後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「北アルプスに咲く高山植物の写真です」

2022年07月11日 | 写真
北アルプスに咲く高山植物の写真です。
写真は順に次のとうりです。
1,双六岳のコバイケソウの群落
2,チングルマの花
3,ギンリョウソウの花
4,涸沢に咲くエゾシオガマ
写真の出典は、https://trippers.info/trekking/topics/0003 です。





「追憶の夏の風物詩(4)北アルプス縦走の思い出」

2022年07月10日 | 日記・エッセイ・コラム
夏になると登山する人が多くなります。ですから登山は夏の風物詩と言っても良いと思います。風物詩とはちょっと違いますが勘弁してください。
今日は若い頃の北アルプス縦走の思い出を写真に従ってお送り致します。しかし今日使う写真は全てインターネットから転載したものです。私は北アルプスを縦走した時はまだ写真機を持っていなかったのです。
さて縦走は大糸線の穂高駅から中房温泉への登高から始まりました。そこに一泊して燕岳、大天井、西岳、槍の肩の小屋で一泊し、南岳、キレット渡り、北穂高、涸沢、横尾と歩いて上高地に降りて来ました。歩いた行程の地図は末尾に示してあります。全部で2泊3日の山歩きでした。毎日10時間ほど歩きました。写真で説明します。
1番目の写真は前夜泊った中房温泉から1時間ほど登ると突然見える燕岳です。この地点から槍ヶ岳を遥かに見ながら縦走路を行くのです。
2番目の写真は燕岳と大天井岳の間の尾根から見える槍ガ岳です。まだ遠方です。
3番目の写真は大天井岳の肩を回りこむといよいよ近くなった槍ガ岳です。
4番目の写真は威風堂々の槍ヶ岳です。2日目に泊った槍の肩小屋は槍の先端より下った左の肩にありました。

5番目の写真は南岳と北穂高岳の間にあるキレットの写真です。手前右が南岳で左奥の尖った山が北穂高岳です。キレットの両側は絶壁で渡るのが怖い場所です。縦走路で一番危険な所です。怖くて冷や汗が出ました。

6番目の写真はキレットを渡った所にある北穂高岳です。ここまで来ればもう大丈夫です。
7番目の写真は北穂高岳の下にある涸沢です。ここは安全な場所なので鼻歌まじりに歩いて横尾小屋まで下りました。
8番目の写真は横尾小屋から梓川沿いに根気良く歩いて出て来た上高地の風景です。奥の山稜が穂高連峰で右の手前の山は明神岳です。
上高地ではすぐにバスに乗り松本から夜行列車で帰りました。まだ22歳でしたので体力があったのです。

今日は「追憶の夏の風物詩」の(4)として北アルプスン縦走の思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===歩いた行程の地図=========

今日の記事の歩き始めた場所はこの図の右上の中房温泉です。図面の太い赤線のとうり槍岳まで来て槍岳肩の小屋に泊まりました。槍平小屋には行きませんでした。槍岳肩の小屋からは南岳へ登り、キレット渡り、北穂高、涸沢、横尾と歩いて上高地に降りて来ました。
この地図の出典は、http://www1.u-netsurf.ne.jp/~tamu/244omoteginza.htm です。

「日本には驚くほど沢山のヒマワリ畑があります」

2022年07月10日 | 写真
驚きました!日本には実に沢山のヒマワリ畑があるのです。
次の資料をご覧ください。
全国のヒマワリ畑、https://www.himawaribatake.net/

この資料から4つだけのヒマワリ畑のヒマワリ畑をお送り致します。ヒマワリ畑の写真は順に以下のとうりです。

1, 東京都、「ひまわりガーデン武蔵村山」
2,兵庫県南あわじ市の「淡路島 イングランドの丘 」
3,佐賀県三養基郡みやき町の「山田ひまわり園」
4,岐阜県美濃市下河和の「洲原ひまわりの里」
 






