後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「懐かしい月見草の咲く風景と最近の花園の風景」

2021年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム
都会に住んでいると野の花が何気なく咲いている草原を時々思い出しています。そんな草原は地方に行ってもなかなか見つかりません。時代が変われば風景も変わるのです。特に野に咲く月見草は日本から無くなったのでしょうか。もう何十年も月見草の花を見ていません。
幼い頃に自宅の周りの草原に咲いていた月見草の風景が時々甦って来ます。それは戦前の昭和15年の頃だったのでしょうか。
蚊帳を吊って寝る準備をしている縁側から下の草原が見え月見草が一面に咲いていたのです。はっきり見えたのですから月夜だったのでしょう。夏の虫のハンミョウが飛んできて蚊帳にとまったのです。それを捕まえて蚊帳の中に飛ばせて遊んだものです。そのハンミョウも最近はいなくなったのです。

1番目の写真は月夜に咲いている月見草です。この月見草の写真は長野県の伊那地方にお住いの方のブログ、http://tsutomu3.blog43.fc2.com/blog-entry-12.html からお借りした写真です。
このような月見草は子供の頃のあちこちの草原に沢山咲いていました。月見草は初夏の月夜の風物詩だったのです。
私はそんな思い出があるので花の咲いている草原を探していました。車で東京の郊外を走り回って探しました。
そうしたら花々の咲く野原を一つ岳見つけました。

2番目の写真は三鷹市の「花と緑の広場」です。この写真は花園の部分だけを写したもので、花園の左は広い草原になっています。その広い草原では何時も子供達が遊び回っています。
素晴らしい花園ですが残念ながら月見草がありません。もうな何十年も通っていますが月見草を見たことが無いのです。いろいろな栽培種の花々が美しく咲いていますが自然に野に咲く花は無いのです。私は美しい花々に魅了されながらも、深い溜め息をつき呟きます。「嗚呼、月見草は時代の流れで消えたのだ。私も年をとったものだ!」

3番目の写真は青空をバックにした花の写真です。

4番目の写真はいろいろな園芸種の花を絵になるように植え込んだ様子です。花々の間に小径がついて歩き回れるようになっいます。

5番目の写真はストックです。この広場の良い所は写真のように花の間が広く植えてあるので花々が伸び伸びと育っていることです。

今日は懐かしい月見草の咲く風景の思い出と最近の花園の写真をお送り致しました。最後に細川呉港著、「月見草の歌」の抜粋をお送り致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===細川呉港著、「月見草の歌」の抜粋========
何度も言うようだが、長い人生において、誰しも、驚くほど素敵な花の風景に出くわしたことがあるはずである。特に野草の好きな私は、山歩きや、野山のハイキングの最中に、思いがけず、思いがけない野草の群落を発見し、思わず立ち尽くしてしまうことがあった。その光景は、長い間脳裏に強く刻み込まれていて、時折、頭をもたげては、私を幸せにしてくれる。ちょっとオーバーにいえば、その思い出は人生の宝でもある。その花の群落の美しかったことだけを強烈に覚えているから、はたしてその花の群落がどこであったか、ということも分からなくなっていることもある。いくつかの思い出は、まるで走馬灯のように何度も浮かんでくる。
まだ子どもだったころ、小学校の中ぐらいの学年のころだったかも知れない。私はよく一人で、自宅から山に登った。私の町の背後に、700メートルと少しの起立した山があり、そのすそ野に住んでいた私は、峠に向かう未舗装のバス道路に沿って、しばらく登り、そこからよく山に入った。少し登ったところに、地元の人たちが小松原と呼んでいる松林があって、よくそこで松葉かきをした。持って帰って、焚きつけにするのだ。空いた炭俵にギュウギュウに松葉を押し込んで、ふた俵、追い子に背負って、さらにその上に、松の枯れ枝を束にして積んだ。子どものすることながら、しっかりと家の役に立っていたと思う。
峠に続くバス道は、グルグルと山の斜面を縫うように登っていき、その両側は段々畑だった。このあたりの段々畑は、水の確保が難しく、湧き水のある広い谷のようになったところだけ、田圃があった。春には少ない田圃にレンゲの花が一面、きれいだった。そのころは緑肥としてレンゲを植えていたのである。
山の谷が、狭く、傾斜が急なところは、段々畑も作れないので、そんなところは、昔から墓にしたらしい。段々墓である。縦縞のように襞のたくさんある山の斜面に、尾根の部分や、広い谷の部分は、段々畑や田圃として利用し、狭い谷や、日当たりの悪い谷は、段々墓というわけである。段々墓はあちこちにあった。・・・・・
小学校四年生か、あるいは五年生だったかもしれない。もう夏が終わろうとしていたころ。私は一人で、山に入った。ちょっと長めの散歩である。あちこち歩いては草や花、ヤマガラやジョウビタキを捜し、あるいは谷に降りて清水の流れるのを見たりした後で、山を降りてきた。小松原を通り、いつもと違う道を下ってくると、ちょうどある段々墓の上に出た。段々墓の一番上の方は、少しばかりの尾根になっていて、平らな広場に墓がたくさん立っている。左右はやはり段々墓になっていて谷のそこまで続いていた。夕暮れが迫っていた。まだ少しばかり夕焼け空が残っていて、あたりはほんのりと明るかった。早く降りなければ、暗くなってしまう。
ところが、次の瞬間、私は異様な光景に気がついた。辺り一面、墓という墓の周りに一杯に月見草が咲いていたのだ。黄色い小さな花が、夕暮れのほんのりとしたあかるさの中で、まるで蛍光色のように光って咲いていた。そしてその黄色の群落をさらに盛り上げるように、昨日咲いたであろう濃い橙色のすぼんだ花も無数についている。二種類の色の違う花の混ざり具合が、華やかでそれでいて可憐である。それは谷の下の方まで続いていた。誰もいない、無音の、淡い夕焼けの山――。
すばらしい山の夕暮れであった。この時の月見草の群落を、六十年近くたった今でも私は覚えている。その後、一度もそういった月見草の風景と、時を、体験したことはなかったから、少年時代の貴重な一瞬だったといえよう。人生、たった一度の巡り合わせだった。以下省略・・・・

