後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

タイ洞窟の少年4人救出を見て感動す

2018年07月09日 | 日記・エッセイ・コラム
6月23日に、タイ北部チェンライ郊外で、サッカーチームの少年ら12人と男性コーチ(25)が国立公園内のタムルアン洞窟探検に行って、洞窟内に閉じ込められました。
昨夜、この13人のうち4人が16日ぶりに救出されたのです。私は深く感動しました。

1番目の写真は昨夜、救出した小年を病院へ運ぶ救急車の写真です。
これで全員を救出す可能性が確かになったのです。
しかしこの救出にはいろいろな事があったのです。
日本の新聞では個人名は無視する傾向にありますが、外国のマスコミは個人を尊重しその名前を明記します。
そこで今日は外国での報道ぶりをご紹介します。
7月6日には、救出に参加していた元、タイ海軍の特殊部隊の隊員だった潜水専門家が亡くなりました。亡くなったのはボランティアのサマン・クナン氏(38)です。洞窟内の子どもたちに酸素のタンクを運ぶ仕事をして戻る途中、帰らぬ人となったのです。
ご冥福をお祈りします。

それ以前の7月2日に、洞窟の入り口から約5キロの岩場に少年らがいるのを英国人ダイバーらが発見したのです。13人全員の無事が確認されたニュースには感動し嬉しくなりました。そこでそれに関する記事をお送りします。

『タイ不明少年ら、発見者は英ダイバー 世界の洞窟で救助経験』
【7月4日 AFP】、ttp://www.afpbb.com/articles/-/3181098
タイ北部チェンライ(Chiang Rai)県で、大雨により洞窟に閉じ込められていた少年サッカーチームの捜索活動では、世界中の困難な救助活動に挑んできた2人の英国人ボランティアダイバーが、少年らの発見に貢献した。
 英国から捜索活動に参加したのは、普段は消防士として働くリチャード・スタントン(Richard Stanton)さんと、ITエンジニアのジョン・ボランセン(John Volanthen)さん。2人は、行方不明になってから9日が経過していた少年12人とコーチ1人を見つけるため、水位が上がった洞窟の長く曲がりくねった通路を進み続けた。

 捜索隊にはさらに、もう1人の英国人、ロバート・ハーパー(Robert Harper)さんに加え、タイなど世界各国の専門家らが参加していた。英国のボランティア救助団体「英洞窟レスキュー協会(BCRC)」のビル・ホワイトハウス(Bill Whitehouse)さんによると、その中でもスタントンさんとボランセンさんは捜索隊の「最前線」に立っていたという。
 救助隊と短い会話を交わしたというホワイトハウスさんは英BBC放送に対し、2人が「最後の区間を潜り、行方不明の一行が高台にいた空間にたどり着いた」と説明。「上流に向け潜っていたため、水流に逆らって泳いだり、壁に沿って自分の体を引っ張ったりする必要があった」と述べた。実際の潜水区間は約1.5キロだが、うち半分ほどが完全に水に浸かっており、総潜水時間は約3時間だったという。

「やらなければならない仕事がある」
 イングランド南西部ブリストル(Bristol)在住でITエンジニアのボランセンさんと、同中部コベントリー(Coventry)在住の消防隊員であるスタントンさんは、過去にも難易度の高い潜水活動に参加してきた。
 50代半ばのスタントンさんは2012年、エリザベス女王(Queen Elizabeth II)から大英帝国勲章第5位のメンバー章(MBE)を受け取った際、地元紙に対し、自身の最大の功績はメキシコの洞窟に閉じ込められた英兵6人の救出活動に協力したことだと回想。洞窟潜水を始めたのは18歳の時、テレビのドキュメンタリー番組を見たのがきっかけで、当初はただの「趣味」だったという。
 一方、40代とされているボランセンさんは2013年、サンデー・タイムズ(Sunday Times)に対し、洞窟潜水に必要なのは冷静さであり、「パニックとアドレナリンは特定の状況では有効だが、洞窟潜水ではそうではない」と話していた。
 タイ入りした2人はメディア取材を避けており、ボランセンさんは現場に到着した際に記者団に対し、「やらなければならない仕事がある」とだけ語った。(c)AFP

さてタイ王国は日本と非常に違う文化を持っています。そこで簡単に日本と違う点を3つだけご紹介します。
(1)現在は軍事政権独裁ですが、その上にラーマ10世という王様が君臨しています。
現在は軍事政権独裁ですが、現在でもチャクリー王朝の王様のいる王国です。国王の権限が大きく、不敬罪のある社会なのです。
この王朝は1782年(タイ仏暦2325年)に成立したのです。現在の王様は初代から数えて10代目のラーマ10世です。

(2)西暦でなく佛暦を用いている上座部仏教国です。
上座部仏教はまたの名前をテラワーダ仏教とも言います。英語で書くと Theravada Buddhism となります。南伝仏教徒やパーリ仏教とも言います。

2番目の写真はTheravada仏教の僧侶達の写真です。上座部仏教では仏像はお釈迦さまの像です。日本のように観音像や薬師像や大日如来像なのようにいろいろありません。
この王国は 仏教を大切にしている文字通りの仏教国なので、お釈迦様が入滅した翌年の西暦の紀元前543年を仏滅紀元元年としている仏歴を日常生活に使っています。
ちなみに私は1936年生まれですから、これに543年を加えた仏歴の2479年に生まれたことになります。
現在のタイの人々はこの仏歴が身についていて西洋の西暦へ換算するのが難しい人々が多いそうです。

