾竹桃(キョウチクトウ)は、葉がタケに、花がモモに似ていることにちなみます。
属名の学名「Nerium(ネリウム)」は、ギリシア語の「neros(湿った)」を語源とし、この属の植物が湿地によく育つことに由来します。
花言葉の由来、
花言葉の「注意」「危険」「用心」は、キョウチクトウに強い毒性があることに由来します。

7番の写真はサルスベリです。
花名の由来、
花名のサルスベリ(猿滑)は、樹皮がツルツルしていて、猿でも滑りそうなところに由来します。実際には滑ることなく、簡単に登ってしまいます。
また、百日紅(ヒャクジツコウ)とも呼ばれ、サルスベリが夏の盛りに長い間咲き続けることにちなみます。
花言葉の由来、
花言葉の「雄弁」は、枝先に群がり咲くサルスベリの華やかな咲きかたに由来するといわれます。
また、枝をこすると葉や花が揺れ、盛んに話しているようにみえることから「雄弁」の花言葉がついたともいわれます。

8番の写真はヒマワリです。
花名の由来、
和名の「向日葵(ヒマワリ)」は、花が太陽の方向を追うように動くことに由来します。
英語では「太陽の花(Sunflower)」と呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉の「私はあなただけを見つめる」は、ヒマワリが太陽の方向を追うように動く性質にちなみます。
西洋の花言葉の「偽りの富(false riches)」は、インカ帝国(ペルー)を征服したスペイン人が、太陽の神殿に仕えた巫女のヒマワリを形どった純金の装身具などを奪い取ったことに由来するともいわれます。

9番の写真はスイレンです。
花名の由来、
花名のスイレン(睡蓮)は、この花が夕方に閉じる(睡る)ことに由来するといわれます。
日本全国の池や沼に広く分布するスイレン属のヒツジグサ(未草)の名前は、未(ヒツジ)の刻(午後2時)に花を開くことにちなみますが、実際には朝から夕方まで花を咲かせます。
花言葉の由来、
朝に花を開き、夕方に花を閉じるスイレンは、古代エジプトにおける太陽のシンボルとされ、エジプトの装飾や神話にも多く登場します。花言葉の「信仰」もこれにちなむといわれます。
花言葉において、白い花は「純潔」「清浄」をあらわすことが多く、スイレンの花言葉「清純な心」も野生のスイレンの多くが白い花であることに由来します。

10番の写真はジキタリスです。
花名の由来、
属名の学名「Digitalis(ジギタリス)」は、ラテン語の「digitus(指)」を語源とし、花の形が指サックに似ていることに由来します。
別名の「狐の手袋(キツネノテブクロ)」は、英名のフォックス・グローブ(Foxglove)をそのまま訳したもので、この花が手袋の指のように見えることにちなみます。
花言葉の由来、
花言葉の「不誠実」は、ギリシア神話にてサイコロ遊びが好きだったゼウスの妻ヘラに由来するといわれます。

さて以上では10種類の花だけを選びましたが、本当はもう10種位は示したかったのです。夏の花と言えば皆様ももっと違う花を思い浮かべるかもしれません。全国の場所、場所によって代表的な夏の花も変わることでしょう。
そして幼少の頃の夏にみた懐かしい花の思い出を大切にしている方も多いと思います。そんな私の懐かしい花は野原に咲いていた夏の夜の月見草の花でした。最近は野原も少なくなって野の月見草を見ることは稀になりました。淋しいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

よい神父は透明になる、その向こうに神が見える

2018年07月15日 | 日記・エッセイ・コラム
カトリックの教会のミサでは時々いろいろな修道会の神父をお招きして司式して貰います。常駐の主任司祭だけでなく修道会の神父に話が聞けるのです。
今日はイエズス会の竹内修一神父が来てくださいました。竹内神父の説教はいつも知的で、しかも分かり易いのです。
昔、広島のイエズス会の修道院にいた頃、あるイタリア人の神父に指導を受けていたそうです。松江や米子などに教会を作った神父だったそうです。
そのイタリア人の神父は年老いるに従って、美しく透明になって行ったそうです。そしてその神父の向こうにイエス様がはっきり見えたそうです。神も見えました。そして100歳で日本の土になりました。
竹内神父も自我を無くし透明になりたいそうです。
私はかねがね、良い神父は信者をイエス様に会わせてくれると思っていました。信者にイエスや神の愛を実感させてくれる神父が良い神父なのです。
その為には神父は我欲を徹底的に捨て去り、透明な水のようにならなければならないのです。信者はその美しい透明性の向こうにイエス様を見るのです。神を見るのです。するとイエス様の愛が実感できるのです。神の愛が実感出来るのです。
そんな説教を聞いて帰って来ました。
さて日本人はお寺の住職さんに会う機会が多いと思います。お葬式に行けば僧侶がお経を唱えます。
私は僧侶の姿を見ると、その向こうにお釈迦さまが見えるか一生懸命探します。残念ながら見えないことの方が多いのです。
淋しいです。
そんなことを考えながら猛暑の日曜日を過ごしています。
皆様、熱中症にならないようになさって下さい。
写真は今日のカトリック小金井教会のミサの風景です。