なお細川呉港さんは、「草原のラーゲリ」、「紫の花伝書」、「ノモンハンの地平」、「満ちてくる湖」、「日本人は鰯の群れ」などの美しい作品を出版している堅実な作家です。詳しくは、http://www.junkudo.co.jp/mj/products/list.php?zssearch_author=%E7%B4%B0%E5%B7%9D%20%E5%91%89%E6%B8%AF をご覧下さい。そして東文会(東洋文化研究会)を長年、主宰しています。私はこの東文会のメーリングリストに入れて頂いていますので時折、作品を送って頂いています。


「武蔵野の黒目川の水源の雑木林の写真を撮りに行く」

2021年05月09日 | 写真
老化防止のため毎日外出するように心がけております。午後から東久留米市にある黒目川の水源の雑木林の写真を撮りに行きました。水源の雑木林は武蔵野の自然のまま保存してあります。鬱蒼と樹々が茂り昔の武蔵野そのままです。ただ森の周囲だけは芝生が植えてあります。そんな風景写真をお送り致します。





「今日の復活節第6主日ミサの動画と函館のカトリック元町教会の紹介」

2021年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は復活節第6主日です。2021年5月9日の10時から始まるカトリック関口教会の動画配信は以下の通りです。

カトリック関口教会、2021年5月9日復活節6主日のミサ、
https://www.youtube.com/channel/UCc2LbUPcHohKUgO2dYhrCvw

聖イグナチオ教会 の復活節第6主日のミサの動画配信は以下にあります。
https://www.ignatius.gr.jp/news/streaming.html

今日教会に行かない方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「美しい函館のカトリック元町教会」

私が好きだと感じ、印象の深かった教会は次のようにいろいろあります。
長崎の大浦天主堂と浦上天主堂、五島列島の古風な教会、火事になる前の山口市にあった聖ザビエル記念聖堂、カトリック津和野教会、改築前の東京の聖イグナチオ教会、山形県のカトリック鶴岡教会、そし何回も訪問した函館のカトリック元町教会などは私の大好きな教会です。
函館には何度か行きましたがそのたびにこの教会を訪問しています。今日の写真はこの函館のカトリック元町教会です。
この教会は1959年(安政6年)にフランス人の司祭、カション神父によって建てられた古い教会です。
明治維新の起きる前の江戸時代です。キリシタン禁教は厳しく、明治政府になってから7年間もキリシタン禁教が続けられたのです。
新しい明治政府によってもキリシタンが逮捕され、遠方に流され、多数の死亡者も出たのです。
特に九州の大浦では多数の隠れキリシタンが逮捕され本州の各地の僻地へ送る流罪になったのです。津和野のように、流された先の人々によって殺された例も多いのです。
明治政府がキリシタン禁止の高札を撤去したのは1875年なのです。ですから教会が出来ても隠れキリシタンがそこを訪れることが出来ませんでした。
そんな古い時代に函館のカトリック教会が造られたのです。フランス人神父によって。
このカトリック元町教会は、以後、3度の火事に遭います。
現在、数多くの観光客が訪れる建物は1924年(大正13年)に出来たものです。
この教会の内部の中央祭壇と、会堂の内壁に飾ってある14個の木造彫刻はイタリーのチロル地方の作品です。ときのローマ法王ベネディクト15世が寄贈してたものです。力強い作品です。美しい作品です。この教会全体が調和を持った一個の美術的な作品になっています。
函館観光に行ったら是非、このカトリック元町教会をご覧下さい。写真は2012年6月に撮りました。










「今日の散歩道の風景です」

2021年05月08日 | 日記
今日は午前中晴れていましたが、午後からは曇って暗い空になりました。そこで森の中でなく広々とした散歩道を選んで来ました。そんな今日の散歩道の風景写真をお送り致します。場所は小金井公園です。









「日本の世界自然・文化遺産と潜伏キリシタンの世界文化遺産」

2021年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム
国連のユネスコは日本の世界自然遺産、4件と世界文化遺産、19件を認定しています。今日はこれら日本の世界自然遺産と世界文化遺産をご紹介したいと思います。
さて世界遺産(World Heritage Site)とはそもそんも何でしょう?
世界遺産とは、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて認定されたものです。そてらは文化や自然などで、人類が共有すべき貴重な物件のことです。但し、移動が不可能な不動産が対象となっています。ですから源氏物語や浮世絵などの文学作品や絵画芸術は対対象になっていないのです。

1番目の写真は日本の世界自然遺産、4件と世界文化遺産、19件の分布図です。出典は、https://thehalser1.blogspot.com/2020/07/blog-post_2.html です。
日本政府は地方の観光事業を活性化して地域の経済成長のため盛んにユネスコに働きかけ合計23件の世界遺産を認定して貰ったのです。
その結果、世界遺産のある地を訪れる観光客が飛躍的に増えたと言われています。
その一方、日本の世界文化遺産は世界に広く知られるようになり外国からも訪れる人も増えたのです。