(3)タイでは全員がある期間、出家します。
出家するためには普通20歳以上でそれまで悪いことをしていないことが大切なのです。
出家の目的はお釈迦さまの教えを修行を通してより深く理解するためです。
出家の期間はいろいろですが、大体3ケ月くらいと言われています。それを済ませると一人前の大人と見なされます。
ですからタイの社会では出家は成人への通過儀礼として行われるとも考えられます。
しかしその一方で、自分の精神力を強めたり、社会性をつけたいなどの目的もあります。
基本的には出家で功徳を積み親や先祖の恩に報いるということが基本になっています。

写真で出家した少年達や若者の托鉢の風景をご紹介したいと思います。

3番目の写真は少年僧の托鉢です。道端に座って食べ物を寄進している女の敬虔な表情にご注目下さい。

4番目の写真は青年僧の托鉢です。左に普通の中年夫婦が籠いっぱいに食べ物を入れて僧侶一人一人へ寄進しています。右側には屋台を出して何か食べ物を売っている人も写っています。托鉢僧は商売ものには近づきません。タイの街角の日常の風景です。

5番目の写真は托鉢を終えた青年僧が列を作って帰る姿です。その表情に深い宗教的な静かさが宿っていることにご注目下さい。托鉢は釈迦に帰依する心を強める祈りなのです。写真に写っている僧達は皆普通の人なのです。ある期間だけ出家しているのです。

さて人間の思わぬ悲劇は、その国の文化や政治に関係無く起きます。今回の洞窟で起きた悲劇はタイが仏教国だということとは全く関係がありません。
しかしこの際にタイ王国の文化を少しばかりご紹介いたしました。

今日は、全員が無事救出されるようにお祈りします。救出隊にも怪我や犠牲が起きないようにお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

夏の青田、2000年前から日本の原風景

2018年07月08日 | 写真
今日は晴れ上がった日曜日です。午前中はミサに行き、午後は緑の樹木に囲まれた多摩尾根幹線道路をドライブしました。
目的地は町田市の小山田緑地の近辺の水田地帯です。そこには2000年前の弥生時代から日本の原風景だった夏の青田が広がっているのです。
稲田の見えない街中に住んでいると、時々、水田風景が無性に懐かしくなります。そんな時は必ず眺めに来る田園地帯です。
思い返すと、夏になると緑の稲田の広がる仙台平野を横切って塩釜港から桂島や宮戸島の海水浴場に通ったものです。
仙台から塩釜へ行く電車の窓から稲の匂い一杯の暑い風が吹き込みます。当時の電車には冷房装置なぞありません。窓を開けて風を入れるのです。ですから夏というと稲の匂いを思い出すのです。同じような思い出を家内もよく話しています。夏休みに鎌倉から祖父母の家に泊まりに行く時レールの左右に広がる田圃を見ると、何故か懐かしい気持ちになったそうです。
私達は夏になれば青田の広がる風景を心に思い浮かべます。そして稲の匂いがする風を思い出すのです。
先程、撮って来た写真をお送りします。昔の夏の青田の風景と共に稲の匂いを思い出して頂けたら嬉しく思います。









科学と宗教の違いを簡単に言えば、

2018年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム
宗教を信じればすべてのことが理解出来ますと私は時々書きます。この表現は単なるレトリックで、正確に書けば、「宗教を信じれば科学では理解出来ない世界があることが理解できます」と書くべきです。
今日は日曜日なので少しだけ宗教のことを書きたいと思います。「科学と宗教の違いを簡単に言えば、」という題目なので、短く、簡単に書きます。

そこで早速ですが、禅宗とは何かという事から説明します。
簡単です。お釈迦様が悟りを開いたのは菩提樹の下で座禅をしていた時ということになっています。ですから座禅をすればお釈迦さまの教えが理解出来る。こういう考え方が中心になっているのが禅宗です。座禅という修行だけでなく全ての作務の労働が修行になります。
禅宗は判りやすいので中国や朝鮮半島や日本に広がり数多くの禅宗系の宗派のお寺があります。
その禅宗の言葉に「不立文字」という言葉があります。

文字とは経典の言葉のことです。「不立文字」とは経典だけをいくら読んでも経典の意味が実感できないという意味です。読んだだけでは信じる事ができないというのです。すなわち宗教は言葉では説明がつかないのです。いくら精密な理論を用いても宗教の本質は掴めないのです。これは禅宗に限らずいろいろな宗教に言えることです。

座禅の体験を繰り返しているとある時、目からうろこが落ちるように経典の内容が理解出来るのです。そして、諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静などという言葉の意味が氷が解けるように簡単に理解出来るのです。