潜伏キリシタン250年は日本が世界に誇れる精神文化

2018年07月15日 | 日記・エッセイ・コラム
私は日本を愛しています。日本民族の文化を愛しています。
従って最近、以下のような記事を掲載しました。
 「国宝の仏像は日本が世界に誇れる宗教芸術」(2018年07月09日掲載)
   「国宝の五重塔は日本が世界に誇れる独特な建築遺産」(2018年07月12日掲載)
    「国宝の五つの城は日本が世界に誇れる独特な建築遺産」(2018年07月13日掲載)
これらの素晴らしい目に見える文化を私は世界に自慢したいのです。
そして日本民族には目には見えない素晴らしい精神文化もあるのです。
それは日本人の誠実さや勇気を証明する素晴らしい文化なのです。
具体的な一つの例は、250年の長期にわたって潜伏キリシタンがカトリックの信仰を守った歴史です。江戸幕府の厳しい取り調べや踏み絵にも屈しないで秘かに子々孫々信仰を守ったのです。
そして1865年、大浦天主堂の献堂式から一ヶ月後、歴史的な瞬間が訪れます。杉本ユリをはじめとする浦上の潜伏キリシタン15人が天主堂にやってきたのです。彼らは堂内で祈りを捧げていたプチジャン神父に近づき、こう囁きました「ワタシノムネ、アナタトオナジ」・・・つまりキリスト教を信仰しているということの告白です。厳しい禁教令と宣教師がいないという状況が250年間も続いたにもかかわらず、信仰が受け継がれているということが、このとき初めて外国人に対して明らかになったのです。プチジャン神父は非常に驚き、また大いに喜び、彼らをマリア像の前まで導きました。この「信徒発見のマリア像」は現在も大浦天主堂に安置されています。
このニュースは欧米のキリスト教の国々に即座に伝わり、有名になりました。
まさに奇跡です。日本人の信仰の誠実さや勇気を証明する素晴らしい歴史でした。

そして近年にもローマ法王のフランシスコ教皇はサンピエトロ広場に集まった群衆へつぎのように語ったそうです。
2014年1月15日・・・「日本のキリスト教徒は17世紀初めに厳しい迫害を受けた。司祭は追放されていなかったが、キリスト教徒は潜伏しながら信仰を守り、祈り、子どもが生まれると父母が洗礼した。洗礼のおかげで生き延びた。この出来事から私たちは多くのことを学ぶことができる。」・・・
聖職者不在のなかで約250年間、長崎の潜伏キリシタンたちが自分たちで洗礼を授け、信仰を守り続けてきたことをローマ教皇はたたえたのです。
教皇が讃えた長崎の潜伏キリシタンが大浦天主堂に訪れ、プチジャン神父と出会った「信徒発見」からおよそ150年、今あらためてこの宗教史上の奇跡が見直され、ローマ法王に注目されているのです。

そんな背景があったので、今年、国連のユネスコは「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を世界文化遺産として認定したのです。
この認定を祝しフランシスコ教皇は次のよう談話を発表しました。
・・・「聖霊が宣教師の説教を通じて灯した火は、カトリック共同体の祈りの生活に息づいていたのです。隠れて生き延びた平信徒の中に息づいてきたのです」・・・

さてそれでは「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」とはどのような内容なのでしょうか?
「https://ja.wikipedia.org/wiki/長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 」から抜粋して示します。
構成12資産の一覧:
長崎市
1、大浦天主堂:国宝
2、外海の出津集落:重要文化財出津教会堂と旧出津救助院を含む、重要文化的景観「長崎市外海の石積集落景観」
3、外海の大野集落:重要文化財大野教会堂を含む

1番目の写真は外海の出津集落です。

2番目の写真は出津教会堂です。

南島原市
4、原城跡:国指定史跡

3番目の写真は原城跡(国指定史跡)です。

佐世保市
5、黒島の集落:重要文化財黒島天主堂を含む、重文景「佐世保市黒島の文化的景観」

4番目の写真は黒島天主堂です。

平戸市
6、平戸島の聖地と集落=安満岳と春日集落、重文景「平戸島の文化的景観」

5番目の写真は春日集落です。
7、平戸島の聖地と集落=中江ノ島、重文景「平戸島の文化的景観」

北松浦郡小値賀町
8、野崎島の集落跡:野首集落跡・舟森集落跡および両集落を結ぶ信仰の道、旧野首教会堂を含む、重文景「小値賀諸島の文化的景観」

6番目の写真は野首集落跡と旧野首教会堂です。

南松浦郡新上五島町
9、頭ヶ島の集落:重要文化財頭ヶ島天主堂を含む、重文景「新上五島町崎浦の五島石集落景観」

五島市
10、久賀島の集落:重要文化財旧五輪教会堂を含む、重文景「五島市久賀島の文化的景観」
11、奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺):重要文化財江上天主堂