その顕著な一例は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」です。その結果、今まで外人観光客が知らなかった天草地方や五島列島へも外人観光客が行くようになったのです。そして日本の隠れキリシタンの歴史を知るようになったのです。世界文化遺産の効果です。
隠れキリシタンの歴史は日本人の精神文化の誇りです。250年近くの禁制の中でも人々は勇気をもって、不屈の精神で信仰を守ったのです。この日本民族の勇気と不屈の精神文化が高く評価されて国連の世界文化遺産として認定されたのです。
この潜伏キリシタン遺産は 12の資産で構成されています。そしてその 半数は長崎県の五島列島などの離島にあるのです。
これはキリスト教の信仰が禁じられた禁教期に厳しい弾圧を受けながらも日本の伝統的な宗教や社会と共生しながら独自の形で信仰を続けた潜伏キリシタンの精神文化の歴史を伝えるものです。
もう少し詳しくは構成資産の内容は次の3つの種類になります。
1、日本が厳しい鎖国政策をとるきっかけとなった「島原・天草一揆」で信者たちが立てこもった「原城跡」、
2、弾圧を逃れて移り住んだ離島の集落、
3、1865年に、潜伏キリシタンが外国人神父に信仰を打ち明けた「信徒発見」の舞台となった「大浦天主堂」、などです。
登録がされた12の資産は以下の通りです。
1、原城址
2、平戸島の聖地と集落 - 春日集落と安満岳
3、平戸島の聖地と集落 - 中江の島
4、天草の崎津集落
5、外海の出津集落
6、外海の大野集落
7、黒島の集落
8、野崎島の集落跡
9、頭ヶ島の集落
10、久賀島の集落
11、奈留島の江上集落 - 江上天主堂とその周辺
12、大浦天主堂

この12の世界遺産は1原城址 と12大浦天主堂の2つ以外は全て集落になっています。
これはこの世界遺産の特徴です。何故、過疎の集落が世界遺産になったのでしょうか?
理由はその集落が禁教の江戸時代にどのような内容の信仰を守っていたかということに焦点が絞られているからです。
それぞれの集落で独自のキリシタン信仰を守って来たのです。その文化活動を高く評価して世界遺産として子孫へ伝承しようというのが認定への理由なのです。
10の集落の独自の信仰のあり方を全て説明するとこの記事はあまりにも長々しいものになります。
そこで1つだけ天草の崎津集落 だけを一例として以下に示します。

2番目の写真は天草の崎津集落とカトリック崎津教会です。
天草の﨑津集落は、生活、生業に根差した身近なものをキリシタンの信心の対象としていました。それは漁村特有の信仰をひそかに続けた潜伏キリシタンの集落でした。(http://kirishitan.jp/components/com004 )
﨑津集落では、指導者を中心として自分たち自身で信仰を続けるために、大黒天や恵比須神をキリスト教の唯一神であるデウスとして崇拝していました。そして、アワビの貝殻の内側の模様を聖母マリアに見立てて拝んでいました。これは漁村特有の信仰形態です。
明治5年の禁教廃止の後に﨑津集落の潜伏キリシタンはカトリックへと復帰し、禁教期に祈りをささげた神社の隣接地に教会堂を建てました。
認定されたものは、潜伏キリシタンが祈りに用いた信心具を今日に伝える水方屋敷跡、ひそかにオラショを唱えた﨑津諏訪神社境内、絵踏が行われた吉田庄屋役宅跡、解禁後にカトリックに復帰して﨑津諏訪神社の隣接地に建てられた旧﨑津教会堂跡などです。

﨑津集落は15世紀にはすでに集落として成立しており、1569年にイエズス会のアルメイダ修道士によって宣教が開始されると、﨑津集落にもキリスト教が広まりました。
禁教期になると、﨑津集落では毎年、吉田庄屋役宅において潜伏キリシタンを探すための「絵踏(えふみ)」が行われるようになりました。
村人はキリストや聖母マリアの像を踏むことを強制され、「宗門改帳」により宗旨、および所属する寺院が管理されたのです。
﨑津集落の潜伏キリシタンは、表向きは﨑津諏訪神社の氏子や寺の檀家となったのです。
集落内には、禁教期に洗礼をつかさどるなど信仰を指導した「水方」の屋敷跡があります。﨑津集落では、禁教期においても小規模な共同体である「小組」がひそかに維持され、「水方」と呼ばれる指導者が洗礼を授け、葬送儀礼をはじめ日繰りをもとに儀礼、行事などを行った来たのです。
 
1805年、潜伏キリシタンの信仰が発覚する「天草(あまくさ)崩れ」では村人の7割が潜伏キリシタンとして検挙され、代官所は潜伏キリシタンが所有する信心具を﨑津諏訪神社に差し出すように指示して没収しましたが、村人は「心得違い」として処罰されなかったのです。
 19世紀後半における宣教師の天草への来訪後、﨑津集落の潜伏キリシタンたちは改めて洗礼を受け、カトリックへと復帰しました。
そして1888年、﨑津諏訪神社の隣地に最初の﨑津教会堂が建てたのです。
この木造教会堂は、老朽化により移転、新築されます。跡地には修道院が建てられ今日に至っています。
 現在の﨑津教会堂は、1934年、踏み絵が行われた吉田庄屋役宅跡地に建てられました。
会堂の内部は当初から畳が敷かれ、祭壇はかつて絵踏が行われた場所を選んで設置されたと言われています。

