後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ユトリロと佐伯祐三、それぞれのパリ」

2021年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム
佐伯祐三の絵が好きな私は困っています。彼が描くパリの風景画がユトリロの絵にとても似ているのです。しかし私は佐伯祐三の絵の方が好きなのです。一般にユトリロの絵には独創性があると言われています。佐伯祐三はユトリロの絵の真似をしたのでしょうか。私は真似た絵の方が好きなのです。困ったものです。
佐伯祐三の海外での評価はどの程度のものでしょうか?佐伯祐三の絵はほとんど知られていないぞうです。Wikipediaの外国語のページが存在しませんし、海外の美術館のコレクションにも含まれていないのです。
それはともかくユトリロの油彩画と佐伯祐三の油彩画を4枚ずつ見てみましょう。

1番目の写真はサクレクール寺院の見える風景画です。出典は、 http://nekoarena.blog31.fc2.com/blog-entry-2628.html です。晩年の作品です。
昔、サクレクール寺院にブラリと入って暗いお堂のなかで祈ったことを懐かしく思い出しています。何を祈ったかは忘れてしまいましたが。

2番目の写真はパリの北にあるモンマニー街の風景です。義父のポール・ムジスの建てた家のあった所だそうです。

3番目の写真は「トルシー=アン=ヴァロワの教会」です。

4番目の写真は「コタン小路」です。ユトリロの絵画は風景画ですが人生の哀歓をしみじみと感じさせます。そして何よりも美しいのです。優しい美しさです。ユトリロの絵画をじっと眺めていると胸に迫るものがあります。世界にかけがえのない宝です。
モーリス・ユトリロは 1883年 に生まれ 1955年に亡くなりました。生涯アルコール依存症に苦しみ私生活は悲惨なものでした。1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に私生児として生まれモーリスと名付けられました。
さて次の4枚は佐伯祐三の油彩画です。

5番目の写真は「パリ街景」です。原画の大きさは38.1×45.4cm です。

6番目の写真も「パリ街景」です。1927年作で大きさは65×81cm です。

7番目の写真は「広告“ヴェルダン” 」です。1927年作で大きさは54.0x65.0cmです。

8番目の写真は「靴屋(コルドヌリ)」です。1925年作で原寸は,72.5x59.0cmです。
私は佐伯佐伯祐三の原画の数十枚をまとめて見たことが一度だけあります。2008年、横浜そごうデパートでの特別展でした。
油彩画の原画には絵の具が盛り上がり、画家の熱い息づかいが感じられるのです。30歳で客死した佐伯祐三の情熱が直接伝わって来るのです。
彼はパリに魅せられ狂ったように絵を描き続けました。最後は文字通り狂って彼の地の精神病院で息を引き取りました。たった10年間ほどの画歴でした。
絵画の写真について解説は不要です。命を削るようにして描いた作品群の前では、どんな美辞賛辞も空々しくなります。
1924年(大正13)1月、佐伯祐三はパリに行きます。そしてモーリス・ド・ヴラマンク(1876~1958)との出会います。ヴラマンクのアトリエを訪れた佐伯は、自分の作品をヴラマンクに見せなした。
ところがこの巨匠から「アカデミック!」と一喝されてしまいます。学校で優等生の描く絵は上手ですが面白くも可笑しくも無い絵なのです。佐伯祐三の絵はそんな絵だったのです。
そして哀愁漂うパリの街角を描いたモーリス・ユトリロ(1883~1955)の芸術に強く惹かれるようになります。その4年後、佐伯はこの地で30年という短い生涯を閉じたのです。
墓所は生家である大阪市の光徳寺と東京都千代田区の心法寺にあります。現在、佐伯の作品は大阪中之島美術館に50点、和歌山県立近代美術館に14点など、日本各地の34か所に所蔵されているそうです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「昔と非常に変わってしまった買い物をする商店の風景」

2021年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム
梅雨空が覆っています。皆様お元気ですか? 今日は時代が変われば買い物風景も大きく変わることを示す写真をお送りいたします。私どもが住んでいる東京の都下の小金井市の話です。
この5月16日に、「過疎化は都会の中でも、消えた商店街」という記事を掲載しました。その中で次のように書きました。
・・・私の家の裏手にあった商店街が消えて無くなりました。私どもが1964年に引っ越して来た当時は両側にに20軒ほどの個人商店がビッチリと並んでいました。賑やかな商店街だったのです。酒屋、肉屋、葉茶屋、菓子屋、化粧品屋、八百屋、蕎麦屋、中華料理屋、本屋、電気屋そして歯科医院まであったのです。
夏になると商店街祭りがあり野外舞台にお笑い芸人や歌手が来ました。夜になると酒屋は椅子とテーブルをそろえ生ビールを出しました。浅草でサンバ踊りがあった後に踊り子が裏の商店街祭りにも来ていたのです。それは楽しい夏の夜の思い出です。そんな商店街が消えてしまったのです。・・・

それでは人々は何処で買い物をしているのでしょうか? 私は考えました。そうだ駅前に出来た大型のショッピングセンターに違いありません。そこにはイトーヨーカ堂とソコラ小金井という大規模な商業施設があるのです。商品の種類が豊富で売り場が綺麗で素晴らしいのです。そこへ客が吸い取られたに違いありません。
そこでカメラを持って大型のショッピングセンターでの買い物風景の写真を撮って来ました。その写真をお送りいたします。