熊本県
天草市
12、天草の﨑津集落、重文景「天草市﨑津・今富の文化的景観」

7番目の写真は天草の﨑津集落です。

以上のような今回の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産としての認定は世界中に信仰の自由の重要性を訴えたのです。日本人の信仰の強さを証明したのです。まだ世界には特定の宗教を弾圧し、信仰の自由が無い国もあります。共産党独裁の国々もあります。信仰の完全な自由が無い国なのです。
そんな国々に住む人々へ勇気を与えたのです。これこそ日本人が自慢して良い歴史ではないでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

国宝の五つの城は日本が世界に誇れる独特な建築遺産

2018年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の城は世界に例が無い優美な姿をしています。幾重にも堀に囲まれ、高い石垣の上に美しい天守閣が聳えているのです。
皆様、ご存知のように現在日本には数多くの天守閣を持ったお城があります。その多くは近年再建されたお城で、江戸時代以前のものは数が少ないのです。
従って国宝に指定されているお城はたった5つしかありません。
その5城とは、現存する松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城です。
それでは早速写真を示します。

1番目の写真は国宝、姫路城(兵庫県姫路市)です。
日本一の名城とも言われる姫路城です。その美しさと偉大さを今に伝えることができたのは、400年の歴史の中で一度も戦にあうことも、戦災に脅かされることもなかったからです。建築当初の状態で残された部分も多く、貴重な文化遺産となっています。
(国宝5城の説明文は、https://allabout.co.jp/matome/cl000000016988/ から抜粋しました)
建造年、1346年で築城者:赤松貞範 別名:白鷺城
主な城主:池田輝政、小寺氏、黒田氏、本多氏、酒井忠邦
日本国内最大の現存天守、ユネスコの世界遺産

2番目の写真は、国宝、松本城(長野県松本市)です。
大きなお濠に囲まれた美しい天守閣は、日本国内では数少なくなった江戸時代以前のものです。松本藩の城として江戸時代には城下町が形成され、多くの人が行き来することで町は賑わいました。広い堀も魅力です。屋根瓦以外の部分が白く見えるのですが、松本城は全体に黒っぽく見えるため、他の城とは異なる印象を受けます。その外観から「烏城(からすじょう)」という別名も持ちます。
建造年、1504年、築城者:石川数正、石川康長  
主な城主:木曾義昌、上杉景勝、石川数正、小笠原秀政、松平康長

3番目の写真は、国宝、犬山城(愛知県犬山市)です。
現存する日本最古の様式の天守閣です。建造当時の姿を残しており、戦火や自然災害などいくつもの困難を乗り越えてきた風格が感じられます。小さな四階建ての山城には室町時代望楼型様式の特徴が随所に見られます。以前は個人が所有していました。
建造年、1537年、築城者:織田広近 別名:白帝城
主な城主:織田信康、池田恒興、織田勝長、三好吉房

4番目の写真は、国宝、彦根城(滋賀県彦根市綱)です。
天守をはじめ、重要文化財の各櫓、下屋敷の庭園である玄宮園、内堀・中堀などが当時の姿を留めています。全国的に見てもきわめて保存状態のよい城跡です。様々な破風があり細部まで美しく味わいあるお城です。
建造年、1622年、築城者:井伊直継 別名:金亀城、主な城主:井伊氏

5番目の写真は、国宝、松江城(島根県松江市)です。
島根県の県庁がある松江は、宍道湖と中海にはさまれ、川が縦横に走る水の都です。水の都を見守るように立つ松江城は400年の歴史をくぐり抜けてきた天守閣がある美しい城です。五層の天守閣の高さは30メートル。最上階の6階は望楼となっていて、松江市内を360度見渡すことができます。
建造年、1611年、築城者:堀尾忠氏 別名:千鳥城
主な城主:堀尾氏、京極氏、松平氏

さて国宝に指定されているこれら5つのお城は江戸時代以前の室町時代に建造されたものです。
しかし国宝ではないが重要文化財に指定されているものに次の7つの城があります。
重要文化財7城
・弘前城/青森県弘前市   築城者:津軽為信、津軽信枚
・丸岡城/福井県坂井市   築城者:柴田勝豊
・備中松山城/岡山県高梁市 築城者:秋葉重信
・丸亀城/香川県丸亀市   築城者:(奈良元安)生駒親正
・松山城/愛媛県松山市   築城者:秋葉重信
・宇和島城/愛媛県宇和島市 築城者:橘遠保(藤堂高虎が改修)
・高知城/高知県高知市   築城者:山内一豊
国宝と重要文化財の違いは、重要文化財のうち「世界的に見ても価値の高いもので、国民の宝である」と国(文部科学大臣)が認定したものを【国宝】としています。

ここでいきなり私的な話になります。私共は国宝の5つの城は皆行きました。重要文化財7城のうち、弘前城、備中松山城、宇和島城にも行きました。
しかし何度も行った会津の若松城(鶴ヶ城)も諏訪湖の畔の高島城も行田の忍城も小田原城も国宝でも重要文化財でもないのです。
何故か不満です。釈然としません。
そこで若松城(鶴ヶ城)の写真を追加させて下さい。