上のような歴史は認定される10ケ所の集落にもあります。長くなるので今日は省略します。
もう少し写真を示します。

3番目の写真は無人島になってしまった五島列島の野崎島の集落跡に残った教会です。

4番目の写真は長崎の外海の出津集落の全景です。

5番目の写真は国宝の大浦天主堂の内部です。
今日は日本の世界自然遺産と世界文化遺産をご紹介し、その一例として「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を少し詳しく説明しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=======================
我が国の世界遺産(令和元年7月現在 合計23件)
自然遺産は4件です。(知床、白神山地、屋久島、小笠原諸島の4件}。一方、文化遺産は19件あります。以下の一覧表は自然遺産4件と文化遺産は19件、合計23件の一覧表です。
(1)法隆寺地域の仏教建造物(奈良県)(平成5年記載)
(2)姫路城(兵庫県)(平成5年記載)
(3)屋久島(鹿児島県)(平成5年記載)
(4)白神山地(青森県、秋田県)(平成5年記載)
(5)古都京都の文化財(京都府、滋賀県)(平成6年記載)
(6)白川郷・五箇山の合掌造り集落(岐阜県、富山県)(平成7年記載)
(7)原爆ドーム(広島県)(平成8年記載)
(8)厳島神社(広島県)(平成8年記載)
(9)古都奈良の文化財(奈良県)(平成10年記載)
(10)日光の社寺(栃木県)(平成11年記載)
(11)琉球王国のグスク及び関連遺産群(沖縄県)(平成12年記載)
(12)紀伊山地の霊場と参詣道(三重県、奈良県、和歌山県)(平成16年記載)
(13)知床(北海道)(平成17年記載)
(14)石見銀山遺跡とその文化的景観(島根県)(平成19年記載)
(15)小笠原諸島(東京都)(平成23年記載)
(16)平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群(岩手県)(平成23年記載)
(17)富士山-信仰の対象と芸術の源泉(静岡県、山梨県)(平成25年記載)
(18)富岡製糸場と絹産業遺産群(群馬県)(平成26年記載)
(19)明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業(岩手県、静岡県、山口県、福岡県、熊本県、佐賀県、長崎県、鹿児島県)(平成27年記載)
(20)国立西洋美術館本館(東京都)(平成28年記載)
(21)「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群(福岡県)(平成29年記載)
(22)長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(平成30年記載)
(23)百舌鳥・古市古墳群(令和元年記載)

「今日の花園の写真をお送りいたします」

2021年05月06日 | 写真
先程、三鷹市の花と緑の広場で撮って来ました。青空の下、花々が活き活きとして咲いていました。空気も良い広場なので家内とのんびり花々を眺めてきました。爽やかな初夏の午後でした。









「昔の童謡と日本の原風景」

2021年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム
昔のことを懐かしむのは老人の癖です。まぎれもなく老人になってしまった証拠です。困ったものです。でもつい書いてしまいます。
私は幼い頃の故郷の風景を懐かしく思い出します。そして幼い頃唄った童謡をつい口ずさみます。
例えば、「夕焼け小焼けで日が暮れて・・・」で始まる歌や、「夕焼け小焼けの赤とんぼ・・・」や「うさぎ追いしかの山・・・・」などなど幾つもあります。
これらの郷愁をそそる童謡は老人になった今も忘れられません。しかしこんな童謡の作詞者や作曲者を私は知らないのです。皆様はご存知でしょうか?

今日は八王子市の浅川を遡って旧恩方村にある「夕焼け小焼けふれあいの里」という野外公園施設をご紹介致します。
旧恩方村は「夕焼け小焼けで日が暮れて・・」という歌詞を作った中村雨紅の出身地なのです。
この童謡を口ずさみながら五月晴れの旧恩方村にある公園を散歩して来ました。5年前の若葉の美しい5月のことでした。

『夕焼小焼』
夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘が鳴る
お手々つないで皆帰ろ
烏と一緒に帰りましょ

子供が帰った後からは
円い大きなお月さま
小鳥が夢を見る頃は
空にはきらきら金の星

この童謡は野口雨情の弟子の中村雨紅が故郷恩方の風景を歌ったものです。1919年(大正8年)作詞し、1923年(大正12年)に草川信が曲をつけました。そして文部省は小学校の歌として全国の小学校で教えました。
大正、昭和に小学校に行った日本人なら誰でも知っています。野原で遊んでいた子供達が夕方家に帰るとき皆で歌ったのです。そんな光景を思い出します。
「夕焼け小焼けふれあいの里」という公園を散策すると中村雨紅の生家の宮尾神社があります。記念碑もあります。彼の父は宮尾神社の神主だったのです。そんな写真をお送り致します。中村雨紅の故郷、恩方の風景をお楽しみ下さい。

1番目の写真は中村雨紅の故郷、恩方村の新緑美しい山々の景色です。

2番目の写真は「夕焼け小焼けふれあいの里」の中にある水車小屋の風景です。

3番目の写真は江戸時代の甲州街道の裏街道の口留番所あとの碑です。番所跡の碑と松姫の碑とが並んでいます。武田信玄は娘の一人、松姫を恩方村の豪族に嫁がせ国境の守りとしたのです。恩方村は武田信玄の領地の東の端だったのです。そこから東の関東平野は小田原城の北条氏の支配地でした。