1番目の写真はソコラ小金井の中にあるフードウエイというスーパーです。沢山の買い物客で賑わっています。

2番目の写真はソコラ小金井の中にある紀ノ国屋です。沢山の買い物客で賑わっていましたが人の顔を写すとまずいので客足が途絶えた時シャッターを押しました。

3番目の写真はイトーヨーカ堂の売り場の風景です。ここも沢山の買い物客で賑わっていました。しかし客が途絶えた時シャッターを押しました。

4番目の写真はソコラ小金井の野外にあるテーブルで買い物客がコーヒーを飲みながら寛いでいる風景です。

5番目の写真はソコラ小金井にある花屋さんです。美しい花束がソコラ小金井の中に華やか雰囲気を作っています。

写真を撮りながら私は考えました。何故新しい商業施設に客が吸い取られたのでしょうか。
理由は売り場が綺麗で広いのです。そして商品が上質で値段も高くないのです。そして雰囲気が圧倒的に洒落ているのです。その上、雨に濡れないで一か所で欲しい物が全て買えるのです。
その風景は昔と非常に変わってしまっているのです。しみじみと隔世の感がします。それにしても日本は良い国になったのです。幸福感に包まれます。
皆様のお住まいの場所はいかがでしょうか。しみじみと隔世の感がするような変化が起きているでしょうか?幸福感に包まれているでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「共産主義という人類の壮大な理想と挫折、そして難しい問題」

2021年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム
明治維新以来、ヨーロッパ文化は日本に大きな影響を与えました。深い影響です。
そのヨーロッパ文化が共産主義という人類の壮大な理想を生みました。しかしそれは悪夢でした。
キリスト教では労働者や貧しい農民が幸せになれなかったのです。そこで共産主義が生まれたのです。
共産主義では財産の共有を目ざし生産手段を共有することにより、階級や搾取がなくなります。全ての人間が平等になるのです。
共産主義の考えは一見素晴らしいもののように見えます。それまでの西洋文明の中でしいたげられ、蔑げすまれてきた下層階級の人々を平等に扱うというのです。フランス革命で謳われた自由と平等な社会が一向に実現しなかったので、共産革命が必要だと主張する人々が現れたのです。
世界で初めて共産主義革命で政府をつくったのはロシアです。1917年のことです。その結果、ソビエト連邦共和国が生まれました。
そのソ連は1991年に挫折して崩壊しますが、それまでの74年間にキリスト教の弾圧を続けました。従来のヨーロッパ文化の根幹をなしていたキリスト教を否定し、弾圧したのです。弾圧によってはかり知れない悲劇が起きました。一つの例だけを示します。

1番目の写真は救世主ハリストス大聖堂の写真です。ハリストとはロシア語でキリストのことです。この写真は1991年のソ連崩壊後に教会が再建された姿の写真です。

2番目の写真は1931年にスターリンの命令で爆破され崩れゆく救世主ハリストス大聖堂の写真です。
共産革命に成功したソ連は全世界を共産化しようとしました。例えば、ソ連は中国共産党と協力してベトナムを共産化しようとしました。彼等の支援で北ベトナムとアメリカが支援した南ベトナムの間に残酷なベトナム戦争が10年間ほど続きました。その結果、共産勢力が勝利して、南北ベトナムは共産主義国家として統一されたのです。
共産党による南北ベトナム統一が終了すると宗教関係者や経済を握っている華僑が弾圧されます。彼等は弾圧を逃れるために船に乗って沖に逃げたのです。いわゆるボートピープルです。
このボートピープルの一人だった人が私どもが通っているカトリック教会の主任神父をしていたヨゼフ・ディン神父さまなのです。主任司祭として優しく信者の面倒をみる素晴らしい神父様でした。

3番目の写真はヨゼフ・ディン神父さまがミサでお祈りの言葉を唱えている場面です。
このディン神父様はベトナムで神学生でした。ベトナム戦争後に日本に逃げて来ます。そして東京大司教区で日本の司祭になったのです。東京のあちこちのカトリック教会の主任司祭を務めてから私共の教会に来たのです。
ディン神父を見る度に共産主義のことを考えたものです。
共産主義では貧民階級が無くなる筈です。南米には貧民街が多くあることで有名です。ですから貧民層の多い南米では共産主義運動が盛んになりました。例えばキューバでは共産主義革命が成功しました。カストロやチェ・ゲバラがか革命を指導したのです。
しかしそれは南米の一部に限られた地域でした。南米の他の地域では相変わらず貧民街が多いのです。
私はある時ベネズエラを訪問しました。行ってみると胸が痛む光景があちこちにあるのです。私はカラカス市に行って貧民街を沢山見てしまったのです。
カラカス市では近代的な中心街を外れた山の斜面に貧しい人々がビッシリと住んでいるのです。それは南米特有の山の斜面にある貧民街です。