6番目の写真は、若松城(鶴ヶ城)です。
築城年、1384年、主な改修者は、蒲生氏郷、加藤明成
主な城主は黒川城、蘆名氏、伊達政宗
黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年)より大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備しました。
蒲生氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行ったのです。
蒲生氏郷は茶人だったので本丸に茶室を作ったのです。何年か前にその茶室で家内と一緒に抹茶を喫したことが良い思い出になりました。
さて次の写真は行ったことは無いが城の写真集を見て憧れていた丸亀城の写真です。

7番目の写真は四国の丸亀城です。
香川県中西部に位置し、讃岐うどんで有名な丸亀市にある「丸亀城」も立派な現存12天守のうちの一つです。
「石の城」とも称される風格たっぷりのその姿は全国の城めぐりでも人気のスポットです。
“日本一高い石垣”の上にそびえる、“日本一小さな天守”としても有名ですが、約60mもの高さを誇る石垣の上に立つ天守は、小さいながら凛とした風格に満ちています。
また、江戸時代には天守以外に数多くの櫓や門などがあり、亀山下の北西部には藩主が住んだ御殿があったと言われているので、大きなお城であったことがわかります。
築城年は室町時代初期(14世紀頃)
主な改修者、生駒親正、山崎家治
主な城主、生駒氏、山崎氏、京極氏
尚、天守・大手一の門・大手二の門は国の重要文化財です。

それにしても日本の城は世界に例が無い優美な姿をしています。私は国宝の5城もその他の数多くの城も誇りに思っています。
以前にご紹介した国宝の仏像や五重塔も含めて日本には世界に誇れる文化遺産が沢山あるのです。
何とも心豊かになり、幸せな気分になります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

山梨県、上野原市までドライブして夏の花の写真を撮って来ました

2018年07月13日 | 写真
今日も朝からギラギラと太陽が照り付けています。暑さに負けてなるものかと長躯、山梨県の上野原市にある相模湖の上流の端までドライブして来ました。山里には夏の花々が咲いていました。遠方の山でカッコーが鳴いていました。昔は東京の郊外にある私の家の近所でも鳴いていたものです。
カッコーの声は懐かしいものです。幼少の頃を思い出します。
夏の花々の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









まぼろしのように忽然と消えてしまった2つの町

2018年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム
夏の夜には怪談がつきものです。そこで今日は怪談のような話をご紹介します。
しかし怪談のような嘘ではなく、本当に存在していた2つの町の話です。まぼろしのように忽然と消えてしまった2つの町の話です。
なにやら薄気味悪い雰囲気がまつわる2つの町です。

さて一つは北海道の東部の野付半島の突端に存在していた「キラク」と言う町のことです。
北海道の東部根室市の北に、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。標津町の南に別海町があります。
その別海町に幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た野付半島が、湾曲しながら26kmも伸び、野付湾を囲んでいます。砂洲の上には舗装道路が延々と続き、野付灯台まで車で入れます。

1番目の写真は野付半島の航空写真です。キラクという町はこの写真の左端に写っている野付半島の突端にありました。
当時は陸路ではなく船で出入りしていたので突端の方が便利だったのです。しかし現在は陸路を車で行けます。

2番目の写真は陸路の途中にあるナラワラの風景写真です。潮のために立ち枯れしたナラの木が並んでいます。写真は2012年に私が撮りました。

3番目の写真は野付半島の中間点付近にある立ち枯れたトド松は立っているトドワラの風景です。2012年に家内が撮りました。
一般の観光客は行けるのは此処まです。キラクはこの先のはるか半島の突端にあったのです。
この町は長い間、伝説としか記憶されていなかったので、「幻の街キララ」と呼ばれていました。
「歓楽街があった」「夜じゅう、灯りが消えることがなかった」「遊女がいた」などと謎に包まれた、ロマンある話として伝わっていたのです。
それが最近の発掘調査で江戸時代に厳然と存在していたことが証明されたのです。
江戸時代の古文書には「キラク」という記述はありませんが、寛政11年(1799年)に江戸幕府が国後島への交通の要所として野付通行屋を設置したという史実が明らかになっています。
対岸にはニシン漁のための番屋が60軒ほど立ち並んでおり、通行屋では、畑を作り、様々な野菜を育てようとした記録も残っていたのです。
野付通行屋跡遺跡は発掘調査が行われ、沢山の江戸時代の生活用具が出土したのです。また墓石も出て来ました。
それらの江戸時代の生活用具は別海町郷土資料館で展示公開されています。
そして毎年4月中旬に、別海町郷土資料館と野付半島ネイチャークラブの共催で、この通行屋遺跡を訪ねる観察会が開催されているのです。
潮が引いているときは、砂の上に当時使われていた陶器の破片が無数に散らばっているそうです。
キララについて、詳しい情報は別海町郷土資料館(TEL 0153- 75-0802)へ問い合せると教えてくれるそうです。