以前、この「不立文字」という言葉を知ったとき、私は思わず、「そうだ!」と叫びました。キリスト教において聖書を何度も、何度も精読しても信者にはなれません。
例えば、カトリックの信仰においては、教会でのミサが一番大切にされています。それは宗教的訓練を重要視しているからです。
そのミサの中でイエス様が最後の晩餐でパンを裂き、弟子たちに与えた行為を再現するのです。そして信者の一人一人が神父さまから小さなパンを貰うのです。
これを毎週繰り返していると聖書の文章が活き活きと理解出来るのです。これは禅宗でいうところの修行に相当します。
勿論、これを洗脳という人がいるかもしれません。しかし一旦信じてしまうと他人の非難があまり重要でなくなります。神の考えの方を重視するようになるのです。

宗教を信じるためにはいくら本を読んでも駄目です。座禅とかミサに参加するとか巡礼をするとか体を動かさないと駄目なのです。それを宗教的訓練と言います。それは仏教の座禅や滝行や回峰行などいろいろな修行に相当します。

宗教は理屈でなく直観で判る分野なのです。
科学では、仮説の理論を組み立て、実験で証明出来る自然現象が研究の対象です。宗教は実験で再現不可能な人間の心の問題を対象にしています。
今日の結論です。科学と宗教の違いを簡単に言えば、理論で説明が出来るのが科学であり、説明出来ないのが宗教なのです。

この世には宗教を信じている人と信じていない人が厳然として存在しています。
此の世で一番重要なことは、宗教を信じている人と信じていない人がお互いに尊敬しあうことです。
無宗教の人は信者をさげすんだり、バカよばわりはしていけません。と同時に信者は無宗教の人を差別したり、お付き合いを拒んだりしていまいけません。これこそが真の平和を実現する鉄則なのです。
両者ともこの小さな青い水の惑星の住人なのですから。

今日の挿絵代わりの写真は先週、北八ヶ岳の八千穂高原で撮った日本一の白樺群生地の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)











多種多様な仏像のある日本の仏教の多神教性

2018年07月06日 | 日記・エッセイ・コラム
一般に仏教を眺めると非常に複雑な発展の歴史があって、簡単には理解できません。
そこで大雑把にその発展の歴史を書いてみます。
佛教は紀元前6世紀の中葉にお釈迦様によって作られた世界宗教です。
それが2つに分かれ、上座部仏教(南伝仏教やテラワーダ仏教とも呼ばれます)と大乗仏教(北伝仏教)の二大宗派になりました。
上座部仏教は紀元前4世紀頃に初期仏教から生まれ、それがスリランカに渡り、現在のようにミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムなどに普及しています。
一方、大乗仏教はインドで紀元前1世紀頃に作られ、1世紀以後に中央アジアから中国、朝鮮、台湾、日本へと伝承されました。従って日本に伝承された仏教はインド出来た大乗仏教だったのです。
尚詳しくは、「日本の仏教と釈迦の教えの違い(3)般若心経は大乗仏教のお経」(2018年05月17日掲載記事)をご覧下さい。

インドから大乗仏教の教典を中国の長安に運んで漢訳した人の代表は西暦400年前後に漢訳した鳩摩羅什と600年代に漢訳した玄奘三蔵法師です。ですから鳩摩羅什と玄奘を二大訳聖と呼びます。

鳩摩羅什(344年 - 413年)はインド系の西域僧で、後秦の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳します。彼が漢訳したお経は次のように日本でも広く親しまれています。
『仏説阿弥陀経』1巻
『摩訶般若波羅蜜経』27巻(30巻)
『妙法蓮華経』8巻、その他、多数。
一方、玄奘三蔵法師の漢訳した「般若心経」などは有名なので省略します。

さて、日本に来た仏教は中国でも道教などと混淆し、一層、多彩なっています。
そこで今日は日本で崇拝され信仰の対象になっている多種多様な仏像の一覧表をまず示します。以下の仏像は、『仏の一覧、https://ja.wikipedia.org/wiki/仏の一覧』からの抜粋です。

本来、佛像とは、仏教における最高の存在であり、悟りを開いた者である釈迦如来の像だけとするべきでしょう。
しかし後の大乗仏教運動によって、悟りを開こうと修行している菩薩、密教特有の明王、天部の護法善神などを含めた全ての像を仏像と言うようになりました。
また顕教と密教の相違、あるいは宗派の違いにより仏像は異なります。
このように大乗仏教では多くの如来や菩薩などが後に生み出されたために多種多様の仏像があるのです。
なお上座部仏教では、仏像は釈迦牟尼仏のみの像であり、釈迦の像以外は信仰の対象とはしていません。
それでは日本の多種多様の仏像の一部を以下に示します。
以下は次の7種の順に従って示してあります。
1、如来部、2、菩薩部、3、観音部、4、明王部、5、天部、6、開祖・高僧、7、垂迹神

(1)如来部
釈迦如来 (釈迦牟尼仏)
阿弥陀如来(阿弥陀仏、無量寿仏、無量光仏)
薬師如来(薬師瑠璃光如来、薬師仏)
大日如来(遍照如来、毘盧遮那仏)
阿閦如来(あしゅくにょらい)
無量寿如来
天鼓雷音如来
普賢王如来
多宝如来
毘盧遮那仏(盧遮那仏、遍照遮那仏)
弥勒如来

(2)菩薩部
文殊菩薩
普賢菩薩
普賢延命菩薩
薬王菩薩
地蔵菩薩
六地蔵
虚空蔵菩薩
虚空蔵菩薩
弥勒菩薩
観音菩薩(観世音菩薩または観自在菩薩の略)
聖観音
千手観音
馬頭観音(馬頭明王)
勢至菩薩
日光菩薩
月光菩薩