4番目の写真はブラジルのリオデジャネロの貧民街の写真です。写真の出典は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A9 です。
私が訪れたカラカス市の貧民街も山の斜面にありました。
山の斜面の下の入り口に、蛇口の壊れた水道が一個あり、水が流れています。半身裸の男の子が水の入ったヤカンを2個持って坂道を登って行きます。レンガやシックイで固めた不揃いの小さな家々が重なるように斜面を埋めて、上へ、上へと続いているのです。
誰も居ません。ガランとした空虚な路地を乾いた風が吹いているだけです。悪臭もせず清潔な感じです。中腹まで登ったら家の前で老婆が編み物をしていました。我々をとがめるように険しい目つきで見ます。案内してくれ人が何か現地語で挨拶すると途端に笑顔を見せたのです。後で彼に聞きました。ガランとして誰も居ないのは、日雇いの仕事で皆な出た後だからと。そして観光客が現地の案内人なしで来ると殺されるから私へ注意するようにと言ったという。

5番目の写真は貧民街で銃をかまえて警戒する武装警官の様子です。

6番目の写真はリオデジャネイロ市のコンプレクソ・ド・アレマンの貧民街です。6万人以上が住 んでいますが、2007年には憲兵隊とギャングの市街戦も起きた場所だそうです。
南米に行って以来、私は時々、カラカスの山の斜面の貧民街の光景を思い出しては胸が痛みます。何故、共産主義が貧民街は解消出来ないのだろうかと考えています。
しかしどんな理想的な政府を作っても南米の貧民街は解消出来ないという考えもあるのです。以下にはその理由が明快に書いてあります。
ブラジル在住の平峰盛敏さんから投稿して頂いた「ブラジル生活あれこれ(1)19歳で日本から移民して感じたこと」という連載記事に書いてあるのです。2017年4月22日 に掲載した記事の中に次のような記述があったのです。
(3)ブラジルにおける貧困層の存在と問題点
アフリカから連れてこられた奴隷は1888年に解放されました。しかしその子孫は130年近く経った今でもその大部分が、最底辺生活から抜け出すことが出来ずにいます。この貧困層の存在は人種差別による貧困では無く、生活能力不足による貧困と考えられています。
この貧困層の問題は、教育不足、就職難、悪い道への下り坂などです。
貧困層が住むスラム地域には、アフリカの黒人系が多く、教育不足、就職難、悪い道の悪循環が何時までも回っているのです。
私がブラジルで高校、大学に学んだ際、ビックリしたのは、貧乏が食物不足を生み、その子弟達は、餓死寸前の環境に何年も過ごすことになることです。 餓死寸前の栄養状態では脳が発達出来ず、知能の発達を妨害しているのです。この事実は医学的にも認められているのです。この貧困層の問題を私が初めて知った時の驚きと暗い気持ちが忘れられません。そこでブラジルの貧困層の歴史を調べました。・・・以下省略します。

嗚呼、地球上から貧民街を無くすことは至難なことなのです。一体 人間とは何でしょうか。何故貧民街を無くすことが出来ないのでしょうか。何故人間には貧富の差があるのでしょうか。アメリカや日本は貧富の差の大きいことで有名です。本当に難しい問題です。
皆様は貧富の差や貧民街の問題をどのようにお考えでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「夏目漱石の短編、『京に着ける夕』を読む」

2021年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日パソコンを使って調べものをしたり文章を書いていると本というものを読まなくなります。こんな状態が10年以上続いています。家内は相変わらず読書です。最近は夏目漱石の「永日小品」を読んでいます。私の学校時代には夏目漱石や芥川龍之介の作品は教養として読んだものです。
さて皆様は本を読んでいらっしゃいますか。読書していらっしゃいますか。

そこで今日は夏目漱石の短編、『京に着ける夕』をお送り致します。
出典は「青空文庫」、https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/777_43437.html です
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夏目漱石作、『京に着ける夕』