まぼろしの町、キララは人々の想像をかきたてるのでしょう。「まぼろしのキラク」という歌のCDが新沼謙治さんが発売しています。
この歌は「第48回日本作詩大賞」(2015年11月)にノミネートされ、有名になりました。お聞きになりたい方は次のYouTubeをどうぞお聞き下さい。
◆まぼろしのキラク、https://www.youtube.com/watch?v=tyb0yZI6tD8
作詞 幸斉たけし/作曲 新沼謙治
歌唱 新沼謙治/レコード会社 日本コロムビア(株)(2015年2月発売)
以上のキララに関する説明はの出典は、http://betsukai-kanko.jp/taikenkanko/bunka/kiraku-2/ です。

さて話は変わって、広島県の福山に江戸時代初期まであった草戸千軒町の話にうつります。この町も完全に消えてしまったのですが、最近の発掘調査で存在が証明されたのです。
草戸千軒町は、山陽新幹線の広島県、福山駅の近辺にあったのです。鎌倉時代から室町時代にかけておよそ300年間存在した町でした。
瀬戸内海の芦田川河口の港町として栄えていました。それが消えてしまっていたのです。
しかし最近の遺跡の発掘調査から、時期によって町の規模は変遷しているが草戸千軒町は物流の交流拠点として繁栄しており、数多くの商工業者がいたと証明されたのです。そうして遠くは朝鮮半島や中国大陸とも交易していたとみられています。
近くには現在も存在する草戸稲荷神社と明王院があり、その門前町としても繁栄していたものとも考えられます。

ところが江戸時代初期の備後福山藩 水野家による芦田川の流路改修がキッカケになり、洪水で草戸千軒町が消え去ったと考えられているのです。
昭和時代後期(20世紀末)まで草戸千軒町の遺跡は芦田川と旧鷹取川が分かれる中州付近に存在していました。
遺跡からの出土遺物は広島県立歴史博物館で保存・展示されていて国の重要文化財に指定されています。
この博物館には往時の草戸千軒町の町並が実物大のジオラマで一部再現されている。

4番目の写真は草戸千軒町の再現された展示です。

5番目の写真も草戸千軒町の再現された展示です。当時、草戸千軒町は直接に瀬戸内海に面した港町だったのです。
また、遺跡からは多くの栽培植物も出土している他、4千点にものぼる大量の「中世木簡」(室町期)が出土しており、1982年には正式報告書『草戸千軒 木簡一』として紹介されているそうです。
「草戸千軒」の名は、江戸時代の中頃(元文から安永年間)に備後福山藩士・宮原直倁によって書かれた地誌『備陽六郡志』の中に、「草戸千軒という町があったが、寛文13年(1673年)の洪水で滅びた」という伝承が記載されていたことから付けられたもので、町についての様子は書かれていなかったため、想像上の幻の町といわれていたのです。
昭和時代に入った1930年前後の河川工事によって遺物が出土しようやく存在が確認され、戦後になって1961年から約30年間にわたり断続的に行われた大規模な発掘調査で全容が判明し、草戸千軒町の存在が証明されたのです。。
以上の草戸千軒町に関する説明の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/草戸千軒町、です。

以上、今日は、まぼろしのように忽然と消えてしまった2つの町をご紹介しました。北海道のキラクと広島県の草戸千軒町です。
考えてみると、このように消えてしまった村や町は全国に沢山あるに違いありません。
人の世の儚さ虚しさがしみじみと感じます。
皆様のお住まいの近辺にもこのように消えてしまった村や町がありますでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

農村に咲く夏の花々の写真をお楽しみ下さい

2018年07月12日 | 写真
農村とは大げさですが、東京都に隣接する埼玉県の所沢市のはずれの畑作地です。
車で1時間くらいドライブした所にあります。
花の好きな人の畑です。四季折々、何時行っても畑の隅に花々が咲いています。
今日も久しぶりに夏の花を撮りに行きました。
紅蜀葵、鹿の子百合、カンナ、緋扇などの花々の写真をお楽しみ下さい。









国宝の五重塔は日本が世界に誇れる独特な建築遺産

2018年07月12日 | 日記・エッセイ・コラム
五重塔とか三重塔は日本にしか無い木造の仏塔です。お釈迦さまの遺骨が中心柱の下に埋めてあります。
ミャンマー、タイ、ベトナムなどの上座部仏教圏では石やレンガで作られれた円錐形の塔で、日本の五重塔とは全く違う形です。
中国でも長安の大雅塔などの様にレンガを円筒形や六角柱の形に高く積み上げた仏塔です。
従って木造の五重塔は日本にしか見られない美しい建造物なのです。
その美しさの故に多くの人々が国宝の五重塔を眺めに行きます。そしてお釈迦さまの遺骨(舎利)へ祈ります。
構造は中央に心柱とそのまわりの12本の柱で支えられ、中は部屋もなく空洞です。五重の屋根とてっぺんに相輪がついています。
国宝の五重塔は次のように9つあります。
東寺五重塔(54.8m)、興福寺五重塔(50.8m)、醍醐寺五重塔(38.2m)、法隆寺五重塔(31.5m)、瑠璃光寺五重塔(31.2m)、羽黒山五重塔(29.4m)、明王院五重塔(29.1m)、海住山寺五重塔(17.7m)、そして室生寺五重塔(16.1m)です。
それではこの中から5つを選んで写真で示します。