(3)観音部
観音菩薩(観世音菩薩または観自在菩薩の略)
阿弥陀如来(阿弥陀仏、無量寿仏、無量光仏、観自在王如来)
千手観音
十一面観音
如意輪観音
馬頭観音(馬頭明王)
大黒天(摩訶迦羅、瑪哈嘎拉、チベット仏教の忿怒相の大黒天、観音の化身)

(4)明王部
不動明王
金剛夜叉明王
愛染明王
孔雀明王
青面金剛

(5)天部
梵天 - ヒンドゥー教の神ブラフマーに由来
帝釈天 - ヒンドゥー教の神インドラに由来
四天王
兜跋毘沙門天
大自在天 - ヒンドゥー教の神シヴァに由来
弁才天 - ヒンドゥー教の神サラスヴァティーに由来 - 七福神の一柱。
大黒天 - ヒンドゥー教の神マハーカーラ(シヴァの別名)が日本の大国主命と習合 - 七福神の一柱。
吉祥天(功徳天) - ヒンドゥー教の神ラクシュミーに由来
韋駄天(陰天) - ヒンドゥー教の神スカンダに由来
鳩摩羅天 - ヒンドゥー教の神クマーラに由来
摩利支天 - ヒンドゥー教の神ウシャスに由来
歓喜天(聖天)- ヒンドゥー教の神ガネーシャに由来
鬼子母神 - ヒンドゥー教の神ハリティーに由来
焔摩天(閻魔) - ヒンドゥー教の神ヤマに由来
深沙大将(じんじゃだいしょう)
寿老人
福禄寿
布袋
恵比寿
関帝菩薩

(6)開祖・高僧
羅漢
祖師像
聖徳太子
達磨大師
天台大師(智顗)
善導大師
伝教大師(最澄)
弘法大師(空海)
慈恵大師(良源、元三大師、角大師とも)
円光大師(法然)
見真大師(親鸞)
立正大師(日蓮、日蓮正宗では仏宝として崇められている)
神変大菩薩役行者(えんのぎょうしゃ)
行基菩薩

(7)垂迹神
八幡大菩薩 (はちまん)- 日本の神道の神である八幡神の別称。
秋葉権現(あきば)
愛宕権現(あたご)
飯縄権現(いづな)
越知大権現(おち) - 白山修験
金毘羅権現(こんぴら)
熊野権現(くまの)
三宝荒神(さんぽうこうじん)
牛頭天王(ごずてんのう)
蔵王権現(ざおう)

以上のような数多くの仏像を見ていると日本の仏教は多神教的な宗教と言えます。
お釈迦様は神の存在を認めず、人間が出家して戒律を守れば悟りの境地に入れると教えました。ですから仏教を多神教と断定するのは間違いです。
しかしこの記事では「多神教的」とか「多神教性」という言葉を使っています。その理由を次に示します。
釈迦の教えをよく勉強している僧侶たちの全ての仏像に対する祈りの例です。
「どうか私を悟りの境地にお導き下さい。私の全てをお釈迦さまへ捧げます。お釈迦さまに帰依します」
という内容ではないでしょうか。
一方、仏教を深く勉強していない大衆の人々の祈りの例を示します。
「どうか家内安全を守って下さい。商売も繁盛するようにして下さい」
この祈りは神道の神社での祈りと同じです。
すなわち多種多様な仏像を神道の神々と同じように信仰しているのです。そこには神々が存在する宗教なのです。ですから私は「多神教的」とか「多神教性」という言葉を使うのです。

一方私は一神教のカトリックの信者のはしくれにいます。ですから仏教の多神教的な性質が明快に分かる気がするのでしょう。
誤解を避けるために強調します。どんな宗教にも絶対に優劣はありません。一神教だろうが多神教だろうが絶対に優劣などありません。

今日の挿し絵代わりの写真は奈良と京都にある仏像の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は京都の広隆寺の木造弥勒菩薩半跏思惟像です。国宝です。

2番目の写真は奈良の大仏です。お釈迦さまではありません。盧舎那仏です。

3番目の写真は奈良・東大寺戒壇院の四天王立像です。奈良時代の塑像の最高傑作といわれる。

4番目の写真は京都の教王護国寺の帝釈天の像です。もとはヒンズー教の神でした。

5番目の写真は京都の三十三間堂の千手観音です。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、正式名称を蓮華王院本堂と言います。

外国の学校を卒業すると人生観が変わる

2018年07月06日 | 日記・エッセイ・コラム
人がどのような学校を卒業するかは運命のようなものです。
それを人生の終わり頃に振り返ってみると、私の人生観に対して意外に大きな影響を与えていることに気が付きます。人生観や、ものの考え方へ大きな影響を与えているのです。国際観にも大きな影響を受けました。
例えば私は中国や台湾や韓国や北朝鮮へ対して親近感を持っています。これらの国のことを好意的に書きます。
すると多くの読者から厳しい非難のコメントを頂きます。
そこで何故、私の国際感覚は多くの日本人と違うのか考え込んでしまいます。