 汽車は流星の疾きに、二百里の春を貫いて、行くわれを七条のプラットフォームの上に振り落す。余が踵の堅き叩に薄寒く響いたとき、黒きものは、黒き咽喉から火の粉をぱっと吐いて、暗い国へ轟と去った。
 たださえ京は淋しい所である。原に真葛、川に加茂、山に比叡と愛宕と鞍馬、ことごとく昔のままの原と川と山である。昔のままの原と川と山の間にある、一条、二条、三条をつくして、九条に至っても十条に至っても、皆昔のままである。数えて百条に至り、生きて千年に至るとも京は依然として淋しかろう。この淋しい京を、春寒の宵に、とく走る汽車から会釈なく振り落された余は、淋しいながら、寒いながら通らねばならぬ。南から北へ――町が尽きて、家が尽きて、灯が尽きる北の果まで通らねばならぬ。
「遠いよ」と主人が後から云う。「遠いぜ」と居士が前から云う。余は中の車に乗って顫えている。東京を立つ時は日本にこんな寒い所があるとは思わなかった。昨日までは擦合あう身体から火花が出て、むくむくと血管を無理に越す熱き血が、汗を吹いて総身に煮浸出はせぬかと感じた。東京はさほどに烈しい所である。この刺激の強い都を去って、突然と太古の京へ飛び下りた余は、あたかも三伏の日に照りつけられた焼石が、緑の底に空を映さぬ暗い池へ、落ち込んだようなものだ。余はしゅっと云う音と共に、倏忽とわれを去る熱気が、静なる京の夜に震動を起しはせぬかと心配した。
「遠いよ」と云った人の車と、「遠いぜ」と云った人の車と、顫えている余の車は長き轅を長く連ねて、狭く細い路を北へ北へと行く。静かな夜を、聞かざるかと輪を鳴らして行く。鳴る音は狭き路を左右に遮ぎられて、高く空に響く。かんかららん、かんかららん、と云う。石に逢ばかかん、かからんと云う。陰気な音ではない。しかし寒い響である。風は北から吹く。
 細い路を窮屈に両側から仕切る家はことごとく黒い。戸は残りなく鎖されている。ところどころの軒下に大きな小田原提灯が見える。赤くぜんざいとかいてある。人気けのない軒下にぜんざいはそもそも何を待ちつつ赤く染まっているのかしらん。春寒の夜を深み、加茂川の水さえ死ぬ頃を見計らって桓武天皇の亡魂でも食いに来る気かも知れぬ。・・・中略、続きは、https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/777_43437.html をご覧下さい。
・・・ かんかららんは長い橋の袂を左へ切れて長い橋を一つ渡って、ほのかに見える白い河原を越えて、藁葺とも思われる不揃いな家の間を通り抜けて、梶棒を横に切ったと思ったら、四抱えか五抱いつかかえもある大樹の幾本となく提灯の火にうつる鼻先で、ぴたりと留まった。寒い町を通り抜けて、よくよく寒い所へ来たのである。遥なる頭の上に見上げる空は、枝のために遮ぎられて、手の平ほどの奥に料峭たる星の影がきらりと光を放った時、余は車を降りながら、元来どこへ寝るのだろうと考えた。
「これが加茂の森だ」と主人が云う。「加茂の森がわれわれの庭だ」と居士が云う。大樹を繞って、逆くに戻ると玄関に灯が見える。なるほど家があるなと気がついた。
 玄関に待つ野明のあきさんは坊主頭である。台所から首を出した爺さんも坊主頭である。主人は哲学者である。居士は洪川和尚の会下である。そうして家は森の中にある。後は竹藪である。顫えながら飛び込んだ客は寒がりである。
 子規と来て、ぜんざいと京都を同じものと思ったのはもう十五六年の昔になる。夏の夜の月円に乗じて、清水の堂を徘徊して、明らかならぬ夜の色をゆかしきもののように、遠く眼を微茫の底に放って、幾点の紅灯に夢のごとく柔やわらかなる空想を縦いままに酔えわしめたるは、制服の釦ボタンの真鍮と知りつつも、黄金と強しいたる時代である。真鍮は真鍮と悟ったとき、われらは制服を捨てて赤裸のまま世の中へ飛び出した。子規は血を嘔はいて新聞屋となる、余は尻を端折って西国へ出奔する。御互の世は御互に物騒になった。物騒の極く子規はとうとう骨になった。その骨も今は腐れつつある。子規の骨が腐れつつある今日に至って、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋になろうとは思わなかったろう。漱石が教師をやめて、寒い京都へ遊びに来たと聞いたら、円山へ登った時を思い出しはせぬかと云うだろう。新聞屋になって、糺すの森の奥に、哲学者と、禅居士と、若い坊主頭と、古い坊主頭と、いっしょに、ひっそり閑かんと暮しておると聞いたら、それはと驚くだろう。やっぱり気取っているんだと冷笑するかも知れぬ。子規は冷笑が好きな男であった。
 ・・・
 暁は高い欅の梢に鳴く烏で再度の夢を破られた。この烏はかあとは鳴かぬ。きゃけえ、くうと曲折して鳴く。単純なる烏ではない。への字烏、くの字烏である。加茂の明神がかく鳴かしめて、うき我れをいとど寒がらしめ玉うの神意かも知れぬ。
 かくして太織の蒲団を離れたる余は、顫えつつ窓を開けば、依稀たる細雨は、濃かに糺の森を罩て、糺の森はわが家を遶りて、わが家の寂然たる十二畳は、われを封じて、余は幾重ともなく寒いものに取り囲まれていた。
  春寒の社頭に鶴を夢みけり  (終わり)

尚、漢字に読み方をつけた読み易い文は、https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/777_43437.html  にあります。

それにしても明治時代は遠くなりました。私は明治時代に教育を受けた漱石が書いた文章の漢字が読めないのです。意味は分かりますが読めないのです。
挿絵代わりの写真は明治時代の京都、四条の風景です。出典は、https://blog.goo.ne.jp/teinengoseikatukyoto/e/084666016770e21f702ed4f99d578489 です。



それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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夏目 漱石、
生年: 1867-02-09
没年: 1916-12-09
人物について: 慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。



「こ の季節、武蔵野の雑木林に咲く木の花、草の花」

2021年05月18日 | 写真
若い頃、国木田独歩の「武蔵野」という随筆を読みました。それ以来武蔵野は私の憧れの地になったのです。小金井市に住んでいますが近所には国木田独歩の「武蔵野」の面影が少なくなってきてです。
しかし車を駆って埼玉県の行くと所々に、嗚呼、これが武蔵野だと感じる雑木林があります。緑豊かな雑木林が散在して昔の武蔵野のようです。そして雑木林の足元には野の花々がひっそりと咲いています。見上げると木々にも地味な花が咲いています。
立ち止まって丁寧に見ると小さな野の花の美しさに魅了されます。