「追憶の夏の風物詩(3)海と湖とヨットの写真」

2022年07月10日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日から暗い気分になっています。安倍晋三元総理の暗殺事件で日本中がやりきれない気分になっていると存じます。
いろいろな面で偉かった安倍晋三元総理のご冥福を今日もお祈り申し上げます。
暗い気分を吹き飛ばすために今日は海と湖とヨットの風景の写真をお送り致します。広々とした明るい風景です。
私は50歳で江の島や葉山の小型ヨットスクールへ通い、53歳の時、琵琶湖へ行ってヤマハ19という中古のクルーザーを初めて購入しました。長さが5.70mと、とても小さなクルーザーで操船が簡単そうでした。写真をお送り致します。
1番目の写真は広々とした葉山マリーナの風景です。ここや江の島でヨット倶楽部に入り小型ヨットのデンギィの操船の訓練を受けました。
2番目の写真は小型ヨットのデンギィです。私は50歳で小型ヨットの操船訓練を受けました。

3番目の写真琵琶湖迄行って買って来たYamaha19の中古艇です。このヨットを水郷汽船(株)経営の霞ヶ浦マリーナへ陸送しました。

4番目の写真は霞ヶ浦に浮かんだYamaha19です。このヨットには10年間乗りました。

5番目の写真は霞ヶ浦を帆走中のJoyluck26号です。Yamaha19の後13年間乗りました。キャビンが大きいので友人たちとパーティをしました。
6番目の写真は友人のヨットでハンスクリスチャン41号艇です。駿河湾を帆走中の風景です。

7番目の写真は約100年前にイギリスで建造された美しい木造ヨット、シナーラ号です。1927年 英国建造のこの帆船、「シナーラ」号は長らく三浦半島のシーボニアを母港として多くの日本人に親しまれてきました。
私はこの帆船に2度乗ったことがあります。
この写真で舵輪を握っているのは家内です。2000年11月11日に撮った写真です。家内は活発だったのでYamaha19号でもJoyluck26号でも何時も一緒に帆走しました。

こんな広々とした明るい海やヨットの風景を見ていると昨日からの暗い気分が吹き飛んで行きます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 

「ユリの原種は北半球に約100種類が分布」

2022年07月09日 | うんちく・小ネタ
ユリの原種は北半球に約100種類が分布します。
(https://gardenstory.jp/plants/32998 )
そのうち15種が日本に自生。ヤマユリ、ササユリ、オトメユリ、テッポウユリなど、美しい花が多いことが世界に知られています。
ヨーロッパにも十数種の原種が分布し、代表的なニワシロユリは、別名マドンナリリーと呼ばれ、キリスト教の宗教絵画によく登場しました(のちに、日本のテッポウユリがマドンナリリーの名を冠されることになります)。
白ユリは聖母マリアの純潔の象徴として描かれてきました。
日本では、ユリは本来、初夏~夏にかけて咲く球根の花。そのため、オトメユリ、ササユリなどの原種は、自然開花する夏のいっときだけ切り花用の花材として出回ります。
いっぽう、夏以外にも出回るのは、品種改良された園芸品種。花色も種類も豊富です。


「いろいろなユリの花の写真をお楽しみ下さい」

2022年07月09日 | 写真
いろいろなユリの花の写真をお楽しみ下さい。
写真の出典は、https://gardenstory.jp/plants/32998 です。
写真は順々に以下のとうりです。
1,ヤマユリ
2,ロンギフローラムハイブリッド
3,テッポウユリ
4,カノコユリ
1,ヤマユリ(白い花びらに黄色の筋と赤い斑点が入る大輪で強い芳香がある) 
2,ロンギフローラムハイブリッド(テッポウユリや台湾のタカサゴユリを交配した品種 )
3,テッポウユリ(沖縄県・伊江島の海岸線付近に咲く野生のテッポウユリ )
4,カノコユリ(花色は紅、ピンク、白。鹿の子絞りのような斑点模様と、反り返る花形が特徴)