最近気が付いたことですが、私の国際感覚はアメリカの大学を卒業したことで決定されたのだと思います。私の中国や台湾や韓国や北朝鮮へ対しての親近感はアメリカの大学を卒業した時に出来たのです。
卒業、卒業と繰り返し強調するのは理由があるのです。アメリカの大学は入学は易しいのですが、卒業するためには何度も厳しい筆記試験や口頭試験を通らなければなりません。日本の大学と全く違う世界なのです。
それでは私の人生観がどのように変わったか例をあげて書いてみます。

(1)見かけによらず優しい先生に世話になる。
その先生はギャングのアルカポネそっくりでした。ところが講義が分かり易く、試験も簡単な問題ばかりです。人柄が優しくて私の友人を日本から招んでくれました。奨学金も出してくれました。私は絶対に「人は見かけによらない」という人生観を持ったのです。

(2)終生付き合った友人が2人出来ました。
一人はB29で日本空襲に何度も来た空軍大佐でした。もう一人は真面目一方の男でした。釣りが趣味で終いにはアラスカに住みついて大物の鮭を釣って喜んでいました。
空軍大佐は英語の出来ない私にノートを貸してくれたり、宿題を助けてくれたりしたのです。
この2人の友人のお陰で、私は「友情は国籍に関係ない」という人生観を持ったのです。

(3)私の入っていたクラスは18人位でしたが私以外は皆ヨーロッパ系の人でした。
そうしたらある時、韓国人が入ってきました。すると周りの友人達が私に韓国人へ親切にしろと言うのです。隣の国同士だから仲良くしろと言うのです。
戦後直ぐの頃、私は朝鮮人の友人の家によく遊びに行ったことを思い出しました。その朝鮮人の家族から大切にされたことを思い出しました。そんな経験もあったお陰で、私は「漢字文化圏の人は私の親類だ」という人生観を持つようになったのです。

(4)私の指導教官は個人的なことまで全ての面倒をみてくれました。
婚約者を日本から呼びよせてアメリカで結婚式と披露宴をしました。その折、指導教官夫妻が全ての準備をしてくれたのです。
結婚式と披露宴には同級生が夫妻で出席してくれました。
家内の出産の際にもいろいろお世話になりました。我々をアジア人として差別しなかったのです。
この経験から私は、「人種差別は絶対にすべきでない」という人生観を持つようになりました。
さて一方、多くの日本人は韓国人や中国人を蔑視しています。彼等を信用しないのです。そのような態度を見ると悲しくなります。
他国を蔑視することで自分の人格を傷つけていることに気がついていなのです。人種差別は自分の人格を破壊していることに気が付いていないのです。残念です。

運命のいたずらか、私はアメリカの大学を卒業しました。正確に言えばオハイオ州立大学の大学院を卒業しました。
そのせいで私の人生観は大きく変わったのです。仕方の無いことです。
この欄でしばしば国際関係に関する記事を書くと自分の国際観が多くの日本人と違うことに気が付きます。どちらが正しく、どちらが間違っているかは判然としません。どちらも間違っているのかも知れません。それも人生なのでしょう。

今日の挿し絵代わりの写真は先週、八ヶ岳山麓で撮った梅雨明けの空のたたずまいと八千穂高原の白樺林の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





北朝鮮が平壌を訪れるポンペオ国務長官へのお土産は何か?

2018年07月05日 | 日記・エッセイ・コラム
6月12日の歴史的な米朝会談の後、何も起きませんでした。トランプ大統領は200柱の米兵の遺骨が返還されたと言ってますが、確証がありません。
この1ケ月の間、非核化の具体的な進展が皆無だったので、多くの人々は朝鮮半島の非核化は不可能だろうと考えるようになりました。
例えば今日の読売新聞によると日本人の83%が近い将来の非核化は無いと考えています。一方、韓国人の66%も北朝鮮の非核化は出来ないと考えています。これは読売新聞と韓国の日報社の共同世論調査の結果です。
要するに日本人と韓国人の大部分は北朝鮮の非核化は無理だろうと考えているのです。
しかるにトランプ大統領だけが検証可能な不可逆的な完全非核化を叫んでいるのです。それは空しい叫びです。安倍総理もトランプ大統領の走狗となって空しい叫びを上げています。
このような状況で今日から3日間、アメリカのポンペオ国務長官は平壌を訪問します。招待している以上、手ぶらで帰すわけにはいきません。何かトランプ大統領の喜びそうな「おみやげ」を渡さなければなりません。
そのお土産は以下のものの一つか、全部でしょう。
(1)朝鮮戦争のアメリカ兵の全ての遺骨の調査と遺骨の返還のための交渉会議の設置
(2)朝鮮戦争の終結と平和条約作成のための協議の開始
(3)核関連施設の一部の申告と廃棄作業の開始

さて朝鮮半島は完全に非核化しなくても良いものでしょうか?
現実的に考えれば核兵器が残っても北朝鮮が使えない国際関係を作れば良いのです。
状況はその方向に向かっていることは明らかです。
それにしても6月12日の米朝会談の本当の勝者は中国だったという説があります。韓国も北朝鮮と交流が始まり経済的にも潤います。得るところ大だったのです。
一方、日本は北朝鮮の原油の瀬取りの写真を何度も発表し、嫌がらせをしました。アメリカの厳しい検証を叫び北朝鮮の嫌がらせをしたのです。ですから日本は今後苦境に立たされるでしょう。そんな状況の中で拉致問題の解決をしなければならないのです。中国と韓国が浮かび上がり、日本が苦境の海に沈んだのです。
このことは書かない方が良いかも知れません。しかしこれも冷厳な国際関係の客観的な理解の一つだと考えられます。