今日は車で所沢の北側の農村地帯を彼方此方探して撮って来た野の花の写真をお送りいたします。

1番目の写真は所沢市カルチャーパークに奥深い雑木林を見つけました。誰も遊んで居ない淋しい公園です。それだけに昔の武蔵野の雰囲気が残っています。

2番目の写真は野バラです。

3番目の写真はハコネウツギです。

4番目の写真は同じハコネウツギを拡大して撮った写真です。

5番目の写真はヤマボウシ

6番目の写真はムラサキツユクサです。

7番目の写真はハルジオンです。

それにしても国木田独歩の「武蔵野」は古い本です。明治31年、1898年に発刊された本です。
お若い方にはご存知ないと思いますのでその一節を掲載しておきます。
・・・武蔵野を除いて日本にこのやうな処がどこにあるか。北海道の原野にはむろんのこと、奈須野にもない、そのほかどこにあるか。林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのやうに密接している処がどこにあるか。・・・
なかば黄いろくなかば緑な林の中に歩いてゐると、澄みわたつた大空が梢々の隙間からのぞかれて日の光は風に動く葉末々々に砕け、その美しさいひつくされず。・・・
武蔵野のやうな広い平原の林が隈なく染まつて、日の西に傾くとともに一面の火花を放つといふも特異の美観ではあるまいか。もし高きに登りて一目にこの大観を占めることができるならこの上もないこと、よしそれができがたいにせよ、平原の景の単調なるだけに、人をしてその一部を見て全部の広い、ほとんど限りない光景を想像さするものである。その想像に動かされつつ夕照に向かつて黄葉の中を歩けるだけ歩くことがどんなにおもしろからう。・・・

皆様の埼玉県の農村地帯に足を伸ばせば美しい雑木林と野の花々をお楽しみに
なれます。梅雨の晴れ間にいらっしゃいませんか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日は梅雨空の下、金山緑地の水辺の風景写真を撮りに行きました」

2021年05月17日 | 日記
今日は一日中どんよりした梅雨空です。午後から隣の清瀬市の金山緑地の水辺の風景写真を撮りに行きました。
水辺に立っていると湿気を含んだ新鮮な風が頬を撫でて行きます。嗚呼、今年も梅雨が始まるのだと感じます。シベリアに帰らず棲みついた鴨の夫婦だけが遊んでいます。家内が水の向こうで写真を撮っています。平穏な午後です。こうして老境の日がまた一日流れいくのです。金山緑地の水辺の風景写真をお送りいたします。









「神戸のトーア・ロードという通りの風景画」

2021年05月16日 | 写真
1年間だけ住んだ神戸の風景を時々思い出します。神戸ではトーア・ロードというロマンチックな雰囲気の通りが好きでした。
神戸出身の戦没画学生の杉浦基司さんが描いた油絵が残っています。「神戸東亜ロード」という題がついた絵です。戦争中だったのでトーア・ロードは東亜ロードになっています。
この絵画をお送りいたします。その下に妹さんの兄の思い出の記も是非お読み下さい。

杉原基司さんは神戸生まれ、東京美術学校を卒業し、戦闘機に乗りました。昭和20年2月16日、厚木飛行場の上空で来襲して来た米軍機と空中戦をし、激墜され戦死しました。享年23歳でした。
・・・・・・戦死した後で妹が書いています。・・・・・・
水泳部で派手に水しぶきをあげていた兄。
ガラスの窓にドクロの絵を描いて妹の私を泣かせた兄。
クラシックと讃美歌しかなかったわが家でジャズやクンパルシータを初めて聞かせてくれた兄。
そんな兄が、美校を卒業して海軍予備学生となり、
沢山の兵隊さんが死ぬゼロ戦を志願したのは、やっぱり持ち前の好奇心
”飛行機に乗りたい”と思ったからでしょうか?
昭和20年2月16日、、、、厚木上空に初めて米軍戦闘機が来襲したとき
兄は23歳の生命をちらしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
絵と文章の出典は以下の通りです。
NHKきんきメディアプラン発行、「無言館 遺された絵画」2005年版、123ぺージ

「今日の主の昇天の祭日のミサの動画の紹介」

2021年05月16日 | 日記
今日は今日は主の昇天の祭日です。

2021年5月16日の10時から始まるカトリック関口教会の動画配信は以下の通りです。

カトリック関口教会、
https://www.youtube.com/channel/UCc2LbUPcHohKUgO2dYhrCvw

聖イグナチオ教会 、
https://www.ignatius.gr.jp/news/streaming.html

今日教会に行かない方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

写真は昨日お祈りに行ったカトリック小金井教会です。


「大きなケヤキの写真を撮りに行く」

2021年05月15日 | 写真
今日は小金井公園へ大きなケヤキの写真を撮りに行きました。公園には数十本の大きなケヤキの木が勢い良く茂っています。独立した木を探して写真を撮って来ました。樹木のお好きな方々に写真をお送り致します。