1番目の写真は羽黒山 五重塔 (国宝)です。
羽黒山参道の上り口の杉並木の中に静かに立っています。東北地方では最古の塔といわれ、平将門の創建と伝えられています。
現在の塔は、約600年前に再建されたものと考えられています。高さが29.0mの三間五層柿葺素木造で、昭和41年には国宝に指定されました。近くには樹齢1000年、樹の周囲10mの巨杉“爺杉”があります。(http://kirakirauetsutabi.net/data/sight/000318.html )

2番目の写真は山口県山口市香山町にある瑠璃光寺五重塔です。高さは31.2メートルで1442年に建てられました。
現在の五重塔のある瑠璃光寺は、もともとは香積寺というお寺で、大内義弘が菩提寺として建てたお寺でした。大内義弘の死後、弟の盛見が、兄の菩提を弔うために、香積寺の境内に五重塔を建立に着手し、塔が完成したのは1442年で着工から30年後でした。
その後、寺の移転と同時に五重塔も解体され移築されるはずが、地元の人の嘆願書で塔が残ることが認められたのです。当時の地元の人の五重塔に対する愛情と気持ちが偲ばれます。
結果的に、五重塔だけが残ったのですが、1690年に山口市仁保というところから、現在の瑠璃光寺が移転され、瑠璃光寺の所有となったのです。瑠璃光寺の歴史も古く、曹洞宗の中国3寺のひとつで末寺も多くあったお寺でした。
(http://50no10.lpsec.net/modules/contents/index.php?content_id=7 )

3番目の写真は、国宝の法隆寺五重塔です。日本三名塔のひとつで、日本最古の五重塔です。
建築年代は飛鳥時代(680年頃)で高さは32.5メートルあります。
この五重塔の仏舎利(釈迦の遺骨)は、瑠璃の小壺に納められ、それを純金の器に入れ、さらに銀器に入れて、銅碗の中におき、瑠璃小玉葡萄鏡とともに孔中に安置し、銅版のフタがしてあります。この安置法は、インド伝来の風習で、それが奈良に残っているのは奇跡と言われています。
法隆寺金堂と共に世界最古の木造建築物です。
法隆寺五重塔は、外観的にも安定した整った美しさがある。
形式は、飛鳥時代のもので、(エンタシス)柱に膨らみがあったり、軒下に木組みに雲型のときようが使われています。 五重塔には、その四面に土で須弥山を構え、諸種の泥象が置いてあります。
(http://50no10.lpsec.net/modules/contents/index.php?content_id=7 )

4番目の写真は京都市にある醍醐寺 五重塔です。
高さは37.4メートルで、建築年は平安中期の952年です。
屋根の大きさの逓減率など非常によくバランスがとれて、相輪もどっしりしていて立派です。
醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工し、村上天皇の951年に完成しました。応仁の乱の時、醍醐寺の山全部が焼失しましたが、五重塔のみ奇跡的に残ったのです。京都府下最古の建造物です。
内部の壁画は日本密教絵画の源流をなすものといわれています。界曼荼羅と真言八祖を表した壁画は、平安絵画の遺品として重要であり、五重塔本体とは別に「絵画」として国宝に指定されています。
( http://50no10.lpsec.net/modules/contents/index.php?content_id=9 )

5番目の写真は広島県福山市草戸町にある明王院五重塔 です。
明王院は、807年空海により創設されたお寺です。南北朝時代を代表する和様の建築物です
高さは29.1メートルで南北朝時代の1348年に建てられました。
初層中央の仏壇には大日如来、不動明王、愛染明王が安置され周囲の壁面には金剛界37尊が極彩色で描かれています。内部の公開は33年に一度の機会しかなく、次は2024年の予定です。
明王院五重塔の建築は、純粋な和様建築の雄大な建築といわれています。
五重塔の前に流れている芦田川には古い町が埋もれてしまった「草戸千軒町遺跡」があります。
(http://50no10.lpsec.net/modules/contents/index.php?content_id=12 )

さて私は次のように国宝の仏像の写真を沢山ご紹介して来ました。
「 国宝の仏像は日本が世界に誇れる宗教芸術」(2018年07月09日掲載)
そして今日は国宝の五重塔の写真をご紹介しました。
そのような記事を書くのが非常に楽しかったのです。歴史のある美しいものを一つ一つ選んで鮮明な写真を探す作業が楽しいのです。
そして何よりも心が躍るのです。昔の日本人の仏教に対する篤い信仰に感動するのです。そうしてそんな日本人は現在の日本人よりも幸福だったのではないかという感想が頭をよぎるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)



西日本豪雨の被害状況の総括と被害者のために祈り

2018年07月11日 | 日記・エッセイ・コラム
今回の西日本豪雨の被害は広範囲にわたっており、その被害状況の正確な調査はまだ終わっていないようです。
しかし今朝の読売新聞によると死者158人、不明者56人となっています。死者158人と不明者56人の合計は214名となっています。
そして各県別の死者と不明者の合計の数は次のように報じられています。
岐阜1、滋賀1、京都5、兵庫2、奈良1、鳥取0、岡山59、広島103、山口3、愛媛28、高知3、福岡4、佐賀2、長崎0、鹿児島2、総合計214名。
犠牲者の多かった場所は岡山県の59名と広島県の103でした。