今日の挿し絵代わりの写真は蓮の花です。
日本の沼地にはよく蓮根栽培の畑があります。この夏の季節になると一面に白い大きな花が咲き、風に揺れています。それは心が洗われるような見事な光景です。そんな光景を思い出させるのがお寺に鉢植えされた観賞用の蓮の花です。
近所の真蔵院にも毎年咲きます。すると何度も見に行きます。昨日も写真を撮って来ました。そんな蓮の花をお楽しみ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)










日本一の白樺群生地、八千穂高原と清泉寮の風景写真

2018年07月03日 | 写真
そこには50万本の白樺が群生しているのです。日本一と言われています。
場所は北八ヶ岳の東麓に広がる八千穂高原です。先週、軽井沢に泊まった次の日、八ヶ岳を抜けて韮崎市に出る長い高原道路のドライブを楽しみました。その途中にある八千穂高原の白樺の群生地を見るためにに北八ヶ岳の高原に登ったのです。
約200haの高原に50万本の白樺林が生えているのです。その風景に圧倒されました。白い幹が輝いている風景は優美なものです。
夏蝉が澄んだ声で鳴いています。涼しい風が高原を吹き抜けています。
白樺だけが生えている地域の外側には、ヤマツツジ、レンゲツツジ、の群生地もあります。注意いて見るとクリンソウなどの山野草が咲いています。ミズナラやカラマツなども美しい新緑を見せています。
八千穂高原の頂上には、白樺群生地に隣接して八千穂レイクが静かな湖面に樹々の緑を映しています。
八千穂高原。そこには、いつも白樺の白い森があるのです。
丁度、3年前の同じ時期にやはり軽井沢からの帰りにこの白樺林を見に来たことを思い出しました。
白樺林のたたずまいは3年前と同じです。人間はどんどん老いて行きますが、自然の風景は変わらないのです。
八千穂高原自然園は、長野県南佐久郡佐久穂町大字八郡2049-183にあります。

八千穂高原に寄った後は、再び国道141号線に戻り八ヶ岳高原を南下します。そして山梨県の清里で又141号線から分れ八ヶ岳の方向に登ると清泉寮があります。
清泉寮は清里開拓の歴史と共に歩んできたのです。
ここで、ちょっと清泉寮物語をご紹介しましょう。
清泉寮は1938年(昭和13年)、後にキープ協会を創設するポール・ラッシュ博士によって日本聖徒アンデレ同胞会の青少年指導訓練所として建設されました。
1955年(昭和30年)に火事で焼失しましたが、1957年(昭和32年)に再建します。以来、本館の赤い三角屋根は、清里の変わらぬ風景です。
本館玄関に掲げられているXマークは、聖アンデレというキリスト教の守護聖人にちなんだ十字架(聖アンデレクロス)で、赤い三角屋根とならんで清泉寮のシンボルです。
2009年(平成21年)には新館が完成し、今では誰でも利用できるホテルになっています。
3年前に軽井沢の帰りに私共も一泊したホテルです。

それはさておき、本館前には1980年(昭和55年)に建立されたポール・ラッシュ博士の銅像があります。
銅像は、ラッシュ博士大好きだった富士山の方向を向いて立っています。
清泉寮といえばジャージー種の牛乳を使ったソフトクリームが非常に有名です。赤い三角屋根の背後に聳える八ヶ岳の景観を楽しみながら、牧場のベンチに座ってソフトクリームを食べている人々の姿が絶えません。

戦前の昭和12年頃、ポール・ラッシュ博士は日本聖徒アンデレ同胞会の青少年指導訓練所を建設しようと、その候補地を探していました。
ラッシュ博士は、日本の象徴である富士山が見える場所でなければならないと考えました。。それにぴたりと合った理想の場所が清里だったのです。
その場所を紹介したのが、甲府の談露館の主人である中沢氏でした。
建設予定地は恩賜林と言って山梨県有地となっていましたが、当時の県知事は八ヶ岳山麓の開発に先鞭をつけてもらえると喜び、青少年指導訓練所建設のために県有地貸与の許可を出したのです。博士は、当時教鞭をとっていた立教大学を中心とした若い学生たちと道なき道を切り開き、材木を運び、念願の建物を完成させたのです。

1938年(昭和13年)に完成した青少年指導訓練所の名前は、いろいろな提案がありましたが、その命名は立教大学のチャペル付きだった高松司祭に依頼されました。 司祭はキャンプ場のある敷地が当時の清里村と大泉村にまたがっていることから、両方の地名から一文字ずつとって「清泉寮」としてはどうかと提案しました。ラッシュ博士は、両方の頭文字をとっただけの名前に当初は不満げだったそうですが、その英語訳が「ピュア=スプリング」(清らかな泉がわき出でる場所)であることを聞くと、大いに喜んでその命名に賛成したそうです。
以上の清泉寮物語の出典は、http://www.keep.or.jp/place_event/seisenryo/ です。
「清泉寮」は現在、ポール・ラッシュ記念会の公益財団法人キープ協会によって運営されています。