「今日の散歩道の風景です」

2021年05月14日 | 日記
今日は夏日のように暑い日です。午後の散歩道は何時もと違って、小金井分水沿いの農家のそばを通り玉川上水沿いの遊歩道に出ました。小金井分水は江戸時代の初期に作った水路です。小金井村の生活用水と農業用水のため玉川上水から分水していました。
農家の写真、玉川上水沿いの遊歩道の写真、玉川上水の写真などをお送り致します。









「地方の活性化には難しい地域と容易な地域がある」

2021年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム
時々山梨県北杜市の甲斐駒岳の麓にある小屋に遊びに行ってました。周囲には牧場や田畑がある農村です。その農村が次第に過疎化して行くのです。若者が都会へ出て行って残った高齢者も次第に旅立っていきます。40年ほど前までは集落の家々にシバザクラが美しく広がって咲いていましたが、過疎化とともに消えて無くなってしまいました。村のよろず屋も店仕舞いしました。悲しい地方の過疎化です。
常に都会に住んでいる人々にとっては、そのような地方の過疎化の現実が分りません。しかし一歩農村や山村地帯へ行くと地方は活気が無くなっているのです。
よく農村の若者が都会に出るのは就職口が地元に無いからだと簡単に言っている人がいます。それも理由の半分です。
しかし、もう一つの大きな理由は農村や山村では若者の個人の自由を認めない雰囲気があるからなのです。若者は地元の小学校や中学校、あるいは高校で個人の自由と平等が一番重要だと教わります。しかし住んで居る田舎社会の実態は江戸時代とあまり変わりません。私は50年間ほど甲斐駒岳の麓にある小屋に通って農村地帯の閉鎖的な文化を良く知りました。
若者達は大学だけは大都会でという希望で家を飛び出し、大学卒業後は都会で就職します。これこそ農村と山村が過疎化する原因の半分の理由なのです。

田舎社会の現実を示す一つの実例をご紹介しましょう。
山林の中に独り住む私の友人が持病のせいで車の運転を止めました。その農村にはコミュニティ・バスが縦横に走っています。彼の山荘の下の立派な広域農道にも走っています。ところが停留所がありません。
そこで彼は市役所に行って停留所を近くに作って下さいと交渉します。役所はいろいろ言を左右しますが、つまるところ以下の理由で作ろうともしません。
市役所は個人が自由に(勝手に)停留所を作る申請を出しても受け付けません。それは自分の属しているの長から提出すべきです。市役所が個人の申し出を勝手に認めたら江戸時代から連綿と続く農村の平和と秩序が壊れます。
に住んでいる人は江戸時代から協力しあって汗水流して畑を広げてやっと生活出来るようにしたのです。ですから勝手に別荘に移住してきた人には権利がないのです。田舎には江戸時代から連綿と続く封建的な考えかたがあって人間関係が息苦しいのも確かです。
ところが都会で家庭を持つようになるとマンションや家を郊外に持つことになります。毎朝、毎夜、通勤地獄に苦しめられます。通勤地獄の恐さは肉体的な苦痛だけでないのです。個人の尊厳がメチャクチャにされる1時間から2時間なのです。それが朝夕毎日2回です。電車の中だけでありません。乗り換えの駅の人の多さに個人が埋没してしまうのです。それに最近はコロナ感染の恐怖が重なります。
さて、この苦しみから逃れる方法は、息苦しい都会から脱出し、地方の小さめの都市に住むことです。そこは農村地帯ではなく地方の都市なのです。
通勤に自分の車が使えたり、電車やバスを使う場合でも短時間で済む小さな都市なのです。
例を上げます。北海道の旭川、仙台、つくば研究学園都市、長野、静岡、神戸、高知、鹿児島などの都会は通勤地獄はほとんどありません。
このようにして地方の農村地帯へ若者とその家族は戻って来ません。甲斐駒岳の麓の農村にも戻って来ません。
特に純農業地帯、大都会から離れた漁村、奥深い山村などの過疎化は深刻です。地方と言っても、過疎化している地域としていない地域があるのです。過疎化している地域の活性化は本当に難しいのです。日本は繁栄しているとよく言われますが繁栄とともに廃村になって行く集落も数多くなっていくのです。
今日は「地方の活性化には難しい地域と容易な地域がある」という問題を考えました。活性化の難しい地域の問題の解決は難しいと思っています。

今日の挿絵代わりの写真は甲斐駒岳の高冷地で畑作しか出来ない農業地域の風景写真です。


それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)