「安倍晋三元総理の暗殺と明治維新以後の暗殺された要人の一覧」

2022年07月09日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日の安倍晋三元総理の暗殺で暗澹たる気分です。21世紀の日本でこんな野蛮な事件が起きることは想像もしていませんでした。多くの人も暗い気持ちになっていると思います。
心から安倍晋三元総理大臣のご冥福をお祈り申し上げます。
それにしても安倍晋三元総理は大きな事業を沢山成し遂げた立派な総理大臣でした。残念です。
今朝は気分を少し転換するために明治維新以後の暗殺事件を調べました。
以下には世界の暗殺事件の全てが掲載されています。
 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%97%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E4%BA%BA%E7%89%A9%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 )
この資料の中には明治維新以後の日本での40件ほどの暗殺事件が掲載されています。全てを掲載すると長くなるので以下によく知られている事件だけを示します。
坂本龍馬 (1867)
大村益次郎 (1869)
大久保利通 (1878)
森有礼 (1889)
星亨 (1901)
伊藤博文 (1909)
安田善次郎 (1919)
原敬 (1921)
大杉栄 (1923)
伊藤野枝 (1923)
濱口雄幸 (1931) 死亡したのは、襲撃の9か月後。
井上準之助 (1932)
団琢磨 (1932)
犬養毅 (1932)
永田鉄山 (1935)
斎藤実 (1936)
高橋是清 (1936)
浅沼稲次郎 (1960)
安倍晋三(2022)
全ての写真の中から7枚だけを示します。

1番目の写真は安倍晋三(2022)です。()の中の数字は暗殺された年です。以下の全ての写真でも同じです。
2番目の写真は坂本龍馬 (1867)です。
3番目の写真は大久保利通 (1878)です。
4番目の写真は原敬 (1921)です。
5番目の写真は団琢磨 (1932)です。

6番目の写真は犬養毅 (1932)です。
7番目の写真は浅沼稲次郎 (1960)です。
以上のように暗殺の歴史を見ると少し気分が転換します。それにしても今回の暗殺事件は残された家族にとって大きな悲劇でした。何とか立ち直るように祈っています。
皆様も少しでも明るい気分になるように祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料=========================
団琢磨の孫が團 伊玖磨です。よく随筆、「パイプの煙」を読んだので最後に團 伊玖磨をご紹介します。
團 伊玖磨(1924年〈大正13年〉 - 2001年〈平成13年〉)は作曲家でエッセイストでした。作曲家としてはオペラ、交響曲、歌曲などのいわゆるクラシック音楽のほか童謡、映画音楽、放送音楽と幅広いジャンルの作曲をしました。

「激動の昭和を生きて(4)第二次世界大戦の世界各国の莫大な犠牲者数」

2022年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム
自分が生まれ育った昭和時代を考える場合、私は第二次世界大戦の莫大な犠牲者数を忘れることが出来ません。それは日本民族の最大の悲劇であり二度と繰り返すべきではありません。世界の人類の悲劇でした。
下の国別の犠牲者数の表をご覧下さい。この一覧表は一番正確な犠牲者数として外国のインターネットでよく引用されています。

この一覧表を注意深く見ると日本ではあまり知られていない事実が沢山あるのです。
気が付いた順に記します。
(1)日本の占領地のフィリピンとインドネシアで民間人の死者がそれぞれ最大、100万人と150万人だったのです。
(2)日本領だった朝鮮の人が兵士や軍属として最大47万人以上死にました。
(3)インド人は英国兵として87000人死にましたが、民間人も250万人死にました。
(4)中国人は400万人の兵士が死に民間人を含めた合計が2000万人となっております。これが世界の常識になっています。
(5)ドイツに占領されたソ連では合計2400万人の人が死にました。
(6)日本人はあまり知りませんが犠牲者の多かった国々は次の通りです。
ブルガリア、チェコソロバキア、フィンランド、ギリシャ、ハンガリー、ラトビア、リトアニア、オランダ(インドネシアに居た人も含む)、ポーランド、ルーマニアなどです。
これらの国々の幾つかはドイツ側に立って戦争をしたのです。
(7)全世界の総合計です。兵士の死者は15,00万人で民間人の死者は45,00万人でした。総合すると全世界で6000万人の人が死んだのです。