4番目の写真は中村雨紅の生まれた家のある宮尾神社の前にある記念碑です。雨紅の喜寿の記念に友人たちが建てた碑です。尚宮尾神社までの急坂は長く険しいのでこの写真は家内に撮りに行って貰いました。
ついでにご案内しますと「夕焼け小焼けふれあいの里」には日帰り温泉や売店や宿泊棟やバーベキュー広場もあります。ポニー牧場もあります。天気の良い日は家族連れでゆっくり散策して楽しめる野外施設です。無料駐車場があり施設の入園料は大人1人、200円です。

5番目の写真はポニー牧場でポニーに草を食べさせている家内です。
それはさておき、皆様はどのような故郷の思い出をお持ちでしょうか?沢山思い出があると存じます。今日は幼少の頃を思い出して楽しい一日をお過ごし下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============
中村雨紅(なかむら うこう、1897年〈明治30年〉1月7日 - 1972年〈昭和47年〉5月8日)は、詩人・童謡作家である。本名は、井宮吉(たかい みやきち)だが、出版物など一般的には高井宮吉と記される。東京府南多摩郡恩方村(現在の東京都八王子市上恩方町)出身。
宮尾神社の宮司・井丹吾とその妻・シキの間の二男として生まれる。1909年(明治42年)上恩方尋常小学校(現・恩方第二小学校)を卒業し、1911年(明治44年)恩方村報恩高等小学校を卒業して、1916年(大正5年)東京府青山師範学校卒業後、その年に東京北豊島郡日暮里町第二日暮里小学校の教師になる。

1917年(大正6年)おばの家である中村家の養子となる(1923年解消)。翌年、日暮里町第三日暮里尋常小学校に転勤。1921年(大正10年)高井宮のペンネームで童謡『お星さん』などが児童文芸雑誌『金の船』に掲載される。1923年(大正12年)『夕焼小焼』を発表。同年、漢学者本城問亭の次女千代子と結婚。1924年(大正13年)長男・喬が生まれる。1926年(大正15年)日本大学高等師範部を卒業後、神奈川県立厚木実科高等女学校(現・厚木東高校)の教師となる。1927年(昭和2年)長女・緑が生まれる。
この間、野口雨情に師事し、その名前の「雨」の一字をもらい、雨紅と称する。1949年(昭和24年)教師を退職。1971年(昭和46年)神奈川県立厚木病院に入院、翌年5月6日逝去。享年75。八王子市上恩方町・宮尾神社南、井丹雄墓所内に埋葬。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E9%9B%A8%E7%B4%85 )

「花々が咲いて足早に季節がめぐる」

2021年05月04日 | 日記・エッセイ・コラム
時の流れは早いものですね。つい先ほど新年を迎えたと思ったら、もう5月5日、端午の節句です。
そんな季節の移り代わりを振り返るために折々の花の写真をお送りいたします。全て自分と家内が撮った写真です。

1番目の写真は府中市、郷土の森博物館公園のロウバイの花です。何と言ってもロウバイの花から新しい年が始まります。そしてクロッカスや水仙も咲きます。この写真を撮った時は野点に参加しました。

2番目の写真は近所の園芸農家の畑に毎年豪華に咲くモクレンです。今年も見事でした。モクレンの花は京王フローラル・ガーデンも有名です。毎年、3回くらい行きます。

3番目の写真は小金井公園の梅林で撮った写真です。自宅の庭にも紅白の梅が咲きますがやはり梅林の梅は100本以上咲いているので毎年数回行きます。

4番目の写真は桃の花です。山梨県韮崎市の桃畑で撮りました。背景に雪を頂いた鳳凰三山が見え美しい桃畑です。

5番目の写真は、小金井公園のサクラの写真です。国立市のサクラ大通りや国際キリスト教大学の桜並木も写真を撮りに行きます。小金井市の貫井弁天の近くの野川沿いの桜並木も楚々として風情があります。また奥多摩のヤマザクラの写真を撮りに行ったこともありました。

6番目の写真は梅雨入りの頃咲く庭のアジサイです。この頃になるとあちこちのアジサイ園を訪ねます。

7番目の写真は庭に毎年咲くタチアオイです。

8番目の写真は潮来のアヤメ園から10年ほど前に買って来たアヤメです。毎年5月の末に華やかに咲きます。見るたびに一面に咲いている潮来のアヤメ園の風景を思い出し楽しい気分になります。

こうして自分達で撮った写真を見ていると、写真を撮っていた時の楽しさがまたよみがえって来ます。
皆様にはどんな花々の思い出がございますでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の散歩道の風景写真です」

2021年05月04日 | 日記
今日は朝食後に、「ベトナム戦争にまつわる4つのエピソード」という記事を書いて投稿しました。その後、何時もの散歩道を写真を撮りながら回りました。帰宅後、チャーハン,棒々鶏と中華スープの昼食を摂りました。午後からは気晴らしに何処かへドライブに行く予定です。晴天のすがすがしい日です。今日の散歩道の風景写真をお送りいたします。

1番目の写真は裏の稲穂神社の北にある遊歩道です。江戸時代の小金井用水路に沿って作られた遊歩道です。散歩はここから玉川上水沿いの遊歩道を回って帰って来ます。

2番目の写真は小金井橋から伸びている玉川上水沿いの遊歩道です。すぐ右に五日市街道があり車の排気でかならずしも良い散歩道ではありません。

3番目の写真は玉川上水沿いの遊歩道を歩いて行くと右手に見える海岸禅寺です。春には梅が綺麗に咲くお寺です。

4番目の写真は玉川上水から南に離れた公務員住宅の真ん中の道です。

5番目の写真は公務員住宅の真ん中の道と直角に交差している仙川の風景写真です。仙川には雨が降った時だけ水が流れます。
この仙川を越すと私の家は近のです。
私の散歩道には緑の樹々が多い経路を選んでいます。皆様の散歩道は如何でしょうか?