「閉園する花園、京王フローラル・ガーデンへの哀惜」

2021年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
哀惜とは人の死など二度と帰らないものを悲しみ惜しむことだそうです。今日は間もなく閉園してしまう花園への哀惜の記を書きたいと思います。
今月の5月31日で調布市にある「京王フローラルガーデン」は営業を終了して閉園します。跡地は駅周辺とともに再開発すると発表されました。
1956年(昭和31年)に「東京菖蒲園」として後に「京王フローラル・ガーデン」と改名し以来65年間、美しい花々を見せてくれた花園でした。
私は仕事を一切止めた70歳の時から15年間足繁く毎月のように通った花園です。何時も家内が一緒でした。
この花園は文字通リ私と妻の最後の「花道」でした。老境を幸せにしてくれた楽しい花園でした。
春にはいろいろなマグノリアが咲きます。春夏秋と季節の草花が色どり、そして冬でも足もとの小径にはパンジーが咲いています。
夏の芝生の原には球体のギガンジュームが咲きます。そしてバラ園には一年中いろいろなバラが咲いています。
この花園は四季折々いつも花が絶えないのです。家内は花々が好きなので京王フローラル・ガーデンを大変愛していました。花畑にはいつも数人の女性が熱心に手入れをしています。「有難うございます」と自然にお礼の言葉が出ます。
今日は京王フローラル・ガーデンの四季折々の花々の写真をお送り致します。全て以前に家内が撮った写真です。













京王フローラルガーデンは特に多数の種類のマグノリアがあることで有名な花園です。
それにしてもこんな見事な花園が5月末に消えて無くなってしまうのです。私の邯鄲の夢も間もなく終わります。しかし最後の15年間、妻と一緒にこの花園に遊んだのです。幸せでした。幸運でした。
京王フローラルガーデンへは新宿駅から京王線に乗り調布駅で乗り換え次ぎの「京王多摩川駅」で下車すると駅前にあります。新宿から25分位です。詳しくは、http://www.keio-ange.info/ をご覧下さい。 

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「樹齢300年以上のケヤキの大木の写真を撮りに行く」

2021年05月12日 | 写真
自宅から西へ1キロ位行った所に江戸時代から続く大きな園芸農家があります。屋敷の中に樹齢300年以上のケヤキの大木が数本茂っています。私は大きな木を尊敬しています。午後からその写真を撮って来ました。出来の良くない写真ですがお送り致します。





「野生の象がアジア各地に現在でも棲んでいる、そして昔の日本にも」

2021年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
幼少の頃、動物園で象を初めて見た時の驚きを忘れられません。こんな動物が森や草原をノシノシと歩いているのです。想像しただけで胸がおどったのを思い出します。何十年たった今でも象を初めて見た時の驚きをはっきり覚えています。ずいぶん後になって、私の見た象はアジア象だったと分かりました。
そこで今日はアジア象の話を書くことにしました。
アジア象は優しい性格で人によく懐きます。気性の荒いアフリカ象とは違います。そのアジア象が野生で棲んでいる場所はインド、インドネシアのスマトラ、ボルネオ島、カンボジア、スリランカ、タイ王国、中国の雲南省、ベトナム、マレーシア、ミャンマー、ラオスなどです。

1番目の写真はアジア象です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%82%BE%E3%82%A6 です。
この写真のように頭と胴が大きく、長さ(体長)は 6メートル位あります。体重はオス平均5,400キログラム、メス平均2,720キログラムです。背中が丸い形をしています。

2番目の写真は野生の象の群れガ草原に出て来た光景です。写真の出典は、1番目の写真と同じです。子供も混じっています。出産直後の子供の体重は50 から 150キログラムでです。
アジア象は主に森林に棲んでいますが食物を求めて草原にも出て来ます。メスと幼獣からなる群れをつくります。そして主に草を食べますが木の枝や葉、樹皮、根、果実なども食べます。5 年から 8年に1回子供を産みます。メスは生後18年くらいで子供を産みます。寿命は70年くらいです。
アフリカゾウと比較すると人間に懐きやすく運搬などの労働力となり、動物園やサーカスで親しまれ、宗教的儀式にも使われます。

3番目の写真はタイで観光客を乗せている光景です。写真の出典は、1番目の写真と同じです。
アジア象は約4,000年前から牙が象牙細工に利用されて来ました。中国では、骨灰が漢方薬になると信じられています。約5500年前からインダス川流域で運搬などに使役されてきたのです。
アジア象は農地を荒らす害獣とみなされることもあります。インド・スリランカなどでは、野生の象が殺されています。スリランカでは2010年〜17年の間に平均して年240頭のゾウが殺され、2019年には405頭が殺されたと言います。
さらに森林伐採・開墾による生息地の破壊、牙用や薬用・使役用の乱獲などにより生息数は減少するする一方です。1995年における生息数は、35,490 から49,985頭と推定されています。

さて一方、日本でも昔は象が棲んでいたのです。旧石器時代の日本人は象狩りをして食べていたのです。
日本に棲んでいた象はナウマン象と呼ばれています。明治8年にお雇外国人として来日したハインリッヒ・エドモンド・ナウマン博士が野尻湖畔で象の化石を発見したのでナウマン象と呼ばれています。

4番目の写真は野尻湖ナウマンゾウ博物館の中で私が撮ったナウマン象の復元した姿です。

5番目の写真は野尻湖ナウマンゾウ博物館の外で私が撮ったナウマン象の復元したものです。
その後の発掘でナウマン象の化石が沢山出てきました。それら数多くの化石を調べた結果、我々の先祖はつい2万年前まで象を殺して食べていたことが明確に判ったのです。
今から4万年頃前から2万年前までの2万年もの長い間旧石器時代の日本人は棲息していたナウマンゾウを集団で襲って食べていたのです。
その事実はナウマンゾウの解体現場に残った骨と共に、解体に使った石器が多数発掘されたので明らかになったのです。
日本のナウマン象は二万年前に絶滅しました。今考えると象を食べるとは残酷な話です。悲しいです。
そして象の化石は北海道や静岡県で多く出ています。関東地方や全国にも棲んでいたと思われています。