写真に八千穂高原の湖と白樺の群生林の風景と、清泉寮とその前の牧場の風景を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)













暑さに負けずに花の写真を撮りに行く

2018年07月02日 | 写真
先週の梅雨明けから連日まぶしい陽射しが続き、気温も36度を越えています。
しかし暑さに負けないように、毎日車で近隣を回って夏の花々の写真を撮っています。
今日の午前中は小金井公園に行き花壇の花の写真を撮りました。それから真蔵院に行き、再びハスの花の写真を撮りました。
ハスの花の写真は明日掲載することにして、今日は小金井公園の花壇の写真をお送りいたします。写真をお楽しみになって暑さをお忘れ下さい。









石原莞爾と宮沢賢治は同じ国柱会員、宗教の怖さ!

2018年07月01日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は宗教の素晴らしさと怖さを書いてみようと思います。
キリスト教も仏教も人間を幸せにする方法を教えています。この世での幸福だけでなく永遠の命を約束してくれます。それこそ、これ以上素晴らしいものはありません。
しかし軽率に宗教を利用すると恐ろしいことになります。
今日は同じ法華経の信者だった石原莞爾と宮沢賢治のあまりにも対照的な人生を描いて宗教の怖さ、危険さを明快にしたいと思います。
結論を先に書けば宮沢賢治は法華経の輝きであり、石原莞爾は法華経の闇なのです。
法華経にはこのように善い結果と悪い結果とを生みやすい内容が含まれているのです。
これこそ宗教の本質的な怖さでありキリスト教も例外ではありません。
キリスト教普及のため南米の先住民を殺戮し、植民地にしたスペイとポルトガルが宗教の怖さを如実に示しています。勿論、良心的な宣教師は殺戮に反対しましたが、それはあまりにも無力でした。

西洋のキリスト教布教と全く同じような思想で「大東亜共栄圏」を標榜したのが国柱会です。
軍部はその考えに同調し、近隣各国を侵略し、満州国を作ったのです。その参謀たちの中心に石原莞爾がいたのです。
大東亜戦争の精神的バックボーンを与えたのが法華経の国柱会だったのです。
そして宮沢賢治もこの国柱会の街頭宣伝をするほど熱心な会員だったのです。
何故、このような不思議なことが起きたのでしょうか?
少し注意深くこの問題を考えてみたいと思います。

国柱会(こくちゅうかい)は、日蓮宗と国家主義にもとずいた右翼思想宗教団体として発足しました。
戦前戦中においては日本の満州・中国・東南アジア・オセアニア地域への侵略を支持したことで有名です。この団体は法華経を信奉する在家の仏教教団なのです。
創始者の田中智学は「純正日蓮主義」を掲げ、法華経を国教とした日本が世界を征服し、世界を法華宗化するという遠大な目標をもっていました。
これは手段を選らばないで狂信的な布教をするキリスト教のいろいろな宣教会とよく似ているのです。

それはさておき、田中智学は「八紘一宇」という造語を創作し、これはのちに軍部のスローガンとして利用されました。私も戦争中の国民学校で、この「八紘一宇」を何度も叫んでいました。意味も分からず叫んでいました。
八紘一宇とは、全世界を天皇を頂点とした1つの国家に統一するという意味です。日本の軍部は八紘一宇の第一歩として「大東亜共栄圏」を標榜し、近隣各国を侵略していきました。結果として国柱会は大東亜戦争に思想的に加担したのです。そして戦前から存在する日蓮宗系の宗教団体は何らかの形で田中智学の思想の影響を受けているといわれています。
日蓮宗はもとより創価学会や立正佼成会などは田中智学の思想の影響を受けていると言われています。
国柱会の信者の石原莞爾は陸軍幹部、関東軍参謀として満州事変・満州国建国に深く関わった人物として知られていますが、彼の思想は国柱会の影響を深く受けていました。満州事変の首謀者でありながら、実は仏教の法華経を弘めようともしていました。
宮沢賢治も同様で、彼は終生国柱会の信者でした。宮沢賢治の妹のトシの分骨が国柱会の霊廟にあるのです。

戦後になりGHQは八紘一宇という単語の使用を禁止し、国柱会の日蓮国家主義も壊滅しようとしました。
しかし国柱会は1953(昭和28)年に宗教法人として認可され、現在は江戸川区一之江に本部があります。今なお滅びずに現存しているのです。さらに、その思想の根底はいまだに変わっていないのです。
国柱会の主旨は日蓮聖人が存命時に立てた目標を愚直に実現すること、すなわち日蓮聖人が唱えた「立正安国論」の実現が目標です。
これは現在の国柱会でもまったく変わっていません。これを「純正日蓮主義」と呼んでおり、立正安国論とは、全国民、ひいては全人類が法華経に帰依することで日本、そして全世界に平和と繁栄がもたらされるというものです。
田中智学はこれを法華経を中心に据えた国家主義思想へと発展させ、昭和初期の右翼活動家へ多大な影響を及ぼしました。最終目標は日本を仏教国家とし、ひいては世界が仏教化し法華経に帰依することによって平和を実現することにあったのですが、その過程として八紘一宇などの言葉を持ち出し、軍国主義と結びついたのです。