「ベトナム戦争にまつわる4つのエピソード」

2021年05月04日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はベトナム戦争にまつわるエピソードを4つ書きたいと思います。この4つのエピソードは敵味方双方から直接聞いた話です。みなベトナムやアメリカや北京で直接聞いたことです。
この4つのエピソードは朝日新聞などの大新聞のベトナム戦争はアメリカ帝国主義のせいで、社会主義国家は平和主義であるという単純すぎる見方に疑問を投げかけるものです。

(1)爆弾に書かれた日本語ーアジア人の血を流したくない日本人より。
1986年、ベトナムがドイモイ開放政策を導入した後、同国は日本の多額の政府開発援助(ODA)で工場特区開発や高速道路建設を進めした。
1993年、ハノイ市郊外の高速道路予定地を訪れた際、ベトナム戦争時ハノイ防空隊長をしていたチュウ氏が案内してくれました。丘陵の頂に立ち、「ここから東の方向、10キロ先にハノイの中心街が見えますね。この間の畑に四車線の高速道路を建設します。測量が終わったところです」と説明してくれた。
「アメリカの戦闘機はハノイを低空で攻撃した後、真っ直ぐこの高速度道路予定地を飛んできました。ちょうどこの丘陵の上で上昇反転して、またハノイ市街攻撃に戻ります。その時速度が落ちますから、そこを機関砲で打ち上げるとよく当たったものです」。説明するチュウ氏の顔が生き生きする。機関砲を打つ仕草もする。
ベトナム戦争当時は日本でも反戦運動が盛んで、「ベ平連」などが米軍の脱走兵の手引きをし中立国へ送り込んでいた。その話をすると、チュウ氏は「ベ平連のことは知りませんが、そういう団体が世界の各国にあったという噂は聞いていました。しかし、ベトナム人にとって一番感動したことはアメリカ空軍機が投下した時限爆弾の胴体の文字でした。はじめはどこの国の文字か分かりませんでしたが、そのうち日本語と分かりました」
チュウ氏の目が遠いところを見ている。「日本語でこうありました。『これは不発弾ではない!!時限爆弾である!!専門処理兵以外近づかない事!!!――アジア人の血を流したくない日本人より』」。
さらに説明を続ける。「この文字は米空軍が日本の軍事飛行場で時限爆弾を搭載する直前に日本人作業員が白のマジックペンで書き込んだと考えられる。時限爆弾の全てに書いてあるのではない。ただ、筆跡から五人以上の違う人間が書いていた」
この事実は新聞には出なかったが、口コミでベトナム全土へ広まった。新聞に出せば、日本人作業員が米空軍に逮捕・処罰されるからである。チュウ氏はさらに「フランス軍相手の独立戦争のとき、多くの日本兵がベトナム側に参加してくれた。その精神が若い日本人へも繋がっているのに感動した」

(2)韓国兵がベトナムで勇敢に戦ったことにアメリカ人は感動している。

1978年にロサンゼルスで乗ったタクシーの運転手は黒人でベトナム帰りであった。よく喋る男で前線の戦いぶりを振り向いて熱心に話す。
「おれの小隊はいつも韓国兵の小隊と一緒に最前線でベトコンとやりあったよ。ところが韓国兵が素晴らしいのだ。勇気があるだけじゃなく、攻撃してくるベトコンの弱い一角を必ず突く。それでおれの小隊が何回も助けられたよ。戦争慣れしているのだ。夜襲してくるベトコンを必ず追い返す。こちらの小隊長は腰抜けの少尉で、韓国の小隊長の言うことを聞いて動いていたよ。指揮権はアメリカにあるはずだが、前線に出たらそんなこと関係なくなるのさ。負傷兵を背負って帰ってきた韓国兵を見れば、だれでも韓国兵の言うことに従うよ。前線とはそういうものだ」
タクシーを降りる時、「あなたは韓国人ですね。今日のタクシー代金はいりません」と運転手が言う。残念ながら日本人だったので代金を払った。韓国人を褒めてくれたのでチップを多めにして。

(3)ベトナムの難民を一般のアメリカ人が家庭に引き取り、就職先が決まるまで世話をした。
これはオハイオ州立大学のラップ教授の自宅でビールを飲みながら直接聞いた話です。
「ベトナム戦争が正しい戦争だったか否かを君とは議論しない。ただ自分がしたことだけ言うよ」、「ベトナム戦争へ何か関係したのですか?」、「戦争終了後しばらくして多数のボートピープルが出た。アメリカはそのすべてを移民として受け入れた。自分は7人をこの家に泊めてあげた。彼等は臨時の仕事場を見つけ、数ヵ月後には皆出て行った。アメリカの一般人はみなそうしたよ」、「そんな話は日本の新聞には出ていなかったですよ」、「日本は何もしないで経済的恩恵のみを取った」、「そんな一方的な判断は困りますね。出撃する米軍は皆日本の基地からでした」、「ボートピープルが多数出たとき、アメリカやドイツの民間団体が客船をチャーターしてベトナム沖に待機させ、波間に漂う小船の難民を拾い上げた。日本だけ客船を出さなかった」
アメリカやドイツは人道的だが日本人は人道的でないと非難したいらしい。礼儀上そう露骨には言わなかったが。