一般的に考えると象と人間の関わりには長い歴史があるのです。象と人間は不思議な絆で結ばれているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「日本の平和憲法を改正すべきか?その手続きは?」

2021年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の憲法の第9条が問題なのです。第9条は「戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認」を明記してるのです。次がその条文です。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
そしてこの内容はアメリカ占領軍の指示で出来たのです。
さて2018年01月の国会で安倍総理は各党が憲法改正の論議を始めるようにという趣旨の演説をしました。安倍総理の官房長官だった菅義偉氏が次の総理大臣になったので憲法改正の国民投票が出来るように関連法の整備をしています。いよいよ今年は憲法改正に動き出すようです。しかし平和憲法を改正すると戦争になると感じている人々も多いのが現実です。世論調査をすると改正賛成は50%以上で反対は40%台です。
日本人の多くは平和憲法が戦後76年の日本の平和を守ったと感じているのです。事実は厳しい米ソ冷戦構造で見かけの平和が続いたのです。
しかしこの現実とは別にして日本の平和憲法は改正しないで守るべきだという感情論が根強いのも事実です。

今日は日本の憲法改正にまつわるいろいろなことを書いてみます。
まず憲法改正をすると日本は戦争が出来る国にになるのでしょうか? まずこの問題を考えてみましょう。
先の大戦で日本人は戦争の悲惨さをいやというほど体験しているのです。骨身に沁みているのです。ですから平和憲法は現実的ではないことは分かっていても存続した方が良いと考える人も多いのです。戦後の教育を受けた私の年代の者は平和憲法が日本の平和を守ると教わりました。学校で習ったことは何時までも正しいと思う人が多かった時代でした。それが尾を引いているのでしょう。
しかし50%以上の人が憲法改正に賛成している以上、憲法改正は時間の問題だけなのです。
そこで憲法改正に至るまでの手順を分かり易く書いてみたいと思います。
簡単に言えば、衆・参両院での3分の2以上の賛成により国民投票にかけられ、国民投票の過半数の賛成によって憲法改正が成立します。
このように書けば簡単明瞭ですが、衆・参両院での3分の2以上の賛成を得るのが困難なのです。そのためにいろいろな政治的な駆け引きをしなければいけません。いろいろな注意深い準備が必要なのです。
本当に今年中に両院で3分の2以上の賛成が得られ、2022年頃に実施される国民投票で50%以上の賛成が得られるでしょうか?国民投票で廃案になってしまったら大混乱になります。
ですから国民投票まで世論調査を何度も行って50%以上の賛成が得られる確信されるまで国民投票は出来ません。安倍総理は2020年には国民投票で賛成多数で憲法改正を完成すると主張していました。それが出来なかったのです。
さてもう少し詳しく考えてみましょう。
憲法改正は日本国憲法96条を根拠にした国民投票法を用いて行われます。国民投票法は通称で、正しくは「日本国憲法の改正手続に関する法律」と言います。
そして 憲法改正の手順としては国会での成立、国民投票、を経て改正出来ます。安倍総理の主張は無理でした。
憲法改正の提案は通常の法案提出とは異なり、衆議院100人、参議院50人の賛同によって憲法改正原案が国会に提出されるのです。
その為にはまず衆・参両院の憲法審査会にて憲法改正原案が審査されます。両院ごとの憲法審査会の過半数の賛成で可決されます。それが終われば本会議に提出出来るのです。
そして衆・参両院の本会議にてそれぞれ3分の2以上の賛成で憲法改正が可決されます。この際、衆議院の優越などは適用されません。
両院本会議での可決を以って国会による憲法改正発議が行われ、国民投票にかけられるのです。
改正案が複数条項ある場合には、関連項目ごとに提出され、審査、可決の手段を取ります。
そして国民投票ですが、この重要な投票は国会発議後60日〜180日以内に実施されなければなりません。投票権は18歳以上の日本国民で、また在外邦人を含みます。
国民投票は「賛成」「反対」の二者選択です。投票総数の過半数の賛成で憲法改正案が成立します。現時点では最低投票率は設定されていません。
さて国民投票は何時になるのでしょうか?

以上のように憲法改正のための手続が複雑なのです。いろいろな段階でハードルがあるのです。菅義偉総理は根気良く取り組む必要があるのです。我々国民も根気良く考えねばならないのです。菅義偉氏の総理在任中に終わるでしょうか?
如何でしょうか?皆様のご意見をお待ちしています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿絵代わりの写真は自分が山梨県で以前に撮った山藤の花の写真です。
公園に植えてある藤と全く同種ですが、山では藤棚を作る人がいませんので藤の蔦はクヌギやコナラやカシワの木々に絡みつき、その梢まで登って花を咲かせます。遠方から見ると藤の木があってその枝に花が咲いているように見えます。なんとなく夢幻の世界の花のようです。山藤の花の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。