下に第二次世界大戦の国別の犠牲者数の表を示します。
この一覧表では1、国の名前、2、軍人と兵士の死者数、3、民間人を含めた死者数の合計の3項目が順に示したあります。
(https://www.nationalww2museum.org/students-teachers/student-resources/research-starters/research-starters-worldwide-deaths-world-war )

Japan、日本
 212万人
 260万人ー310万人

Korea(朝鮮出身の日本兵や軍属)
  38万人-47万人

Canada カナダ
 45,400
 45,400

China、中国
 3-4,000,000
 20,000,000

インドネシア
 --
 3-4,000,000

France、フランス
 217,600
 567,600

仏領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)
 --
 1-1,500,000

Germany、ドイツ
 553万人
 660万人-880万人

India、インド
 87,000
 1,500,000-2,500,000

Italy、イタリー
 301,4003
 457,000

Malaya、マレー半島
--
 100,000

Philippines、フィリピン
 57,000
 50万人-100万人

Poland、ポーランド
 240,000
 5,600,000

Soviet Union、ソ連
 8,800,000-10,700,000
 2400万人

United Kingdom(イギリス)
 383,600
 450,700

United States(アメリカ)
 416,800
 418,500

全世界の総合計、6000万人の死者
内訳、 Battle Deaths、15,000,000
    Battle Wounded、25,000,000
    Civilian Deaths(民間人の死者)、45,000,000

脚注;Worldwide casualty estimates vary widely in several sources.
The number of civilian deaths in China alone might well be more than 50,000,000.

そして第二次大戦後、責任を取って自殺したドイツの民間人の数は直後の4日間だけでさえ;ベルリンで1200人、ライプチッヒで600人、ハンブルグで450人、ケルンで300人が自殺したと新聞に出ていたそうです。4日間だけでの総計が2550人です。それに比較して日本では愛宕山にこもった民間人10人位とその他に僅かと言われています。
さらにシベリア抑留でドイツ兵が55万人死に、日本人は5万人死んだのです。

昭和時代の人類は狂気のように殺しあったのです。国家対国家の大規模な戦争によって殺しあったのです。
その昭和時代の太平洋戦争の為に海外で亡くなった240万人の犠牲者のうちまだ113万5千人の遺骨が日本へ帰って来ていないのです。
父や夫や息子や家族を戦争で失った遺族にとっては太平洋戦争は終わっていないのです。113万5千柱の遺骨が還らぬ限り太平洋戦争は終わっていないのです。

昭和という時代は以上のような戦争の時代でした。それと対照的に終戦直後から日本は明るい時代になったのです。
しかし今回、ロシアがウクライナに侵攻して大規模な戦争になっています。世界に戦争の恐怖を甦らさせています。第二次世界大戦のような戦乱が絶対に起きないように祈っています。

今日の挿し絵代わりの写真は第二次世界大戦の風景です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は1939年9月、ポーランド侵攻時のブィドゴシュチュ付近におけるドイツのI号戦車 です。

2番目の写真はワルシャワを守るポーランド兵士(1939年9月)です。 

3番目の写真はフランスに進駐したイギリス陸軍(1939年10月)です。 

4番目の写真はイランに攻め入るイギリス陸軍の戦車(1941年8月)です。



「あちこちの百合園の写真をお楽しみください」

2022年07月08日 | 写真
百合園の写真をお楽しみください。
写真の出典は、https://rtrp.jp/articles/108679/ です。

4枚の写真は順々に以下のとうりです。
1,南くりこま高原 一迫ゆり園 / 宮城県
2, 深谷グリーンパーク / 埼玉県
3,びわこ箱館山ゆり園 / 滋賀県
4,オーンズ春香山ゆり園 / 北海道