1番目の写真は各県別の被害状況を示した地図です。この図は7月7日午後11時の時点における被害状況です。この数字を上記の7月11日の読売新聞の数字と置き換えると正確な被害状況を示す図になります。
この図の出典は、https://www.yomiuri.co.jp/matome/20180706-OYT8T50006.html です。
この報道にもとずいて西日本豪雨の被害状況の写真を示します。

2番目の写真は濁流に流された山口県周南市樋口の民家跡です。

3番目の写真は土砂や流木が流れ込んだ住宅地です。(7日午後1時23分、広島県坂町で、読売新聞社ヘリから=菊政哲也撮影)

4番目の写真は広範囲で水につかった家屋です。(7日午前8時49分、倉敷市真備町川辺で)

5土番目の写真は堤防が決壊し、浸水した住宅の屋上で救助を待つ住民ら(7日午後0時31分、岡山県倉敷市で、読売ヘリから=菊政哲也撮影)

この様な西日本豪雨の被害に関して今朝の朝日新聞の電子版は次のように報じています。
『西日本豪雨死者158人、不明72人 避難者は約1万人』
https://www.asahi.com/articles/ASL7B5T2DL7BPTIL03N.html
 西日本を襲った豪雨の被害は10日、さらに拡大した。13府県で死者が158人、心肺停止が1人、行方不明や連絡を取れない人が72人に上っている。梅雨明けした被災地では、多くの地点で今年最高の暑さを記録。広島県と岡山県を中心に計約1万人が避難生活を送る中、災害関連死など被害の広がりを防ぐ対策が急務になっている。
列島各地の大雨被害の状況
 川が氾濫し大規模な浸水被害を受けた岡山県倉敷市真備町では、水が引き始めた9日以降、捜索活動が本格化。遺体が相次いで見つかり、県内では10日、新たに18人の死亡が確認された。広島県や高知県、愛媛県でも死者が増えた。
 朝日新聞がまとめた10日午後9時時点の府県別の死者は広島58人、岡山54人、愛媛26人など。行方不明者は広島45人、岡山21人など少なくとも計72人いる。
 気象庁は9日の東海、北陸、近畿、中国、九州北部に続き、10日に四国での梅雨明けを発表。高気圧に覆われて晴れた被災地は、各地で今年最高の暑さを観測した。愛媛県大洲市で34・8度、広島市中区では33・5度まで上昇した。
 総務省消防庁の10日午後1時45分時点のまとめでは、避難者は15府県におり、広島県で約4300人、岡山県で約4100人、愛媛県で約1千人に上っている。
 広島県東広島市では8日夜、避難所に避難していた80代の女性が息をしていない状態で見つかって死亡が確認された。
 暑さやトイレ不足による避難所の衛生状態の悪化が懸念される中、国は支援を本格化した。経済産業省は10日までに、岡山県や広島県の避難所にクーラー、愛媛県には仮設トイレを送った。
 厚生労働省によると、10日正午時点で、8県で「災害派遣医療チーム(DMAT)」計88隊が活動。さらに、岡山県には12日、避難所で被災者の状況を把握し、被災自治体を支援する「災害時健康危機管理支援チーム(DHEAT)」を派遣することを決めた。8終り)

以上の様に朝日新聞では死者と不明者の合計の犠牲者総数を230名としています。一方、今朝の読売新聞は214名としています。
この違いはまだ被害状況が正確には分かっていないことを示しています。今後の調査の進行が待たれます。

ここで、私はこの230名の犠牲者のご冥福を慎んでお祈りいたします。

犠牲者のご家族のためにお祈りいたします。
そして1万人以上の避難者の生活が少しでも早く良くなるようにお祈りいたします。
家を流された人々が再び安定した生活に早く戻れるようにお祈りいたします。

国宝の仏像は日本が世界に誇れる宗教芸術

2018年07月09日 | 日記・エッセイ・コラム
日本には世界に誇れる文化がいろいろあります。
そこで今日から、その具体的な例を上げて説明して行きたいと思います。
まず始めは国宝の仏像を取り上げたいと思います。
国宝の仏像は沢山ありますが、ここでは私の好きな7つの仏像の写真を示します。

1番目の写真は法隆寺の夢違(ゆめたがい)観音像です。像高87.9cmで、法隆寺の東院絵殿の本尊です。
悪い夢を良い夢に変えてくれる伝説からこの名前がつけられたそうです。
柔和な微笑み、衣紋が美しい薄い衣、丸みのある体、指先まで気を配ったしなやかさが相まって、「夢違」の名に相応しい美しさを持つ仏像です。
頭部の飾りをのぞいて、全身を1度に鋳出し鍍金をした蜜蝋鋳型による造形です。中国の初唐の影響が色濃く残る奈良前期の特色がある仏像です。説明は、https://art.iroiro.co/article/art/buddha/horyuji-yumetagaekannon/ から抜粋しました。