さて何故こんなにも危険な国柱会に宮沢賢治は入っていたのでしょうか?
法華経は全ての人間に佛性があり、他人の利益だけを考え自分を無にする利他行を行えば人間は生きている間に菩薩になると教えています。
賢治の「雨ニモ負ケズ・・・」という詩はこの法華経の教えの利他行を分かり易い詩にしたものなのです。
この利他行だけで終わっていれば怖いことは起きません。大東亜争も起きません。
しかし法華経にはもう一つの教えがあるのです。
自分だけ菩薩になって幸せな人生を送ってはいけないのです。他人を説得して法華経の素晴らしさを教えるべきと言うのです。
ですからこそ創価学会では折伏するという強迫的な説得方法が行われるのです。
当然、軍人は武力でアジア諸国を占領し法華経を普及させようという危険な間違いを実行してしまいます。
この間違いと同様のことを西洋のキリスト教ではスペインとポルトガルが南米で実行してしまったのです。

どこが大間違いだったかを明快に書きます。
宗教を国家の統治や政治に利用すれば必ず悲劇が起きるのです。欧米諸国ではこの悲劇を何度も経験した結果、「政教分離の大原則」を確立し、現代の民主主義を作ったのです。
鎌倉政権に日蓮が「立正安国論」を強要したことが間違いなのです。政権に宗教を強要してはいけない危険な行為なのです。
宗教は政治に関与してはいけないのです。これこそが間違いのもとなのです。
日蓮の「立正安国論」の場合と同じように、田中智学の「八紘一宇」の思想は大きな間違いであり、大きな悲劇を生んだのです。
勿論、石原莞爾も間違っていました。日本を敗戦に導いた一人になりました。

唯一、宮沢賢治だけは間違わなかったのです。
理由はたった一つです。法華経の普及や宣伝に武力を用いなかったのです。創価学会の折伏のような執拗な説得をしなかったのです。他人が賢治の献身的な利他行を見て法華経の信者になるのを待っていたのです。自分が37歳で死ぬ時に法華経を1000部作って皆に配るように父親に頼んだのです。それが賢治の唯一つの遺言でした。

キリスト教も仏教も人間を幸せにする方法を教えています。この世での幸福だけでなく永遠の命を約束してくれます。それこそ宗教の素晴らしさです。
しかしその宣伝と普及の方法を間違えると大きな悲劇が起きるのです。それが宗教の怖さです。宗教の危険さです。

宗教の宣伝や普及には自分が他人の幸福のために働く以外に方法がないのです。武力を使うことは論外です。言葉で説得してもいけません。自分が他人を感動させるような行動をする以外に方法はないのです。ですから私には出来ません。
ただ宮沢賢治は菩薩だったと信じることは出来ます。何時もの様に話は飛びますが、マザーテレサは観音菩薩のような方だったと信じています。

挿し絵代わりの写真は昨日、撮って来た花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)










今年も小金井市の真蔵院のハスの花が咲きだしました

2018年07月01日 | 写真
今年も小金井の真蔵院のハスの花が咲きだしました
毎年、7月初めに咲く真蔵院のハスの花が咲きだしました。駐車場まで用意してくれて気持ち良く写真を撮らせてくれます。心の広い住職様へ感謝しつつ先程撮って来ました。
写真をお楽しみ頂ければ嬉しいです。









軽井沢聖パウロカトリック教会の写真

2018年07月01日 | 日記
今日は日曜日です。日曜日には宗教に関する短い記事を出すことにしています。
今日は3日前に撮って来た軽井沢聖パウロカトリック教会の写真を送りいたします。
カトリック横浜司教区、軽井沢聖パウロカトリック教会は、1935年(昭和10年)に英国人のワード神父により設立されました。
米国建築学会賞を受賞したアントニン・レーモンドが設計を担当しました。
軽井沢の歴史的建造物の一つですが、丸太を沢山使った素朴な木造の教会です。
中に入って祈っていると心が豊かになります。
堀辰雄の小説「木の十字架」に、「聖パウロ教会で結婚すると多くの人たちから祝福される」という文章があるそうです。
今でもそのお陰で結婚式を挙げる人々も多いようです。
裏の広い駐車場の奥からは教会の全体像がよく見えます。司祭館も裏にあります。
一昨日、撮って来た写真をお送りします。









この教会では毎日、ミサがあります。
ミサの時間は以下の通りです。
主日ミサ 9:00 15分前からロザリオ一連をとなえ、聖歌の練習をします。
土曜の主日ミサ 18:00
土曜の週日ミサ 7:00
週日ミサ 7:00
現在の主任司祭は、横浜教区の高野哲夫神父さまです。
お問い合わせなどはホームページ(https://karuizawa-catholic.jimdo.com/ )の中のお問合せメールでお願いします。
住所などは下記の通りです。
カトリック横浜教区軽井沢教会
〒389-0102
長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢179
電話:0267-42-2429
ファックス:0267-42-6151

尚、カトリック横浜司教区は神奈川県、静岡県、長野県、山梨県の全てのカトリック教会を運営しています。
www.yokohama.catholic.jp/syokyoku_top/yb_parish_k01.html

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)