 



「追憶の夏の風物詩(2)消えてしまった蚊帳と蚊取り線香」

2022年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム
現在、私の身の回りには蚊帳と蚊取り線香はありません。昔は夏の暮らしで大切なものでした。夏の必需品でした。
今日は追憶の中の夏の風物詩として蚊帳と蚊取り線香のことを書いてみたいと思います。
蚊帳は平安時代から日本で使われていました。江戸時代には庶民にも広がり、「夏の風物詩」になりました。夏の季語として俳句に登場していました。1965年ごろまで日本中で使われていたのです。
一方、蚊取り線香は現在でも野外作業で使われています。しかし懐かしい「除虫菊の煙のにおい」がしないのです。現在は合成した化学製品なので独特の香りがしないのです。
蚊取り線香の形は現在でも昔のままの渦巻きの形をしています。色も昔と同じです。しかし懐かしい「除虫菊の煙の匂い」がしないのです。
それではまず、蚊帳(かや)の写真3枚と、蚊取り線香の写真と、蚊取り線香を入れてくゆらす陶製の豚の写真を示します。

1番目の写真の出典は、http://www.ranhaku.com/web01/c5/5_02kaya.html です。

2番目の写真の出典は、https://roomclip.jp/tag/25889 です。

3番目の写真の出典は、https://www.city.fujimi.saitama.jp/madoguchi_shisetsu/02shisetsu/shiryoukan/nanbatajo/exhibitions/natu-kaya.html です。

4番目の写真の出典は、https://flower.yodoyabashift.com/katorisenko.html です。

5番目の写真の出典は、https://wasumasyo.com/archives/2334 です。

さて蚊帳とは、夏に蚊などの小さな虫の侵入を防ぐための布、帷 (とばり)のことです。
麻などの目の粗い布を寝室の天井や長押(なげし)から紐などを使って垂らして使います。紀元前6世紀の中東で始まり、中国を経由して我が国に入り、奈良や近江などを中心に生産され、日本独自の進化を遂げたと言われています。
江戸時代には庶民にも使われ、次のような俳句もあります。

 むら雨や ほろ蚊帳の子に 風とどく (小林一茶)

そして近年の短歌もあります。

 蚊帳のなかに 放ちし蛍 夕されば おのれ光りて 飛びそめにけり (斎藤茂吉)

蚊帳は家の中にもう一つの家を作ったようで子供が面白がるのです。私も蚊帳で遊びました。時々は庭で捕ったホタルを蚊帳の中に放して遊んだものです。それは蚊帳の楽しい思い出です。
その蚊帳が1965年ごろ突然消えてしまったのです。アルミサッシと網戸の普及で蚊が家の中に入ってこなくなったのです。

一方、昔の蚊取り線香は乾燥した除虫菊の粉を練って渦巻き状に成型したものでした。
白い花の除虫菊は日本へ1886年(明治19年)に渡来しました。東京衛生試験所薬草園で栽培しました。この除虫菊が蚊や蚤の駆除に効果をあげたのです。そして除虫菊で作った蚊取り線香が日本中に普及したのです。
菊が原料なので燃やした煙が良い香りがするのです。薬草の苦いような匂いに花の甘い香りが混じった独特な匂いです。あの懐かしい匂いは他には絶対に無いのです。
数年前に懐かしくて蚊取り線香を買って来ました。火をつけると淡い煙が出ます。しかし匂いはビニールを燃やした時のような不快なものです。あの懐かしい蚊取り線香の煙の匂いではありません。

こうして子供の頃から慣れ親しんできた蚊帳も蚊取り線香の煙の匂いも此の世から消えてしまったのです。
そんな懐かしい物が他にも沢山あります。火鉢やちゃぶ台や昔風のラジオや小さな茶箪笥などです。

時代によって生活が変わるのです。時代によって人びとも変わるのです。
消えてしまったものは沢山あります。時代の流れで無に帰するのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)