2番目の写真は奈良の新薬師寺の薬師如来と十二神将です。奈良時代建立の本堂の中に並び、薬師様を護る十二神将たちです。圧巻です。約1300年ものあいだ睨み付けている十二神将たちは天平塑像の傑作です。
なお新薬師寺の「新」は“あたらしい”ではなく“あらたかな”という意味の「新」です。
説明文は、http://blog.livedoor.jp/takenoji/archives/71037568.html から抜粋しました。

3番目の写真は鎌倉時代に活躍した仏師、運慶が彫った「木造不動明王立像」です。
 運慶の不動明王像など5体は1186年の作品で、卓抜した技量と写実的で力強い作風が評価されています。
詳しくは、https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2702K_X20C13A2000000/ をご覧下さい。

4番目の写真は快慶の文殊菩薩です。奈良の桜井市の安倍文殊院にあります。
獅子に乗り4人の脇侍を伴う渡海文殊で5像全てが国宝です。鎌倉時代・建仁3年(1203年)に快慶によって造立されました。
このお寺は大化の改新(645年)に創建された日本最古に属する寺院です。華厳宗東大寺の別格本山です。
運慶と快慶は、東大寺南大門の国宝「金剛力士像」の共作者として知られる。快慶の文殊菩薩像など4体は、東大寺大仏の再興事業に関連して1203~20年に制作されました。

5番目の写真は奈良の室生寺の国宝の金堂にある仏像達です。金堂須弥壇 左から十一面観音、文殊菩薩、釈迦如来、薬師如来、地蔵菩薩(この写真では見えない)の各像です。手前に立つのは十二神将像です。
詳しくは、https://gurutabi.gnavi.co.jp/p/p_3734/ をご覧下さい。

6番目の写真は奈良の興福寺の阿修羅像です。国宝で天平時代の作です。
「天平の美少年」と言われています。表情にあどけなさの残る阿修羅像は有名な国宝ですが、八部衆の一人です。詳しくは、https://allabout.co.jp/matome/cl000000004569/ をご覧下さい。

7番目の写真は大阪の天野山金剛寺の木造大日如来坐像・木造不動明王坐像・木造降三世明王坐像です。
下記の説明は、文化庁の解説、
http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/2017031002_besshi02.pdf … です。
「木造大日如来坐像 一軀 と木造不動降三世明王坐像 二軀 について」
【所有者】宗教法人天野山金剛寺(大阪府河内長野市天野町996) 【大きさ】像高 大日313.5㎝/不動201.7㎝/降三世230.1㎝。
3メートルを越える巨大な大日如来像を中尊とする三尊像である。中尊は金剛寺の草創 期である1180年前後の作で、この時代の大日如来像 を代表する作例と言える
光背・台座に弘法大師空海に由来する図像的な特色を示 す点でも注目されます。
不動・降三世明王は最近の保存修理で銘文が確認され,仏 師快慶の弟子,行快が天福2年(1234)に造ったことが判明しました。三尊としての構成は智証大師円珍が中国よりもたらしたとされる尊勝曼荼羅に依拠してり,この図像になる唯一の遺品としても貴重である。 保存修理に伴い,この度,初めて本格的な調査が実施された結果,この三尊像 がおよそ半世紀をかけて造られ,以後おおむねその状態をとどめて今日まで伝え られてきたこが分かりました。

さて話は飛びますが、1870年の頃、イギリス人のレイトナーという学者がインド西部のガンダーラで数多くの仏像を発掘してイギリスに持ち帰りました。それらの仏像の詳しい研究の結果、ガンダーラの仏像はギリシャの彫刻の影響を強く受けていることを証明したのです。
仏像はインドで生まれ、ガンダーラでギリシャ彫刻の影響を受け、それが中国へ伝ったのです。その中国から日本へと伝承されたのです。
そして日本独自の仏像も沢山作られたのです。特に国宝の仏像は日本独自のもので世界に誇れる宗教芸術と私は信じています。
仏像のそんな悠久の歴史を想うと気持ちが広くなります。

尚つぎの記事にも国宝の5つの美しい仏像の写真が出ています。
「多種多様な仏像のある日本の仏教の多神教性」(2018年07月06日の掲載記事)
1番目の写真は京都の広隆寺の木造弥勒菩薩半跏思惟像です。国宝です。
2番目の写真は奈良の大仏です。お釈迦さまではありません。盧舎那仏です。
3番目の写真は奈良・東大寺戒壇院の四天王立像です。奈良時代の塑像の最高傑作といわれる。
4番目の写真は京都の教王護国寺の帝釈天の像です。もとはヒンズー教の神でした。
5番目の写真は京都の三十三間堂の千手観音です。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、正式名称を蓮華王院本堂と言います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)



美しい色彩を楽しむための写真を撮って来ました

2018年07月09日 | 写真
今日は高島屋に行きました。デパートで感心するところは四季折々の婦人服売り場です。季節の色が多彩に取り合わせて飾ってあるのです。
デパートに行くと、そんな色彩の取り合わせを眺めて楽しんでいます。
今日、撮って来た写真をお送りします。お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。