(4)中国人のベトナム懲罰戦争の奇怪さ。
1985年、北京。知り合いの周教授と五星ビールを飲みながら、こんな話をしたことがある。
「ベトナム戦争が終わった後に、中国軍が北ベトナムを攻撃して北部の三都市を占領した理由を知っていますか?」、「その軍事作戦のことは日本の新聞にも出ていましたが、その理由は全く出ていません」、「十年にわたるベトナム戦争の間、揚子江より南の諸省は食うものも食わずに、食料をホーチーミンルートでサイゴン付近まで送り続けたのです」
「ところが戦争に勝った途端、ベトナム政府は中国の反対を無視してカンボジアへ侵攻、またラオスを攻撃した。カンボジアとラオスを植民地にしようとしたのです。思い上がりもはなはだしいので、懲罰のため北ベトナムを攻撃、三都市を占領したのだ」、「懲罰とは穏やかでないですね?」、「もう一つの理由は、中国の反対にもかかわらずソ連海軍へダナンなどの港湾の使用を許可したからです」
周教授の説明はいつもの明快さがなくて歯切れが悪い。
ベトナム戦争を支援した中国は戦勝後、ベトナムを思い通りにしようとした。しかし独立心の強いホーチーミンはソ連の支援を使い中国から距離を置こうとした。中ソ関係は1959年以来悪化していた。中国はカンボジアを支援していた。ベトナム戦争には厳しい中ソ関係の影が見え隠れするのです。

以上の脈略の無い4つのエピソードの真偽の程は確かめようもありません。しかし全てベトナム人、アメリカ人、中国人から現地で個人的に聞いた事実です。
新聞の一つの役目はこのように戦争に関係する事柄の真偽の程を客観的に調査し独自のニュースとして報告することと思います。単純にアメリカ政府や日本政府の一方的な発表をそのまま報道するのは間違っています。
またアメリカ帝国主義が悪の根源で社会主義国家は平和勢力であるという教条主義的な視点でしか記事を書くのも間違っています。
戦争の善悪を議論するのは空しいことです。しかし戦争に関連して敵味方双方の人間の本音を調査し記事にすることは人々の心を豊かにする大切なことと信じています。

今日の挿絵代わりの写真の説明をいたします。

1番目の写真はベトナム戦争の光景です。(左上より時計回りで、テト攻勢で防御にあたる海兵隊員と南ベトナム軍(1968年)、第14歩兵連隊第2大隊の兵士を運ぶヘリコプタ―UH-1D(1966年)、ベトコンが潜伏したと見做され焼却される村落を焼く、べトナムの犠牲者です。)写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E6%88%A6%E4%BA%89 です。

2番目の写真は越南阮朝の都と宮廷の門です。
ベトナム中部の都市フエには、19世紀に越南阮朝の都と宮廷が置かていました。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「フエの建造物群」として登録されています。

3番目の写真は世界遺産に登録されたハロン湾の風景です。

4番目の写真はベトナム北部の徳天瀑布です。
2,3,4番目の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0 です。

ハロン湾の夕日の風景を眺めていると戦争のむなしさがしみじみと身に沁みます。平和こそが一番大切なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料====================================================
1940年9月22日に日本陸軍が仏領インドシナ(ベトナムなど)へ侵攻します。フランス軍と日本軍は衝突しましたが、日本軍は9月26日に北部インドシナを占領します。ベトナム人は日本軍を、過酷な植民地支配をしたフランス人を追い出した「救国の神兵」として歓迎したのです。
しかし1945年に日本は敗戦しました。1945年の後にベトナム地域には大きな戦争が2度起きます。1946年から1954年のベトナムとフランスの間のベトナム独立戦争と1964年から1973年の主にアメリカ軍と戦ったベトナム戦争です。
1949年、フランスはサイゴンにバオダイを復位させ、ベトナム国として独立を認めます。しかし1954年5月のディエンビエンフーの戦いで敗北したフランスは7月にジュネーヴ協定を結んでベトナムから撤退し、独立戦争は終結しました。
この1954年に、北緯17度線で国土がベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム国(南ベトナム)に分断されたのです。南ベトナムではアメリカ合衆国を後ろ盾にゴ・ディン・ジェムが大統領に就任、国名をベトナム共和国にします。ベトナムは南北に分断されたのです。

ベトナム戦争の始まり
1962年2月、アメリカ合衆国はサイゴンに援助軍司令部を作り、軍事介入によるベトナム戦争が始まる原因になったのです。1964年8月2日と4日のトンキン湾事件以降、米軍は戦争に直接介入するようになります。
1965年2月、アメリカが北ベトナムの爆撃(北爆)を開始し、本格的な戦争に突入しました。これがベトナム戦争の始まりです。
1968年1月、南ベトナム全土で解放戦線・北ベトナムのテト攻勢により、アメリカは大打撃を受けます。その結果、5月には、パリ和平会談を開始します。たが会議は何度も中断してしまうのです。同年10月、ジョンソン政権が北爆を中止して会議が再開されます。1969年1月20日、ニクソン政権が誕生し、南北ベトナム、解放戦線、アメリカの4者によるパリ和平会談が再び始まります。1973年1月、南北ベトナム政府および臨時革命政府ならびにアメリカの4者が、パリ和平協定に調印すます。
ベトナム戦争の終結と南北ベトナムの統一
1975年4月30日、北ベトナムと解放戦線が春の大攻勢を行うと、南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領は全面降伏します。そしてサイゴンは陥落し、南ベトナム国は崩壊したのです。南ベトナムを北ベトナムが実権を掌握し、ベトナム戦争は終結しました。ベトナム戦争で南北ベトナムは統一され共産党独裁の国家になったのです。
この戦争で58000人のアメリカ兵が戦死し数百万人のベトナム人が犠牲になったのです。
当時、日本では「ベ平連」などの反戦運動が盛んで、朝日新聞などの大新聞の戦争の取り上げ方はアメリカ帝国主義のせいで戦争が起き、社会主義国家は平和主義であるという恐ろしく単純すぎる記事を盛んに掲載していました。

「はるか甲州街道の大垂水峠へのドライブ」

2021年05月02日 | 日記
今日は午前中イグナチオ教会の動画配信のミサにあずかりました。昼ご飯前に「インドネシアの歴史と文化(3)独立戦争でオランダと戦った数千人の日本兵」という記事を掲載しました。昼ご飯にはカレーライスを食べました。
午後から少し遠出をしようと思い、はるか大垂水峠へのドライブを楽しみました。新緑の山々には野生の藤が沢山咲いています。美しい藤の花が咲いている風景に魅了されながら車をゆっくり走らせました。大垂水峠で撮って来た写真を送り致します。












「インドネシアの歴史と文化(3)独立戦争でオランダと戦った数千人の日本兵」

2021年05月02日 | 日記・エッセイ・コラム
オランダは大航海時代以来およそ300年にわたって「東インド」と名づけた島々を植民地支配してきました。インドネシアはオランダの植民地だったのです。
しかし1941年12月8日に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まりました。そして日本軍は1942年2月末から3月にかけて、インドネシアのスマトラ島とジャワ島を占領します。
同様にミャンマー、マレーシア、シンガポールからイギリス軍を、ベトナムからフランス軍を、そしてフィリピンからはアメリカ軍を駆逐してアジア諸国を欧米の植民地から解放したのです。
日本は大東亞共栄圏を作ろうとしたのです。
インドネシアを占領した日本軍はオランダ植民地政府により軟禁されていたスカルノやハッタなどの民族主義運動の活動家を解放し、その後スカルノやハッタと協力体制を取ります。そして従来の公用語の英語やオランダ語ではなく「インドネシア語」を公用語にしたのです。
さらに1943年10月には日本軍の協力を得てインドネシア人指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織したのです。
しかしインドネシアの日本軍によう統治は1945年8月15日の終戦によって終わりました。
戦に敗れた日本軍は連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになったのです。しかしながらインドネシアでは独立派の軍隊への武器引渡しが実行されたのです。
その結果、日本軍からは3万丁以上の三八式歩兵銃、数百の野砲・トラック、食料、弾薬、軍刀など多くの資材が独立派の手に渡ったのです。
そればかりではありませんでした。数千人の日本兵がスカルノ達が率いるインドネシア独立軍に身を投じたのです。
その数は通常3千人といわれインドネシア独立軍とともにオランダ軍との戦ったのです。そして千人の日本兵が戦死、千人がインドネシア独立後に日本へ帰国、千人がインドネシアに帰化したといわれています。
ある者はインドネシア人と結婚して家庭を築き、またある者はイスラームに改宗するなどして現地社会に溶け込み、インドネシア独立戦争の終了後も日本に帰還する者は少なかったと言います。

オランダとの戦争は1949年まで続きますが、12月のオランダ-インドネシア円卓会議(英語版)(ハーグ円卓会議)で、オランダから無条件で独立承認を得ることになったのです。
インドネシアの独立宣言は1945年8月17日にスカルノによってなされました。現在でも8月17日を独立記念日としており、ジャカルタを中心に街中に国旗を掲揚して様々なイベントを開催し、祝賀ムードに包まれることが恒例となっています。
こうのように日本は終始一貫してインドネシアの独立に貢献したのです。独立後、スカルノは初代大統領になりインドネシアは親日国になったのです。
スカルノ初代大統領はオランダからの独立後、憲法(1950年憲法)を制定し、議会制民主主義の導入しました。そし1955年に初の議会総選挙を実施しました。
インドネシアは現在でも信頼出来る親日国です。現在、数多くの日本企業がインドネシアにあります。私の友人もそんな企業の社長をしていました。彼はインドネシアの人は優しく、しかもよく働くと言ってました。

今日はインドネシアの独立戦争に協力してオランダと戦った数千人の日本兵のことなどをご紹介致しました。
今日の挿絵代わりの写真はインドネシアの風景写真です。写真の出典は、「インドネシアの風景写真」を検索して出ていた写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)










「今日の復活節第5主日ミサの動画配信」

2021年05月02日 | 日記
今日は復活節第5主日です。2021年5月2日の10時から始まるカトリック関口教会の動画配信は以下の通りです。
カトリック関口教会、2021年5月2日
復活節5主日のミサの動画配信
https://www.youtube.com/watch?v=kEjV5uaBrlA
聖イグナチオ教会 の復活節第5主日のミサの動画配信は以下にあります。
https://www.youtube.com/watch?v=tmdpFh21FWY
今日教会に行かない方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



「私の散歩道の風景です」

2021年05月01日 | 写真
これは私の散歩道の風景です。何故か森の中を歩くのが好きで少し遠うくの小金井公園の北にある森まで時々行きます。緑の樹々の間を歩いていると自分の体も緑に染まるようにまります。風もさやわかです。良い陽気の季節です。皆様の散歩道はどんな風景でしょうか?